| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第一部 小田原征伐と奥州仕置 ——「九戸城の疵」
  第十四話 早川の水

 小田原の陣は、二十万の町だった。
 石垣山の麓から見渡すと、平野一面に陣屋が並んでいる。
 その一つ一つに、どこの誰が入っているかが決まっている。
 俺は割り当ての図面を借りて、それを写した。
 癖である。新しい現場に入ったら、まず全体の配置を頭に入れる。
 筆を走らせているうちに、指が止まった。
 早川の右岸。海に近い、低い土地。
 そこに、こう書いてあった。
 ――堀左衛門督秀政。
 背中が、冷たくなった。
 堀秀政。
 織田信長の側近から、秀吉の懐刀になった男。
 「名人久太郎」と呼ばれた。軍事も、政務も、検地も、なんでもこなした。越前北ノ庄十八万石。
 そして。
 ――この男は、小田原で死ぬ。
 城好きが高じて、俺は戦国武将の生没を無駄に覚えている。
 堀秀政は、小田原の陣中で病死する。享年三十八。
 城が落ちる前だ。
 だから「小田原征伐で活躍した」という話には、この人の名がほとんど出てこない。
 (……いつだ)
 俺は必死に思い出そうとした。
 覚えていなかった。
 日付までは、覚えていない。
 だが、確か――梅雨の前だ。
 俺は空を見上げた。

          *

 五月半ば。
 伊豆の山には、もう雲が低く垂れ始めていた。
 ――で。
 どうする。
 俺は自分の陣幕に戻って、床几に座り込んだ。
 堀秀政は十八万石の大大名で、関白の懐刀で、三十八歳である。
 俺は五百石の小姓で、十六歳で、韮山を落としたばかりの新参だ。
 その俺が、いきなり陣へ乗り込んで「水を沸かせ」と言う。
 (……追い返されて終わりだ)
 いや、それどころではない。無礼者として叩き出される。下手をすれば斬られる。
 しかも、だ。
 俺が「あなたはこのままだと死にます」と言えば――なぜ知っているのか、と必ず聞かれる。
 答えられない。
 俺は、帳面を開いた。
 小田原に来てから、陣の配置と、誰が誰と近しいかを書き留めてある。
 指で名前をなぞっていって、一つのところで止まった。
 ――脇坂中務少輔安治。
 淡路洲本の三万石。賤ヶ岳の七本槍の一人。
 そして、この陣で船手衆を預かっている。
 海路の兵糧を回しているのは、この男だ。
 (……接点は、ある)
 京と大坂で三成の下について兵糧を回していたとき、船の割り付けで何度も揉めた。
 揉めた相手の一つが、脇坂の家中だった。
 しかも――脇坂の陣は、早川口にある。
 堀秀政の、すぐ隣だ。
 俺は、京から持ってきた最後の上等な酒を一樽、荷から引っ張り出した。
 「祝いにでも使え」と三成が押し付けてきたものである。
 (……使いどきだ)
 脇坂安治は、意外にあっさり会ってくれた。
「おお、小出殿か! 韮山の!」
 開口一番、それだった。
 日に焼けた、がっしりした男である。三十半ば。声が大きい。海の男だ。
「四百で天ヶ岳を取ったと聞いたぞ。どうやった」
「――中務少輔様。まずは、こちらを」
 俺は酒樽を差し出した。
「京の伏見の酒にございます。……船手のご一同で、お召し上がりくださいませ」
 脇坂の眉が、ぴくりと動いた。
「……何が望みじゃ、若いの」
 ――やはり分かるか。
 俺は畳に手をついて、深く頭を下げた。
「折り入って、中務少輔様のお知恵をお借りしたく参上いたしました」
「――お知恵、とな」
「はい」
 俺は顔を上げた。
「某は、関白様より陣中の水と厠の差配を仰せつかっております」
「聞いておる。厠奉行であろう」
 脇坂が、にやりとした。俺の渾名は、もうこの陣まで広まっているらしい。
「その厠奉行が、困っております」
 俺は言った。
「船手衆の皆様は、海の上で長く過ごされます。……水が腐る。飯が傷む。真水は限られる。陸の陣より、よほど厳しい」
 脇坂の顔から、笑いが引いた。
「――その中で、どうやって病を出さずに保っておられるのか。それを、お教えいただきたいのです」
 これは、嘘ではない。
 本当に聞きたいことだった。
 水軍というのは、閉じた船の中で数十人が何日も過ごす。衛生の知恵が、必ず溜まっている。
 そして――
 人は、教えを乞われると、断りにくい。
 自分が二十年かけて覚えたことを「教えてください」と若い者に頭を下げられて、突っぱねる職人を、俺は前世でほとんど見たことがない。
 脇坂安治は、腕を組んで唸った。
「……ふむ。難しいことは考えておらんがな」
 男は指を折り始めた。
「まず、水は港で汲まん。川を遡って、山の際で汲む。港の水は臭う」
「はい」
「樽は、使う前に湯で洗う。それと、船底の水は絶対に飲ません」
「――湯で洗う」
 俺は身を乗り出した。
「なぜ、湯でございますか」
「そりゃあ……冷えた水で洗った樽は、すぐ臭くなるからよ」
 脇坂は、あっさり言った。
「湯で洗った樽は、しばらく保つ。……昔から、船ではそうしておる」
 ――ある。
 俺は内心で拳を握った。
 この時代にも、経験則としてはあるのだ。
 理屈は誰も知らない。だが「そうすると保つ」ということは、現場が知っている。
 なら、話は早い。
「中務少輔様」
 俺は言った。
「その知恵を、陸の陣でも使うべきかと存じます」
「陸で?」
「はい。……お隣の、堀左衛門督様の陣で、病が出ていると伺いました」
 脇坂の顔が、曇った。
「……よう知っておるな」
「厠奉行にございますゆえ」
 男は、深く息を吐いた。
「出ておる。……ひどい」
 声が低くなった。
「腹を下して、水のようなものを出し続ける。それが止まらん。半日で見る影もなく痩せる。……もう五十人は倒れておる」
「……堀様ご自身は」
 脇坂の目が、こちらを見た。
 しばらく、答えがなかった。
「――熱が出ておられる」
 俺は、床几から腰を浮かせた。
 (――間に合わないかもしれない)
「中務少輔様!」
 声が上ずった。
「お願いがございます。……某を、堀様の陣へお連れください」
「なんじゃ、いきなり」
「間に合わなくなります」
 脇坂が眉をひそめた。
「間に合わぬ、とは」
「堀様が、亡くなられます」
 言ってしまってから、しまったと思った。
 だが、脇坂安治は笑わなかった。
 この男は、海の上で人が死ぬのを何度も見ている。
「……根拠は」
 低い声だった。
「三つ」
 俺は指を立てた。
「一つ。早川の右岸は低地でございます。上流に二十万の陣があり、その糞尿が雨で流れ込みます」
「うむ」
「二つ。倒れているのは、川の水を飲んでいる陣ばかりでございます。……某の陣は、京を出てから一日も欠かさず湯を沸かしております。一人も倒れておりませぬ」
 脇坂の目が、鋭くなった。
「三つ。梅雨が来ます」
 俺は空を指した。
「雨が降れば、水が動きます。今の倍は倒れます」
 脇坂安治は、しばらく黙っていた。
 それから、突然立ち上がった。
「――船を出すぞ」
「は?」
「大鍋じゃ。船手の大鍋を全部下ろす。それと、水樽と、薪と」
 男は幕の外へ怒鳴った。
「誰ぞ! 堀様の陣へ使いを出せ! 脇坂中務、火急の用にて罷り越すと!」
 俺は呆気にとられた。
「……よろしいのですか」
「よいも悪いもあるか」
 脇坂は俺を振り返った。
「堀左衛門督は、この陣の柱の一本ぞ。……あのお方が倒れたら、関白様がどれほど落胆なさるか」
 男は、大股で歩き出した。
「それに、若いの」
 振り返らずに言った。
「――わしは、船で病を出したことがある」
 堀秀政の陣は、ひどい有様だった。
 幕の外に、莚が並んでいた。その上に人が寝かされている。数え切れなかった。
 臭いがした。汚物と、汗と、病の臭いだ。
 厠は、陣屋のすぐ脇にあった。
 しかも、その先が川へ流れていた。
 ――最悪だ。
 自分の陣から出た糞尿が、下流で汲む水に混ざっている。
 二十万のうちの、たった一つの陣が、自分で自分を殺している。
 本陣の幕を上げると、男が床几に座っていた。
 痩せた男だった。
 顔は白く、額に汗が浮いている。
 だが、背筋が伸びていた。
 ――この人が。
「……脇坂殿。火急とは」
 声に、張りがなかった。
 それでも、目だけは動いていた。俺の顔を、一度で捉えた。
「――そちらは」
「小出俊定と申します」
 俺は平伏した。
「関白様より、陣中の水と厠の差配を仰せつかっております」
「――ああ」
 堀秀政は、かすかに笑った。
「韮山の。……四百で天ヶ岳を取った小僧か」
「左衛門督様」
 俺は顔を上げた。
 時間がない。前置きを捨てた。
「――この陣の水を、今日から変えていただきたく存じます」
 幕の中の空気が、張った。
 堀の家臣たちが、色をなして立ち上がった。
「無礼であろう! 小姓風情が――」
「――待て」
 止めたのは、秀政だった。
 男は、額の汗を拭いもせずに、俺を見ていた。
「……申せ」
 俺は、一息に言った。
「一つ。飲む水を、川から汲むのをおやめください。上流に二十万の陣がございます。谷の上、人の住まぬところから汲ませてくださいませ」
 誰も遮らなかった。
「二つ。汲んだ水は、必ず大鍋で煮立たせてください。飯の水も、器を洗う水も、傷を洗う水も、すべてでございます。……器は、湯に入れて煮ていただきたい」
「三つ。厠を、今の場所から動かしてくださいませ。今のままでは、この陣の汚穢が、そのまま下流に流れております」
 俺は指で床に線を引いた。
「川から離し、風下へ。深く掘って、用を足すごとに竈の灰をかけまする」
「――四つ」
 俺は、ここで一度、頭を下げた。
 これが一番、言いにくい。
「左衛門督様のお寝間を、今の場所から動かしていただきたく存じます」
 家臣たちがざわめいた。
「なんじゃと。陣立てを変えよと申すか。軍法を何と心得ておる」
「陣立ては変えませぬ」
 俺は言った。
「陣の内の、寝所だけにございます。今のお寝間は、川に近く、地面が湿っております。……そこから半町、南の高みへ。それだけでございます」
 沈黙が落ちた。
 堀秀政は、しばらく何も言わなかった。
 やがて、掠れた声で聞いた。
「――なぜじゃ」
 俺は、覚悟して答えた。
「……分かりませぬ」
 家臣の一人が「貴様」と腰を浮かせた。
「分かりませぬ」
 俺は繰り返した。
「水に何がおるのか。なぜ湯にすると人が死なぬのか。……某には、理屈が分かりませぬ」
 俺は顔を上げた。
「ですが、そうなるのでございます」
「某の陣は、京を出てから一日も欠かさず湯を沸かしております」
 声を張った。
「四百十六人。東海道を下って、伊豆で一月戦って、今日まで――腹を下した者が、一人もおりませぬ」
 堀秀政の目が、動いた。
「一日も、欠かさずか」
「一日も」
 男は、口の中で何かを繰り返した。
 ――一日も、欠かさず。
 この人は、そこに食いついた。
 俺は、それで分かった。
 ――理屈じゃない。
 この人が信じたのは、目に見えぬ毒の話ではない。
 四百人が、一月以上、一日も欠かさず同じことをやり続けて、一人も倒れていないという事実だ。
 名人と呼ばれる人間は、理屈より先に、その手の数字を信じる。
 堀秀政は、床几の肘掛けを掴んで、体を起こした。
「――藤井」
「はっ」
「今、聞いた通りにせよ」
 家臣が息を呑んだ。
「し、しかし殿。この者は五百石の――」
「石高で水は沸かん」
 秀政は、遮った。
「陣中の兵が五十人倒れておる。手当ての法は何一つ効いておらん。祈祷も薬も試した。……試しておらぬのは、これだけじゃ」
 男は、俺を見た。
「試して損はあるか」
「ございません」
「うむ」
 堀秀政は頷いた。
「――やる」

          *

 その日から、三日。
 脇坂の船手が下ろした大鍋が、堀の陣で昼夜となく火にかけられた。
 水汲みの隊が谷の上へ登り、厠が掘り直され、灰がかけられた。
 器という器が、片端から湯に放り込まれた。
 俺は自分の隊から三十人を出して、やり方を教えさせた。
 うちの連中は、この一月半、毎日やっている。教えるのが一番早い。
 四日目に、新たに倒れる者の数が減った。
 六日目には、ほとんど止まった。
 そして、堀秀政の熱が、下がった。
 俺がその報せを聞いたのは、自分の陣で厠の穴を検分している最中だった。
 脇坂の使いが、息を切らして駆けてきた。
「――堀様が! 堀様が、粥をお召し上がりになった!」
 俺は、そのまま穴の縁にへたり込んだ。
 (……間に合った)

          *

 それから数日後、堀秀政に呼ばれた。
 まだ痩せてはいたが、床几に座って、目に光が戻っていた。
「――小出俊定」
「はっ」
「礼を言う」
 男は、まっすぐこちらを見た。
「わしは、死ぬかと思うておった」
 俺は頭を下げた。
「……いや」
 秀政は、首を振った。
「死ぬと、分かっておった」
 俺は顔を上げた。
「あの熱の出方は、前に何度か見ておる。陣で。……あれが出た者は、大抵、十日で死ぬ」
 男は、自分の手を見た。骨の浮いた、痩せた手だった。
「そなたが来なんだら、わしは今ごろ、あの莚の上におる」
 堀秀政は、それからしばらく黙っていた。
 そして、こう言った。
「――小出。そなた、なぜ、わしの陣へ来た」
 俺は答えた。
「厠奉行にございますゆえ」
「その答えは、二度目じゃな」
 秀政は、目を細めた。
「……まあ、よい」
 男は、追及しなかった。
「一つだけ、覚えておけ」
 そして、こう言った。
「――わしは、そなたに借りがある」
 自分の陣に戻って、俺は帳面を開いた。
 書くことは、いくらでもあった。厠の位置。水汲みの人数。翌日の飯の数。
 だが、筆が動かなかった。
 (……変えた)
 俺は、それを考えていた。
 韮山で城を落としたのは、まだいい。あれは戦だ。誰が落とすかが変わっただけで、いずれ落ちる城だった。
 だが、今日は違う。
死ぬはずだった人間が、生きている。
 俺の知っている歴史では、堀秀政は今年の五月に小田原で死ぬ。
 その男が、今、粥を食っている。
 (……これで、何が変わる)
 分からなかった。
 この人が生きていれば、この先の何かが変わる。
 どこかで、誰かの生き死にが入れ替わる。
 俺には、その先が読めない。
 俺は筆を置いて、天を仰いだ。
 (……いや)
 考えても仕方がない、と思った。
 目の前で人が死にかけていて、止める方法を知っていて、それをやらない理由が、俺には一つも思いつかなかった。
 それだけだ。
 ――ただ。
 後になって思い返せば、このとき俺は、一つだけ見落としていた。
 堀秀政の熱は下がった。粥も食えるようになった。
 だが、あの人の体は、元には戻らなかった。
 立って歩けるようになるまでに、ひと月かかった。
 馬に乗れるようになったのは、小田原が落ちた後だった。
 俺が救ったのは、あの夏の病だけだ。
 削られたものは、戻らない。
 ――それを俺が思い知るのは、まだ二年ほど先の話である。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧