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霊群の杜

作者:たにゃお
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姑獲鳥



―――重陽の節句が近い。

親父にそう云われて持たされた食用菊の花束を片手に、俺たちは待合室のソファに体をもたれさせていた。
これはもう例年通りだが、9月に入ったというのに一向に暑さが引かない。だが全く涼しくなっていないというわけでもないらしく、冷房の利いた屋内に入ると少し肌寒い。きじとらさんは、薄いショールを紺色のワンピースに重ねた。
「何だか、新鮮です」
あの人と、待ち合わせなんて…と呟いて、きじとらさんは頬をほんのり染めた。お部屋デートが常態化しているカップルか。きじとらさんが不憫だ。


俺たちは今、奉が入院している赤十字病院の待合室で奉が降りてくるのを待っている。


俺ときじとらさんが命懸けで鎌鼬からせしめた軟膏が効いて傷口が塞がり、ようやく退院の目処が立ってきたのだ。その前に、奉に少しでも運動をさせなければならない。
だがあいつは合法的にのんべんだらりと出来るこの状況を、気に入ってしまった。只でさえ病院が少ないこの地域で、いつまでも個室に執着して離れようとしない。そもそも、奉がそんな状態になってしまったのは俺たちがあいつを甘やかしすぎた為だという結論に落ち着き、今日からは俺たちが病室に向かうのではなくお前が降りてこい、と告げてある。奴は言を左右にしてはぐらかそうとしたが、それなら甘味は持って来ないぞと頑張り続けた結果、奉は渋々首を縦に振った。
「…来るかしら」
待ち合わせの時間はもう30分すぎている。きじとらさんが不安になるのも無理はない。『本日の手土産』も、だいぶ腐り始めている。


今日の『手土産』は生ものなのだ。


「あ、奉くんだ~!」
『本日の手土産』が、さーっと走り出した。さっきまで『たいくつ~』『パフェまだ~?』『かえる~』のコンボで叔父さんを散々苦しめた幼女とは思えない超笑顔で。
「ん…?小梅…?」
ヨレヨレの作務衣に羽織姿でのろりと現れた奉が、瞠目して突っ立っていた。



「われわれ、たんけんたいは~、パフェのお山に、ど~んって、ど~ん」
絶対に食べきれないであろう大盛パフェにスプーンを突っ込んで、小梅が一人遊びを始めていた。
病院併設のカフェなどというから、さぞかし消毒液とか点滴の匂いに溢れた辛気臭い空間だろうと思っていたが、以外にも街中のカフェと変わらない。パフェも普通に旨いらしい。きじとらさんは見舞いに来る度、ケータリングをさせられていたそうだ。…あいつに関わる女は、何故皆不憫なのだろう。
「うん、探検隊だねぇ」
その横に寄り添うように座っている奉は、同じパフェを既に半分平らげている。こいつに関わって不憫な目に遭っていないのは小梅だけだ。
「パフェのお山に、のぼってみたいよね~」
「小梅がそう思うなら、北海道中の乳牛を酷使して作らせようかねぇ、パフェの山を」
「クフ王かよ」
動物保護団体にボッコボコにされるぞお前。
「冗談だ」
「信用しねぇよ。麒麟の前科があるだろうが」
幻獣だったから土下座で済んだが、牧場主相手じゃ俺の手には負えない。
「…小梅が来るなら、何故先に云わないかねぇ」
待ち合わせ場所で小梅を見かけた瞬間、奴はつむじ風の如く病室に取って返して、いつものシャツに着替えて蓬髪に櫛を通して現れた。
「…来たから何だよ、小さい子相手に。きもいよお前」
「馬鹿め。女は幼い程、残酷なものだ。この位の子だと、病気だろうが何だろうが、少し臭かったり汚かったりするともう寄り付いてくれなくなるんだよねぇ」
俺はお前よりずっと永いこと幼女を見てきた経験則で知っている、などと更にきもい事を呟きながら、奴は紅茶を啜った。小梅はパフェ山探検…というかパフェ自体に飽きたのか、スプーンでひと匙掬っては、はい、あーん、などと明後日の方向に手を伸ばして食べさせる振りをしている。あーあ、こぼすからやめな、と声をかけようとすると、意外にも奉が動いた。奉は小梅の手をそっと止めると、少し笑った。


「…その子達は食べられないんだ」


―――っちょ、
「そうなの。…ここは、ちいさいこが、いっぱいいるのね」
―――やめろってば。
「そう。おっぱいを呑む前に、天使になっちゃった子たちなんだ」
―――やめろよ、前後左右の席がざわつき始めてるよ。
「ふぅん。ねぇ、この子たちって、どうして」



―――おへそから、ながいのがでているの?



「おー!何だよお前ら、ここの病院だったのか!?」
小梅の声にかぶさるように、聞き慣れた野太い声が響いた。
「た、助かった」
宅配の制服に身を包んだ鴫崎が、勢いよくテーブルの中央に手をついた。小梅が目を輝かせて鴫崎を見上げる。
「ヒコーキのお兄ちゃんだ!!」
小梅は鴫崎にとても懐いている。うちに遊びに来た時に、高校時代は入り浸り気味だった鴫崎と鉢合わせる事が案外多く、その度に『飛行機』とか『ぐるぐる回し』とか『逆さ吊り』とか体力を使う遊びをしてもらえたからだろう。ちなみに体力のない奉は鴫崎の半分も持ち上げられない。
「ねーねー、ヒコーキ!ヒコーキぃ!!」
「ははは今度な。ここ病院だぞ?病気の人いっぱいだぞ?」
流木のような腕でわしわしと小梅の頭を撫でる鴫崎を、実に恨めしげに眺める奉。その視線に気づいたのか、奴は優越感をちらりと覗かせて奉を見下ろす。
「…おぅ、大変だったようだな玉群。そのまま死んだら良かったのに」
実際に死にかけたのだが、鴫崎は相変わらず奉には手厳しい。それにしても助かった。鴫崎の体育会系の雰囲気が、奉のいかがわしさを丁度良く中和してくれた。
「お前もなに野郎の見舞いに花とか持って来てんだよ、きもいんだよ」
「…持たされたんだよ、親父に」
「息子の友達に花を?きもさ倍増だな!あ、でも菊はポイント高いな、墓参り風で」
重陽の節句が…と言いかけてやめた。説明がめんどい。
「お前はどうしたんだ。病気か」
「いや、俺は」
嫁が切迫早産でな、と少し声のトーンを落とした。
「一昨日から入院しているんだが、まさか同じ病院とはな」
鴫崎は隣の空いている椅子を断りもなく引っ張ると、お誕生席にどかりと腰を降ろした。
「その恰好は配達途中か」
珍しく、奉から鴫崎に声を掛けた。
「これから物入りなのに、休むわけにもいかないからな」


「休め」


ふいに、全員が黙った。…鴫崎さえも。煙色の眼鏡の奥は、やはり図ったように見えない。俺も鴫崎も、息を呑んで奉の言葉を待った。…小梅即興の『パフェ山のぼり』の歌だけが響く。
「父母でもいい。とにかく常に、傍に誰かをつけろ」
「―――なんだよ急に」
ようやくそれだけ絞り出して、鴫崎が水を呷った。
「あまり良くない兆候…だねぇ。だが傍に『常に』身内がついていれば、問題はない」
そう云って、奉はにやりと笑った。
「俺がお前の幸せに貢献してやるのなどこれが最初で最後だ。必ず守れよ」
鴫崎は一瞬、むっとしたような顔をしたが、すぐに身を乗り出して顔を突き付けた。
「…親でも、いいんだな」
「兄でも姉でも友達でもいい」
「…あっちの母さんに、頭下げるかぁ…」
そう言い残して、鴫崎は立ち上がり踵を返した。勝手に持ってきた椅子はもちろん、そのままだ。仕方ないので軽く会釈をしながら椅子を戻す。

相変わらず、実の親は頼れないのか。鳩尾に浅い針を刺されたように、じわりと痛んだ。俺と鴫崎は親友と云い切っていい程に色々な事を話し合った。…親のこと以外は。俺も中学生くらいの頃は人並みに親に不満を持ち『はー、親うぜぇ』などと愚痴ったものだったが、鴫崎はその都度、とても昏い目をした。
やがて、いつしか俺は鴫崎に、親の話をしなくなったのだ。
「……結貴」
不意に声を掛けられて、俺は現実に引き戻された。咄嗟に顔を上げると、正面に座っていた奉が俺を覗き込んでいた。そして有無を云わせぬ口調で、こう告げた。
「明日も来い」




翌日の昼過ぎ。
俺と奉は、何故か鴫崎の嫁の病室にて缶詰状態になっていた。
「…あいつ、信じられない事するな」
「そう云うな、ある意味自業自得だろう」
苦虫を噛潰したような貌でパイプ椅子にもたれる奉と、悄然と布団に潜る鴫崎の嫁。なんだよこの状況。
「なんかごめんなさい、あの人…」
「や、いいんですよ!言い出しっぺが責任とったというか…ははは…」
「急にどうしたのかしら…絶対安静とは云われたけど、別に大したことないの。ただ、出産まで安静にしてればいいって云われているだけで。この部屋だって、こんな立派な個室、要るかなぁ…」
「えっと…ゆっくり出来ていいんじゃないすか?」
「お金が心配よ。これから物入りなのに。それに大部屋の方が他の子と話せて気が紛れる」
「…なんかすんません」
―――結局、嫁さんの実家からは『昨日の今日で急には無理』と断られた。そりゃ当たり前だ。明日からは都合をつけて誰かを配置する予定だから今日だけはお前らが入れ、どうせ同じ病院だし暇だろうが。ああそうだ、絶対二人きりになるなよ?やましいことを考えるなよ?…と、酷く念を押された。
「…ったくよ、臨月近い妊婦に何をしろと…」
「しっ、よせよ」
結婚式の席で見たときは、金に近い茶髪でいかにも今どきのギャルっぽい嫁だなと思っていた。しかしこうして改めて会ってみると、髪の色も戻して随分落ち着いたものだ。俺たちと同年代とは思えない。
それはそれとして俺は困惑していた。
俺たちがこうしてビッタリ傍についていることは、確実に歓迎はされていない。切迫早産とやらで絶対安静の彼女に、俺たちの存在は負担をかけてはいないだろうか。話題も尽きたし、そもそも話しかけられること自体がストレスにならないか…。


「鴫崎さん、回診です」


軽いノックの音とともに、男の声が響いた。仏頂面で本を繰っていた奉が、弾かれたように立ち上がってドアノブを勢いよく引く。その勢いに引っ張られるように、小柄な医師が『おっとっと』などと呟きながら入って来た。
…いや、医師というには随分と年若い。医師には違いないのだろうが、俺たちより少し年上くらいの青年だ。インターンだろうか。彼は細い目を更に細めて人のよさそうな笑顔を浮かべた。
「おや、お見舞いの方ですか」
「あ、はい…その…」
突然の展開に俺がもじもじしていると、奉はドアノブを掴んだ手を放してずい、と医師の前に立った。
「失礼いたしました。私は旦那さんの友人で…玉群、と申します」
そう云って、実に慇懃な仕草で頭を下げた。うっわ、どうしたんだ。まるでいいとこの御曹司みたいな物腰じゃないか。医師は細い目を僅かに見開き、居住まいを正した。
「玉群…『あの』、玉群さんでいらっしゃいますか?」
奉は答えず、一瞬だけ微笑を閃かせて頭を下げた。
「私も、別の科ではございますがお世話になっております…最も、そろそろ退院ではございますが」
当たり前だ。お前が産婦人科で何の世話になるんだ。
「大した怪我ではなかったのに、結構な個室をご用意頂きまして…どうお礼を申し上げたものやら」
「いやそんな…良くなられたようで」
医師は莞爾と目を細めた。…いや、元々相当細いか。
「奥さんが同じ病院にいらっしゃる事を昨日、聞きましてね。お見舞いに伺いました。…どうもね、鴫崎は不安を抱いているようなのですよ。厭な予感、とでも申しましょうか。これから毎日、御身内がいらっしゃるようですねぇ。…個室にお世話になっているようですし、泊まり込みなさってもご迷惑はおかけいたしますまい」
言葉を切って、奉は口の端を少し上げて微笑のようなものを作った。
「鴫崎の子供を」
奉は医師の細い瞳を、まじまじと覗き込むように凝視すると、ぐいと頭を下げた。
「よろしく、お願い致します」
ばさり、と蓬髪がかかった頬が、僅かに吊り上がったのを、俺は見た気がした。




診察が始まると、俺と奉は廊下に出た。
産婦人科で男の二人連れは少し異質な存在感を醸し出す。既に妊婦の身内や友達から、少し咎めるような視線を送られていた。
「なんか、良からぬ目的の二人連れみたいで厭だな」
冗談交じりに呟いて奉の方を見ると、この野郎すげぇニヤニヤしてやがる。
「…お前か!!その表情のせいか!!」
こいつがニヤニヤしているから異質さに拍車をかけていたのか。お前ふざけんな。
「その笑いやめろ、二人連れの痴漢みたいに思われてるぞこれ」
「そうだな、俺たちがここに居ると却って怪しいねぇ。それより来い、面白いもの見せてやる」
奉は俺を軽く顎で促すと、すたすたと歩きだした。


「いいのか?お前が云ったんだぞ、常に誰かつけておけと」
ずんずん先へ進む奉を追いかける。医師も患者も見かけない病棟の死角とも云える北向きの一角を、俺たちは歩いている。…そもそも病院内など用もないのにウロウロすること自体少ないが、それにしても…驚いている。こんな人気のない場所が、この病棟内にあったなんて。やたら折れ曲がる割には分岐もなく、途中に部屋もなく、まるでこの一角は巨大迷宮の一角のようだ。
「しばらくは大丈夫だろうねぇ」
「訳が分からない。何でだ」
「…ここから先は、静かに歩け」
短く云って、奉は慣れた様子で足音を消して階下に降りていく。やがて地下に続く階段の前についた。我知らず、声が低く小さくなった。
「これ以上は駄目だぞ、『関係者以外立ち入り禁止』だ」
「だから、面白いんだろうが」
奉は羽織の袂から銀色の鍵を取り出した。そして俺を顎で促すと、暗がりに身を沈めるようにして階下に降りていった。『非常口』と書かれた緑色のランプだけが、昏い踊り場を静かに照らしていた。



「……何か厭だな、ここ」
何気なく呟いた声が壁に、床に反響して跳ね返ってくる。反響の向こう側に何者かの呻きを聞いた気がして、心臓に錐がささったようにびくりと痛みが走った。薄緑色の闇にすらりと伸びる廊下には非常口の表示のみが静かに光っていた。
「ここは、云ってみれば霊安所だからねぇ」
こともなげに呟き、奉は足音もなく進む。…スリッパでこの芸当はない。本当は少し浮いているんじゃないか。
「……それっぽ過ぎないか?恐ろしい目に遭えと云っているようなものだ」
「言葉が足りなかったねぇ、色々と」
緑色の廊下を挟んで林立する昏いドアの一つ。その前に奉は足を止めた。そして銀色の小さな鍵を差し込んで回すと、ドアは音もなく開いた。
「―――鴫崎はな、うってつけの『標的』だ」
ドアの隙間に半身を滑り込ませながら、奉がぽつりと話し始めた。
「標的?」
「若くして所帯を持ち、金も社会的地位もない底辺DQN家庭。おまけに切迫早産で緊急入院。まさに役満状態」
「…お前それ絶対鴫崎に云うなよ。殺されるぞ」
「今回の緊急入院で嫁と子供が死んだとしても、誰も不審には思うまい。あいつアホだから多分セカンドオピニオンとか知りもしない」
「不吉な事云うなよ」
「だからな、次の候補なんだよ」
俺は袖を引かれるままに、部屋に踏み込んだ。
―――悲鳴が喉の奥に張り付いた。


ツンと鼻をつく薬品臭が立ち込める狭い部屋の中、四方を囲む水槽に、何十体もの裸の女性がゆらゆらと揺らめいていた。


「次の、姑獲鳥のな」
姑獲鳥…お産で亡くなった母子が妖として蘇った姿と聞いた事がある。水槽の中に林立する女性たちは全て…いや、まさか。だが俺は咄嗟に反らした視線を戻す勇気が湧かない。ただ、自分の爪先だけを見つめて立ち尽くすのが精一杯だった。
「顔を上げられるか」
有無を云わさない、奉の声が部屋中に反響した。
「全員、腹を割られている。へその緒が外に繋がっているねぇ…その先は」
「云わなくていい!」
小声で、だが叫ぶようにその言葉の先を遮った。
…一瞬見たのだ。女達の腹から繋がる、毬のような塊を。
「…まあいい。救急指定の病院だからかね、ここには実に多くの『急患』が担ぎ込まれる。死亡例も多い」
ひた…と水槽に手をあてる音がした。…何故触れる。こいつおかしいのか。
「あまりに暇だったんでねぇ、試しに調べてみたのよ、死亡者を」
ここに浮いてる女達のほとんどが、シングルマザーや低所得層を始めとした所謂『社会的弱者』だったねぇ…と、水槽をひたひたと触りながら奉は淡々と述べる。
「酷いねぇ…臨月の子供をこんなに切り刻んで。…なぁ結貴、おかしいとは思わないか?何故、面会謝絶でもない鴫崎の嫁が個室を使える?」
「それは…なにか?」


―――鴫崎の嫁と子が、ここに…?


誰が、何の為に、どんな手段で。考えるべきだったことはいっぱいあったかも知れない。だが、体が動いた。病室に駆け戻ろうとした俺を、奉が制した。
「…何だ!!」
「手は打ったんだよ、たった今」
奉は病室の前で見せたのと同じ笑いを、口の端に浮かべた。
「あの年若い医師に、鴫崎が『玉群の関係者』であると知らしめただろう?」
「……………あぁ」
今更になって俺は、心臓がバクバク音を立てていること、膝が立っていられない程震えていることに気が付いて座り込んだ。
『玉群』は、この辺りでは名の知れた『頗る評判が悪い』名家だ。玉群の御曹司を敵に回すようなことは、ここいらの者なら…。俺は大きく息をついて、奉を見上げた。
「なんで、こんな……」
「こりゃ、趣味だねぇ」
奉は事もなげに答えた。その頬を水槽の青い光が仄かに照らし、眼鏡の奥は相変わらず見えない。
「趣味だと!?」
「これだけの女達を故意に殺しておいて、病院全体の死亡率は全国平均を下回らない。…これを拵えた奴は、悪魔のような外科技術を持つ天才さねぇ。それに」
くっくっく…と、くぐもった笑いを漏らして、眼鏡に手を当てた。


「母子が死んだあと、見つかるんだよ…数日前に申請されて、家族も知らなかった『献体希望』の書類がな」


だからこれは書類上、合法的な『資料』なんだよ。と呟いて、奉は改めてこの部屋をぐるりと見渡した。
「まるで、姑獲鳥の巣だな」
「…告発、しなきゃ」
「勝ち目はないぞ。正式な書類があるからねぇ。それより結貴、俺はこの偶然に寒気すら覚えるよ」
「……偶然」
「この間、鴫崎が洞に持ち込んだ殺人狂の書物」


―――持主は、ここに居るねぇ。


悪魔のように腕の立つ医者だ。標的から外れさえすれば、ここ一帯では最高レベルの治療を施してくれるだろうねぇ。そう云って奉はただ飄々と廊下をあるく。…さっきの悪夢のような光景などなかったかのように。
この場所をこのまま放置すれば、幾多の罪のない、弱い母子が葬られる。一生懸命生きているのに、これから生きようと思っているのに。…だが頭の芯が麻痺している今は、俺は義憤にかられて駆けることも、しれっと受け入れることも出来ない。
そして。


俺は当分、ホルマリンの匂いを嗅ぎたくない。

 
 

 
後書き
次回更新は、来週予定です。 
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