| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第一部 小田原征伐と奥州仕置 ——「九戸城の疵」
  第八話 鬼松

 韮山城は、思っていたより低い城だった。
 伊豆・韮山。狩野川と沼に囲まれた、小高い丘の上にある。
 高さは大したことがない。だが三方が水で、寄せ手は正面から細い道を上がるしかない。しかも城の背後には天ヶ岳という山が控えていて、そこに砦がある。
 ――なるほど。
 俺は初めてその城を見たとき、しばらく動けなかった。
 攻めるとしたら正面。だが正面は狭い。狭いところに兵を突っ込めば、上から鉄砲と石で削られる。数の利が消える。
 だから四万四千が一月動けない。
 包囲陣の中で、俺に割り当てられた場所は、当然のように隅も隅だった。
 四百十六人。四万四千の中では、いてもいなくても変わらない数である。
 俺の隊は、着いた日にまず厠を掘った。
 それを見ていた隣の陣の連中が、腹を抱えて笑っていた。

          *

 それから数日、俺は毎日、城の周りを歩いた。
 韮山城の水がどこから来ているのか。
 沼の深さはどれほどか。どこが浅いか。
 天ヶ岳の砦から本丸まで、どういう道が通っているか。
 そして――誰が、どの曲輪を守っているか。
 竹の尺と紙束を持って、供に伊賀者だけを連れて歩いた。あの名無しの男は、こちらが何も言わなくても要る場所へ先に立っていた。便利すぎて少し怖い。
 村にも入った。
 最初は誰も口をきいてくれなかった。当然である。
 だが、井戸端で水を汲む婆さんに「その井戸、いつも澄んでいるか」と聞いたら、「夏は濁る」と返ってきた。それが最初の一言だった。
 そこから少しずつ、話ができるようになった。
 どの道が城へ抜けるか。どこの田が沼になるか。城の誰それが村に何を言ってきたか。
 ――百姓は、城の中身を知っている。
 当たり前だ。年貢を納め、普請に駆り出され、城の飯を作っているのは彼らだ。
 どんな城でも、堀の外に情報は漏れている。誰も百姓に聞かないだけだ。

          *

 四月の終わり。
 その日も俺は、天ヶ岳の裾を回って、沼の水位を測って戻る途中だった。
 日が傾いていた。
 村の外れに差しかかったとき、伊賀者が、すっと足を止めた。
 俺には何も聞こえなかった。
「――何だ」
 男は答えず、顎で村の方をしゃくった。
 次の瞬間、俺の耳にも届いた。
 悲鳴だった。

          *

 走った。
 畦を跳んで、垣を越えて、納屋の脇を回り込んだ。
 見えた。
 地面に、老人が倒れている。頭から血を流している。動いていない。
 その横で、若い男が――たぶん息子だ――蹴り倒されて、腹を抑えて呻いている。
 そして、その先。
 納屋の壁に押し付けられて、着物を引き裂かれている娘がいた。
 十六か、十七か。俺と同じくらいだ。
 押さえつけている男が二人。
 俺は、その二人の顔を知っていた。
 ――うちのだ。
 帳面の、確か百七十番台と、二百番台。
 名前が、出てこなかった。

          *

 男の一人が、こちらに気づいた。
 振り返って、俺の顔を見て、驚いて、そして――笑った。
 媚びるように、笑った。
「あ、殿。……こ、これは」
 言い訳をしようとしている。
 その顔が、俺の中の何かを踏み抜いた。
「他の陣も、皆やっておりますれば」

          *

 ――ぶっ殺してやる。
 言ったのか、思っただけなのか、自分でも分からなかった。
 気がついたら走っていた。
 鞘を払う手間も惜しくて、抜きながら走った。
 男の顔から笑いが消えた。何か言おうとした。
 俺の刀は、その口を開けた顔ごと、首の付け根に落ちた。
 手に、恐ろしく重い衝撃が来た。
 刀は骨に食い込んで、止まった。
 抜けない。
 男が、けたたましい声を上げた。人間の声に聞こえなかった。血が噴き出して、俺の顔にかかった。生温かかった。
 俺は柄を両手で握り直して、体重を乗せて引いた。
 肉と骨が擦れる感触が、腕を伝って肩まで来た。
 男が倒れた。まだ動いていた。
 もう一人が、腰を抜かして這って逃げようとしていた。
 娘を放り出して、四つん這いで、地面を掻いていた。
「殿、殿ッ、お許しを、お許しを――」
 俺は、その背中に飛び乗った。
 馬乗りになって、刀を逆手に持ち替えて、首の後ろに突き立てた。
 一度で終わらなかった。何度もやった。骨に当たるたび、腕が痺れた。
 男は途中まで喚いていて、途中から喚かなくなった。

          *

 立ち上がったとき、俺は全身が濡れていた。
 顔も、腕も、小袖も。
 鉄の匂いがした。
 誰も動かなかった。
 娘は、破れた着物を掻き合わせて、目を見開いたまま俺を見ていた。
 その目に浮かんでいたのは、感謝ではなかった。
 ――恐怖だ。
 当たり前だ。
 目の前で、人間が二人、頭の壊れた男に切り刻まれたのだ。助けられたなどとは思わない。
 俺は、自分の羽織を脱いだ。
 血で汚れていた。汚れていない裏側を表にして、それを娘の肩にかけた。
 何か言おうとした。
 ――大丈夫だ、とか。もう終わった、とか。
 何も出てこなかった。
 声が、喉の途中で固まって出てこなかった。
 だから俺は、何も言わずに背を向けた。

          *

 二つの首を、髪を掴んで持ち上げた。
 思っていたより重かった。片手で一つずつ持つと、腕が引き攣れた。
 村の入口に、高札場がある。
 村の掟や年貢のお触れを掲げる、板を立てただけの粗末なものだ。その脇に、大きな松が一本生えていた。
 俺は、その松の低い枝に、二つの首を掛けた。
 そのころには、俺の隊の連中が駆けつけていた。
 二十人ばかりが、村の入口で棒立ちになっていた。
 誰も、何も言わなかった。
 俺は振り返った。
 顔が血だらけなのは、自分でも分かっていた。
「――この二人は、村の家に押し入り、女に手をかけた」
 声が、自分のものではないみたいに響いた。
「法度は、聞かせてある」
 誰も動かない。
「俺の隊で、民に手をかけた奴は」
 俺は松の枝を指した。
「――全員、こうだ」

          *

 それから先のことは、あまり覚えていない。
 誰かが俺の手から刀を取り上げた。
 誰かが桶に水を汲んできた。
 誰かが俺の袖を引いて陣まで連れ帰った。たぶん岩室だ。
 陣幕に入って、床几に座らされて、俺はしばらくじっとしていた。
 顔を拭いた。
 拭いても拭いても、爪の間の赤いのが落ちなかった。

          *

 湯を沸かす音が、外から聞こえてきた。
 今日も、誰かが釜に火を入れている。
 いつもの音だ。俺が毎日やらせている、あの音だ。
 その音を聞いているうちに、手が震え始めた。
 止まらなかった。
 膝の上で組んだ手が、勝手にがたがたと鳴っている。
 押さえようとして、押さえられなかった。
 (……何だこれ)
 昨日までは、普通に持てていた手だ。
 (……何だ、これ)
 吐こうとした。吐けなかった。
 鶏の一件のときは吐いた。あのときは吐けた。
 今日は、吐けない。
 喉の奥が閉まったまま、胃だけが握り潰されるように痛かった。
 石を飲み込んで、それが焼けているような痛みだった。
 (……胃が、破裂する)
 俺は前のめりになって、腹を抱えた。

          *

 ――前世で、俺は一度も人を殴らなかった。
 現場で怒鳴られても、施主に土下座させられても、下請けに裏切られても、殴らなかった。
 殴ったら終わりだからだ。どんなに正しくても、手を出した方が負ける。それが四十年の常識だった。
 その常識で四十年、俺は生きてきた。
 なのに今日、俺は人間を二人、自分の手で殺した。
 切れない刀で、何度も、何度も、叩きつけて。
 (……あれは、法度じゃない)
 それだけは、はっきりしていた。
 鶏のときは、法度だった。
 だから原に頼んだ。俺の怒りを混ぜないために。
 今日は違う。
 俺は法度で斬ったんじゃない。
 ――あの顔が、許せなかっただけだ。
 「他の陣も、皆やっておりますれば」。
 あの言い訳。あの、媚びるような笑い方。
 (前世でも、いたよ)
 安全帯を付けずに足場に上がって、注意したら「他の現場じゃ誰も付けてませんよ」と笑った男。
 産廃を山に捨ててきて、「みんなやってることでしょう」と言った男。
 あのときは、怒鳴るだけで済んだ。
 ここには、そのやり方がない。

          *

 どれくらいそうしていたか分からない。
 幕の外から、遠慮がちな声がした。
「――殿」
 佐田新九郎だった。まだ二十歳そこそこの、豊前の男。
「……何だ」
「村の者が、参っております」
 俺は顔を上げた。
「あの娘の、身内かと」

          *

 俺は幕の外へ出た。
 立っていたのは、腹を蹴られていた若い男だった。まだ顔が腫れている。
 その足元に、莚に包まれたものが置かれていた。
 男は、俺を見た瞬間、びくりと肩を跳ねさせた。
 そして、深く、深く頭を下げた。
 何も言わなかった。言えないのだと思った。
 俺も、何も言えなかった。
 男は莚の包みを俺の足元に押し出すと、逃げるように帰っていった。
 開けてみると、卵が四つ入っていた。

          *

 俺は、その場に座り込んだ。
 卵を四つ、両手で持って、しばらく動けなかった。
 鶏一羽を盗んだ男を、俺は殺した。
 その村の男が、卵を四つ持ってきた。
 差し引きも、釣り合いも、何もあったものではない。
 ただ――
 ただ、この村では、今日、誰も死ななかった。
 娘は生きている。老人も、頭を割られたが息をしているという。
 (……それでいい)
 俺は、そう思うことにした。
 そう思わないと、立てなかった。

          *

 その名が広まったのは、翌日からだった。
 村の高札場の松に、首が二つ掛かっている。
 掛けたのは、豊臣の陣の、まだ元服したばかりの若い侍らしい。
 村では、こう呼ばれた。
 ――松に首を掛けた鬼。
 そして、豊臣の陣の中では、別の言い方が広まった。
 小出俊定は、つい先ごろまで木下松之助といった。関白の縁者の、まだ幼名も抜けきらぬ小僧である。
 ――あの松之助が、鬼になった。
 その二つが、どこかで混ざった。

          *

 ――鬼松(おにまつ)。
 俺がその呼び名を耳にしたのは、三日後だった。
 厠を掘っている俺の隊の脇を、隣の陣の兵が通りかかって、こう囁いていったのである。
「あれが鬼松の隊だ。……近づくな。あそこは、鶏一羽で首が飛ぶ」
 俺は、掘る手を止めなかった。
 ちょうどそのころ。
 包囲を続けたまま動かない四万四千の陣に、一つの噂が流れ始めていた。
 ――韮山城の重臣、江川英吉。
 ――あの男が、徳川と通じているらしい、と。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧