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もう一つ、運命があったなら。

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同じようで何かが違う朝


 ◇



その日、俺は運命と出会った。

 

きっと地獄の中に落とされたとしてもその記憶だけは忘れやしないだろう。

蒼然の土蔵に現れた美しい青と黄金。深緑の両眼、雪色の肌に纏う銀の鎧。

月に照らされた全ての光景がこの世のものとは思えず、最初に自分の目を疑った。

次に見つめ合った瞬間、時がそこで永遠に止まったとしても俺は構わないとさえ思った。

「――――問おう」

小さな口が紡ぐどこまでも透明な旋律、言の葉。声というものが目に見えるものならば、その壮麗さにどれだけの人が心を奪われただろう。

最後に凛として翳りのない表情で、彼女は言った。


「貴方が、私のマスターか」


 それが、永遠に等しく思えた物語の始まり。



 

 誰かの幸せのために、最後まで自分の意思を貫き通した。

 そんな名前の無い英雄の夢物語。

 儚い夢の序章に過ぎぬ数日間の一部始終。







――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ◇



「先輩、朝ですよ」

 夢なのか現実なのかよく区別がつかない微睡みの中で、俺はその声を聴いた。

 何か凄く良い夢を見ていた気がするんだけど、それも充電が急に切れたみたいに唐突に終わり、記憶の中にも残っていない。

 仕方ない、二度寝してもう一回見てやろう。同じ夢を続けて見るなんて器用なことは普通なら出来ないけど今なら出来る気がする。


「先輩。いつまでもこんなところで寝てたら風邪をひいてしまいます」


 控えめに肩を揺すられるのが分かる。確かに俺が寝そべっている床は硬くて冷たいし、身体も冬の空気に当てられて冷え切り節々が痛みを感じている。でも関係ない、俺はまたあの夢を見るんだよーぅ。

 身体を丸めて目覚めの悪い子供のような仕草をする。ため息が一つ聴こえた。


「もう、先輩ったら。遅刻しても知りませんからね」


 それは困るな。この十数年の人生において遅刻をしたのは五回しかない俺の安いプライドがさらに値下がりしてしまうではないか。

 だがしかし、眠いものは眠いのだ。たとえ今日が大切なデートの日だとしても、もうちょっと寝てから準備を始めたい。大丈夫、急げばなんとかなる。人間は追い詰められないと真の力を発揮できないっていうしな。


「うーん。本当に寝てるの、かな。確かめてみよう……えいっ」


 ツン、と頬を突かれる。だがこの俺の狸寝入りスキルはそんなことでは動じない仕様になっている。大抵のことではこの安らかな寝顔を崩すことはできない。

このスキルが将来役に立つのかどうかは微妙だ。履歴書の特技の欄に゙狸寝入り゙なんて書かれていたら俺が面接官なら本人を見る前に落とす自信がある。


「…………」

「やっぱり寝てる。どうしよう、朝ごはん作れないよぉ」


 引き続き頬をぐにぐにされるが起きるつもりはない。はは、甘いぞ。そんなに俺を起こしたければ爆弾でも持ってくるんだな。

 うーん、と悩む声を近くで聴きながら寝たフリを続ける。しかし、執拗に顔を触られているので寝つけようにも寝つけない。

 とりあえず諦めるまで我慢するか。そう決めて成されるがまま時間は過ぎていく。


「……起きない。よーし、なら」


 やっと頬から指が離され、地味な喧しさから解放された。よし、これで本格的な二度寝に入れそうだ。

 しかしそう思った矢先、横を向いて寝ている俺の目の前に誰かが寝転がった気配がした。


「よい、しょっと。……えへへ、先輩の隣~」


 さっきよりもっと近いところから声が聴こえる。いやいや、これは近いなんてもんじゃない。顔に息がかかってるし、甘い良い匂いが鼻に入ってくる。

 やばい、今すぐ目の前に広がる状況を確認したい。でも寝たい。

欲望の指針がどっちにも振れなくなってきた。どうしよう、この状態を維持し続けてしまったらいつまでも眠れないし起きられない。


「せんぱーい。ふふ、可愛い寝顔」


 くっ、なんだこのときめきは。まるで自分の知らないところでされている賞賛を偶然聴いてしまった時のような感覚だ。

 動悸が激しさを増し、体温も上がっていくのが分かる。だがここで乱れるほど俺の精神力はやわではない。心を静めろ。邪なものは何も考えてはいけない。


「もうちょっと近づいても、いいよね」


 さらに身体が近づいてくるのがわかり、その存在を強く感じることができる。既に俺の意識は覚醒してしまい、まずもって寝れる状況ではなくなってしまった。

 目を開けるべきか、諦めるまで狸寝入りをするか。究極の選択がここに生まれる。トゥビー? オア、ノットトゥビー?

 このままじゃ寝るか起きるかの問題ではなく、俺の理性が耐えられるか耐えられないかの話になってしまう。

 こんな朝に後輩を襲ってしまったなんて事実が公になれば俺は十七歳という年齢で鉄格子の中に放り込まれ冷たい飯を食うことになるだろう。それはいかん。断じていかん。


「…………ばれなければ、ちゅーしちゃってもいい、かな」


 耳を疑うセリフが腐りかけた脳内に侵入し、理性の防護壁を瞬く間に打ち壊していく。心のベルは警鐘を鳴らし、赤いランプが絶え間なく光り続け限界がもうすぐ来ることを知らせる。

 心臓の鼓動は外に漏れているのではないかというほど大きく、背中に汗が伝うのが分かった。


「うん、一回くらいしちゃったって――――」


 頬に手が触れ、段々と顔が近づいてくるのを感じる。それが触れた瞬間、俺はきっと壊れてしまう。

 理性というのはこんな風に消えるものなんだな。そんなのはどうだっていい。この欲望は、もう止まることはない――――。



「早く起きやがれバカ空也ああああ!!!」

「ゴメスッ!!!」

 何かが突然入ってきて何かを俺に叩きつけてきた。

理解できない衝撃を受けて理解できたのはそれだけ。

 訳の分からない言葉とともに俺の身体は吹き飛ばされ、壁にぶち当たり床に落ちる。



「あ、西条先生。おはようございます。今日もいい天気ですね」

「んあ? おお澪か。朝からこんなところで奇遇だな」

「はい、ちょうど先輩を起こしに来たところなんです。先輩ったら今日もここで寝ちゃってたんですよー?」

「なんだと? この野郎、そんなに部屋が要らねえならアタシの物置にでもすんぞコラ」



 床に寝転がり悶絶しながらそんな会話を耳にする。というか澪ちゃん、切り替え早過ぎじゃない? マジでばれてないの? 今の桃色な空気は俺の幻想だったのだろうか。

「~~~っ。……いってぇ」

 仰向けになり完全に、というか強制的に覚醒させられた意識で天井を見上げる。

 コンクリートの床は冷たく、扉から入ってくる空気も肌寒い。

 それもそのはず。ここは外にある土蔵の中で、今の季節は冬真っ盛りなんだから。

 その状況で俺はジャージ姿で布団もかけず寝るという大技を披露していたわけだ。

 澪が言っていた通り、これが初めてではなく度々俺はここを寝床にすることがある。冬になってからはさすがに寒すぎるので止めるように言われていたのだが、無意識のうちにその言いつけを破ってしまい今に至る。


「ったく、よくこんなクソ寒いなかで何時間も寝れるな。あれか、頭だけじゃなくて身体までバカになってんのか? あん?」

「ちげえよ。……あー、もう少しで良い夢が見られそうだったのに」

 大の字に手足を広げて愚痴る。何かの暗喩ではないのは言うまでもない。実際に後輩から朝ちゅんされる現実が訪れる可能性があったのにも拘らずそれをぶち壊されてしまったら愚痴の一つでも言いたくなるだろう。

「先輩、大丈夫ですか」

「ああ、大丈夫。慣れてるからな、綾ねえの唐突なバイオレンスには」

 寝転がる俺のそばに髪を抑えながらしゃがみ込んでくる澪。さっき俺に何かをしようとしていた人間の顔には見えない。一つ下の後輩なんだけど、たまにこういった積極性をこれでもかと見せつけてくる時がある。先輩、困っちゃう。

 しかし、この切り替えの早さはどこで会得したのだろうか。普段の優等生っぷりを見ているとそのギャップに恐ろしさを感じずにはいられない。

 毎朝朝早くから世話をしに来てくれたり起こしてくれたりしてくれるのは本当に感謝している。
 
 だが、起こされる前に今日みたいなことをされているのかと思うと寝つけなくなってしまうではないか。もしくは澪が来る時間より前に目覚ましをセットしたくなっちゃう。いや、さすがに自室で今日みたいなことになったらオオカミになる自信しかなくなるぜ。

「ふん。やられっぱなしが嫌ならもっと腕を上げやがれ、ひよっこ」

「はいはい分かりましたよ柔道元日本チャンピオンさま」

 ほ、ほめんじゃねえよ。高校ん時の話だろ、と少しほめただけで心底嬉しそうな顔をする綾ねえ。

 何時いかなる時も西条綾は最強であらねばならない、なんて言葉を自信満々に公言してさらに家族がやばい系でおじいちゃんが何とか組の頭をやってる、その娘が体育の教師をやっているとはな。うちの高校の人事担当はどの辺が良くてこの人を選んだのか一度訊いてみたいものだ。

 上体を起こし、土蔵の壁にぶつけた後頭部をさする。よかった、血とかは出てない。身体だけは丈夫なのは数少ない取り柄だと自負してもいい。小さい頃から綾ねえの新技開発に付き合わされたのも身体が強い理由の一つ。

「西条先生、今日も朝練あるんですか?」

「あるぞ。だからこんなところでいつまでも油売ってる訳にはいかねぇんだよ。おら、早く起きて朝飯作りやがれ」

「……自分で作ればいいじゃん」

「あ? なんか言ったか」

「何も言ってません。だからその用途の分からない竹刀は仕舞って」

 もう痛いのは勘弁してくれ。今気づいたけどさっき俺をぶっ飛ばしたのはその竹刀だったのね。あと、武道精神がどうとか説いてる人が生身の人間を容赦なく叩いていいんでしょうか。

 痛む節々に鞭を入れながらゆっくり立ち上がりあくびをひとつ。

 あーあ、綾ねえさえ来なければ最高の朝になりそうだったのに。

 だが、あのまま寝てしまっていたら俺はあの衝撃で目を覚ましていたのかもしれないのか。その点に関しては狸寝入りしていて良かったと心から思う。綾ねえが怖くて不眠症になりかねん。

「さーて、じゃあ気を取り直して朝ごはんを作りに行きますか」

 眠気はさっきの暴力でどこかへ吹っ飛んで行った。同時に澪に抱いた欲求もキレイさっぱり蒸発してくれている。朝っぱらからムラムラした状態で学校なんて行けないからな、そこは安心だ。

「はい、今日も美味しい朝ごはんを一緒に作りましょう」

 元気にいつものミオちゃんスマイル。それを見れば俺も気持ちよく目が覚めてやってやろうなんて気になる。最高だぜ、澪。でも男の寝込みを襲うとむしろ自分が襲われちゃうからな、と言いたいのだが恥ずかしくて言えない。

後輩の女の子にそんな指導をする男の先輩、何だろう、どう考えても期待しているようにしか見えない。あとで遠回しに伝えよう。目覚めたばかりの男は前世の誰かを憑依するんだとか言っておけば大丈夫だろ。拙者、今からお前を襲うでござる、とか言い始めたら二度と起こしに来ないと思う。

「あ、澪。アタシの弁当もよろしくー」

 竹刀を肩にかけて教え子にそんなお願いをする先生を俺はこの人以外に見たことも聴いたこともない。いつになったら自分で料理をするようになるんだこの人は。だからいつまで経っても彼氏ができないんじゃないの? 

 言ったら確実に俺の首が身体から分裂してしまうことになるので絶対に口には出せない。料理をしろ、このワードは綾ねえに言うのは俺と澪の間で禁句となっていることだけは忘れてはならない。

 俺も澪も料理は得意だからすぐに教えられるのに。他人に厳しく自分の腕っぷしにはストイックな癖に、そういうところに興味がいかないのがこの人なんだよなぁ。

「了解ですっ。じゃあ先輩、私たちの分のお弁当も作りませんか?」

 笑顔で意気揚々な澪。いつにも増して今日はテンションが高い。昨日バイト帰りにケーキを買って行ったからかな。もしや今日も買って来いという遠回しなサインなのだろうか。澪ちゃん、恐ろしい。

 こんなに可愛い後輩のお願いを断れるほど強い心は持っていないので、どうしても澪に対しては甘くなってしまう。仕方ない。後輩、つよい。

「そうだな。なら、今日は気合いを入れて行きますか」

 天井に向かって背伸びをする。収縮した筋肉に血液が回り始め、目覚めたことを頭に教えていた。

 すがすがしい朝の風が土蔵の中に入ってくる。一月末の真冬だけど、少しだけ暖かさを感じる一日の始まり。俺にとっては当たり前の日常の出来事。普遍的な、当たり障りのない早朝だった。

「あと卵焼きは甘めでよろしく頼むぜ」

「はいはい。分かった分かった」

 土蔵の外は綺麗な青空が広がっていて、控えめな太陽がほんのりとした温度の日差しを庭一面に注いでいる。

 鳥の囀りと電車の遠鳴りが聴こえてくるだけの長閑な朝が俺たちを迎えてくれた。



 
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