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竜門珠希は『普通』になれない

作者:水音
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第1章:ぼっちな姫は逆ハーレムの女王になる
  口は災いの何とやら

 



「お、終わった……」

 ひとりごちる珠希の頭上、担当教師を退去させるべく教室内に鳴り響くのは放課後を告げるチャイムの音であった。


 体育の後に続く授業(フライト)のために体力(ねんりょう)は残しておいたはずなのに、それを利用するのに必要な気力・精神力(エンジン)が機能不全に陥る(不謹慎ながら)実際の飛行機であれば間違いなくあの世直行ルートになってしまうという危機的状況を超低空飛行のまま切り抜けた珠希は、こないだと同様、糸の切れた操り人形よろしく机の上に突っ伏して窓の外を眺めていた。

 これもSNSの力というものなのか、その実態は掴めないままだが、体育の授業で珠希が見せたバスケの実力を買って、早速「一緒にIH《インターハイ》行きましょう」と休み時間の度にバスケ部員の先輩やら同級生が声をかけてくる始末だった。
 基本的に頼られると断れない長女体質。押しかけられて迷惑なのと同時に、勧誘を受ける度に断る罪悪感も募らせると、世界的売上を記録したゲームの原画・キャラデザにおいて本気の修羅場を潜り抜けた珠希であれど気力・精神力は底を突こうとしていた。


 加えて春の霞がかった青空のように心のどこかがすっきりしないのは、まだ去年の――過去最高のクラスメートたちと巡り会えた――思い出を引きずっているからなのか、はたまたラノベ主人公のようにラブコメのひとつふたつ起きてくれない現実世界のせいなのか、そのあたりは珠希でもわからない。


 とはいえ、少なくとも大半のラノベ主人公は男で、難聴・鈍感・低血圧体質の受け(・・)というのが基本でテンプレである。能動的(アクティブ)に「俺がこの世界を救ってみせる!」と息巻き、異世界で勇猛果敢でアクの強い仲間と旅をして伝説の武器を集めて、眠れる勇者の血を覚醒させて魔王を倒すのはゲームの中だけで、実際のところは現実世界であろうとチート性能を隠してのんびり時々軽く修羅場りながらも宿屋を開いたり賢者の弟子をしたりしているほうが楽なのは間違いない。

 つまる話、彼らのスタンダードな立ち位置は某関係式における「X×Y」の「Y」にしかなりえない。決してメガシ○カする某カロ○地方のお話じゃない。本来、(染色体が)ホモ接合しているのは人間の女性のほうなのにという真面目なお話に似せた、攻めと受けの話。
 なお掘る・掘らないの選択は後回しでお願いします。某AAネタを本気にする人はスレから退去してくださって結構ですので。

 話を元に戻して――誘い受けタイプの主人公というのも……まあ、なくはないが、そういう彼らが攻めに回るとすればそれは主にお盆と歳末の3日間に集中して大量発行される薄い本(・・・)の中だけである。しかも今では逆セクハラや逆レ×プやらで土俵の外に押し出され、逆転する隙もなくインサート(なんとか)(=挿入)されるパターンもある。
 土俵の外、主人公がヒロインたちの手によって×××にナニを××(インサート)するかなんてのは読者の想像に完全依拠するが、そんなことを考えていても珠希の時間は過ぎるだけだ。


 モザイクがかかる内容のくせにそれを字にすると全く性的な雰囲気がない思考をばっさり切り捨て、さて、今日の晩ご飯どうしよう? と、珠希は今日の夕食の献立を脳内レシピから選びながら机の上を片付け、帰り支度を始める。
 同時にスマホで今月末に設定されたエリシュオンソフトウエアとの関係者ミーティングの日程と内容の確認もしつつ、挿絵を担当しているラノベの新刊表紙向けイラストの指示書に適した構図(アングル)案も複数考えるという、マルチタスクの無駄遣いをしながら。


 すると、そこに星河でも昴でもない、別の男子の声が響いた。

「あ、あのさ、竜門さん。2年の先輩が呼んでるんだけど?」
「へっ?」

 予期していなかったマルチタスクの強制キャンセルに伴い、思わず気の抜けた返事をしてしまったが、あらかじめここに記しておこう。


    この学校の先輩に、珠希の知り合いなどいない。


 長女体質からくる面倒見のよさをもって年下からは基本的に慕われる珠希だが、文武両道・容姿端麗を体現し、何でもそつなくこなして習得していくために、年齢の近い年上からは圧倒的に煙たがられてきた。
 当然、進路相談で先輩に相談など最初(ハナ)から頭になかったし、この学校に進学した同窓生がいるかなどまったく耳にしていないし、興味もなく、仮にそのOB・OGを頼るくらいなら3年間“ぼっち”でいいとまで思っていたくらいだ。


「え? どうして?」
「何か、話があるんだって」
「話? 何それ?」
「俺に言われてもなぁ……」

 言伝を頼まれただけの男子からすれば、名も知らない先輩が珠希に向けた話の内容など知ったことではないし、知る必要も理由もない。むしろ探りを入れるほうがおかしいというものだ。

「うーん……。わかった。ありがとね」
「お、おう」

 まだ高校入学から1か月も経っていない今日び、先輩から睨まれるような事案があるかというと――むしろ珠希のほうから手を出し、手を下した件が――確かにあるものの、それに対する報復であるとするなら、こうして堂々と呼び出しはしないだろう。
 しかしその件以外の事案の心当たりがまったくない珠希は、ひとまず言伝を持ってきてくれたクラスメートに小さく微笑むと、教室の後方の出入口で待つ見慣れない人物から話を聞いてみることにした。

 なお、珠希から微笑を返されたクラスメート男子はこの後、友人たちと一緒に強制的に連れションに行かされたとの目撃談が匿名で流れることになる。


「えーっと、お待たせしました。あたしに何か用ですか?」

 部活も委員会も入っていない1年が上級生相手に対話する機会などほとんどない。それを中学3年間で理解・経験してきた珠希は、できるだけ手短に済ませようと短い会話の中にとにかく中身を詰め込み、出入り口に立つ先輩男子に尋ねた。

 見ず知らずの人間から指名されて呼び出されて――という今の流れを珠希の過去の経験則から考察すると、そのおよそ60%が男女交際を求める告白、30%が罵声の吐き捨てや暴力込みの報復行為、残る8%が部活動(特に運動部)からのアツい勧誘である。
 ちなみにそれでも残る2%は「私のお姉様に――」という百合色の招待状だったというのは触れないであげてほしい。珠希の性癖がこれ以上歪まないためにも。

「ああ。確かに間違いないな」
「……? どういうことですか?」
「俺のこと覚えてないのか? ほら、武道場の裏で――」

 武道場の裏――。
 その単語で珠希の脳内に一斉にそれに関する記憶がフラッシュバックした。

 それはまさに珠希がこの高校に入学してわずか通日後、初めて他人(というより、同じ学校の3年生たち)に手を上げ、打ちのめした出来事だ。そして今まさに珠希の眼前に立つ先輩は――あくまで正当防衛として訴えたい行為をしでかした――珠希の後始末を買って出てくれた2年の先輩に他ならなかった。

「あ……。あ、ああ……。あのときはどうも。本当にご迷惑おかけしました」
「それほどでもない。むしろあの3年の奴らにはいい薬になっただろうし」
「そうですか。それならこちらとしても助かります」

 あの後、教師からの生徒指導室への呼び出しも、ガラの悪い3年生たちからの報復もなく、平穏無事な(……と評価したい)日々を送っていた珠希は深く頭を下げ、同時に改めて眼前の2年生の先輩の外見を頭のてっぺんから爪先まで認識する作業に入る。

 日本人独特の初対面の人に対する平身低頭ぶりを利用したこの行為も、珠希の中では社交辞令かつ大人世界を生き抜く術だ。仏の顔も何とやら。街中で見ず知らずの人から気さくに声をかけられても「私とどこかでお会いしましたか?」と尋ねるのが許されるのは2度目までだ。
 それこそ、この社交辞令込みの認識作業を習得していたおかげで、今まで関わってきたゲーム・出版・同人業界の界隈で広く知人・友人を増やしてきた。

「それで、聞きたいことがいくつかあるんだけど」
「え? あ、はい。何でしょう?」

 身長は優に170cmを超え、昴より高く、実際180cm近くあるんじゃないかと思う長身。そして若干色素の抜けた、珠希よりは黒に近い茶髪を短く刈り込んでいる先輩の言葉に、話の本題はそっちだったか、と珠希は認識作業をいったん取りやめる。

「竜門さん。君は昔……、小学校の頃に空手やってなかった?」
「………………えっ?」
「やってなかった? というよりは、やってただろ? 絶対に。それに帯まで持ってる」
「どうしてそれを?」

 高校入学を機に、珠希はいくつかの素性を隠すことにした。あくまで平々凡々に日常を送り、平穏無事に、『普通』に高校生活を過ごすための選択だった。
 空手と柔道の有段者であることもそのひとつだった。

「え? えっと……どこからその話を?」

 本題がいきなり喉元に刃を突きつけるような話だった珠希は、反射的に一歩後退りながらも、まっすぐこちらを見つめてくる2年生男子に尋ねる。

 すると、その2年生男子は小さく、少し残念そうな溜め息をつき、口を開いた。

「あー。さすがに覚えてないか。俺のこと(・・・・)までは」
「……えっ?」

 ガラの悪い3年生に絡まれた星河を助けるために手を上げた際の後始末を買って出てくれた先輩の素性など、そのときの状況もあって知る由もなかったが、どうやらこの2年生は珠希が隠していた空手と柔道の有段者であることも知っているらしい。

「えっと……すみません。もしかして、あたしとどこかで……」
「じゃあ中森(なかもり)克明(かつあき)って覚えてる?」

 ――中森克明。
 眼前の2年生の先輩の中前など一文字も知らない珠希だったが、その名は知っていた。
 当時、還暦近くにして無駄のない筋肉と無限大ともいえる寛容さを持ち、その技術以上に年長者と指導者を敬う厳しい規律を珠希と結月に教えてくれた人だ。

「君と、君の妹がいっつも『ししょー』って呼んでただろ? ……俺の祖父ちゃんを」

 そう言うと、2年生の先輩はまるで子供のようににかっと歯を見せて笑ってみせ――珠希はようやく思い出した。
 危うくロリコンの餌食になるところだった珠希が、結月と一緒に通っていた護身術の道場主の孫にして、通い始めた頃、同じように得意げな笑みを満面に浮かべる一人のガキ大将がいたことを。

 確か名前は――。

「――っ! トモくん(・・・・)っ!? えっ? 本当に智明くん?」

「おう。やっと思い出したか」
「嘘でしょ!? どうしてここにいるの?」
「そりゃ俺もここの生徒だからだよ」


 ――新里(しんざと)智明(ともあき)
 かつて珠希と結月が通っていた護身術の道場主を実祖父に持ち、自らもまたその道場で空手を習っていた。後に珠希も空手を習い始めたので、同じ釜の飯を食う仲であったともいえる。


「え? でもこの学校って――」
「珠希ぃ。てめぇ、いきなり失礼なこと聞きやがって。俺だって勉強くらいするわ」
「あ、それもそうだね。そうだよね」

 入学するにあたっての最低ラインが68というこの学校の偏差値が、一瞬だけ珠希の脳裏をかすめていったが、思い返せば中学時代の進路希望先の選択の際に進路担当の教師が「うちの中学から2年連続で稜陽の受験者が出るとはな」とひとりごちていた。
 そのときは去年も稜陽の受験した先輩がいたのか程度にしか思っていなかったが、2年連続の1年目が智明だとは――珠希が智明の存在を忘れていたことも含めて――微塵も思っていなかったのである。

「お前なぁ、そういう無意識に暴言・失言吐くとこ何も変わってねえな」
「こ、これでも考えて言ってるよ。普段は」

 無意識に暴言を吐き、失言するところはあらゆる意味で珠希の昔からの欠点である。
 今のように、まだ冗談やいいまつがいで済ませられるレベルのものをたまにするなら可愛いとも言えなくもない。が、基本的に何でもできる珠希を煙たがって皮肉や罵詈雑言を浴びせる人たちを相手にTTX(テトロドトキシン)レベルの毒を吐いたことは数知れず。おかげで塵芥すら残らない報復合戦になったこともある。

「ほう。俺との再会は普段の出来事じゃないと?」
「ち、違うよ! 普段かもしれないけど、普段よりも嬉しい出来事だよ。中学の友達とかほとんど別の学校(とこ)行っちゃったから、知ってる人全然いなくてさ。でも智明くんがいるならもう大丈夫だよっ」

 出会った頃のように軽い意地悪程度に尋ねた智明だったが、眼前の少女は当時と何ひとつ変わることなくストレートに嬉しい感情を言葉に、表情に混ぜて答えを返してきた。

 なお、自分が類稀なるレベルの美少女である自覚が一切ないこの小心者系失言少女、智明の名前を思い出したときからずっと無意識に智明の両腕を軽く掴んでいるということを付記しておく。
 何気ないボディタッチは女子慣れしてない男子を果てしなく勘違い方向へ吹き飛ばす爆薬であることを、いい加減気付いたほうがいいと思うこの15歳JKは。


「……やっぱ何も変わってねえな」
「えっ? あたしだって少しは成長してるんだけど……あっ! さすがにタメ口はヤバいですね、うん。失礼しました。新里先輩」
「そんな風に態度が急変するのも変わってないな」
「これでも礼儀作法にはうるさい親がいるもので」

 無意識に掴んでいた袖を離し、呆れる智明に深く頭を下げるついでに、礼儀作法以外はてんで無頓着だけどなあのダメ親は、と内心で毒づいておくことも珠希は忘れない。

「まあいいや。呼び方は今まで通りでいいからよ。いきなり苗字に先輩呼びも背中がかゆくなるしな」
「え? でもそれはさすがにアウトじゃないですか? 先輩としての立場的に」
「別に気にしねえけどな。先輩呼ばわりなんて部活で散々されてるし」
「じゃあいいじゃないですか」
「ぶっちゃけると、お前が何も変わってないとなると、先輩呼ばわりは何やら悪意を感じそうでな」

 よくサークルやら職場で、老若男女仲良しの雰囲気を出そうとアットホームな態度やらくだけた空気を醸し出そうとする運びがあるが、責任ある組織である以上は構成員の誰かにリーダーシップというものが必要とされる。万が一、過失責任の行方を不鮮明にさせないためにも誰かが最終的判断を下し、その責を負わなければならないためだ。
 そして、その権利を付与されるに値する人間の条件のひとつに年上の威厳というものがある。

 しかしながら、その最終判断の権利を逆に利用して個人的な利を生み出す輩もいる。決してリーダーになりたがらない、けれど知恵と行動力は人並み以上にある――俗に黒幕と揶揄される者たちだが、おおよそ演技ができる人物で機転が利き、口が達者という条件は珠希にも合致する。
 そして、そういった輩は他人の揚げ足取りや約束を盾に取るのが得意で、年上やリーダー格の責任や自尊心をくすぐるのが上手いのを智明は知っていた。

「悪意ってなんですか、悪意って」
「国語辞典で引いてみろ」
「むぅ……」
「んな顔しても無駄だ」
「あいたっ」

 こちらとしては素直に慣例(・・)に従って、先輩の敬称を添えて智明のことを呼ぼうとしているのに、悪意を感じると思いもよらない理由で拒否された珠希は小さく頬を膨らませ、口を尖らせる。
 その不満げな仕草は誰もがあざと可愛いと感じるのだが、それをもう10年近く前に見たことがある智明はまったく相手にしないどころか、逆に珠希の脳天に軽い手刀を振り下ろしてきた。

「もーっ、いきなり失礼なのはそっちもじゃないですか。智明……さん?」
「なんでそこで間ができるんだよ。しかもなぜに疑問形? てか昔の呼び方でいいって言っただろ」
「い、いやあ、さすがに『トモくん』は馴れ馴れしすぎだと思うんで」
「んー。まあしゃあない。そういうことなら」

 智明は裏表なく、本気で意に介していないようだが、実際のところは珠希が気にしてしまう。
 さすがに十何年来にも及ぶ親密な交友関係もない相手、しかも先輩を、入学したての後輩が馴れ馴れしく呼んでいいかと尋ねると、実際は両者の合意だけでいいはずである。
 しかし、学校という狭い社会組織の中ではそうもいかない。智に働けば角が立ち、情に棹させば――と、結った草ではなく机の上で組んだ腕枕で考えたことさえある。これでは明治時代の文豪もノイローゼになるというものだろう、とwi-fi世代の現役JKエロ原画家は妙な納得をしてしまった。

 そもそも、一度習えば何でもできるというチートスキル持ちかつ先輩・後輩のバランスブレイカーである珠希に縁故や上下関係や契約社会の実態を教えてくれたのは学校の授業や部活、家族や地域社会ではなく、『天河みすず』の名前を背に独り歩きし始めたイラストレーター業界そのものだ。ただし、千尋の谷に突き落とされたのは獅子の子ではなく、ノミの心臓を持った武闘派ガチオタだという点もお忘れなく。


「じゃあ今後は『智明さん』で」
「おう」
「それじゃ今日はこれで」
「ああ。そんじゃ……って待て珠希。俺が一番聞きたいのはそれじゃねえ」

 ノリツッコミできたんだ智明さん、とツッコミながら、珠希は教室内に引き返しかけた態勢のままストップする。

「あ、そういえば忘れてましたね」
「ああそうだ」
「連絡先、この際ですから交換しときましょう」
「それもそうだな……って違う!」

 智明が一番聞きたいことが何かを察した珠希は、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。が、二度目のノリツッコミをしてみせた智明は学年で一番――いや学校でも一番の美少女のアドレスは知らなくてもいいらしい。

 意外とノリいい人だな。
 いや、昔はもっとオレ様っぽい性格だったから地が出てるだけかな?

 見事な勘違いをやらかしたにも関わらず、「えっ? 違うの?」と言いたげな表情を浮かべて珠希は冷静に智明の一挙一動に目を配る。
 駆け出し(とはいえ当時中学生)の頃は背景ばかり塗っていたグラフィッカーだったものの、後にそれが動物、人間と移り変わり、初めてサブ原画を任されてからは書いて字のとおり寝食する暇を削って有名原画家への階段を駆け上ってきた身空、人間観察には余念がなかった。


「えっと、それじゃあ聞きたいことってのは?」
「何で珠希はうちの部活入らないんだよ」
「……へ?」

 先程と同じような、けれど今度は「この人は何を言っているんだろう?」と言いたげに口を半開きにしたまま、珠希は智明に返す。
 今度ばかりは智明の一挙一動に目を配る余裕はなかった。


「だからさ、お前は空手部入る気ないわけ?」
「ないです」
「即答かよ」

 唐突な空手部への勧誘に、じゃあそれ以外にどう答えればいいのよ、と珠希は逆ギレ気味に智明にツッコみたくなったが、ここは廊下。放課後ではあるが、まだ同級生が残っていて視線が痛い。現状を再確認したら余計に同級生の視線という存在が肌に突き刺さってきた。

「なあ、珠希。お前、空手で帯持ってたよな?」
「持ってますよ。初段ですけど」
「そんだけの腕前あって何でやんねえの?」
「むしろ初段で辞めたあたしが、何で今さら空手やんなきゃなんないのかわかんないんですけど?」
「だってお前の実力、初段どころじゃないじゃん」
「それはもう10年近く前の話じゃないですか」

 その10年近くの歳月、ひたすら空手に打ち込み鍛錬を積んできた智明と、ヒキコモリ気味に趣味のイラストを描きまくり、その後に中堅ブランドのergグラフィッカーから売れっ子の原画家・イラストレーターへと転身を遂げてきた珠希の実力の乖離は誰が言うまでもなくマリアナ海溝とエベレストほどの高低差がある。

「けどな、祖父ちゃんも珠希のことは認めてたんだよ」
「だからそれも10年近く前のことじゃないですか」
「知らねえのか? うちの祖父ちゃん、滅多に実力を認めないんだぞ」
「知りませんって。見どころがあるとか言われてましたけど」

 実の孫すら滅多にその実力を認めることのなかった祖父が、智明の前であるにもかかわらず初めて筋がいいと認めた人物こそ、何を隠そうこの小心者系美少女のフリしたガチオタである。
 実のところ、智明の祖父・克明からしても当時の珠希の身体能力と、一を聞いて十を知る天性の素質にはこれぞ天賦の才だと太鼓判を密かに押していた。実力的にはすぐに三段、四段と昇格してもいいくらいだったものの、昇段試験には明確な規定があるために仕方なかったが、当の少女の中身が当時から既に古今東西のマンガと深夜アニメとXやZ指定のゲームに毒されていたことなど、それこそ家族親類以外は誰も知らなかった。
 それもこれもとうに10年近く前のことであるが。

「じゃあ話を変えよう。珠希は何か他の部活入る予定でもあんのか?」
「ないです」
「じゃあ――」
「家のことがあるんで。両親共働きだから何かと」
「そんなに忙しいのか?」
「部活で万年腹ペコな弟に目を離すとすぐダラける妹がいるんで」

 理由など微塵も知ったことではないし、知りたくもないが――どうにか珠希を空手部に入れたいらしい智明は直接的な勧誘攻勢を諦めて方向性を変えたようだが、口が達者すぎて毒すら吐き出してしまう珠希には何の意味もなさない。
 生徒はいずれかの部活または委員会に入るようにとの古めかしい空気があった中学時代、その空気から逃げるように美術部に逃げ込んで幽霊になったにもかかわらず、あまたの運動部からの勧誘をすべてシャットアウトした難攻不落の城である。
 同時に、陥落させてくれるようなカレシがほしいと思いつつも美少女すぎて逆に敬遠されてしまう城でもあったが。

「妹っつーと、結月? マジで?」
「あの娘、人前だと猫被りますから智明さんの記憶と実像は違いますよ」

 干物妹(ひもうと)という某マンガの表現が今ほど紹介時に妹もいないと常々呆れるしかない家事万能長女だが、さりげなく実妹の評価を貶めた点に関しては微塵も反省するつもりがない。


「はあ。マジか……」

 智明は頭を抱え、どこか(結月の正体に)呆れたような、(珠希を勧誘することを)諦めたような溜め息を漏らす。
 できれば後者であってほしいし、早く帰りたいなー、と同時に願う珠希だったが、智明がこの場を離れるまで勝手に帰るわけにはいかなかった。

 後輩は先輩よりも早く来て然るべきものである。どこのブラックとは言わないけれど。


「本気で、マジで部活やる気は――」
「ないです。今のあたしには時間的余裕がないんで」

 実際、珠希が最も時間を奪われるのは、下手すれば弟妹よりあの厄介な変態官能小説家(ははおや)である。父や兄よりも料理ができず、洗濯は洗濯機の使い方を覚えられず、掃除をすれば何か三つ四つは家のものを破壊する――まさにどこぞのゲームに登場する「家事能力0」というレアスキルを取得している。
 唯一の救いはお菓子だけは作れるという点だ。父と兄が料理の師だった珠希もお菓子作りだけは母に学んだほどなのだが、それを加味しても家事能力は四捨五入して0である。

「……そっか。時間がないなら仕方ないな」
「わかっていただけたなら十分です」

 お互いにスマホを取り出して連絡先を交換したところで、断固拒否を貫く珠希の今までの態度も踏まえて智明はすんなりと引き下がることを明言した。
 一方――やっとこれで帰れる。その気持ちが表情に出ないよう必死に押し隠し、珠希はディスプレイに表示された智明のアドレスを確認し、登録する。

 そうしてその場を離れようとした智明だが、ふと何か思い出したように立ち止まると、珠希のほうへ振り返って告げた。


「――にしても珠希。お前、体育のバスケで男子ボコったらしいな」
「はぁっ!?」

 智明の発言にさらっと混じってきたとんでもない内容に、珠希は廊下にいた生徒が一斉に振り返るほどの声を上げる。

 その表現をそのまま受け取って噛み砕いてしまえば、まるで珠希が男子相手に暴力をふるったかのように勘違いされてしまうではないか。目立つのが苦手とはいえ、それ以上に他人からあらぬ勘違いをされるほうを避けて通りたい珠希からすれば、何としてでも否定しておかなければいけない事案が発生した瞬間だった。

「違うのか? そういう噂が俺のところにも来て、それで珠希がこの学校にいるって知ったんだけど」
「ち、意味的に何かちが……うけど内容的には違わないっていうか」
「どっちだよ」
「やっぱ違います!」
「本当か?」
「ボコってはいません! ちょっと本気出しただけです!」

 元来、降って湧いたように生まれる自らのあらぬ噂や勘違いの数々に対し、積極的に解決していく性質でなかったのが諸悪の根源――ではなく不幸の始まりか。
 普段はジェット機のタービンより速く回転する咄嗟の機転や、えげつない毒から美辞麗句まで吐き出す饒舌も機能停止に陥った珠希は、ただ今はひたすら否定に転じるしかないと方向性を定め、一気に突っ走っていく。

「そうか。まあ、お前なら大抵の奴は相手にならないだろうけどな」
「そ、そんなことないですって」
「じゃあお前の相手が弱かったってことか」
「そ、そうです! そのとおりですっ。よわっちかったんです!」
「ま、そういうことにしとくか」
「そうしといてください」

 怪訝に思うそぶりもなく、すぐに理解してくれたのはやはり珠希の『本気』を知る数少ない人物だからなのだろう――智明は珠希の発言を素直に受け取ってくれた。



  ☆  ☆  ☆



「……ふぅ」

 これから部活があると智明が去った後、ようやく、といった感じで珠希は大きく息を吐き出した。さすがに10年近く前に見知った仲とはいえ、道場時代にはさほど感じなかった年齢による上下関係が孕んだ空気の中というのは珠希も息がしづらい。

 これが仕事の側面を持っているならまだ珠希はそっちのほうが慣れている。

 自称・他称含めてイラストレーターが氾濫しているこのご時世、依頼主(クライアント)はイラストレーターに対して基本的に優先権を持っている。半年や一年、または作品終了までなど期間を定めた契約でなければ別の依頼受注先を探せばいいだけだ。
 だが現実は新たな契約をまとめたり一から折衝をやり直したりなど、時間的・労力的に厳しいところもあるため、依頼元から召喚されし編集や制作進行、ディレクターといった肩書きの人物が飴と鞭を使い分けて制作側(クリエイター)をイジメ抜くわけだが。


 そして、そんな依頼主の脳内で構築される方向性やら意向というのを敏感に察知し、スイッチが入ればすぐに目に見える形にしてしまうスキルを備え持っているグラフィッカー畑育ちのイラストレーターが教室内に戻ろうとしたところ――。

「ずいぶんと仲が良さそうだね」
「ぅひぃっ!?」
「なにをそんな驚いてるのさ」
「いや驚くよ! いきなり背後から声かけられると!」

 珠希が振り向いた先にいたのは自称舞台役者こと、珠希のクラスのクラス委員。

「油断してると危ない目に遭うよ? 甘言と夜道と見知らぬ隣人だけが危険な世の中じゃないし、竜門さん、基本的に人良さそうだし」
「それはどうもご心配ありがとうございますー」

 チョロインならきっと一目惚れ(チョロローン)するくらいの甘言を吐きながら、人当たりのいいふいんき(変換できnry)の――とはいえ雰囲気イケメンと呼ぶにしてはハイレベルな容貌の匂坂雅紀に対し、珠希は先の恨みもあってそっけなく返す。
 人の噂が75日どころか半永久的に過去ログに残される時代、他人への恨みも逆恨みも千年どころか半永久的だ。

「で、竜門さん。俺からひとつ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「なに?」
「体育のバスケでボコられた男子としては、誰が竜門さんから見て弱かったのか知りたいんだけど」
「………………えっ?」
「いやいや、さっき言ってたじゃない。ちょっと本気出したらよわっちぃ男子をボコった、って」

 ……このヤロウ。一部始終通して聞いてやがったな。

 不意討ちを受けて呆然とする珠希の眼前、ここぞとばかりに黒いオーラを孕んだ満面の笑みを浮かべる雅紀は、言葉の裏にある棘を隠そうともせず質問を投げかけてきた。

「えっ? あ、いや、あれは――」
「柔軟体操、次の体育の授業でも一緒に組めるといいね」

 舞台役者を自称する詐欺師の本性を垣間見た気になった珠希だったが、雅紀の黒い面を証明する手立てを持っていない今、何とか現状離脱を試みる。しかし現役詐欺師テニス部員は珠希の離脱を見抜いたか、先んじてその足を今日の体育の授業での出来事を掘り返して釘づけにしてきた。

「い、いや、それだけは勘弁を……」
「遠慮することないよ、竜門さんには見どころあるから、次はもっとキツくいくね」
「い、嫌……。やだ。やめて……。もう無理……」
「あ、それじゃ俺はテニス部の練習あるから」
「え? あ、ちょっと待っ……」
「じゃあね竜門さん。また次の体育で」

 他称の語弊があるが、無駄に記憶容量のある珠希からすれば、あの柔軟体操のキツさは『シンクロ』制作時に味わった苦痛と同等かそれに近いレベルだった。国内最大手ゲーム企業(マジモン)からの追い込みという精神的苦痛に対し、今日のそれは肉体的苦痛以外の何物でもなかったが。
 そしてこの詐欺師、珠希がトラウマを自覚し始めたのを見るや否や、自らの部活を理由にして逆にその場から離脱を成功させてしまった。


「おい竜門」
「っひ……ぃっ!?」
「何だよ、そんな驚きやがって」
「お、驚くよそりゃあ! いきなり人の横に立ってるんだもん!」

 詐欺師から見事なヒットアンドアウェイを食らって呆然とする珠希は、さらなる追い討ちをかけるような背後からの声に過剰なまでに驚いて返す。

「そいつは悪かった」
「わかればいいんだよ、わかれば。まったく」
「ああ。すまん」

 小心者としては珍しくもないものの、珠希の驚きっぷりはまったくの意表外だったか、声をかけてきた張本人はすぐさま謝辞を口にし、その後珠希が取り繕ってみせた尊大すぎる態度にも口を尖らせなかった。

「もう、昴ったら。珠希さん驚かしちゃダメだよ」

 そして、小心者を驚かせるという業の深い行為を犯した幼なじみをたしなめながら、星河が姿を見せる。
 トラウマ付与の特性がついた詐欺師の一撃離脱攻勢に晒され、油断しきっていたところをさらに驚かされるという散々な目に遭った珠希の視界に飛び込んできた、さしずめ栗色のサラサラ髪の天使(ショタ)である。
 なおルビに関しては指摘してくれるな。

 渡りに船、地獄で仏という表現が実在する以上、どこか病みかけた珠希の精神にホ○ミがかけられていく感覚になるのは別におかしいことではない。傍目から見て24時間メダ○ニ発動している腐った性根もそのまま浄化されてしまえと思うのはやぶさかではないが。

「星河くん。そっちもホームルーム終わったの?」
「うん。ていうか珠希さんの会話終わるの待ってたんだけどね」
「えっ? あー、それはごめんっ」

 これは一大事だとばかりに珠希は急いで帰り支度を済ませ、廊下で待つ星河と昴の元へと戻る。

 天使(とその鞄持ち)をお待たせしては問題だ。罰が当たってしまうもの。


 珠希と星河が揃って前を歩き、その後ろに昴がつくという並びで昇降口まで来たところで、昴は外靴を取り出しながら珠希に尋ねる。

「で、匂坂はともかく、さっきの先輩誰だよ」
「んーと、昔の知り合い」
「ふーん。お前にも――」
「知り合いくらいいるからね! むしろ友達よりも多いですよーだ」
「そうか。それはよかったな」

 実際、珠希には友人よりも知人と呼べる人が遥かに多い。
 もちろん、知人カテゴリに含まれる人たちの7割近くが出版・ゲーム業界の人間であることは現時点において星河も昴も知る由はないのだが、あのダメ母の担当編集をしてくれている汐里さんをはじめ、通い慣れた商店街の店主たちや買い物時間が何かと重なって知り合った主婦の方々も珠希からすれば知人である。
 ほのかな初恋相手だった暁斗(あに)の友人や、聖斗の野球仲間や結月の親しいショップ店員とも珠希は交流がある。それは友人ではないにしても他人よりは近い、それこそ知人というカテゴリに含めても問題ないだろう。

 しかし――。

「ねえ珠希さん。そういうの、自分で言っててつらくない?」

 星河の、この何気ない質問は問題がありすぎた。色々と。

「……ごめん星河くん。あたし、もう今日は帰れないかも」
「ええぇぇぇっ!?」

 やはり回復呪文がホイ○では足りなかったか。昇降口に来たまではいいものの、ついに精神力が尽きてしまった珠希は力なく金属製の下駄箱に寄りかかるしかなくなった。しかも冷たい鉄の感触が余計に気持ちをわびしくさせてくれる。

「お? これが帰りたくないサインってやつか? このまま男の家にシケこむパターンか?」
「ちょ、ちょっと昴っ!? 何言ってるのっ?」
「いやな、つい先日友達(ダチ)から聞いた話なんだけどよ――」
「あ、勘違いのないよう言っとくけどそういう意味じゃない。てか帰りたくないとは言ってない」

 どんなときでもツッコミだけは忘れたらアカン。雛壇(程度の)芸人ではなかなか貫けないそのスタイルを維持して、精神力0の小心者ガチオタは何やら女の持ち帰り方を星河に教えようとする昴に制止をかける。
 そもそも相手の家に上がり込んでいって一緒に××するような(あいて)が今まで一人もできたことがないというのに。

 同時に、持ち帰ろうにもあまりに高嶺のフラワー(猛毒の棘つき)であることすら本人が自覚していないのもあるが。

 ……あ、ここの「××」に入る2文字は「勉強」だからね?
 それが学生の本分だからね、しょうがないね。
 何のお勉強かまでは明記しないけれど。


「じゃあ這いずってでも帰れや竜門」
「言われなくてもこっちには文明の利器(タクシー)ってのがあるんだよねっ」
「は? てめえ、タクシーってどういうことだよ?」
「電話一本で現在地から目的地まで運んでくれる屋根つきの魔法の絨毯」
「重役通学たぁいいご身分だな」

 精神力は0のくせに昴と口論する気力だけは残っている武闘派の側面を覗かせた小心者少女は、昴の安い挑発に乗り、スマホのディスプレイにタクシー会社の電話番号を表示してみせる。
 なおそのタクシー会社、珠希のほうがわざわざ東京の中心地まで出向かなければならないような有名どころの企業との打ち合わせの帰りに使用している、ご懇意の会社であることを付記しておく。しかも依頼の際に一言付け加えれば顔なじみの運転手さんも揃えてご用意できてしまうという気の利く会社であったりもする。


「あ、帰りたくないって意味じゃないんだ……。そういう意味じゃない、のかぁ……」


 その一方で、ショタ天使が物凄く残念そうに何か呟いていたような気がしたが、この鈍感難聴ヒロインの耳に届くことなど当然ありえなかった。



  
 

 
後書き


 景気が低迷期に入るとアダルト市場には寛容で母性の強い「甘えさせてくれる女性」像が増加するという傾向があるとのこと。

 過去、その情報を兄からURLつきのメールで知った瞬間、珠希は思わず家にある預金通帳を手に取り、描いていた仕事と薄い本の進捗が数日ほど止まったとかなんとか……。

 
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