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草原の狼

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1部分:第一章


第一章

                    草原の狼
「狼はな」
「ああ」
 よく父から聞かされた言葉だった。夜ゲオの中で父が言うことはいつも自分達がいる草原のことだったが父はとりわけ狼について語るのだった。
「いい生き物だ」
「狼がかい」
「わし等モンゴル人の父だ」
 そしていつもこうも言った。
「モンゴル人のな。父なのだ」
「青い狼だったよね」
 ジャムカは父から聞いた言葉を聞いてまた述べた。
「それで母親は白い牝鹿だったよな」
「そうだ。わし等は青き狼と白き牝鹿の子孫だ」
 元朝秘史の冒頭にある言葉だ。モンゴル民族は彼等の子孫であるというのだ。この言葉は今も彼等の中に生き続けているのである。
「だからな。狼はな」
「けれど父ちゃん」
 ジャムカはその父に対して顔を顰めさせていつも言うのだった。
「狼はいつも羊を襲うじゃないか」
 モンゴル人は羊を育ててその肉を食べている。それと馬の乳を飲んでだ。モンゴル人にとって羊は命そのものなのである。その羊を襲うのが狼だ。
「そんなのが俺達の先祖なのかい?」
「ただの先祖じゃない」
 父はいつもこう彼に反論した。
「ただのな。狼は神だ」
「神だというのか」
「そうだ。神だ」
 彼はまた言った。
「神の使いだ。立派な獣なのだ」
「立派なねえ」
「それに人は襲わない」
 狼は人は襲わない。決してだ。モンゴル人達はそのこともよく知っていた。
「そうした獣なのだぞ」
「確かに人は襲わないさ」
 ジャムカもそれはよく知っていた。
「けれどそれでもだよ。羊は襲うし」
「狼に喰われたものは天への捧げものだ」
 これまたモンゴルではよく言われる言葉だった。古来から。
「それだけだ。気にするな」
「気にするなっていうけれど」
「御前もそのうちわかる」
「狼のことがかい?」
「そうだ。やがてわかる」
 最後はいつもこう言うのだった。
「狼が何なのかな。そのうちな」
「やれやれ。狼の何処が神様なんだよ」
 彼にはわからなかった。彼にとっては狼はあくまで羊、そして馬まで襲う悪い獣だった。そんな狼をどうして大切に思えるのかわからなかった。しかし父の言葉もあり狼を見ても別に殺そうともしなかった。ただ憎々しげに見ながら自分の家の羊達の周りをうろうろしている狼を監視するだけだった。そうして少年時代はずっと狼を嫌っていた。やがて彼は成長し少年から青年になった。その青年になった彼はまだ狼を忌々しげに見ていた。
「ふん、またか」
 ジャムカは今日も羊の群れの周りをうろうろしている狼を見て忌々しげに呟いた。馬に乗っており何時でも追い払えるように身構えている。
「またうちの羊を狙って。意地汚い奴だ」
「狼は意地汚い生き物ではない」
 しかし父が彼の側に来て言うのだった。
「誇り高い生き物だ」
「何処がだよ」
 彼は父の言葉の意味がわからなかった。理解できなかった。
「いつも群れを見回しているというのに」
「何かを食べるのは生きていて当然のことだ」
 しかし父はまた言うのだった。
「羊を狙うのもな」
「それで羊を喰われても天への捧げものっていうんだよな」
「そうだ。一匹や二匹気にするな」
 また我が子に告げた。
「そんなことはな。全くな」
「狼の何処がいいんだ」
 やはり今も父の言葉がわからなかった。
「一体何処が。あんな生き物の」
 青年になっても忌々しい顔で狼を見るだけだった。そうしたある日のこと。彼は父から用事を言われたのだった。それは。
「そこに行けばいいんだな」
「そうだ」
 使いに行けということだった。
「そこの家にな。これを届けてくれ」
「クロテンの毛皮じゃないか」
 ジャムカは父が出してきたそれを見て思わず声をあげた。それは確かにクロテンの毛皮であった。モンゴルにおいて最も高価とされるものの一つだ。
 
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