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アニー

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5部分:第五話


第五話

 あれこれ考えているうちに球場に着いた。第二次世界大戦前からあるかなり古い球場だ。レッドソックスの歴史もこの球場と同じでかなり長いのである。
「今日はどっちが勝つかな」
 駐車場に車を停めると球場に入ろうとしている観客達の声が聞こえてきた。
「レッドソックスが勝つに決まってるだろ」
「何でそう言えるんだよ」
「レッドソックスの方が強いからだ」
「おいおい」
「その通りじゃないか」
 ヘンリーはそれを聞きながら心の中でそれに同意した。
「レッドソックスがあんな連中に負けるか」
 そう言いながらふとそこである選手について思い出した。一年だけレッドソックスにいた黒人の選手だ。
「ローズ・・・・・・だったかな」
 背が高く、引き締まった身体をしていた。脚と肩がやけによかったのを覚えている。
「日本にいったのだったかな。確かキンテツとかいう球団に」
 日本のことはよく知らない。どんな球団があるのかもよくは知らなかった。ただ、日本に行ったと聞いて少し寂しい思いをしたことがある。
「うちにもうちょっといたらもっと打っていたかもな」
 不意にそう考えた。肩と脚以外はそれ程高い評価を受けてはいなかった。だが彼はそんなごく普通のプレーヤーに何故か非凡なものを見ていた。彼はきっと凄い選手になるとさえ思った。思っただけで当の本人が日本に行ってしまったのでそれはなくなってしまったが。
「日本で寿司や焼肉でも食べているのかな。元気だったらいいが」
 そうは思ってももういない選手のことを言ってもはじまらない。待ち合わせ場所に向かった。彼女はまだいない。時計を見ればまだ早かった。十分程早く来過ぎてしまったようだ。
「まあこれ位ならいいか」
 彼は時計を見ながらそう呟いた。
「待つのも男の仕事らしいからな。誰が決めたのか知らないが」
「あら、そうとばかりは限らないわよ」
「キャシー・・・・・・だったっけ」
「ええ」
 見ればそこにそのキャシーがいた。先程のスーツとはうって変わってティーシャツにジーンズといったラフな格好である。それに対してヘンリーはスーツであった。
「随分身軽だね」
「野球を応援する時はそうじゃないの?」
「ニューヨークではどうか知らないけれどね。僕は球場ではいつもスーツさ」
「そうなの」
「レッドソックスのファンはね、上品なんだ」
「初耳ね」
 熱狂的なファンが多い。そしてその中には当然の様にとんでもない者も多い。彼の今の言葉は率直に言うならば単なる欺瞞であった。レッドソックスのファンが大人しいとはアメリカの多くの者が一言で嘘だと言い切る類のものであった。
「まあヤンキースも人のことは言えないけれどね」
「で、何処で見るつもりなんだい?」
 ヘンリーは少し不機嫌そうな声を出して彼女に尋ねた。
「まさか三塁側で見るつもりじゃないだろう」
「そんなことしたら命が幾つあっても足りないわ」
 キャシーは笑いながらそう答えた。
「それは貴方もそうじゃないかしら」
「確かにね」
 ヘンリーはそれに頷いた。
「一塁側で見る気はないよ、言っておくけれど」
「わかったわ。じゃあバックネットの方で観る?」
「?チケットでもあるのかい?あそこはそうそう」
「あるわよ、チケットなら」
 彼女はそう言ってジーンズのポケットから二枚のチケットを取り出した。見れば確かにバックネットの席のものであった。しかも二つもある。
「それも二枚ね」
「運がいいね」
「運がいいんじゃないわ、さっき買ったのよ」
「よく手に入ったね」
「貴方と裁判所でお話した後ですぐにここに来て買ったのよ。必要になるからと思ってね」
「バックネット側を?」
「そうよ。あそこなら問題ないでしょ、レッドソックスの信者さん」
「参ったよ、ヤンキース信者さん」
 そう皮肉を言いながら球場に入った。そしてバックネットの席に二人並んで座った。丁度そこがチケットの席であったのだ。
 肝心のゲームであるがヘンリーにとって残念なことにヤンキース優勢のまま進んでいた。レッドソックスは何度もチャンスを作るがそれでも中々決め手を打つことができないでいた。それに対してヤンキースは要所要所をしめ、ゲームを有利に進めていた。キャシーはそれを見てにこやかに笑っていた。
「うちの勝ちみたいね」
「それはどうかな」
 だがそれでもヘンリーは諦めていなかった。
「野球は九回まである。まだ六回だ」
「あと三回しかないわよ」
「言い方を変えるべきだな。まだ三回もある」
「逆転できると思っているの?うち相手に」
「当然」
 彼は毅然としてそう言い返した。
「ヤンキースが相手だったら楽勝だね」
「言ってくれるわね」
 今度はキャシーが憮然となった。
「ゲームが終わってそう言っていられるかしら」
「まあそれは最後のお楽しみってところだね」
「そうね。じゃあヤンキースが勝つと予言しておくわ」
「それなら僕はレッドソックスを」
「勝った方がディナーを奢るってことでいいわね」
「いい条件だね」
 ヘンリーの方もそれを了承した。こうして二人はゲームの結果を賭けることになった。ゲームはそのまま九回に入った。ヤンキース一点リードのまま九回裏となった。
 ここでレッドソックスは攻勢に出た。ヤンキースのストッパーを攻めてワンアウトニ、三塁となった。一打サヨナラの絶好のチャンスであった。
「さて、と」
 ヘンリーはそれを見てにんまりと笑った。ここまできたら絶対に勝てると確信していた。
「次からクリーンナップだ。勝負は決まったね」
「さあ、それはどうかしら」
 だがそれでもキャシーは強気だった。
「ヤンキースが強いのはこれからなのよ」
「生憎レッドソックスは土壇場に強くてね」
 ヘンリーの方が余裕があった。
「こういう状況になったらそうそう負けたことはないんだよ」
「けれど今日は違うわ」
 キャシーはまだ諦めない。
「このシーズンがかかっているからね、今日は」
「それはうちもだよ」
 それを聞いたヘンリーの顔も変わった。
「まあ見てていたらわかるよ。うちの正念場での強さがね」
「期待しているわ」
 キャシーは憮然としながらそう答えた。
「ヤンキースのそれをね」
「ふん」
 そうこう話している間にもゲームは進んでいた。レッドソックスのバッターのバットが一閃した。
「やったか!?」
 白いボールが一直線に進む。そしてそのままスタンドに入った。バックネットの席から打った瞬間からボールがスタンドに入るその時まではっきりと見えていた。勝利の流れをそのまま目に焼きつかせることができた。
「よし!」
 ヘンリーはそれを見て会心の笑みを浮かべた。それに対してキャシーはその顔を不機嫌なものにさせた。
「やられたわね」
「今シーズンはこれでうちの優勝だな」
 ヘンリーの目の前ではサヨナラホームランを放ったそのバッターが今ホームベースを踏んだ。歓喜の声でナインに囲まれていた。それが何よりの証拠であった。
 試合は言うまでもなくレッドソックスの勝利であった。まるで優勝したような騒ぎであった。ヘンリーは勝利の余韻を味わいながらゆっくりと席を立ってキャシーに対して言った。
「じゃあ行こうか」
「ええ、わかってるわ」
 キャシーは憮然としてそれに頷いた。
「何がいいの?食べるのは」
「シーフードがいいな」
 彼はそう答えた。
「行こう。新鮮なロブスターを出してくれる店を知ってるんだ」
「ロブスターね。わかったわ、それで行きましょう」
「うん、頼むよ」
「全く。ヤンキースもだらしないわね。もうちょっと頑張りを見せなさいよ」
 悪態をつくキャシーを伴って球場を後にした。そして彼等は駐車場に向かった。夕方にはじまったゲームであるが終わる頃にはもう真っ暗になっていた。彼等は照明に照らされた駐車場の中を進む。
「ニューヨークじゃ夜こんなふうには歩けないらしいね」
 ニューヨークの治安の悪さは有名である。彼はそれについて言及してきたのだ。
「最近はそうでもないわよ」
 だが彼女はそれを否定した。負けたというのに軽やかな足取りであった。
「市長が変わってからね。治安がよくなったわよ」
「そうだったんだ」
「まず地下鉄が綺麗になったわね。あのサウス=ブロンクスも変わったし」
「サウス=ブロンクスのことは聞いたことがあるな」
 ヘンリーは顎に手をあててそう述べた。
「ビル=クリントンも事務所を構えたしね。けれどそんなに変わったのかい?」
「少なくとも今までみたいなことはないわよ」
「そうなんだ」
「まあ今でも用心は必要だけれどね。それでも大分変わったわ」
「それは何より」
「けれどボストンみたいに落ち着いてはいないわね」
「ここはまた特別だからね」
 彼はそれに応えた。
「何となく静かなのさ。人はそれなりに多いけれど」
「そうね」
「ゆっくりしてるだろ?僕が生まれた時からそうなんだ」
「あら、ボストン出身なの」
「そうさ。さっき言わなかったっけ」
「初耳よ、それ」
「そうか。じゃあ後はレストランでゆっくり話をしよう。君車は?」
「ないわよ」
 キャシーはあっさりとそう答えた。
「おや、そうだったのかい」
「ヘリで来たのよ」
「ニューヨーカーらしいね。じゃあ僕の車に乗るといい」
 そう言って自身のシルバーの車を紹介した。
「アニーっていうんだ。どうぞ」
「女の子なのね」
「車はね、そうだったんじゃないかな」
「そうだったかしら。けれど何か嫉妬されそう。御主人様の隣に座るんだから」
「それはないさ。彼女は車だよ」
 ヘンリーは笑ってそれを否定した。
「人を乗せるのが仕事さ。じゃあ行こう」
「ええ」
 ヘンリーはキャシーを車に乗せて自分も乗った。キャシーは助手席にいる。そしてシートベルトを締めてから車を出した。派手なエンジンの音を立ててアニーと二人は球場を後にした。

「あれ」
 車を運転しながらヘンリーはあることに気付いた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
 とりあえずは誤魔化した。とてもアニーには言えないことであった。
(まただ。一体どうしたんだろうか)
 またハンドルやブレーキの調子がおかしいのである。乗り心地も急に悪くなった。どういうことか彼の言う事を急に聞かなくなった駄々っ子のようであった。
(どういうことなんだろう)
 いい加減不思議に思いはじめた。こうしたことが度々重なるとそう思わざるを得ない。彼はアニーのハンドルを握りながら彼女の異変について考えを巡らせていた。
 だがその時間は長くはなかった。レストランに到着した。見ればあまり格式ばった場所ではなかった。
「ここならその格好でも大丈夫だからね」
「あ、そうだったわね」
 キャシーは自分の格好に気付いた。ジーンズでは流石に格式のあるレストランに入ることはできない。これはアメリカでも同じであった。
「ボストンは格式に五月蝿い店が多くてね。けれどここはそうじゃないから」
「何か結構アットホームな雰囲気ね」
 店の外見も出入りする客もそうであった。身なりもラフで家族連れが多い。そうした店なのであろう。
「そうだね。ここはそういう店なんだ」
 彼は笑いながら言った。
「一人身にはいささか厳しい店だよ、実は」
「そうみたいね。けれど今は一人じゃないじゃない」
「というと?」
「私がいるからよ」
 キャシーはそう言って笑った。
「二人だとおかしくはないでしょ、別に」
「まあね」
 ヘンリーはそれに笑いながら頷いた。ここで一瞬後ろにあアニーを見た。
「!?」
 どういうわけか様子がいつもと違うように思えた。何処か違和感があった。いつもは落ち着いた感じであるのにどういうわけか今は陰気に見えた。銀色のボディの光が鈍く感じられたのだ。
「おかしいな」
「!?何が」
 キャシーがそれに気付いて声をかけてきた。
「あ、何でもないよ」
 ヘンリーはそれを誤魔化した。そしてキャシーに対して店に入るように促した。こうして彼等は店に入った。陰気な感じのアニーにその背を見せながら。ライトが一瞬光ったように感じられた。
 食事を終え店を出る。そしてまたアニーに乗った。
「これからどうするの?」
「そうね」
 ヘンリーは車を走らせながらキャシーに尋ねてきた。
「ホテルはとってあるしね。もう帰ろうかしら」
「早いんだね」
「あまり夜に何処かで遊ぶ趣味はないのよ」
 彼女はそう答えた。
「ホテルでお酒でも飲もうかしら」
「いいバーを知ってるけど」
「バーはね。遠慮しとくわ」
「そう」
「ホテルでね、飲みたい気分なの」
「じゃあいいよ」
「貴方も一緒にどう?」
 キャシーはここでヘンリーを誘いだしてきた。
「一人で飲むより二人で飲む方が楽しいし」
「そうだね」
 ここでまた異変が起こった。ハンドル、そしてブレーキの効きが今までよりさらに悪化したのだ。
「!?」
「?また何かあったの?」
「あ、何でもないよ」
 彼は咄嗟に誤魔化した。誤魔化すのはこれで何度目だろうと思った。少なくとも今日はじめてあった女性に対して何度も誤魔化すのははじめてであった。
「今車を運転しているしね。止めておくよ」
「そうなの」
「明日も仕事だし。残念だけれどね」
「わかったわ。それじゃ」
「うん」
 丁度ホテルに着いた。彼女はヘンリーに別れを告げるとホテルに入って行った。そして彼はそれを見届けると自宅へ帰った。アニーのハンドルやブレーキは先程よりは幾分ましになったとはいえまだ重かった。それが彼にとっては首を傾げざるを得ないことであった。
 これが縁となった。ヘンリーとキャシーは離れてはいるが度々会うようになった。傍目から見れば付き合っていると言われる関係になるまでそう長い時間はかからなかった。キャシーは何時しかヘンリーの家にも出入りするようになっていた。
 その間アニーの調子はずっと悪いままであった。それどころか今まで以上に酷い状況となっていた。たまりかねたヘンリーは一度彼女を修理業者に見せてみた。だがその返事は彼が予想していたものではなかった。
「何処も悪くはないですね」
「そうですか」
 それを聞いて意外に思わざるを得なかった。
「何処か悪いんですか?試しに運転してみましたけれど凄くいい車じゃないですか」
「普段はそうなんですけれどね」
 彼は言った。
「けれど何か急に調子が悪くなったりするんです」
「女の子がむくれるみたいにですか?」
「面白い例えですね」
 それを聞いて笑わずにはいられなかった。
「まあ大体そんなところですね」
「そうですか。見たところ美人ですしね」
「ええ」
 愛車が褒められて悪い気はしなかった。
「おかしなところは本当に何もないですよ。それは保証します」
「そうですか」
「ええ。もし何かあったらお知らせ下さい。まああと何年ももつでしょうね」
 逆に太鼓判を押されてしまった。それを聞く限り本当に悪い部分はないようだ。だが実際に運転してみるとやはり動きが悪い。ヘンリーにはもう訳がわからなくなっていた。


 
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