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その魂に祝福を

作者:玄月
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無垢の時代
  山郷で迷う吸血姫

 
前書き
逢引編。あるいは季節外れ編。 

 


「あ、光君。今時間は良いかしら?」
 いくつかの世界を滅ぼしかねない壮大な親子喧嘩が終わってから数日後。右目を『取り戻す』目処が立った頃の事だ。その頃になれば、艦内も大分静かになっていた。おそらく事後処理にも一区切りついてきたのだろう。となれば、
「今度は何だ?」
 そろそろ来るだろうとは思っていたが――ため息を隠すこともなく振り返る。そこにはいい加減見慣れてきた女の姿があった。
「そんな嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない?」
「根が素直なんだ。それで、用件は?」
 決着をつけた翌日、大体の事は説明したはずだ。というより、あれ以上の説明は色々と不都合がある。それに、時間があるならさっさと雫の精製――追体験をして、右目を『取り戻したい』ところだった。
「ここじゃ何だから、食堂に行きましょうか」
「人目があると訊き辛い事は訊いて欲しくないな」
「ゆっくりお茶でもしながらお話ししましょうって事よ」
 それはそれで懸念がある。腕組みをし、半眼になってから告げる。
「言っておくが、お前の入れた茶は飲まないからな」
 それに対しての返事はなかった。
「あ、そうそう。そう言えば――」
 茶の選択から始まった不毛な駆け引きが一区切りついた頃、角砂糖入りの抹茶を啜っていたリンディが、ふと思い出した様子で言った。
「なのはさんを追いかけている時、誰かがサーチャーにハッキングしてきたんだけれど、心当たりはないかしら?」
「……なのはを追いかけている時となれば、俺が禁術を使った後の事だろう? なら分かる訳ないだろうが。その頃俺は死にかけていたか衝動に呑まれていたかのどちらかだ」
 心当たりがあるかだと?――あるに決まっている。未知の機械に対してそういう真似が出来るとすれば、それはまず間違いなく義姉――月村忍の仕業に違いない。
(ほら見ろ。目をつけられたじゃないか)
 まったく、つくづく危険な真似をしてくれる。まぁ、彼女は時々妙なところで軽率な真似をする事がある訳だが。そう、例えば――
(あの日の夜だって、もう少し大人しくしていてくれれば、ああまで面倒な事にはならなかっただろうに……)
 雪の降る夜の記憶を思い出し、ため息をつきそうになった。だが、そんな暇も惜しい。義姉のため。そして義妹のため、何とかしてリンディの関心を他所に移さなければならない。おのれ恭也め。俺の世話を焼く暇があったなら、まず自分の連れ合いの世話でも焼いていろ。
(だが、助かったのは事実か……)
 何であれ恩は返さなければならなかった。それなら仕方がない。それに、
(事はすずかにも影響するからな)
 妹の世話を焼くのは俺の役目なのだ。それはいつだって変わらない。
 ……――
「なのはちゃんと光君、大丈夫かな?」
 数日前からニュースを騒がせている、震源地の分からない『地震』。テレビでは色々な――それこそ宇宙人の仕業なんてものまで含めて――説が飛び交っている。大切な親友達が関わっている以上、面白おかしく騒ぎ立てられるのはいい気分ではない。でも、そういうトンデモ説こそがある意味真実に近いのかもしれない。何せ本物の魔法使いが関わっているのだから。
「大丈夫でしょ。光君がついてるんだから」
「そうだな。アイツがついていれば、まぁ大丈夫だろうさ」
 姉も恭也も何てことないように言った。けれど、それは私を安心させるためのものだという事は分かっていた。
「でも、それなら何でまだ帰ってこないの?」
 二人に訊いても仕方がないのは分かっていた。それでも訊かずにはいられなかった。文字通り世界を揺るがすような出来事に巻き込まれて――きっとその中心にいるのだ。どれだけ心配してもし足りない。でも、それは二人だって同じはずだった。
「大丈夫だ」
 ポンと、恭也が優しい笑みとともに頭に手を載せてきた。彼こそがこの場所にいる誰よりも二人を心配しているはずなのに。
「そりゃ、アイツだって全能じゃないが……それでも、アイツは強い。そんじょそこらの怪物なんか相手にならない程にな。それはすずかだって知っているだろう?」
「そうよ。今までだって――それこそ、あの日の夜だってそうだったでしょ?」
 あの日の夜。私たち夜の一族とは違う――そう。本物の怪物と出くわしたあの夜。その夜の事を、私は今も鮮明に覚えていた。




「もうお前達のデートにはつきあわないからな」
「そんなこと言いながらついてきてくれるあなたが私は大好きよ」
 義姉の白々しい言葉に思わずため息をついていた。ロクでもない事態には慣れている。慣れているが、だからと言って別に好き好んで巻き込まれたい訳ではない。
 さて。ロクでもない事態は数多あるが、雪の降る夜に人里離れた山道で移動手段が壊れ、人里と連絡を取れなくなるというのはその中に数えられてしかるべきだろう。
「おっかしいな~。新車なのに壊れるなんて」
 ボンネットを開けて中をあれこれ点検しながら、義姉が唸る。彼女が直せないなら、この場にいる誰も直せないだろう。残念ながら機械関係は俺も管轄外だ。
「携帯が圏外だなんて……」
 義妹――すずかが泣きそうな声で呟く。特別できる事もないが――それでも、気休めになればいいと頭を撫でてやる。
「というか忍。さっきから妙に手慣れているようだが、改造したんじゃないだろうな?」
 確かまだ免許を取ってから――車を購入してから数週間程度のはずだ。今夜も慣らし運転につき合っているというのが本当のところだった。
「やっぱり部品がないとね~」
 恭也の問いかけを真正面から聞き流し、忍が大きな独り言を口にした。義姉は機械関係に滅法強い。だが、さすがに部品がなければ直せるものも直せないらしい。
 いや、この際それはいい。まずその改造癖をどうにかしろ。自作の防犯装置の誤作動に巻き込まれ、恭也と二人で死ぬ思いをしたのはまだ記憶に新しいというのに。
「でも、こんなところじゃ部品なんて手に入らないんじゃ……」
 心細そうにすずかが言った。人里離れたというのは伊達ではなく、部品屋はおろか民家すら――いや、街頭すらない。分厚い雪雲に覆われて月明かりすら望めやしない。今辺りを照らしているのは、俺が魔法で生み出した鬼火だった。人目がないからこそできる芸当だが、感謝する気にはなれないのは全員に共通する思いだろう。
「どんな部品があればいい?」
 もう一度――いや、何度目かのため息をついてから、忍に問いかける。先ほどからほかの車が通りかかる気配は全くない。おかげで魔法を使える訳だが……だからと言って、このままここで一夜を明かすのは避けたいところだった。俺以外は凍死の危険性がある。それに、不死の怪物といえど寒いものは寒いのだ。
「ひとっ飛び街まで行って買ってくるから一覧にしてくれ」
 本当に移動手段が断たれた訳ではない。魔法さえ使えれば、方法はいくらでもある。もっとも、今の自分の力量ではあまり大それたこともできないが。それに――言い訳じみて聞こえるが、どこに人目があるか分からないのだ。あまり派手なことはできない。
「助かるわ~! ちょっと待ってね。すぐにメモするから」
「あまり専門的な用語で書かれても困るんだが……」
 正直、あまり機械に関しては詳しくない。まぁ、本当の意味で『知らない』事はないのだろうが、その叡智を汲み出すための『器』がなかった。この世界で生きていくなら、そのうち追々補っていかなければならないのだろうが。だが、少なくとも今の時点では俺は全くの門外漢だった。
「大丈夫! 任せて!」
 甚だ心配だった。だが――まぁ、街に出たら士郎あたりに電話でもすればいいだろう。彼も俺と違って機械に精通している。というより、乗り物と名のつくものは大抵運転できると豪語しているくらいだ。それこそ、最悪は士郎を連れてくればいい。
「さて。それじゃあ、俺も準備するか」
 義姉が必要な物品を書き出している間に、恭也を連れ近くの茂みに踏み入る。枯れ葉も小枝も雪に濡れているが、乾かせば燃料として使えるだろう。
「ホント手慣れてるわよね」
 比較的乾いている物を選んで鬼火を引火させ、残りを周りに並べて多少なりと乾燥させるようにしてから、メモを受け取る。
「隼の翼よ」
 練り上げた魔力が翼となって背中に顕在する。軽い浮遊感の後、一気に加速する。冬の風は身を切る程だったが――それでも、雪の降る夜は嫌いではない。暖を取れるように手配してきたから、別に特別急ぐ必要もないだろう。仄かな薄紫に光る夜の中を、気持ちだけはのんびりと街へと向かった。――が、この時もう少し真剣に急いでいれば余計な面倒ごとに巻き込まれずに済んだのかもしれない。まぁ、後悔というのは先に立たないからこそ後悔と言う訳だが。




「ねぇ、お姉ちゃん。あそこに明かりが見えるよ?」
 思えば、私のこの一言からあの出来事は始まったのかもしれない。
「あら、本当ね。助かったわ~。あそこに行けば部品が手に入るかも」
 姉はそう言って笑ったが、恭也は少し渋い顔をした。
「……いや、今まであんなところに明かりがあったか?」
 だとすれば、俺や光が見落としていた事になる――納得いかない様子で、彼は呟いた。
「でも、実際あるわよ?」
「それはそうだが……」
 いつも冷静な二人が見落としていたのはおかしな話だし――それに私が気付いたというのも、後になって思えばおかしな話だった。
「光君には悪いけど、ささっと行って部品を買って帰ってきましょう。焚き火もいいけれど、車のエアコンが動けばもっと暖かいわよ」
 そこで一際強い風が吹いて、私は思わずくしゃみをしてしまった。多分、それが最後のひと押しになったのだと思う。
「……仕方ない。光には書置きをしていこう」
 ため息をついてから、恭也はそう言うと、積もった雪を集め、手早く焚き火の消火を始める。その辺りは本当に手慣れたものだった。焚き火が消えた後、光への書置きを残して私達はその明かり――その村へと向かって歩き始めた。
「二人とも、足もとに気をつけろ」
「ええ。ありがとう」
 ガードレールを乗り越えて踏み込んだ以上、元々道なんてない。先頭を歩く恭也が踏み固めてくれた即席の道だけが唯一の頼りだった。それでも、雪の積もった斜面は滑るし、藪が服に引っ掛かった。滑り落ちてしまわないように、服を破かないように慎重に歩く。
「案外近いな……」
「そうね。まぁ、良かったじゃない」
「それは、そうだが……」
 茂みをかき分けながら坂を下ると、思ったより早く建物の影が見えてきた。ずっと暗い夜道を歩いていたから、家の明かりにホッとする。
「あら。ちょっと田舎ね」
「そうだな。部品が手に入ればいいが……」
 辿りついたところは、街というよりは村といった感じの場所だった。見える建物は全体的に古く、映画のセットと言われれば信じてしまうような、そんな場所だった。
「何か気味が悪いよ……」
「そうね。何か出てきそう」
 姉の服の裾を掴むと、意地の悪い笑みと共にそんな言葉が返ってきた。姉の冗談だと分かっていても身が竦む。
「苛めるなよ」
「分かってるわよ」
 姉達のやり取りを聞きながら、村へと踏み入る。入ってみれば、そこは普通の村のように見えた。建物は古めかしいけれど、窓には明かりが灯っていて、その向こう側には人が生活している気配がする。それだけで最初の気味の悪さが少し薄らいだように思えた。
「さ、早く修理店を探しましょう?」
 歩き出した姉の後を追って歩き出す。
 もう夜も遅い事もあって、村に人影は見られなかった。暗い夜道に寂れた街灯がポツポツと灯っている。どうやら雪は止んだらしい。というより、
「何か暑くないか?」
 上着の前を開けながら、恭也が言った。
「そうね。人里だからかしら?」
「それにも限度ってものがあるだろ? これじゃ春先か秋口か……。とにかく真冬の気温じゃないぞ」
 そう。村に入ってからというもの、妙に暑かった。ついさっきまで雪が降っていたはずなのに、今はまるでそんな様子が見られない。
「……まるで季節がずれちゃったみたい」
 この村だけ時間の流れが違う。そんな錯覚を覚えた。いや、錯覚ではないのかも知れない。少なくとも、今感じている気温は錯覚ではない。
「すずかまで気味の悪いこと言わないでよ」
 口ではそう言いながら、姉もコートの前を開けた。私もそれに倣う。篭っていた熱が逃げていき、少しだけホッとする。
「早く部品を買って帰ろう」
「そうね」
 恭也の言葉に頷くと、そこからはみんな早足に先を急ぐ。とはいえ、姉にも恭也にも土地勘などない。もちろん、私だって同じだ。結局、勘だけを頼りに見知らぬ村の中を彷徨うことになった。具体的な時間は分からないけれど、決して短くはない時間歩いたと思う。けれど、その間に人はもちろん、野良猫一匹見かける事はなかった。相変わらず、誰かがいる気配だけが伝わってくる。
「やっと見つかったな」
「そうね。ちょっと、部品があるか心配だけど……」
 ようやく見つけたのは、錆が浮き、塗装が所々剥がれた看板を掲げた自動車の修理店だった。看板の文字も掠れていて、近くに街灯がなければ見落としていただろう。
「すみませーん! 近くの道で車が壊れて困ってるんです。誰かいませんかー?」
 店はすでに明かりが落とされ、誰もいる様子はない。姉も店というより、明かりの灯った母屋に向かって声を上げていた。けれど、誰も出てこない。恭也が母屋の方の呼び鈴を押したけれど、やはり結果は同じだった。
「無視されてる、のか?」
「多分、ね。留守してる訳じゃなさそうだし……」
 本当にそうなのだろうか。胸の中に浮かんだ不安を言葉にする事はどうしてもできなかった。言葉にしてしまえば、その不安が現実になってしまいそうな気がしたから。
「他の店を探してみるか?」
「いいえ。そろそろ光君も戻ってくるでしょうし、車まで帰りましょう」
「そうだな」
 姉の言葉にホッとした。今は少しでも早くこの村から離れたかった。ひょっとしたら、姉も恭也も同じ思いだったのかもしれない。店を探していた時と同じように、足早に来た道を引き返す。ところが、
「おかしいな。道を間違えたか?」
「そんなはずはないんだけどね……」
 歩いても歩いても村から出られない。それどころか、
「ねぇ、戻ってきちゃってるよ……?」
 気づけば、あの修理店の前に戻ってきてしまった。ひょっとしたら、今までも同じところをグルグルと歩いていただけなのかも知れない。
「ああ。認めたくはないが、これはどうやら……」
「またおかしな事に巻き込まれちゃったみたいね」
 気楽そうな言葉とは裏腹に、二人の表情には鋭い緊張が宿っていた。そこから先の行動については、酷くあっさりと決まった。元々何が起こっているか分からない。だから、その確認作業だったと言っても良いのかもしれない。
「戻ってきたな……」
「ええ」
 件の修理店から、道が許す限り、とにかく真っ直ぐに歩き続けた。けれど、やはり気づけば元の場所に戻ってしまった。
「閉じ込められた、という事かしら?」
「だろうな」
 初めから入り組んだ路地など歩いていない。村の大通りに沿って歩いていた。だから、この結果は予想していた。けれど、改めて突きつけられると怖くなる。
「迷い込んだが最後、出れない村、か。怪談話ならありそうなネタだがな」
「それに私達が巻き込まれてしまったんです、なんて笑い話にもならないわね」
 姉の言葉には皮肉と自嘲が混ざっていた。私達というのは夜の一族という意味だろう。
「念のため訊くが、心当たりは?」
「こんなオカルトめいた真似ができる人は心当たりがないわね」
 私達一族の特徴は人並み外れた回復力や身体能力であって、こんな魔法のような真似はできない。
「となると、これは光の領分かな」
 本物の魔法使い。きっと彼なら何とかしてくれる。けれど、
「でも、電話は通じないよ?」
 携帯は相変わらず圏外だった。これでは光に連絡を取ることもできない。
「……その辺の家に入ってみるか。運がよければ電話が使えるかもしれない」
 近くの家の玄関を――古い横開きのドアを見つめ、恭也が呟いた。
「それしかないかしら」
 ため息でもつくように、姉も呟く。
「誰かいて欲しいか?」
 玄関のドアに手をかけた恭也が、冗談でも言うような口調で言った。
「ただの人間なら大歓迎なんだけど、ね」
 私を抱き寄せながら、姉も同じような口調で返す。けれど、二人の表情は隠しきれない緊張があった。ドアを開けて、もし人以外の何かが出てきてしまったら――そんな恐怖に身体が竦む。きっと二人も同じ恐怖を感じているはずだ。それでも、
「いくぞ……」
 覚悟を決めた様子で、恭也がドアを開く。ガララ、という音が辺りに響き――
「何事もないな」
「ええ」
 その先に広がっていたのは、ごく普通の玄関だった。大小合わせて何足かの靴が並んでいる。さらにその先からははっきりと人の話し声が聞こえてくる。
「夜分遅くにすみません! 電話を貸していただけませんか!」
 恭也が声を上げるが、やはり反応がない。意を決した様子で、恭也が室内へとあがりこむ。廊下を歩き、声のする襖を開き――
「忍……」
 姉の名前を呼ぶと、彼は無言で手招きをした。姉は私を残していくかどうか悩んだようだったけれど……見える距離とはいえ、ここで置いていかれる方がよほど怖い。姉に頷き返すと、二人で玄関を上がる。
「ウソ……」
 恭也に促されるまま、部屋をのぞく。そこには、使い込まれたちゃぶ台が。その上には食べかけのご飯にお味噌汁。焼き魚に漬物。それに野菜の和え物が数人分置かれていた。それだけだった。さっきまで確かに声がしていたのに、誰もいない。首筋を冷たい手で撫でられたようなゾッとする感覚を覚えた。
「無人、なのかしらね?」
 いや、声はしている。というより、再び聞こえてきた。家の奥の方から、明るい笑い声が聞こえてくる。水音が混じっているから、多分お風呂場だと思う。親子か兄弟でじゃれ合っているようだった。その明るさが、今は何よりも恐ろしかった。
「どうかな。だが、少なくとも電話は使えなさそうだ」
 近くにあった古めかしい黒電話の受話器を耳に当てながら、恭也が言った。
「でしょうね……」
 近くのテレビを見やり、姉が呻いた。酷く画質の悪いそのテレビは、どうやらニュースを流しているらしい。ただ、問題は――
『昭和三〇年九月一七日のニュースをお伝えします』
 ひび割れた声が確かにそう言った。明らかに過去の話だった。録画ではない。古びたテレビには、そのためのデッキが接続されていないのだから。
「今から大体五〇年前ってところね……」
「閉じ込められる以上に性質が悪くなったな」
 取り乱し、叫びださなかったのは姉と恭也が傍にいてくれたからだった。私一人だったら、とっくにおかしくなっていただろう。
「これから、どうするの?」
 二人とも答えなんて持っていないことくらい分かっていた。
「入ってこれたんだ。出る方法もあるさ」
 恭也はそう言って頭を撫でてくれた。彼にだってその確信があったとは思えない。
「そうね。こうなったら、村中くまなく探してやりましょう。どうせ無人なんだから」
 姉の言葉に、恭也と二人で頷く。本音を言えばとても怖かったけれど、ここでじっとしていても始まらない。そうして、私達は村中の家という家に上がりこんでは何か――外に出るためのヒントでも、外と連絡を取る方法でも――ないか探し続けた。
 けれど、無駄だった。ただ悪戯に時間だけが過ぎていく。中途半端な暑さも、あるいは寒さも、感覚を麻痺させていった。ひょっとしたら永遠にここから抜け出せないのでは?――そんな恐怖が、じわりじわりと膨らんでいく。
(帰りたい……)
 時間の感覚もすでに無くなっていた。もう何時間この村にいるのだろう。ひょっとしたら何日かも知れない。昔話のように何年も経ってしまっている事だって考えられる。もしもそうなら、もう帰れない。帰ったとしても、そこは私達が過ごした場所ではない。
(帰りたい!)
 家じゃなくても。せめて車に。この村の――この村を出る?
(帰ら、なくっ…ちゃ……)
 何でそんな事を考えたのだろう。そんな事よりも、早く家に帰らないと。早く帰らないと、お父様に怒られる。もうこんな時間だ。
「ちょっとすずか、どこに行くの?」
 見知らぬ女性が急に声をかけてくる。
「どちら様ですか?」
 こんな女の人、この村にいただろうか。違う。何かおかしい。この人は、私の――
「ちょっとすずか! こんな時に変な冗談はやめて!」
 女の人が、声を荒げて近づいてくる。すずかって誰?――いえ、待って!――何か――
「こ、こないで!」
 気持ち悪い。何か変だ。私は――私は!
「すずか!」
 気づけば、全力で走っていた。身体が軽い。どこまでだって走っていけそうだ。これならすぐに帰れる。
(どこに?)
 決まっている。私が生まれ育ったあのお屋敷――お屋敷。そう、お屋敷だ。帰る場所なんて決まっている。




 何故あいつらはじっとしている事ができないのか。
 残された不可解な書置きに、思わずこぼれたため息が白く浮かんで消える。
(集落があれば見落とす訳がないだろうが……)
 手にした書置きには、近くの集落に買い出しに行く旨が記されていた。だが、そんなものが一体どこにある?――空から見た限り、この国の一般な感覚で歩いていける範囲に集落はなかった。無論、ここから見える景色が一変している訳でもない。相変わらず夜山の深い闇が辺りを埋め尽くしている。
『ひょっとして、狸や狐に化かされたんじゃねえか?』
 傍らに浮かんだリブロムの笑い声に再びため息をついた。だとしたら笑い話にもなりはしない。まったく、義姉にしても義妹にしても、仮にも吸血鬼だろうに。
 こんな事なら部品だけではなく、士郎本人を連れてくれば良かった。だが、呻いても三人が帰ってくる訳ではない。ひとまず、その集落とやらを探さなければならないだろう。だが、空からは見つけられなかった。ならば、歩いて探すより他にない。鬼火を一回り大きくし、辺りを照らしだす。残されていたであろう足跡は、深々と降り続ける雪に覆われ、とっくに消えている。だが、それでも近くの茂みに何者かが分け行ったと思しき痕跡を見つける事が出来た。それを伝い、崖を下る。行きついた先にあったのは――
「……助けた亀にでも連れられたか?」
『ここは海じゃねえぜ、相棒。まぁ、湖にも亀くらいいるだろうけどよ』
 黒々とした水が静かに揺らぐ湖だった。降り立った先だけがちょっとした広さの湖岸となっているだけで、あとは右も左も茂みに覆われている。ここから先に進んだというなら、それは最早入水自殺をしたと言うのと大差ない訳だが……。
「となると――」
 そっと心眼を開く。湖面からは確かに魔力の揺らぎが感じられた。おそらく、だが――この先に異境が広がっている。恭也達はそこに迷い込んだか招き入れられたかしたと考えていいだろう。その揺らぎに魔力を注ぎ、閉じかけていた入り口を開く。それでも感覚的に、冬の水面に跳び込むにはそれなりの覚悟が必要だったが――
『竜宮城って感じじゃねえな』
「ああ。だが、狸と狐にしては文明的だな」
『違いねえな。ヒャハハハハハハッ!』
 跳び込んでしまえば、その先に広がっていたのはどうという事もない街並みだった。古めかしくはあるが、それだけだ。例えば迷宮ゴリアテのような生々しい場所だったなら泡を食って探しに行くところだが……一見して危険があるようには見えない。無論、危険の有無など見ただけでは分からないが、恭也達が入り込んでどれだけ経ったか分からない今、ただいるだけで生命が危険に曝されるような場所ではないと楽観視する事を決めた。というより、決めざるを得ない。
「さて。恭也達を見つけるなら、自動車の修理店を探すのが近道だろうが……」
『問題はここからどうやって出るか、だな』
 振り返った先には、何の変哲もない道が広がっていた。下ってきたと思しき崖までざっと数百メートルはある。その距離をすっ飛ばされた以上、単純に引き返せば出れるという訳でもなかろう。あるいは恭也達も出る事が出来ずに彷徨っているのかもしれない。それに、もう一つ懸念がある。
「気付いているか、リブロム」
『まぁな。単純に閉じ込められただけじゃなさそうだ』
 明らかに気温がおかしい。少なくとも、真冬の気温ではない。単純に隔離されただけ、と楽観を決め込める状況ではなさそうだ。
『人が住んでいる気配だけはするな』
「ああ。気配だけはな」
 街の明かり。路地の向こう側から聞こえてくる話し声。夕食の匂い。人がいる気配だけはそこに存在している。だが、それだけだ。心眼で見る限り、人間と思しき気配はまるで見当たらない。それどころか、野良猫一匹見当たらなかった。
『懐かしいねぇ、この感じ……』
「タルタロスの廃墟、か」
 かつて故郷に存在した魔境の一つ。入る事は出来ても出る事は決して許されない。なるほど、もしもここがあれと同質の魔境だとするならこの有様にも納得がいく。
「元凶の魔物をおびき出す前に、恭也達と合流するか」
『だな。向こうが見逃してくれりゃそのまま御暇してもいいしよ』
 それは確かに。だが、そこで楽ができるかどうかは怪しい。ここが事実タルタロスと同じなら、だが。それに、問題は他にもある。
「何故湖底に街が……いや、村か。どちらでもいいが、何故集落がある?」
『順番が逆なんじゃねえか。村があったところに湖を造っちまったんだろ』
「ああ、なるほど。要するにダム湖か」
 納得はしたが、問題は解決しない。この魔境が仮に崩壊した場合、俺達は揃って真冬の湖に放り出される事になる。俺はともかく、他の連中は溺死するか、それより先に心臓麻痺を起しかねない。やはり全員を見つけ出すのが先決か。
『長閑なところだねぇ』
 伝わってくる気配は決して刺々しいものではない。まともに住民が住んでいた頃は、長閑な村だったのだろう。だからこそ、とでも言えばいいか。この村が湖に沈む事を許せなかった――それも、聖杯無きこの世界に魔境を作る程強烈な想いを抱いた誰かがいたのだろう。そう思えば、この景色もどこか物悲しい。もっとも、あまり感傷にばかり浸っている余裕はないが。一見して危険がないことが、そのまま安全である事には繋がらない。思いもよらない搦め手として脅威が忍び寄っている可能性はある。
「しかし、それにしても……」
 周囲を見回し、呟く。所詮は泡沫の夢とはいえ……すでに滅び去った場所とはいえ、呼び名も分からないのは不憫でならない。どこか名前を知らせる看板か何かないものか。
『オイ、相棒!』
 リブロムの鋭い声に、反射的に視線を正面に戻す。その一瞬、近くの路地を小柄な人影が横切った。一瞬の事ではっきりとは見えなかったが、それでも特徴的な藍色の髪が僅かに見えた。そして背丈からして、
「すずか……?」
 すぐに走り寄り、路地をのぞき込むがすでに姿はない。だが、耳を澄ませば微かに足音がする。逡巡している暇も惜しい。半ば勘だけを頼りに、尋常ではない速さで遠のいていく足音を追う。
『何であのお姫様は一人なんだ?』
「それも気になるが、今のは明らかに吸血鬼の身体能力を全開にしているぞ」
 その体質に忌避を抱いているすずかは、その力を全開にする事はまずない。それでもなお人並み以上の運動神経を有しているが――だからと言って、俺が全力で走ってなおまるで追いつけない以上、今は全開にしているとしか考えられない。珍しい事だった。異常だと言ってもいい。
「隼よ」
 生身では見失う。魔力を練り上げ、一気に加速する。さすがの吸血鬼と言えど、魔力による超加速を上乗せすれば俺の方が速い。すぐにその背中が見えた。
「すずか!」
 呼びかけるがまったく応答がない。足を止める気配すらない。いや、それどころか怯えたように足を速める始末だ。どうにもおかしい。さらに加速し、前方へと回り込む。だが、すずかもまたさらに加速しており、正面から激突するような――抱きとめるような形になった。
「こないで! こないで!!」
「待てすずか! 落ち着け!」
 途端、すずかが全力で大暴れする。思わず突き飛ばすような形で飛び退いていた。彼女には悪いが、それこそ下級魔物並みだ。力づくで組みつき宥めるなど、とてもできたものではない。いやはや、何の訓練も受けずこれ程とは。仮にも歴戦の魔法使いとしての――あるいは単純に男としての矜持に傷がついた気もしたが、それはともかく。
「すずか。忍と恭也はどうしたんだ?」
 地面に転がったすずかはすっかり怯えきった様子でこちらを見てくる。問いかけるが、怯え震えるばかりでまるで返事がない。恭也達に何かあったのか――とも考えたが、
『オイ、相棒……』
 リブロムを見て、さらにすずかが悲鳴を上げた。立ち上がる事もなく、這いずって後ろに下がる。まるで初めて見たかのように。ふと閃いたものがあった。
「驚かせて済まない」
 片膝をつき、視線の高さを合わせてから、なるべく優しい声で……それこそ、なのはに初めて声をかけた時のような気分で、その少女に問いかける。
「君の名前は?」
「曽根田幸恵……」
 思った通り、と言うべきか。どうやら目の前の少女は月村すずかではないらしい。やれやれ、どうやら面倒な事になったようだ。こみあげてくるため息と、背筋を強張らせる緊張感、そして、腸を捩じる怒り。その全てを腹に収め、作った微笑を保ち続ける。
「幸恵ちゃん、か。俺は御神光」
 御神姓で名乗ったのは、単純に意識が魔法使いとしてのそれに切り替わっていたからだった。特別意識していた訳ではない。口にしてから、自分で驚いたくらいだ。
「こっちはリブロム。顔と人相は悪いが、中身はそう悪い奴じゃあない」
 苦笑の一つも引き出せれば良かったが、なかなか手強い。それでも、すぐさま逃げようという気配は見られない。単純にその気力がないだけなのかもしれないが。
「ここはなんて村なんだ?」
 特別意識した訳ではない。間を繋ぎたかっただけ、というのが本音だった。
「稲谷村……」
 どうやらそういう名前の村らしい。図らずも知る事になった村の名前を記憶の片隅に留めておく。
「もう大分遅い時間だが、君は一体どうしたのかな?」
 もっとも、この村の『夜』が明けるかどうかは知らないが。漠然とした感覚から言えば、明けないように思える。現実として、ダム湖に沈んでいるとするなら、この村は所詮泡沫の夢に過ぎないのだから。
「……これからお屋敷に帰るところです」
 それが月村邸ではないことは明白だった。しかし、端的にこの少女が月村すずかである事は疑いない。では何故月村すずかは自らの事をその何某という娘だと思い込んでいるのか。それが分かれば、今自分達がどのような危険に曝されているかの手がかりになる。
「なるほど。良い村だな」
「はい!」
 ともあれ。それから、何とか彼女を『お屋敷』まで送っていける事になった。その道中、色々な事を話してもらった。もっとも、特別込み入った話ではない。普段の村の様子や、『曾根田幸恵』の簡単な家族構成くらいなものだ。
(村としては、何処にでもありそうな農村だったらしいな。住民は皆顔見知り。出掛けるのに鍵をかける必要もない、と、大体そんなところか)
 大雑把に言えば、昔ながらの村落だということだ。実際、大通りから少し外れれば、畑や田んぼばかりが目に映る。項垂れた稲穂から考えて、季節は大体秋口程度だろうか。
(『曾根田幸恵』は、村長の娘。両親と兄二人、姉一人。兄妹仲は……まぁ、長男と姉とは仲がいいようだな)
 次男については、言葉を濁し……あまり話したがらない様子だったが。
「次郎お兄さまはこの村が嫌いなんですか?」
 ――攻撃は思いもよらない形で訪れた。意識が……『御神光』という概念そのものを直接鈍器で殴られたような衝撃。まるで生贄にした時の意識の流入だ。聞いていない『曾根田次郎』の経歴が、『御神光』を覆い隠そうとする。もっとも、魔法使いの意識を排除できるほどではない。それに、
(上書きではない事に感謝すべきだな)
 今俺達が曝されている危険の質は分かった。残された問題はどう対処すべきか。どうすれば、『曾根田幸恵』から月村すずかを奪い返す事が出来るかだった。そのためにも、敵の正体を見定める必要がある。自分を見失わないよう細心の注意を払いながら、流れ込んでくる情報に耳を傾ける。『奴ら』の知恵を汲み出すのと理屈は同じだ。
(『曾根田次郎』は……所謂ドラ息子だ。閉鎖的な家を……この村を嫌い、ダム計画にも早くから賛成していた。そして――)
 おそらく重要であろう情報が流れ込んできた。それは危険の先触れであり……起死回生の切り札にもなる。そこまで分かれば充分だった。
「幸恵。ちょっと目ェつぶれ。良いと言うまであけんな」
 こんな声色ですずかに声をかける日が来るとは思わなかったが……努めて『曾根田次郎』の口調を真似て、告げる。
「う、うん……」
 多少怯えた様子で、すずかが目を閉じた。その隙に魔力を練り上げ、とある魔樹を生みだした。その果実をもぎ取り、魔力を抽出する。そして、その魔力をすずかに放った。
「―――」
 悲鳴は上がらなかった。目を閉じたまま、一瞬身体を痙攣させ――そのまま地面へと倒れ込む。身体が地面に叩きつけられる前に抱きとめる。呼吸は止まっていた。心臓も、もはや動いていない。どういう生命活動も行われていない。
「これで、どうだ……?」
 結果が出るまで、もう少し時間がかかりそうだったが――どうやら、その前にもう一つやらなければならない事が出来たらしい。
「一つ確認するが、お前達は誰だ?」
 振り返ることなく問いかける。返答は軽い踏み込みの音だった。その軽さは、しかし危険なものだった。その静かさは死の静かさだ。すずかを抱えたまま前方に身を投げ出す。地面を転がる最中、延髄を打ち貫くように振るわれた拳が空を切るのが分かった。思った以上の一撃に舌を巻きながら、すずかの身体を地面に寝かせると同時、その場を飛び退く。彼女の身体に当たらないギリギリを掠めて鋭い蹴りが空を裂く。乱された大気が風となって巻く頃には、俺も立ち上がり身構えていた。目前には、恭也と忍に見える人間が立っていた。男の方に間合いを詰め、拳を放つ。狙いは横腹。腹筋の隙間を狙った――が、わざわざ紙一重のところまで引きつけてから避けられた。肘が伸びきる直前、下半身を強引に捻り、拳鎚として横薙ぎに薙ぎ払う。強引な一撃は当たりこそしたが、鍛えられた腹筋を打ち抜く事はできなかった。男の手がこちらの手首を掴む。関節を決められる前に肘を曲げ、身体の方を腕に引き寄せる。と同時、左の貫手で相手の眼球を狙う。だが、それも軽く逸らされた。関節を極めてへし折るための時間を防御に回されたからだった。それどころか、眼球を貫くための威力まで利用され、片手でぶん投げられる始末だ。上下が反転する視界の中で魔力を練り上げる。
「翼膜よ!」
 身体が実体を失い闇となって流れる感覚。ほんの一瞬消失した視界が、さらに上下反転して回復する。正常に戻っただけだが、それでも僅かに感覚が混乱した。それでも身体は全身のばねを活かし、完全な形で着地する。同時、たわんだばねを爆発させ一気に間合いを詰める。会心の踏み込み。大地から受け取った力が拳の先端へと突きぬけていく。相手は投げ終わった姿勢のまま固まっている。――はずだった。視界が上下に回転する。その男はこちらの拳を身体に巻きつけるように受け流し、そのまま背負い投げに繋いだらしい。気付いた時には地面に寝転がっていた。叩きつけられる前に加減されたらしく、どうという痛痒も感じない。それが、現実感の欠如に繋がった。やれやれ。まったく、まるで魔法でも使われたような気分だ。
「……それで、お前は高町光でいいのか?」
 こちらの腕を掴んだまま見下ろし、その男が言った。
「……その出鱈目さは高町恭也で間違いなさそうだな」
 お互い半眼で見やり、取りあえずお互いに本人らしいと納得する。
「……あなた達は、どうしてもう少し平和裏に確かめようと思わないの?」
 少し遅れて、義姉が呻いた。どうしてと言われても、これが一番手っ取り早いからだとしか言いようがない訳だが。
「すずか、どうしたんだ?」
 地面に転がされたまま微動だにしない義妹に、恭也が怪訝そうな顔をした。だが、反応はない。まだ効果は持続していたらしい。
「え? ちょっとすずか! しっかりして!」
 抱きあげた忍が悲鳴を上げた。まぁ、それはそうだろう。何せ今なら瞳孔も開き切っているはずだ。
「光君!」
「落ち着け。もうじき蘇生する」
「蘇生って……」
「樹木変性系の魔法の中に、黄泉の実というものがある。こいつには人間を一時的に仮死状態にする効果があるんだ」
「仮死って……。何だってすずかをそんな目にあわせたんだ?」
「正気じゃなかったからだよ。上手くいってくれれば、当面の危険は取り除けるはずだ」
 闇雲に怒り狂わなかった所に二人からの信頼を感じつつ、応える。
「しかし、お前達は正気なんだな」
 一見して、明らかに二人とも高町恭也と月村忍だった。意外だと思うのと同じ程度に納得してもいる。少なくとも恭也は精神の鍛錬もしている。そう簡単に相手の術中にはまりはしないはずだ。
「正気だと。いい加減、発狂しそうだが?」
「嘘つけ。いや、そもそもそういう事じゃなくてだな……」
 恭也と馬鹿なやり取りをしていると、ビクンとすずかの身体が脈打った。
「う、ぅん……」
 喘ぎ声に似た音を立てて、止まっていた呼吸が再開する。どうやら、蘇生したらしい。
「あ! すずか、気付いた?! 良かった」
「お姉、ちゃん……?」
 さて。博打の結果は如何なものか。二人に近づき、問いかける。
「自分の名前、言えるか?」
「え? 月村すずかだよ。急にどうしたの?」
 きょとんとした顔で、すずかは言った。
『どうやら博打には勝ったらしいな』
「ああ。そうらしい」
 リブロムの言葉に頷く。決して勝算なく挑んだ訳ではないが、絶対の自信があって挑んだ訳でもない。安堵の息は隠せなかった。
「それで。結局何だってそんな危険な真似をしたんだ?」
 すずかが自分の足で立ちあがってから、恭也が言った。
「すずか。今までの事は覚えているか?」
「今までのこと? ええっと……。確かこの村から出られなくて――」
 帰りたいと強く思った。すると、急に帰れるような気がした。けれど、
「お姉ちゃん達の事が、急に知らない人みたいに思えて。……怖くなって、逃げ出してからの事は良く覚えてないよ」
 おずおずとそのような事をすずかは口にした。お世辞にも要領を得た説明だったとは言い難いが、それが彼女の精一杯の説明である事は明白だった。すずかを含めて三人が、疑問の眼差しで俺を見た。
「この村――この魔境の影響だ」
 もっとも、俺とて全てを説明できる訳でもないが。それでも、たった今自分が経験したものと、古い記憶とを継ぎ接ぎして導いた推論を口にする。
「俺が出会った時、すずかは自分の事をこの村の村長の娘だと言った。それ以外にも、この村について色々と話してくれたよ。何も覚えていないか?」
 覚えていないなら、それはそれで別に構いはしないが。問いかけると、すずかはしばらく記憶を探るように目を伏せてから、
「稲谷村、だよね?」
「ああ。少なくとも、お前はその時そう言った」
「攻撃があったのはその後さ」
 あまり思い出させて、再び『曾根田幸恵』になられても困る。それ以上思い出さなくて良いと告げてから、説明を続ける。
「攻撃だと?」
「ああ。その前に、村長の娘――『曾根田幸恵』の家族構成について簡単に説明しておこう。両親に兄二人、姉一人。彼女は末っ子だったらしいな」
「それがどうかしたの?」
「すずかは――と言うより、『曾根田幸恵』は俺に向かって次郎お兄さまと言った。途端に、『曾根田次郎』という人間の経歴が……記憶が流れ込んできた」
「待て。幸恵と次郎って言ったか?」
 そこで恭也が驚いたような声をあげた。
「その名前、覚えがあるな。……そうだ。お前を見つけた時だ」
 また次郎が幸恵を虐めている――怒りと共にそう思ったと恭也は言った。だから、ついカッとなって……気付いた時にはすでに殴りかかっていた。その一撃をかわされて、初めて目の前の人間が誰か気付いたと。
「それなら、私も」
 すると、忍までがそう言って頷き始めた。なるほど、やはりそういう配役か。頭数は合うが……しかし、敵は見た目に騙されたらしい。あるいは見た目を優先しただけだけかもしれないが。
「危ないところだったな」
 言ってやると、今さらになって二人とも緊張した顔をした。
「あまり意識するな。意識すると、余計につけ込まれる。自分が何者か忘れるなよ」
「あ、ああ。分かった」
「あ、でも。万一の時は私達もその実で助けてくれるわよね?」
「それはもちろんだが……。黄泉の実が効果を発揮するかは保証しかねるぞ」
「え? 良く分からないけれど、私はその魔法で助けてくれたんでしょ?」
「すずかの場合はな」
 詳しく説明するのは気がひけたが、かと言ってあまりあてにされても困る。それに、この魔境から抜け出すためには、その情報を共有していた方が都合がいいのも事実だ。
「『今』から数年後、この村は消滅する。下流にダムが建築され、その湖底に沈むんだ」
「……それが、俺達にその実の効果が及ばないかもしれない事とどう関係するんだ?」
「その計画が発表されてから、この村の住民は賛成派と反対派に分かれ、村の存亡をかけて対立する事になる。それまでは顔見知り以上、身内未満だった相手同士でな」
「……きっと熾烈なものだったんでしょうね」
 神妙な顔で忍が頷いた。実際に熾烈な争いだったらしい。『曾根田次郎』の記憶を辿る限り、そうとしか言いようがない。熾烈であると同時に、結果の見えている戦いでもあった。ダム建設ともなれば、その計画には莫大な金が動く。表でも裏でも、だ。表の権力と裏の権力の双方が、この憐れな村に牙をむいたのだ。だが、それでも。結果の見えたその争いを愚かだと嗤う者がいるのなら……ソイツこそが本当の愚か者だ。離れてみて――帰れなくなって初めて故郷というのが自分の中で大きな部分を占めていたのだと分かる。そして、第二の故郷と呼べるべき場所を得られた自分は幸運だという事も。
(『曾根田次郎』はどうだったんだろうな?)
 喪って初めてその大きさに気付いたのではないだろうか。それとも、第二の故郷と呼べる場所を見つけ出せたのだろうか。分からない。そこまでの『記憶』は伝わってこない。当然だった。
「生まれ育った場所がなくなるかどうかなんだ。それは熾烈だっただろうさ」
 正義。宗教。そして、故郷。この三つは、有史以来最も多くの血を啜ってきた言葉だろう。この村も、その例外になる事は叶わなかった。そう。例外ではないのだ。
「そんな中で、一つの事件が起こる」
「事件だと?」
「ああ。村の子どもが何者かに殺されたんだ」
 それが惨劇の始まりだった。そして、この村の本当の意味での終焉の始まりでもある。
「この村にとってすれば、それだけでも大事件だった。そして、その子どもの家が、いわゆる反対派だった事が事態をさらに複雑にさせた」
「賛成派の犯行だと思われた?」
「そういうことだ。それから、立てつづけに三人の子どもが殺された。全員が、反対派の家の娘だった。反対派の住民達が抱く、賛成派に対する悪感情が憎悪に変化するまで、それほどの時間は必要なかったようだな」
 肩をすくめてから、取りあえずの結論を口にする。
「『曾根田幸恵』はその中の一人さ。この『村』にとって、彼女は初めから死亡する事が決まっていた。だから、死亡してから蘇生すれば、あるいはその役から解放されるんじゃないかと考えたんだ」
 結果として、その予想は当を得ていた訳だ。だが、恭也と忍――おそらくは『曾根田太郎』と『曾根田幸代』がどうなったかは分からない。それこそ、最悪は本当に乗っ取られる可能性も否定できないのだ。
「なるほど、な……。すずかの件については分かった」
 恭也は頷いてから、いよいよ本題について触れてきた。
「それで、この村からは出られるのか?」
「さてな。それはこれから試すところだ」
 肩をすくめてみせると、すずかが泣きそうな顔をした。気が咎めたが、確証がある訳でもない。これから試す事が不発に終わったら、それこそ大騒ぎだ。それに、
「試す前に、武器になりそうなものを見つけておいた方が良いな。役に立つかは分からないが、ないよりはマシだろうさ」
 幸いここは農村だ。武器の代わりになりそうなものの一つや二つ手に入るだろう。
「武器、か。となると、何か物騒な事をするつもりだな?」
 咎めるように恭也が俺を見た。だが、それはこちらの台詞だ。つくづく思うが、どうしてこの二人の逢瀬には平穏と言う言葉がないのだろう。そもそも初めて逢瀬に付き合わされた時は半端者の吸血鬼どもと取っ組みあう羽目になった。それは時には刺激も必要だろうが、この二人の場合明らかに過剰ではないだろうか。
(あまり刺激が過ぎるとそのうち不感症になるぞ?)
 幼い義妹の手前、声には出さず毒づく。
「なら、適当な倉庫でも探そう」
「そうね。確かここに来る前に何ヶ所かあったと思ったし」
 その場所に無事に戻れればいいのだが。そんな事は思っても口にせず、二人に案内を頼む。それからしばらくして。
「まぁ、こんなところか」
 倉庫から見つけた二振りの鉈を軽く振り回しながら、恭也が満足そうに言った。ベルトにはさらに錆の浮いた五寸釘が何本か差し込まれている。
「ないよりはマシってところね」
 一方、忍は渋々といった様子で、使い込まれた鋤を構える。使いようによっては槍の代わりになるだろうが――義姉の姿は、農具として使う際にもまるでなっていないと言わざるを得ない。まぁ、義姉にしても義妹にしても深窓の令嬢なのだから仕方がないが。
「そ、そんなに危ない事をするの?」
『まぁ、諦めて覚悟を決めろって』
 すずかには素直にリブロムを預けてある。農具を持たせるより、よほど安全で確実だ。
 ともあれ、これで準備は整った。
「それで、どうするんだ?」
「こうするのさ」
 恭也の言葉に、俺は適当な民家に向けて掌を向け――そのまま火球を叩き込んだ。
 爆破魔法。炸裂した爆炎は民家を飲み込み、たちまちのうちに燃え上がる。だが、それを見届ける事はせず、俺は続けて他の民家にも火球を撃ち込んだ。程なく、辺り一面が火の海になる。
「お、おい! いきなり何を……!」
 何も特別な事をするつもりはない。タルタロスの廃墟で恩師達がやったのと同じ事だ。
「村を滅ぼしてやるのさ。そうすれば、この村の存続を願った誰かは怒り狂って俺の手の届くところに出てくるはずだ」




『相変わらず容赦ねえなぁ……』
「止めなくて良いの!?」
 のんびりとしたリブロムの声に、思わず叫んでいた。もうすっかり辺り一面大火事で大変な事になっている。
『この村から出れねえと困るだろ?』
「そ、それは困るけど……ッ!」
 出られないのはとても困るけれど、このまま止めないのは何だかとても悪い事をしているような気分になる。
『なら仕方ねえ。それに、村が無人だからこれで済んでるんだ』
 無人じゃなかったらどうなっていたの?――喉まで出かかった疑問は、そのまま何とか飲み込む。そう何回も見た事がある訳ではないけれど、魔法使いモードになった光は結構容赦ない。今だって、このままいくと、本当にこの村が焼け野原になってしまいそうだ。
『おっと。仕掛けてきたか……?』
 リブロムが呟くと同時、景色が一瞬だけ歪んだ。そして、
「直ったの……?」
 次の瞬間には景色が元に戻っていた。焼け落ちたはずの家はみんな元通りに戻っている。それに何となく安心してしまうのは『曾根田幸恵』の名残だろうか。ともあれ、急に炎が消えたせいか、少し肌寒く感じる。
「いや、時間が先に進んだんだろう」
 光は近くの家の新聞受けから新聞を抜き出し、そんな事を言った。新聞の日付には昭和三三年一〇月一三日と記されている。
「何故進んだ?」
「それはもちろん、俺を殺すためだろう」
 恭也の問いかけに、光はあっさりとそう答えた。
「『曾根田次郎』は賛成派だ。それもかなり急進的――過激と言ってもいいな。もちろん、他の家族は皆反対派で、再三衝突を重ねたらしい。無論、他の反対派の人間とも。他の賛成派達と比較しても、特に派手にやりあったらしいな」
 言いながら、光は手にしていた新聞を恭也に渡した。姉と一緒に、その新聞を覗き込む。そこには、連続殺人事件の被害者が四人にも及んだと書かれていた。一番新しい被害者は曾根田幸恵と書かれていた。
「その頃には『曾根田次郎』は家族から離れ、離れの蔵に引き籠って生活していた。それに、元々素行も悪く村人から煙たがられていたらしい。加えて言えば、賛成派は新たな住居が決まった人間から村を後にしていき、村内に限って言えば少数派になっていた。それも狂気を暴走させるには充分な要因になる。だから、だろうな」
「まさか……」
 恭也が言いかけた時、突如として村中に鐘の音が鳴り響いた。夜の闇を焦がして、火柱が立ち上がるのが見える。方向は、今まで私達が進んできた方――つまり、『曾根田幸恵』が帰ろうとした屋敷がある方向だった。
「私刑、か……?」
 苦々しく恭也が呻く。そこで、光の姿が、周囲の風景と一緒に一瞬だけ歪んだ。
「光君! それ……ッ!」
 次の瞬間には、光の身体からはっきりと血の匂いがした。所々皮膚が赤く膨れ、皮がめくれている。多分、火傷なのだと思う。
「ああ。危うく丸焼きにされる所だった」
「は、早く冷やさなきゃ!」
 でも、綺麗な水なんて手に入るの?――慌てる私に、光は大丈夫だよと言ってから、
「癒しの花園よ」
 光が囁くと、周囲に黄金に輝く花園の幻影が浮かび、舞い散る花弁が彼の身体の傷を消していった。
「ま、あれくらいなら放っておいても勝手に治るけどな」
 ポンポンと私の頭を撫でながら、光は笑って見せた。
「大丈夫なのか?」
「見ての通りさ」
 恭也に向かって、光は肩をすくめて見せる。そこで、再び景色が歪む。今度ははっきりと辺りが冷え込んできた。
「また時間が進んだ?」
「仕留めそこなったからな。もう少し直接的な手段に訴えてくるか」
 言いながら、光はうっすらと笑っていた。その笑みにゾクッとする。怖い――そういう感情がない訳ではないけれど違う。それだけでは足りない。奇妙な魅力さえ感じさせる蠱惑的な笑みだった。
「『曾根田次郎』が死んだなら、もう事件は終わったんじゃないのか?」
「終わらないさ。『曾根田次郎』は犯人じゃあないからな」
「何だと?」
「俺にその『記憶』がない。彼は無実だ。冤罪だよ、おそらくな」
 それはとても酷い話だった。もちろん、本当に犯人なら良かったとは言わないけれど。
「村の狂気はいよいよ留まるところを知らなくなったらしいな」
 再び近くの新聞受けから新聞を取り、光は言った。昭和三三年一〇月一四日。翌日の事だった。再び被害者が出たとそこには記されていた。
「この娘は確か……。『曾根田次郎』の記憶が正しいなら、賛成派の家の娘だな」
「無差別殺人だったってこと?」
「あるいは犯人が複数いるか。……いずれにしても、事件の真相は俺にも分からないな。何せ、『曾根田次郎』の記憶は『昨日』で途絶えているんでね」
 村の中を歩きながら、光はそう言った。
「外に出て、図書館にでも行けば真犯人も分かるのかもな」
「どうかな」
「五〇年前なら、この村の住民だった人だってまだ生きてる人がいるでしょ」
「いるかもしれないが、忌まわしい記憶として忘れ去っているかもしれない」
 それはとても悲しい事だった。住んでいた人達にまで忘れられてしまったなら、この村は本当になくなってしまったのだから。
「誰が悪かったのかな……?」
 誰かを吊るしあげて解決するような話ではない。そんな事には何の意味もない。それは分かっているつもりだけれど、それでも考えずにはいられなかった。本当に。何で、こんな事になってしまったのだろうか。
『さぁてなぁ』
 ひょっとしたら、その答えを知りたい――そう思った誰かの仕業なのかもしれない。ふとそんな事を思った。
「しかし……。何か村中が殺伐とはじめた気がするな」
 恭也の言葉に、辺りを見回す。言われてみれば確かに。伝わってくる人の気配が刺々しくなっている。それに、窓が割られたり、ゴミが散乱してそのままになっていたり……村中が荒れてきているようだった。
『そりゃ今まで通りとはいかねえだろうさ。ただでさえ故郷がなくなるかも知れねえって時に、殺人鬼まで徘徊してんだからよ』
 それらを一瞥して、リブロムが言った。確かにそうなのかもしれない。この村の人々の事は、『曾根田幸恵』が教えてくれる。皆良い人達だった。それなのに、
「それだけ故郷ってのは尊いものなのさ」
 ポツリと光が呟いた。その目はこの村ではなく、どこか違う別の場所を見ているように思えた。それがどこかは分からないけれど。けれど、さっきも同じ目をしていた。故郷と口にした時に。
「大きくなって、もしも他所で一人暮らしを始める事があったら、その時にでも思い返してみるといい」
 足を止め、ポンと私の頭に手を載せると、光は優しく――でも、どこか寂しそうに微笑んだ。
「しかし、直接的に仕掛けてくるとするなら、今度は誰が殺しに来る? 真犯人か?」
「さて。村の『記憶』からはすでに大分乖離している。今さらそこに拘るとも思えない。見ろ。何もしていないのにまた時間が進んでいる」
 村は一層寂れたように見えた。今まで感じていた人の気配――息吹のようなものも、もう感じられない。まるで抜けがらのようだった。
「廃村になったのかしらね?」
『だろうな。現実として、この村は湖底に沈んでるんだ』
「仕方ない事だったのかもしれないけれど……。こうして見ると、やっぱりやりきれないわね」
 姉の言葉を最後に、私達の中に沈黙が落ちた。その瞬間だった。
「――――!」
 何かの咆哮が響いた。それは、声と言うより衝撃だった。
『相棒!』
「全員走れ!」
 何か考えるより先にその叫びが響く。何も考えないまま――その声に従って、私達は一斉に全力で走り出した。その私達の後ろを、バキバキと家屋を蹴散らしながら、凄い威圧感を発する何かが追いかけてくる。
「何処まで走る?!」
「曾根田邸だ。こんな狭いところでやりあえるか」
「確かに、そこなら広い庭があった気がするわ」
『そういうことだ。もうちょい頑張れ!』
「うん!」
 一気に走り抜けた先。簡素な門を飛び超え、思いのほか立派なそのお屋敷に向かって走り抜ける。その途中で、
「止まるなよ!」
 言い残すと、光だけはそこで足を止めた。反射的に足を止めそうになった――けれど、それに気付いた恭也が腕を掴み少し強引に引きずって走り続ける。
「雷樹よ!」
 その私の後ろで、光の鋭い声が響いた。いや、それは響くというよりは貫く。それほどに鋭く、そして力強い声だった。その声を聞いて、初めて恭也は足を止めた。
「あれは鉈なんかじゃどうしようもなさそうだな」
「私なんか途中で捨ててきちゃったしね」
 恭也と姉に抱きかかえられながら、初めてその姿を見やる。
 それは異形の巨人だった。頭と思しき所は、血塗れた包帯でぐるぐる巻きになっていて、ギョロリとした大きな目玉が一つだけ覗いている。両手には大きな草刈鎌――握られているというより、融合しているように見えた。
『いやぁ、こんなところにあんな大物がいるとは思わなかったぜ』
 リブロムはむしろ感心したように言った。少なくとも、光の心配をしている様子は見られない。でも、相手はあんな――私達ともまた違う、本物の怪物なのに。
「光君……ッ!」
『心配すんな。今の相棒は地味にキレてるからな。可愛い義妹に手を出されたのが、腹に据えかねたんだろうぜ』
 右腕から、深淵の魔力が立ち昇る。魔法なんて使えない私でも分かる程、とても強い力だった。その力を怪物も理解したのだろう。声にならない叫び声をあげて光へと迫る。
「咆哮よ!」
 その声に、獣の咆哮が重なる。それは衝撃波となって、怪物の巨体を押し返した。
 魔法使い御神光の戦いが始まる。




(まさか、これほどとは、ね……)
 相手から感じる威圧感はなかなかのものだった。いつぞやの、半端者の吸血鬼どもと比べれば雲泥の差だ。正直に言えば――久しぶりに退屈せずに済みそうな相手だった。無論、かつての自分が有する膨大な戦闘経験の中で言えば、お世辞にも強敵とは言えない――が、決して雑魚でもない。血が騒ぐ。追体験の中とはまた異なる緊張と興奮。存分に力を振るえる事への快感。それに、義妹に手を出された事への怒り。全てが練り合わさって、身体を突き抜ける。その感覚を堪能する余裕はある。だが、そればかりに気を取られてはいられない。何せ背後には三人も庇わなければならない相手がいるのだから。
「戦乙女の剣閃よ!」
 七つの雷刃が魔物の身体へ直撃した。まずまずの感触だ。
 返礼は左の大鎌だった。ずんっ!――と、空気を断ち切る音。断ち切るというよりは、引き裂くか。直撃を許せば、人肉のタタキができそうだ。心臓が跳ねる。恐怖ではない。久方ぶりの興奮だった。魔法使いとしての宿業が上げる歓喜の声だ。轟!――と、練り上げた魔力が吼える。
「雷樹よ!」
 三叉に分かれた雷撃波が、その魔物を貫く――が、それを無視して、右の大鎌が振るわれる。そうでなければ面白くない。身を屈めながら、さらに魔力を練り上げる。
「剣魔女の斬撃を!」
 二振りの妖刀が顕在する。それに記録された業が、瞬時に身体中に――細胞の一つ一つに行き渡り、刃は滑らかに魔物の肉体へと滑り込んだ。だが、浅い。致命傷には程遠い。魔物が放つ技も何もない力任せの前蹴りが大気をかき混ぜた。さらに、両腕が力任せに振り下ろされる。人間一人を殺すには過剰すぎるほどの破壊力だ――が、当たらなければどうということもない。
「雷布よ」
 魔物の足元を変性させ――さらに魔力による超加速で、敵の間合いからすり抜ける。
「精霊よ」
 それと同時、地面に異形の心臓を叩きつける。半身を地面にめり込ませたままの巨人像が魔物の横面に拳を打ち込むと、魔物の巨体が面白いほどぐらついた。巨人像がさらに拳を振るう。下から上に振り上げるような一撃。魔物の巨体がわずかに宙に浮いた。そのまま尻餅をつく魔物に、さらに雷撃波を叩き込む。
(そろそろ詰み、か……?)
 まさかそう都合良くはいかない。確信と共に、重心を整える。どんな反撃がくるか――警戒を怠ったつもりはなかった。それ以前に、予想して然るべきだった。だが、反応が遅れた。ギロリと魔物の目が蠢き、俺の背後を見据えた。
「あああああああっ!?」
 苦しげな声をあげたのはすずかだった。視線だけ振り向くと、彼女はガクガクと身体を痙攣させている。その隣で、忍も――恭也までもが、頭を抱えて呻いている。
「二人とも、気を確かに持て……ッ!」
 苦しげに恭也が言う。だが、目に見えて傷を負っている様子はない。これは――
『ヤベえぞ相棒!』
 分かっている。精神支配とでもいえばいいだろうか。今、三人が受けているのはそういった攻撃だった。すずかを『曾根田幸恵』だと思い込ませたのと同じ力だろう。
「すずか!」
 忍の悲鳴に振り向くと、鋭い何かが鼻先を掠めた。恭也から鉈を奪い取ったらしいすずかが躍りかかってくる。鉈そのものは妖刀で払いのけたが、それ以上はどうしようもない。まさか傷付ける訳にもいかないが……吸血鬼としての身体能力を全開にしているこの娘を相手にするのは容易ではない。魔物はまだゴーレムと組みあっているが……それとていつまでも続くものではない。
「光、君……。にげ――」
 言いかけて、忍までが襲ってきた。躊躇いなく薙ぎ払える下級魔物などとは比べ物にならない程厄介な相手だ。下手に反撃も出来ない。これで恭也まで術中に嵌ったら大よそ最悪の状況になる。
「クソッ!」
 恭也が動いた。背筋に冷たいものが走る――
「これで、どうだ!」
 が、恭也の狙いは俺ではなかったらしい。力任せに振るわれる大鎌とゴーレムの腕とを掻い潜り、魔物の足に駆け寄る。すれ違いざまに鉈を振るった。
「徹を込めても振り抜けないのか……ッ!」
 驚きと悔しさを滲ませて恭也が呻く。それでも、魔物の太い足に驚くほど深々と鉈は喰い込んでいる。そのせいで手放さざるを得なかったのだろうが……再び魔物の巨大な目が怪しく光る。だが、恭也は躊躇わず鋭い何かを魔物の目に向かって投げつける。魔物が顔を抑え、苦悶の声をあげた。
(なるほど、倉庫で見つけた五寸釘か)
 理解してから、背筋を強張らせる。相変わらず恐ろしい奴。半分は俺が嗾けたとはいえ、鉈と五寸釘程度で魔物に立ち向かおうと考えるのも恐ろしいが――
「……あ、あれ?」
「よ、良かった。すずか、正気に戻ったのね。って、私もか……」
 それで本当に痛撃を与えてしまうアイツはつくづく恐ろしい。目の前の魔物よりよほどだ。さすがは相棒――御神美沙斗と同じ血を引いているだけの事はある。
 ともあれ、すずかと忍の事はリブロムと恭也に任せ、魔物に集中することにした。なかなか焦らせてくれたが、そろそろ終わりにするとしよう。
(二度もウチの義妹に手を出したんだ。ただで済むと思うなよ?)
 それに、そろそろ仕込みも仕上がる頃合いだった。三叉の雷撃波を撃ち込む――と、怒りに身悶える魔物の身体に痙攣が走った。その身体に雷の魔力が絡みつく。
「石片よ」
 轟!――と、絡みついていた魔力が一気に起爆する。さらに、ゴーレムが頭上で組んだ両手を力任せに振り下ろした。爆発の残響に交じり、固い物が潰れる特有の音が重く低く響く。そのまま地面に潰れるように、どす黒いタールのようなものが流れ去って――
『オイオイ、ちょっと気が早えぇんじゃねえか?!』
 夜空にヒビが入り、そこから水が降り注いできた。これでは救済するにしても生贄にするにしても時間が足りなかった。こうなっては仕方ない。
「全員走れ!」
 不本意だが、このまま逃げるより他にない。さもなければ、寒中水泳が待っている。しかも冬用の分厚い服を着たままだ。そうなれば俺はともかく、他の三人は生命に関わる。溺死か凍死か。どちらにしても願い下げだ。
「どこに!?」
「この村から出るんだよ!」
 水が入ってきているなら、俺達が出られない訳がない。大体の勘を頼りに、急激に水没しつつある村を駆け抜ける。
「冷たい……ッ!」
「頑張って、すずか!」
 踝からたちまちのうちに膝下まで水に浸かってしまった。足に水が絡めば、嫌でも速度が落ちる。加えて、水の冷たさが体力を奪っていく。このままでは間に合わない。
「魔人よ!」
 異形の石面を装着し、全身が揃った巨大なゴーレムへと変身する。
『掴まれ!』
 言うより先に、三人の身体を引っ掴む。こうなれば、人間とは歩幅が違う――が、それより冷たさを感じないのがありがたい。
「これは……揺れさえ我慢すれば、なかなか爽快だな」
『元気そうで何よりだ』
 首元にしがみついた恭也の場違いな上機嫌な声に、思わず転びそうになった。だが、何とか踏み止まってさらに加速する。すでにゴーレムの腰辺りまで水が溜まっていた。普通の人間なら、すでに足がつかなくなっているだろう。ゴーレムの身体であっても、走りにくい事この上ない。それでも、
『よっしゃ、相棒もう少しだ!』
 ちゃっかりすずかに庇われながら、リブロムが歓声を上げた。よほど水没するのが嫌らしい。別に水に濡れたからどうなるものでもあるまいに。
『そのようだな!』
 ともあれ。水に沈み分かりにくいが、すでに最初に降り立った辺りだった。俺の予想が外れていなければ、このまま真っ直ぐ進めば村から出られるはずだが――
「近づいてきたわ!」
 どうやら予想は外れなかったらしい。崖が――魔力の揺らぎが近づいてくる。三人を振り落とさないよう気をつけながら、拳を振り上げる。ビシリ――鈍い音を立てて、魔力の揺らぎに亀裂が走って――
「出れた、らしいな」
「そのようだ」
 気付いた時には、あの申し訳程度の湖岸に四人と一冊で転がっていた。すでに夜は明けつつある。積もった雪が朝日に反射してキラキラと輝いていた。
「あのな。すずかのためにもこれだけは言っておきたいんだが……」
 朝日を浴びながら、呻く。
「もうお前達のデートにはつきあわないからな」
「そんなこと言いながらついてきてくれるあなたが私は大好きよ」
 取りあえず、そんな感じで。今回の逢引は幕を閉じた。




 さて。
 リンディとの不毛な駆け引きを終え、なのはの部屋に向かったのは、そろそろ就寝時間も迫る頃だった。
「――と、これが俺の知り合いのTさんが経験した本当の話だ」
 あの『村』での一件を怪談風に掻い摘んでなのはに語って聞かせていた訳だ。
「なんでそんな話をするの!?」
 そのテの話が苦手ななのはが涙目で叫ぶ。
「え? 仕返し」
「だと思ったの!」
 思っていたなら聞くな。さて、気持ち良く仕返しも済んだので、俺もそろそろ部屋に帰るとしよう。妹との心温まる交流のお陰で、リンディとのやり取りで憂鬱に傾いていた気分も大分立ち直っていた。
「それじゃ、おやすみ」
 今夜は良い夢が見られそうだ。
「あああっ! じゃあ、私、ユーノ君の部屋に行く!」
「それは無理だろう。今、そうさせないためにリブロムが張り込んでいるからな」
 今回の一件を不問にして欲しければ、何があっても入れるなと二人には言ってある。ユーノはともかく、リブロムは嬉々として協力してくれるだろう。それはもう、ここぞとばかりに。
「何でそーいうことするの!?」
「男の寝床に忍んで行くなんざ一〇年早い」
 言うだけ言うと、なのはの居室を後にする。
「あああっ! レイジングハートもいない!?」
 それももちろん、回収してある。その辺は抜かりがない。俺としても、そう何度も恩師の呪いにやられる訳にはいかないのだ。
「バカあああああああっ!」
 聞こえない聞こえない。人差し指でデバイスに繋がった紐をくるくると回しながら、アースラの廊下を歩く。すると、デバイスがいまの話は本当か訊いてきた。
「本当の話だって言っただろう?」
 答えると、続けてプレシアと同じ現象なのかと訊いてくる。なかなか好奇心旺盛なデバイスだった。しかし、何と答えたものか。正直なところ、救済も生贄もしていない以上、何者だったのかは定かではない。いや、そもそも――
「そうだな……」
 あの一件については、思う事がない訳でもない。あくまでも可能性の話だが――
「村でも街でも。そこに人が何代にも渡って住んでいるなら、何人もの……いや、何百、何千もの人間の色々な想いや欲望がそこに蓄積していく訳だ。それなら、あるいは。それが積み重なっていくのなら――」
 …――
 その日の夜。私は久しぶりに姉と一緒のベッドにいた。あの日の事を思い出してしまい、怖くて一人では寝れなかった。
「結局、あの村は何だったのかな?」
 あの後、私は図書館であの村について調べてみた。確かに、あの村は存在していて――あの夜経験した悲劇に見舞われた事までは、何とか調べる事が出来た。けれど、それだけだった。事件の犯人が捕まったという記述は見つけられなかった。
「そうね……。実は私も気になって、あの後光君に訊いたんだけど――」
 姉は私の身体を抱き直しながら、言った。
「あの怪物は、あの『村そのもの』の想いだったんじゃないかって。忘れて欲しくない。皆がいた頃に戻りたい。そんな『村そのもの』の欲望から形作られたんじゃないかって」
 もっとも、単なる憶測みたいだけどね――そう言って、姉は笑った。
「お姉ちゃんはどう思うの?」
「私? ……そうね。そんな事があってもいいんじゃないかって気はするわ」
 もっとも、もう巻き込まれるのはゴメンだけどね――姉の言葉に、ふと怖くなる。
「あの『村』は、まだあるのかな?」
 その恐怖はすぐに言葉になっていた。
「どうかしらね。忘れられたくないって言うなら、少なくともここに忘れられない人間が二人いる訳だけど」
 恭也と光君も忘れていないでしょうから、正しくは四人ね――その言葉に、少しだけ怖さが薄らいでいく。光の予想が正しいなら、あの『村』はある意味で目的を達成したという事になる。それが、あの『村』が本当に望んだ形ではないとしても。
「さ。怖い話はもうやめて、早く寝ましょ。大丈夫。光君ならケロリとした顔で帰ってくるわよ。もちろん、なのはちゃん達を連れて」
 そうでしょ?――姉の言葉に頷く。今までだってずっとそうだった。私達夜の一族にも、本物の怪物にも、光はきっと負けない。それなら、きっと大丈夫だ。
「ほら。この子もそう言ってるわ」
 光がくれた黒猫がベッドの上に飛び乗ってくる。
「うん」
 頷くと、黒猫が小さく鳴いた。そして、そこで丸くなり、長い尻尾をくゆらせる。この子も一晩私に付き合ってくれるらしい。
 そして。その日の夜。私は夢を見た。それは、『曾根田幸恵』の残り香だったのかもしれない。稲谷村の、なんてことはない――皆が笑っている、そんな一日の夢だった。
 それは、とても幸せな夢だった。

 
 

 
後書き
と、言う訳で今回はすずか編でした。
すずかとの馴れ初めにしようかとも思いましたが、話を考えているうちにアリサ編と似たような雰囲気の話になってしまったので、急遽変更してこんな形になりました。すずかが中心と言うより、月村姉妹が中心という感じもしますが……。
それにしても、すっかり秋ですね。書き始めた頃はまだ夏も盛りだったので、多少怪談風にしようと企んでいたのが、すでに季節遅れですね(苦笑)

次はA's編をスタートさせたいところですが……そうすると、ちょっと間が空きそうな予感しかしません。短編も、思い描いているネタはないわけではないですが、形になるかどうかちょっと怪しいところです。

A's編か短編かどちらになるかは分かりませんが、なるべく急ぎたいと思いますので、気長にお待ちいただければ幸いです。

それではまた。なるべく早く更新できる事を祈って。

2015年10月12日:誤字修正 
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