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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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88話

 ビーム光が閃く。不味いと察知した全神経が肉体を駆動させ、バーニアを焚いた《ガンダムMk-Ⅴ》が横っ飛びの要領で飛びのく。《Sガンダム》が放ったビーム砲の一撃は、クレイの視界の脇を過ぎていった。
 だが終わりではない。《リックディアス》を輪切りにしたあの一撃―――ビームがまるで意思を持った光の蛇竜のように真空を這うあの攻撃がくる。
 右腕のビーム砲からビームを照射したまま、サーベルを振る要領で腕を横殴りに振り回す。ぐにゃりと歪に形状を変えたビームが鎌鼬の刃となって横薙ぎになって襲い掛かる。
 食らえばそのまま両断される。刹那ほどの感慨を抱く余裕も無く、クレイは《ガンダムMK-Ⅴ》の両足を振り上げると同時に上半身を背後に捩る。AMBAC機動に加えてスラスターとバーニアを焚き、先ほどの体制から一気に下方向へと急落下させた。
 視界の端で迸った光の帯が《ガンダムMk-Ⅴ》の上半身すれすれを掠める。機体表面が焼ける幻聴に重なるように、全天周囲型コクピットの中に接近警報が炸裂した。
 左腕に握らせたハルバードでの迎撃―――そういう思惟が身体に命令した時には、反応としては愚鈍だった。
 彼我距離は既に零。その巨体に似つかわしくない速度で接近した《Sガンダム》のエメラルドの双眸が、《ガンダムMk-Ⅴ》を、クレイを睥睨するように見下ろす。
 大きく振り上げられた左腕。将にクレイの身体をずたずたに引き裂きながら挽肉にせんと、4つの牙が蒼い燐光を放つ。
 あれを喰らえば一たまりもないどころの話ではない。反射的にバックパックのビーム砲を《Sガンダム》に向け、トリガーを押しかけ―――。
 そのまま減速すらせずに《Sガンダム》が《ガンダムMk-Ⅴ》目掛けて突撃した。身体よりも遥かに巨大な玄翁で叩き潰されたような衝撃が打ち付け、それだけで意識が飛びかける。内臓のどこかが破裂したんじゃないかと錯覚するほどの鈍痛が全身の神経を焼き尽くし、不意に臓腑からせり上がってきた液体を吐き出した。
 もう、身体が持たない。普通の人間ならもうとっくに身体のどこかが千切れていてもおかしくない。
 操縦桿から手を離したい。視界一杯に広がる《Sガンダム》の姿を見るだけで心が折れそうになる。
 どうして自分がこんな目にあっているのだろう。ただ素直に健気に人生を生きていて、何も悪いことなんてしてないのに。なのに、どうして―――。
 弱気だ、と身体が責めるような声を出す。
 全く、その通りだ。それでも心の幽かな端の方で沸き上がったその声が心臓を鷲掴みにして離さない。
 操縦桿をにぎる手から意思が抜けていく。
 身体の生命の躍動が死んでいく。
 もう、意識を把持していることすら辛い。さっさと己を手放して、何も考えず何も怯えない静かな世界に還ってしまおう―――。
 遠のく、意識の中。
(―――クレイ)
 少女の声が、頭の中で響いた。
 頭の中に溜まった重油を洗い流し、そのまま脳みそに刻まれた皺の1つ1つ、細胞同士の隙間にすら沁み渡っていく声。
 機体が触れ合うことによる接触回線の音声だった。
「エレア! その機体に乗っているのか!? 乗っているなら返事を―――」
(―――どこ?)
 濡れた声が耳朶を打つ。《Sガンダム》の体躯が震え、慄きのような機械音が振動となってコクピットの中を震わせた。
(どこにいるの? ねぇ、どこ? 貴方はどこにいるの?)
 年相応の少女の声。弱くて、果敢無くて、縋る物を求める声は幼子のようだった。
 フラッシュバックする。怯える声で自分の存在を求めたあの時の声と同じ声で、それでも違う声。
「俺がわからないのか!? 俺だ、クレイ・ハイデガーだ!」
(―――なんなんだお前は、五月蠅い音ばかり出して!)
 鼓膜を切り裂くような、明確な敵意を持った言葉が心臓を打つ。
 モニカの声が脳裏を掠める。
 サイコ・インテグラルシステムを規定値以上で発動した場合、理性的自我が保てなくなると言っていた。この現象がそれだとでもいうのか―――?
 《Sガンダム》が拳を引き、ボディーブローさながらに《ガンダムMk-Ⅴ》のコクピットハッチ越しにクレイを殴りつける。さらに膝蹴りが鼻先で破裂した。
(みんな邪魔ばかりして! クレイはわたしが守るんだから! それを邪魔する奴は許さない!)
 密着したまま、さらに《Sガンダム》の拳が肉体を打ち付ける。
 それでも―――否、だからこそ、意識が先鋭化して明敏になっていく。意識の輪郭が明確な形を持つ。
(わたしが居たから―――わたしなんかが居たからクレイが辛い思いをしてるんだから。だから、だから!)
 少女の叫びと共に、ギプスを巻いたような左腕が槍のように迸り、これまでの比較にならない衝撃が《ガンダムMk-Ⅴ》の有機質部品を破砕した。
 勢いのまま、後方に突き飛ばされ、視界が背後から前方へとスライドしていく。
 少女の声が、エレアの声が身体中に突き刺さる。だから、身体を打ち付ける物理的な痛みなど、己の肉体が崩壊していくことなど、単なる些末事でしかない。
 《デルタカイ》のパイロットの声が頭に響く。所詮エレアはクレイを愛するように人為的に思わされているに過ぎない。
 そんな造り物の偽物の愛だ、と。
 それを、彼女は知っているのだろうか。
 ―――知っているのだろう。
 いつの日だったか。昨日のことだったか、それとも何十年の前―――では時間が合わないから、多分数か月ほど前。
 ごめんなさい、と、ただそれだけを口にした少女の姿があった。あの時はわけがわからないと思っていた。それでも、今なら、ほんの少しだけわかる気がする。彼女の内に沈殿していた膿、それを表象するための言葉。単なる手心地の良い言葉ではない。それは傷のある言葉―――銃弾を撃ちこまれ、ジャックナイフで抉られ、生々しく口を開けた〈痕跡〉を覆う瘡蓋、その下にぐずぐずに膿んだ静謐の大地をはらんでいるはずのエクリチュール、それを通して、微かにだけ、エレアという少女の〈他〉の影が視界に霞む、そんな(ことば)
 それは影でしかない。しかし、それでも、彼女は笑顔を見せてくれた。愛してる、と口にした。
 愛の真偽判断を何になしていいのかはわからない。世間に溢れているくだらない愛が、あの綺麗なだけの薄っぺらな情念が、口当たりの良いあの愛とやらが本当の愛かはわからない。
 だから、彼女の気持ちが、己の気持ちが愛なのかはわからない。義務的に自分を想ってくれる彼女のパシオーを命名することなどできはしまい。エレアのそれは常人の理解を超越している。エレアは異界の人であり、荒れ地に打ち捨てられた娼婦であり、無数の「ひと」に囲まれた孤児である。
 だが。
 だが、彼女の思いを、彼女の誠実を、それを偽りだなんて呼ばせない。
 彼女の名前を口にする。唇がその形に強張り、滑らかな発音となって舌が動く。
 生死は問わない、と少女は言った。その言葉の重さを否定することはしない、否定する資格など己にない。
 ない、けれど。
 クレイは自分の右手にあるディスプレイに視線を移した。
 左側の部分から露出した部品。あれを押し込めば、サイコ・インテグラルとかいうこの機体に装備されたシステムが完全な形で作動する。そうすれば、そうしなければ―――エレアに勝てない。エレアを助けられない。《Sガンダム》を確保できない。
 少女が最後に口にした言葉が脳の皺に引っかかる。
 5分以上使えば、使えば―――。
 息が荒い。呼吸が出来ない。肺が裂けているらしい。折れた肋骨の切っ先が肺を貫き、流出した血液が肺の下の方に溜まっている。
 身体で無事なところなんてない。視界は相変わらず罅だらけな上に真っ赤で、目からは何かの汁が垂れ流しだ。心臓は狂ったように暴れながら肥大化し、その癖身体はぞっとするほどに冷たいと思えば、焼かれるように熱い。1秒経つごとに脳細胞がどんどん死滅していき、もう知能指数は半分以下になっている。
 ―――それがどうした。己がどれだけ壊れようとも、朽ち果てようとも、一体それにどれほどの問題が在ろうか。
「エレア」
 泣いているあの子の声なんて、聴いていたくないから。あの子には、ずっと笑っていてほしいから。
「エレア」
 恐い、というように使用され命名される純粋時間の感情を、理性と覚悟だけで捻じ伏せる。
 どれだけ抑えつけても恐怖が大地の下で荒れ狂う。不安だけで頭がおかしくなりそうになる。
 その全ての情念の空虚に身を打たれながら。
「―――エレア!」
 右手に摘まんだそのパーツを、装置の中に押し込んだ。
 ――――――――瞬間。
 ――――――――世界が、大地が
 意味(そんざい)が崩壊した。
 ※
 雪降る大地。
 息をするたびに肺に薄氷が張りつき、そうして息を吐くたびに湿度を持った熱が白くなって鼻先を立ち昇っていく。
 アヤネ・ホリンジャーは、耳道の中を行ったり来たりする金属と生き生きと在る人間の戯れを感じながら、空を見上げた。
 時折閃く、人間の営みとは明らかに質を殊にする赤黒い焔。そうして遅れてやってくる、殺戮の音響。
 嘘だ、と思った。
 あれもまた、人間の営みが為す行為の一端であるという点で戦争は人間の本質を恐らく構成するものであり、であるからしてあの閃きを人の温もりと差別するのは根本的な形而上学的誤謬を孕んでいる。
 詩作は戦争と同じ野蛮な行為であると言ったのは誰だったか。
 言葉だけを切り離して何かを論じることに意味は無い。
 だが、つまりは、そういうことなのだ。人間が行うものというのは、結局は野蛮な行為なのである。
 映画で放送されるくだらないヒューマンドラマも、真愛を語る文学も、少年の追想を描くノベルも、日常を描くアニメも漫画も、耳に心地いい音楽も、真っ当に聞こえるだけの説教臭い大人の語り口と人情も、否、もはや人間の文化的営みは全てその下部を支える構造を抱えざるを得ない時点で、そしてそれを当然のシステムと見做す時点で野蛮であり、擁護不能の暴力的行為であらざるを得ない。何をしても人びとは窒息の中に青ざめ、己が何故野蛮で愚劣であるのかその理由すらもそれによって理解不能と化している。
 ニヒリズムだろうか?
 いや、それも違うだろう。一つの思索をニヒリズムと命名し、己の野蛮さから目を離す行為は何ものをも解決せず、己の野蛮さに短慮の魯鈍を付け加えるに過ぎない。
 下唇を噛む。鼻先はもうかじかんでいた。SDU装備では、もう、寒いのだ。
 身体が震える。冷え始めた身体を温めようとする人間の自動性が、そうさせる。
 左足を少しずらす。石を噛んだ軍靴がきぃと啼き、擦れた雪が潰れて伸びる。
 両手を組んで顔の前に挙げ、組んだ手の隙間に息を吹きかける。温い湿度が籠っていく。
 人間は最早、野蛮さから逃れることなどできはしない。学問も、青春も、人情も、社会も、現実も、正義も、何もかもが野蛮で破戒的だ。そこから抗おうとする試みも全て野蛮であり、自己擁護も他者の擁護も全てが野蛮さの裏返しにならざるを得ない。それが人間と言う存在の出来損ないの(げん)(ざい)であり、そうしてそれは永劫の回帰において遡及-効として永久に人間に襲い掛かり、将来-効として空蝉の世を最果ての未来においても支配していく。
 俯く。重力に従い、さらさらと砂金の髪が下に垂れていく。
 でも。
 でも……。
 でも――――。
 言葉が口から生まれ出ようとする。抗わんとする理性がなんとか理を見つけようと躍起になって、そうしてアヤネは口を堅く閉じた。
 萎れた草が眼に入る。アヤネの軍靴に踏みつぶされ、すっかり地面にへばりついてしまった野草。その野草は一体何と言う名前なんだろう、と思ったが、アヤネの知る由の無いことだった。
 身を屈めた。そうして、アヤネは前かがみになり、膝を曲げ、左手で膝を抱えるようにして、そうして人工の大地にふれた。
 つめたかった。
「カルナップ大尉―――――」
 寒さでかじかんだ声でも、その名前ははっきりと口から出た。
 彼女だけでは、ないのだ。この計画の根本にかかわった人間全てが徹底的に野蛮さを背負い込まざるを得ない。人間の心を弄ぶことのどこに神聖さがあるというのだろう。欠片ほども、ありはしないのだ。
 ゆっくりと立ち上がる。寒さで凍えた身体は、なんだか重たかった。身体が動くたび、ぎしぎしと関節が軋むようだ――――――。
「―――どうしたの?」
 振り向けば、不思議そうな顔をしたジゼルが居た。
「なんでも」
「ふーん?」
 彼女はそれっきり特に何も言うでもなく、アヤネの隣りに来ると、黙然と何かに眼差しを贈り返していた。
 いや、それがなんであるかはわかっている。アヤネも意を決して視線を上げれば、ジゼルの視線の先に、夜空の下にあってなおの事漆黒を際立たせている巨体が眼に入った。
 MS-14B《ゲルググ》。膝を折って蹲るようにする人形は、既に死んだように物静かだった。
 野蛮―――否。
 それは、もはやそんなものを超越している。あのそれが呼びかけるこれは、もう、何もかもが異なるのだ。
「それは、私のすることだよ―――」
「え?」
「ううん。何でもない」
「そう」
 アヤネは首を横に振って、そうして、もう一度それを目にした。
 漆黒の《ゲルググ》。大地に蹲るその様相は老いた農夫が土壌にふれて何かを探しているようだ。いや、何かを聴いているのか? それとも―――。
 薄く積もる白い結晶群。紡がれた雪のヴェールがかかった《ゲルググ》の輪郭は、朧になって滲んでいた。 
 ※
 ――――――――――――――――――――――――視界が真っ白に染まる。
 風が吹いている。鼓膜を突き破り内耳へと侵入して引きちぎりながら聴覚野に轟く。
 光速を優に置き去りにする白い神風。立っているだけで風が肌を切り裂き、筋繊維を千切りにし、骨を打ち砕き、心を攫っていく。2秒も立ち尽くせば、物理的部位精神的部位を結びつけるあるいは一体化していたはずのそれら否それは無化される。
 己が消えていく。肌という境界が溶解し、心の内に強引に侵入した風が素粒子レベルまで自我を解体していく。
 精神が漂白されていく。強引に洗濯されて真っ白真っ白。
 風が己の存在を吹き飛ばしてく。己が積み上げたもの、己の構成体を吹き飛ばし、世界を綺麗な吹きっさらしにし、荒れ狂う烈風が大地を削り取っていく。舞い上がった大地の灰色の肉片は空の果てで散り散りになっていく。
 罅割れた視界が崩壊する。こんなの耐えられるわけがない。1秒だって耐えられない。人間の知覚はそもそも『こんなもの』に耐えられるようにできていない。人間の認識はそもそも限定的で、断片的なものしか知覚できない。人間には紫外線が見えないし赤外線が見えない。放射線だってあるのかないのかわからないし、波数が極めて低い音も極めて高い音も聞こえない。指先の感覚は一定以上きめ細かになれば知覚不能で、微かな味の違いだって区別できまい。畢竟、人間は敢えて生に不要なものを知覚せずとも好いように認識を構築し、スキーマを生成していくのである。それ以上のものは認識能力的に認識する必要が無く、そして認識させられても困るのだ。
 全神経が無理やりに接合され、強引に感覚域が押し広げられ、それと同時に逆ベクトルに運動する差延が統一体の原なるもの、横溢のエクリチュールあるいはエスへと還っていく、忘却された畑の畝、そうしてつまりは存在へと還っていく。世界を包む全ての情報、否、送り届けられる運命が濁流となって頭の中に殺到し、溢れた存在漆黒の明るい存在が身体中を犯して破壊して切って嗣ぎはぎされては再び破壊されていく。
 痛みが無い。そんな人間的な感情を持っていられない。痛い、という感情の叙述そのものが人間の文化的行為である以上そのように『これあるいはそれ、むしろそれ』の呻きなど表現しようも無い。
 あるのはただ無への立会。自己存在が徹底的に焼却され、収奪された/主体が周囲の外環境と同一化させられる。
 身体を動かせ。指を少し曲げるだけでいい。そうすれば、この風の向こうへ行ける。
 だが動かない。瞬き一つ行えない。ぴくりとも身体を動かすことが出来ない。
 脳の一部が破裂する。噴水みたいに中身が噴き出し、頭蓋の中に流出していく。
 意識が断線する。視界が細切れになっていく。己が粗びき肉になっていく。
 人間一人の決意とか覚悟なんてあまりに弱くてちっぽけで、耐えられるなんて幻想を抱いていたことのなんて愚劣なことなんだと思わされる。決意とはそも衝動的行為に過ぎず、そのようなものは存在の前では何の役にも立ちはしない。
 自己を保っていることが億劫でしょうがない。自己を保とうとすればするだけ吹き付ける絶望が突き刺さり、血ではない何かが流れていく。術はそれに抗わずに身を晒せばいい。そうすれば己もこの風と一つになって苦痛を感じなくなる。さっさと、手離して、何も考えないで済むようになりたい。
 もう何も考えなければいい。最早何を考えていたかすらもわからないのに、何かを考えたところで一体何があると言うのだ? であれば、もう、何か苦痛を得てまで無駄で無価値で無-意味なことをする必要などないのだ。
 もう。己を手離しかけ、て―――。
 ――――吹きすさぶ鋼の風の、向こう。
 自己が指先からもうどこかへ―――
 ――――鋼の風が頭蓋を砕き、中身が零れていく身体が綺麗に裂かれていく。
 存在を喪失し―――。
 ―――白い、少女の姿を観た。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あ。
 白い髪を夢のように広げた少女の姿。
 大地に蹲った少女の顔は良く見えなかった―――けれど。
 その、小さな肩が微かに震えていた。
 ―――行かなければ。
 ―――何のために戦うのか。己が崩壊してもいいと思いながら、壊れてもいいと思いながら。
 ずっと彼女一人に背負わせてきた。何も知らず、暢気に過ごしていた自分は彼女が負っている責苦を気づくことすらなく、ただ己を抱いてくれる彼女の母親に甘えていた。
 なんという魯鈍。これで彼女を愛していると思っていたのだから、お笑いにも程がある。
 罪の贖い。そんな言葉は使いたくない。
 ニュータイプとて所詮は人の延長に過ぎない。たとえニュータイプになったところで、根本的に人を理解することなんでできない。たとえ誰かの記憶を見ても、誰かの感情を感じても、それは己というフィルター越しに誰かの経験を眺める行為以上の物ではない。そんなことは誰かを理解したことではない。それは、誰かの生の経験を知ったようなふりをするグロテスクな行為だ。ニュータイプとは、だから本来的にグロテスクな存在だ。
 だからクレイは彼女の感じた情念を、責苦を、罪の贖いなんて言葉で塗りつぶすわけにはいかない。いや、もはやそれを情念やら責苦などという貨幣的で孔を穿たれた言語成るもので表現しようとすること自体が野蛮極まりない愚行であり、であるからこそもはやそれは非[-]存[-]在でしかない彼女の皮奥について恐らく語ることは、存在への指し示しとしての空疎な幻想の言語を訳知り顔で操るだけのことでしかない―――。
 ―――己にできることは、ただ、一つ。
 奥底に浸透する何ものか、裂け目の深淵から微かに囁いたエクリチュールに、確かに、ふれたこの身が為すべきことがなんであるか。
 ―――指先が動いた。ぴくりとも動かなかった肉体(マシーン)が軋みを上げる。
 ―――少しだけ、口が動いた。
 ―――足を一歩、前へ。先へ。驚くほど軽やかに、確かな足取りでもってその身体(しんたい)が漂逸する。
 吹き荒れる風に身体を裂かれながら、それでも足を前へ。
 エレア。そのたった一言の名前を全身全霊で声に出す。何回も、何十回も、何百回も、何千回も何万回も、仮に永劫に世界が空転しようとも、否、事実世界が永劫に時間を保存し続けていても、その名をその度ごとに叫びながら、右足を前へ。左足を前へ。
 風をさえぎるように顔の前に掲げていた手を伸ばす。手を広げ、風に指が切り落とされていくのも構わずに、遥かに先にいる少女へと手を伸ばす。
 手は届きそうにない。
 だからどうした。届かないなら届くところまで前へ進んでいけ。
 歩みは強く。腰を落とし、姿勢を低く。つま先に力を入れろ。大地を蹴り出せ。足先に籠った力を膝に伝播させる。
 後は強く、粘り強く大地を蹴り上げ世界へと跳躍しろ。
 吹き荒れる風の中、身体が躍動する。全身へとめぐる血液が筋繊維の一つ一つに存在を励起させ、集約される大いなる力への意思でもって大地を蹴り上げる。
 前へ。
 前へ。
 ひたすら前へ―――!
「―――エレア!」
 ―――視界が弾ける。
 身体ごと切り刻まんとしていた烈風が止み、凪いでいく。ただ、真っ白で何もない無の空間、時間が消え失せた空間だけが広がっていく。
 丁度己の真上に太陽がある。今は日の何時ごろだろうか、朝だろうかそれとももう昼を過ぎているのか。それとももう、夜なのか。それともその境目か。さんさんと照らす光の元には何の影も無く、眩い光の下では何を観ることもできない。ただ、ただ、白が果ても無く向こうに続いていた。ぎらぎらと照り付ける恒星の輝きは、それだけで肌が焼けただれてしまいそうだ。
 白い空間の中、視界の先で、なおもって白い存在が虚ろな表情で白い空を、眺めていた。
 恐ろしいほどに白い肌。まるで死蝋のようだった。細い瞳には何の感情があるのかわからず、ただ無感動に空を見上げるばかりだ。
 歩を進める。
 足取りは覚束ず、途中で倒れてそのまま亡骸と化してしまいそうになりながら、少女の元へと夢遊病のように歩いていく。
 少女の元へ。倒れそうになるのを堪えて、膝を折る。
 手を伸ばす。手先が痙攣しながら、自分の目線の高さにある彼女の頭に、白い絹のような綺麗な髪に手を触れた。
 恐ろしく冷たく熱かった。触れるだけで凍傷になりそうで、触れただけで皮膚が炭化した。
 彼女の頬を既に感覚のない手でそっと包み込む。表情のない蝋人形のような仮面の目元から液体が零れ、冷たい頬を伝っていく。
 今まで何も気づかなかった。彼女が感じていたものを、懊悩を、涙を、その存在していることすら知らなかった。そんな自分に何かを言う権利も資格も何も、ない。
 頬から手を離す。そうして、脇腹から手を背後に回して、少女の矮躯を決して離さぬようにと抱き留める。
 己にできることは、ただ、一つ、だけ。
「エレア」
 少女の身体がぴくりとだけ動いた。
 言葉は鋭すぎる。感情は過激で大雑把すぎる。
 だから己にできることなどただの一つ。
「もう君を独りになんかさせない。君が許してくれるなら、ずっと―――」
 一緒に――――。
 ※
 視界が裂ける。
 眼前に広がるのは漆黒の宇宙。綺羅星が敷き詰められた星辰の世界。
 身体を流れる血液は絶対零度のように冷え、それでありながら溶岩のように身体中を煮えたぎらせる。
 全神経があべこべに切って嗣ぎ治されたようだ。視覚は聴覚嗅覚味覚触覚に接続され、聴覚は視覚嗅覚味覚触覚と融合し、嗅覚は視覚聴覚味覚触覚と癒着し、味覚は視覚聴覚嗅覚触覚と境界線を失い、触覚は視覚聴覚嗅覚味覚と闘争する。
 原初の感覚、喪失のエスの立ち現われ、Aの把持。未だに差異の運動が生じる以前あるいは途上、根源的な全一的根底の人間知覚の再現。そこでは全てが一つであり、一つが全て。
 彼女の音を見た。彼女の色を聞いた。彼女の味に触れた。彼女の匂いを味わった。
 今ならはっきりわかる。あの機体に彼女がいる。今も俺を探し続けて泣いている。
 彼は静かにその名前を口にした。操縦桿が砕けるほどに握りしめ、下唇を赤く濡れた歯で噛みしめる。
 今なら勝てるかも、しれない―――この反則技を叩き込めば、あの《Sガンダム》を凌駕し得る。驕りでも何でもない直観の裏で、厳めしい老人のような声が囁く。
 ―――だが注意せよ。
 タイムリミットは5分まで。それを超えれば、お前は―――。
 ―――無用な心配だ。加速度的に身体機能が崩壊しつつある今、時間をかければそれだけ勝機が失われていく。勝つなら一瞬で勝負をつけねばならない。
 全神経の撃鉄が撃ち鳴らされる。射出した弾丸が《感覚神経/運動神経》の内で叛濫し、本質という名の擬似的擬制的シニフィエの薄膜を食い破った分析的実存の相貌が逆流していく。頭蓋に達した金属片はその瞬間に砕け散り、脳細胞を粗びき肉団子みたいにぐしゃぐしゃにした。
 白い神話が狼狽えたように身動ぎする。
 左腕に握ったハルバードのリミッターを解き放つ。大出力で発振した光の刃は力場で固定され得る限界を超え、飛散したメガ粒子が黒い世界に溶けていく。
 スロットルを解放する。
 破砕する勢いでフットペダルを踏み込む。
 過敏に反応した赤紫の狼は、黒塗りの咆哮を上げて白い神獣へと躍りかかる―――。
 ―――その体躯。
 両手に持ちたるは巨大な戦斧。
 ―――真紅に燃え盛る獣の情熱的思索に満ちた、その体躯。
 瀑布そのままにぶつかり合う光の刃。
 優美なバイオレットパープルの、装甲の下。
 剣が、斧が擦過するのも構わずに、当為のために武装を叩き付ける2機のMS。生じた余波だけで艦船ほどもある岩塊がひき潰され、両断され、粉砕されていく。
 ―――横溢の虹光、恒沙を覆い尽くすが如くに。 
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