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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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69話

 ラグランジュポイント:1。
 一年戦争緒戦期、わずか1週間の内110億人いた人類の約30%を死に至らしめた通称『1週間戦争』後、当時の地球連邦軍本部ジャブロー破壊という当初の目標を達成できなかった旧ジオン公国軍による、再度のコロニー落としによるジャブローの破壊を目的として戦端が開かれることとなる。
 ルウム戦役。MSという兵器が本格的に実戦投入された初の戦闘であり、そしてその新型兵器群の威力を世界に知らしめることとなる戦闘でもある。歴史に名を残す卓越のエースパイロットたちが登場した戦闘、という点でも有名であろう。当時の地球連邦軍総司令官ヨハン・エイブラハム・レビル大将を捕虜とした『黒い三連星』や、マゼラン級宇宙戦艦を含む戦闘艦艇5隻を撃破し、エース・オブ・エースと謳われた『赤い彗星』の伝説は語る必要も無かろう。
 戦闘の影響で、当時のコロニーはほぼ壊滅し、唯一気密性を保持したコロニー『テキサス』が残るだけである。
 大艦隊同士による艦隊戦が行われた一年戦争初期の激戦の地も、14年という歳月を経た今となっては当時の戦闘の傷痕を残すだけの静謐の空間となっていた。
 採光ミラーだろうか、コロニーの残骸や連邦軍の艦艇と思われる物体や、MS-06系列の機体と思われるMSの一部が白い船体を掠めていく。
 無数に浮かび、思い思いに飛んでいく遺物たちの中を行く艦が10隻。コロンブス級輸送艦が6隻に、その護衛を務めるクラップ級巡洋艦が4隻。その進路はニューエドワーズを中心とする新生サイド4に暫定的に建造された、小規模コロニー群である。
 輸送船団の中の一隻、クラップ級巡洋艦『エル・パソ』の艦長は、その鋭い視線をブリッジから外の宇宙へと投げ―――。
 慌てて男は自分の口元に手を当てた。そうして、艦長は自分が欠伸をしたのを掌で隠した。全身が弛緩し、思わず目もとに涙が浮かぶ。一頻り大あくびをした後、艦長は帽子をかぶり直し、手袋をはめ直しながら、盗み見るように視線をブリッジに巡らせた。
 ブリッジの人員は皆背中を見せて自分の仕事に専念しているらしい。気づいている様子の人はどうやらいないと見て良いようだ。ほっとしながら軍服のベルトを締め直し、袖口を弄っては、今度は襟首に人差し指を差し込む。
「あ、いてて。目にゴミが……」
 なるべく自然な素振りで目を擦る。決して眠いから目を擦っているからとか、欠伸で出た涙を拭っているなどと思われてはならない。
 右手で拳を作って自分の口元に持ってきて、そうして咳払いを1つした。席に深く腰を下ろして座りなおした。ほっとしながら身を屈めて、自分の席の足元にある収納スペースの中に在る飲み物に手を伸ばした。そうして銀色のパックを手に取って、そうして再び背凭れに身を許した。
「艦長」
 不意に声が耳朶を打つ。ぎくりと身体を震わせた艦長は、恐る恐る声の方向、自分の右手を見遣った。
「これで5回目ですね」
 金髪をきっちり撫でつけた40代ほどの男の冷たい視線が艦長を捉えていた。
「な、なんのことかな?」
「取り繕いは10回目です。艦長、もっとしっかりしてください」
 溜息すらなく、副長の男が言う。エメラルドグリーンの瞳には呆れと侮蔑が惜しみなく溢れていた。副長の言葉に反論の余地が欠片も無いだけに、艦長の男はうんだのすんだの曖昧な言葉を返して椅子に身を凭れかけて、飲み物を口に含んだ。ジェル状の奇妙な液体はカルシウムたっぷり配合らしい。ラベルにそう書いてある。
 パックの内容物を飲みきり、空になったパックに空気を入れては萎ませるをしながら、生真面目そうにブリッジに視線をやる副艦長を横目で見る。
 ―――端的に、暇なのである。
 14年前の一年戦争時こそ激しい戦闘が繰り広げられたとはいえ、今となっては歴史の隅に追いやられた場所である。少なからず、戦闘の舞台となることはないだろう。先日までは茨の園を占拠していた宙賊風情が時折商船を襲うことがあったが、それももう過去の話である。ネオ・ジオンも首魁たるシャア・アズナブルというべきかキャスバル・レム・ダイクンというべきか、ともかく頭が落とされたのである。後は勝手に瓦解して、土くれとなっていくのであろう。
 それに、もうそろそろニューエドワーズに所属する警備部隊の活動範囲内に入る。今更気を付けることと言えば定時連絡をきちんとすることと、ニューエドワーズの基地司令とまともに会話することである。
 ……よくよく見れば、そばかすのオペレーターはブリッジで化粧直しをし始めているし。弛んでいるとかではなく、それが今の宇宙の空気なのである。
 いっそここでネオ・ジオンの残党が襲い掛かってくれれば面白いのに―――とは流石に……。
「あら?」
 薄くルージュを塗っていたオペレーターが素っ頓狂な声を上げたのは、そんな時だった。
「どうした?」
「いえ、ミノフスキー粒子の濃度が……」
 副長の声に慌てたように道具を仕舞いながら、オペレーターが目の前のコンソールを弄り始める。
どうせ前の大戦の名残だろう―――と、艦長は思いながら、敢えてそんなことを思いながら、素っ気ない素振りでオペレーターの声を待つことにした。
「あれ、これってちょっと……」
 オペレーターの声に明らかな焦りが混じる。
 横に立つ副艦長と目を合わせた艦長がもう1人のオペレーターに声をかけようとした瞬間だった。
(こちら旗艦ユキカゼ、ミノフスキー粒子濃度の急速上昇を認む!)
(こちらブレイウッド、9時の方向に敵艦―――ネオ・ジオンの艦だ!)
 レーザー通信の声が鼓膜を叩くのと、視界に白い閃光が横切ったのは同時だった。エル・パソのブリッジの丁度すぐ目の前を、大出力のメガ粒子砲が掠めていった。明らかにMSの携行火器とは比較にもならない、濁流のような光軸だった。
 息を飲む音がブリッジに響いた。
「―――何をやっている! 管制官、MS部隊の発進を急がせろ! 砲雷長!」
 副艦長のバリトンが激する。復唱する声と共に、ブリッジに俄かに声が飛び交い始めた。
 艦長も諸々の指示や他の艦の艦長と連絡を取りながら、ふと、思う。
 さきほど己が思った些末なことが、よもやきっかけになったのではあるまいな―――そんな迷信まがいな思惟を思考から締め出しながら、艦長は声を張り上げた。
 ※
 彼は、子どものころからなんでも出来た。頭だってよかった。運動だって出来た。気立ても良く人当たりも良い。名家の出であったこともあって品性も良く、かといって年齢相応にやんちゃもしてきた。初めて彼女が出来たのは14歳の時で、その後も両手と両足の指を使っても数えきれないくらいには経験を持ったし、火遊びだって何回もしている。
 羨ましい、と皆が言った。お前はなんでもできて、凄いな、と皆が言った。必要が満たされた、幸福な人生だと言った。
 だが、彼にしてみれば、それが何故凄いことなのかはさっぱり理解不能だった。彼にとって、出来ることが当然なのである。どれだけ難解な問題でも、少し頭を捻れば彼には片手間で何でも出来るのだ。人間は朝起きて空気を吸って欠伸をすることが凄いとは思わない。彼にとって世界事象は全てそのレベルの出来事でしかなかった。
 自己効力感―――己で世界を切り開けるという積極的感覚が全く欠如していた。だから彼にとっての世界とは反射反応以上の行為を必要としない、全く動物的位相の価値しか持っていないものであった。そこに人間的位相の価値は存在しておらず、彼自身人間的生存の価値など持っていなかった。空腹を感じたから食事をし、眠いから眠り、性的快楽を感じたいからセックスする。無味乾燥な快楽、その価値もわからないなにものかだけを享受するだけの非人間的存在。
 いつ、だっただろう。
 秋の黄昏時だったことは覚えている。あいつに会ったのだから、まだ4年も前じゃない。士官学校の、校庭だったはずだ。
 特に価値など無かったが、彼は散歩に出ていた。夕暮れ時の錆びれた風に当たりたかったのかもしれない。
 玄関口から入ろうとして、彼はふと校庭に視線を投げた。
 人口太陽の光は酷くのっぺりしていて無味乾燥だった。それに包まれる世界もきっと無彩色なはずだった。
 校庭をぐるぐる走っている人間が居た。今日は、確か学校全体としては休みだった。
 物好きだな。彼はその時、そんな風な印象しか持っていなかった。世の中には努力を伴わなければ何かを為すことが出来ない人々が居ることは知っているし、そしてそのために足掻く人間が少なからず居ることも知っていた。そして、大抵の人はそういう姿勢を心の中では疎ましく思っていることも。
 彼は、そういう足掻く人間なのだろう。ただ、それだけのことだ。
 だから、彼はさっさと帰路について然るべきだったのだ。さっさと帰って、いつも通り無味乾燥な日常を送ろう―――。
 だが、彼は足を動かさなかった。ただ、そのひたすら不毛な道程を走るその男を眺めつづけた。
 ドラスティックな心境の変化があったわけではない。別に、努力するその姿に感銘を受けて、その価値の有難さを知ったわけではない。彼にとってはその不毛と知ってなお不毛な道を進むことを止めないその無意味な姿勢は全く理解不能で意味不明だった。
 否、だからこそ。
 あの存在者は、一体何なのだろう―――?
 その原-存在の亀裂から見える何かの前-価値を―――あるいは超越-価値の存在の到来の予言を、彼の認識装置は把持していた。
 ※
「どーだろーか」
 万歳するように両手を水平に持ち上げる。眼前の男はベッドに座ったまま名の知れた探偵が緑色の目を光らせるように顎に手を当て、品定めする視線をクレイに向けていた。
 時刻は朝の9時を回ったところで、起床時間からは大分時間が過ぎていた。にも関わらず目の前の男―――神裂攸人には時間に追われている雰囲気は無く、クレイはそもそもSDUすら着ていなかった。
 白いシャツにワインレッドのジャケット、そしてボトムスに黒のパンツという出で立ちはどう見ても軍人感の欠片も無い。クレイの表情も、まるでフォーマルスーツを着て、初等科に入学したばかりの子どものように緊張していた。
 「そうだな……」攸人は眉間に皺を寄せる。クレイは猶更肩を縮こまらせて、その審判を待った。
 クレイとしては無難な服装を選んだつもりだ。あまり派手すぎるのは性に合わないし、かといってまさか待機任務ですらない完全な休暇なのに軍服を着ていくというのも変な話だろうし―――。
「俺からすればまだ地味すぎるくらいだぜ」腕と足を組んだ攸人がいつになく真剣な眼差しでクレイを見上げた。立ち上がった攸人は、部屋の中のクローゼットを開け―――。
「もっと腕とかにシルバーとかゴールド巻くとかよ。そういうのどうだ?」
 じゃらじゃらと音を立て、腕に巻くのだろうアクセサリーを引っ張りだす攸人。
「えぇ……派手すぎない? というかこの服に合わなくない?」
「冗談だよ、冗談」
 クローゼットの奥に顔を突っ込んだまま、攸人は丸さを感じさせる声を出した。わざわざそのために今の腕輪を買ったのだろうか? 攸人の私服でそういう派手なものは無かったはずだよな、と思い出し、相変わらずな奴だなぁとクローゼットから身体を引っ張り出した攸人の背を見やった。
「まあ真面目な話良いんじゃないか? 俺は好きだな」
「そうか―――そりゃ良かった」
 腕を腰に当て、いつもの人当たりの良さそうな笑みを浮かべた攸人が言う。ほっと胸を撫で下ろしたクレイは、ふと攸人の表情がちょっと違うことに気づいた。
 邪気などなさそうな笑みに少しだけからかいを覗かせたような、かといってそれはからかう積りがあるわけでもなく―――言ってしまえば、なんだか年寄りくさい笑みだった。
「なんだよ……なんか不味いか?」
 つい顔を顰めると、攸人は猶更その昔を懐かしむような笑みを深めて首を横に振った。
「いや、なんかお前がこういう相談に来るとはなぁと思っただけだよ」再びベッドに腰を下ろした攸人がクレイを見上げる。
「だってお前がだぜ? 堅物の象徴だとばっかし思ってたのになぁ。それがデートに行くのにどんな服着てけばいいか~なんて時代も代わったんだねぇ……」
「シツレーな! というか俺はいつから示相化石になったんだよ」
「4年くらい前からだな」
 むぅ、と口を噤む。
 むしろ堅物だからこうして聞いてるんだぞ、とは言わないことにした。そりゃ攸人みたいになんでも器用に熟せれば良いのだろうけれど、言ったとしても栓のないことであろう。持ち得る者は持たざる者の悩みなど理解はできないのだ。
 その、逆も然り―――。
 攸人がベッドの枕元の時計に目をやる。銀色の台座に、カルニオディスクスのように頼りなく首を伸ばした時計が9時を20分ほどの時間だと示していた。
「ほら、そろそろ時間だぞ」
「あぁ。じゃあ、行くよ」
 肯く攸人を背に、クレイは部屋の出口に向かい―――。
「さんきゅ」
 背を向けたまま親指を立てる。おう、頑張れよぉ…―――そんな攸人の声をどこか遠くに聞きながら、クレイは攸人の部屋を後にした。

 全長40kmにも及ぶ大型コロニーであるニューエドワーズは、その大部分を軍事施設と各兵器会社の支店が占める。歓楽街は全体の半分より小さい面積ほどの面積だが、整然と建物が並ぶ様はどこか形而上学的な美麗さがあった。自然は自然のままでいいが、17世紀の科学者たちの感想―――人に征服された自然に対するある種の優越も、全く荒唐無稽とは言い切れないと思う。
 軍事施設と歓楽街の境界ほどに設置された公園の入り口付近で、クレイは何かのブロンズ像に寄りかかってなんともなしに街を眺めていた。
 平日なだけあって人は多い。この大部分はどこかしらの武器会社の関係者だったり、あるいはニューエドワーズ基地で働いている軍人の家族だったりするのだろう。
 平和だな、と思う。
 記憶の摩耗とは結構速いもので、クレイはまだ2か月も前のことでないあの実戦のことを遥か十数年前のことのように感じていた。
 あの時感じた恐怖も、快感も、緊張も。全て色褪せて、なんだかつまらない出来事があった程度の感覚にまで死んでいた。
 クレイは心の中でゆっくりと手を伸ばした。その手の先にあるのはちょうど歩いていくあの小さな女の子。まだジュニア・ハイ・スクールくらいだろうか、コートに金属のファスナーが2つ並んで平行しているジーンズを穿いて、マフラーに顔を埋めている少女の頭に伸ばした手の先を向ける。
 手にはハンドガン。黒々としたガンメタルの輝きが雲間から貫いた陽光を受け、妖しく閃く。
 照準を頭に合わせ、フレームに乗せたままの人差し指をトリガーガードの中に入れる。指の腹が、確かな硬さを持った金属の感触―――トリガーを知覚した。
 幻影のマズルフラッシュが網膜の中で爆発し、軽く鈍い振動が右腕の神経を波打つ。銃口から飛び出した黒々とした弾丸は400m/sを超え、10mと離れていなかった場所を歩いていた少女の頭を一発で綺麗な現代アートに変貌させた。道路に散らばった脳漿は耽美なもので、フライパンでじゅーじゅー炒めれば美味しそうだなぁ、なんて思ったり。後は脳みそを毀した少女の服を剥いで、身体を死姦すれば終わり―――。
 溜息を吐いた。流石に『そっち』の趣味は無いよなぁ、と物理的現実の世界の少女を眺めた。 もちろんクレイの想像上の破戒の影響などは露一つなく、今日一日を健気に過ごすであろう金髪の少女の背が跳ねるようにしながら遠ざかってく。
 少し露骨すぎる。頭の中で検閲官(りせい)が顔を顰める―――クレイも素直にそれに賛同した。身体的な欲求やら必要やらを無暗に抑圧するのは意味がないが、かといって放蕩すれば良いというわけでもあるまい。それも、持ってもいない趣向を無理くり作る必要も無い。何事も中庸が大事、と古代ローマの偉い人も言っている。
 ハの字に眉宇を顰めながら銅像の台座に身体を寄りかかる。クレイは少女の背を、特になんともなしに眺める―――。
「あの、よろしいでしょうか」
 ふと、声が肩を叩いた。
 声の方向を見やる、黒いコートに身を包んだ壮年の男が立っていた。紳士を思わせる帽子に口髭を生やしたその風采は、パッと見で気品高さを感じさせる。軍の関係者、それも上の人間かと考えたクレイは台座に寄りかかった身体を起こした。
「なんでしょうか?」
「いえ、そう大げさな話ではありませんよ」男が人の良さそうな微笑を浮かべる。
「今日は雪が降ると聞いたのですが、本当でしょうか?」
「は―――雪、ですか?」
 思わず目を丸くして、クレイは空を見上げた。
 なるほど空は厚い雲に覆われている―――空を見上げても、分厚く黒い雲向こう側に街は見えない。それに、そもそもそういう季節でもない。クレイの服装はインナーにタンクトップを着て、その外にシャツとジャケット。そしてパンツを穿いているだけの格好で、冬の気候であるならこのような軽装はする筈も無い。
「いえ、降らないと思いますが…」
「そうですか」男は微か程も身動ぎしなかった。「ええ、ありがとうございます」
 男は礼の微笑と共に帽子を取って頭を下げると、足早にクレイの元を去って行った。
「―――なんだったんだ?」
 独り言ちる。まさかこんな天気だからといって雪の心配をするというのも変な話だし、かといって季節外れの雪が降るほど寒くもないし―――。
はて。
 あの紳士(Der Herr)は中々の厚着をしていたような気がする。そう言えば、さっきの少女もコートを着ていたような。
 釣られるようにして、男が去って行った方とは反対側―――少女の背を追うようにして、クレイは遠望するように視線を投げた。当然、もう少女の姿は無かった。
 それでも探すように視線を向けていると、ぽすん、と脇腹を何かが打擲した。
 顔を向ければ、頬を膨らませたエレアの姿があった。
「そんなにさっきの子とえっちぃことしたいの?」
 ぷー、と頬を膨らませながら、エレアの紅い目がクレイを見上げる。
「い、いや、そういうわけではないのだが…」
「まぁ、別にいいけど。気にしないし」
 腰に手を当て、少し呆れた表情をしながらも、エレアの顔には瞋恚の余韻も無かった。それに安堵しながら訂正しようかと思ったが、止めた。それよりも、クレイは彼女の服装が目に入ったからだった。
 マフラーに首を埋めた少女は、コート姿だった。軍用のそれではなく、モスグリーンのコートは明らかに私服だった。
 彼女もコートを着ていた。道路の先を歩いている人を見ても、厚手の服を着ているのだから実際寒いのだろうか―――。
 に、しても。
「前から聞きたいことがあったんだが―――」
「ん? なに?」
「いや、女の人でよく上コートなのに下の防御低い人多いけど、どうなってるのかなぁと」
 エレアの姿を上下に見てみれば、太腿ほどまでの長さのコートから伸びる足は膝の上までが露出していて、それから下は真っ黒だった。所謂オーバーニーソックス、という奴である。
「あぁこれ?」ぺちぺちと足を叩くエレアが意味深な笑みを浮かべる。
「これタイツなんだよ」
 ほら、と丁度白と黒の境目ほどを摘まんで引っ張ると、確かに黒い布地と一緒になって白い部分―――というか、透明な部分が吊られて小さな稜線を描いた。
「はぁ~こんなのあるんだな」屈むようにしてまじまじと見てみると、確かに肌の部分だと思っていた場所はタイツを穿いているようにどこか膜が張っているような質感だった。太股の下半分あたりから着色する一方で、上は無着色にしているというわけだ。
「今日はちょっと寒いから流石に穿けないよ」
 眉宇を寄せて苦笑いするエレア。クレイは、エレアのそのモスグリーンのコートを意識した。
「―――今日ってそんなに寒いかな」
「え? うーん、結構寒いと思うけど……」
 エレアがクレイの姿を見遣る。
 うーん、と人差し指を口に当て、ころんと彼女が首を傾げた。さらされと銀髪が幽らめく。
「寒くないの?」
 ―――どうやら寒いらしい。確かに元々やたらと身体だけは頑丈で寒さとかは割と平気な質ではあったが、それでも限度はある。
 天気予報でも見ておくんだったか、と思う。元々天気予報など見る質でもないし、天気が思わしくないことを知ったのも外に出てからである。
「いや、寒くはないが」
「ふーん?」
 不思議そうに、穴のあくほどにエレアが紅い目を向ける。腰を曲げて上目づかいにする仕草はとても愛らしいのだが、流石に舐めるように上下に視線をやるその感覚にはたじろいでしまう。
 いや、そうか、とクレイは身体を強張らせた。
 彼女に私服を見られるのは、何やかんやで今日が初めてだったのだ。
「へ、変かな……」
 まるで政府高官とでも対峙しているがごとくにぱりっとした姿勢を取る。きょとんとしたエレアはくすりと笑みを浮かべると、ビシッと手でVサインを作って見せる。
「カッコイイカッコイイ」
「そうか……」
 ホッと胸を撫で下ろす。エレアのその忌憚もなければ邪気も無い満面の笑みこそが、自分の不安が些末な拘泥だったことの証明の、何よりも明晰なエヴィデンスだった。
「しかし今日は本当にエレアに任せっきりで良かったのだろうか」
「えー、信用無いかな?」
「いや、こういうのはなんというか男がプランニングすると世の中では決まっているそうでして」
「だって前はクレイが一人で考えたんでしょ? だったら今日はわたしの番だよ。権力(せけん)が決めた魔術(とり)儀式(きめ)なんて気にしない気にしない」
 腕組みしながら一人言って、うんうん肯く。なんとなく釈然としないものを感じるのは、自分がその〈世=権力〉に帰属していたからなのだろう―――それでも、やっぱり違和感を感じてしまうが。漠とした表情をしながら耳の裏あたりを掻いた後、クレイはまぁいいか、と表情を緩めた。
「精々楽をさせてもらいましょうかね」
 こくんと頷いて、エレアが先に行く―――と、彼女は右手を伸ばして、クレイの左手を取った。
「て、手を繋ぐのか?」
 思わず周りを見る。道路の向こうを行きかう人の何人かが、訝しげな視線をこちらに送っていた。
「当たり前じゃん。ほら、早く行こうよ」
 いかにも楽しげな表情の彼女が言う。気恥ずかしさを覚えながらも、自分の手を握る彼女の小さな手を強く、それでも力を入れすぎないように握り返した。
「今日はね、クレイにプレゼントがあるんだー」
「あれ、そうなの?」
 うん、と強く―――首を縦に振ったエレアに引っ張られるようにしながら、クレイは彼女の後姿を網膜に克明に刻んだ。
 その後姿が、どこか吹けばそのまま掻き消えてしまうように、その存在は朧な輪郭しか持っていなかった。
 ※
「はーいいなぁ、俺も女の子と遊びてーなぁ」
 ため息交じりの嘆息も、今日で何度目か。壁に寄りかかったヴィルケイのそのどこか遠くを見るような視線に、ジゼルは呆れていいのか笑っていいのかよくわからなかった。
「ったくおめーはいっつもそれだな」
 ジゼルの内心を代弁するように、ヴィセンテが呆れの視線を向ける。もう一度溜息を吐いたヴィルケイは、頭の後ろで手を組んで、眉間に皺を寄せてどこか恨めし気な視線をヴィセンテに向けた。
「だってもう2月はご無沙汰だぜ? ありえねーよ……」
 がっくりと肩を落としたヴィルケイは、そのままへなへなと床に崩れ落ちてしまった。
 そんなに異性といちゃこら出来ないことが精神的に来るのだろうか―――来るのだろうな、と隣で脱力する男の頭頂部を一瞥した。
 ジゼルは、あまり血統だなんだというのは信じない質だが、イタリア系の男が女とパスタのことしか考えていないというのは冗談半分によく言われることであろう。ヴィルケイを見る限り別にパスタに執着しているでもなしに、モデルで考えればこの男の身体の全部は欲動で出来ていますということなのだろう。だとしたら、現状は極めて不健康な状態なのだろう―――。
「―――戦績は?」
「お?」
「共和国での戦績。それなりに撃墜スコアは稼いだんでしょ?」
 「あぁ、あれね……」よろよろと立ち上がる。
 ヴィルケイはどこか力なく、所在なく斜め上を眺めながら左手の人差し指を一本立てた。
「一人? 珍しいね」
「ないない! こいつの限ってそんな謙虚なことねーよ。桁一つ上」
 あぁなるほどね、と卒爾に見開いていた目を細めて、こくこくと肯く黒髪の男の頭頂部を目に入れた。
 2月やそこらで10人なら十分すぎるではないか―――。ジゼルも人並みに経験がある方ではあるが、この眼前の男の貞操観念はどうなっているのだろう。
 クレイを見習えばいいのに、と思う。あの男はあの男で節操が無い気はあるが、その上でエレア一筋の感じは好ましい印象だ。曰く、人間が天使より優れているという言説のエヴィデンスは、悪を知ってなお善を選びうる存在だからだという。あるいは、昔の政治哲学者の言葉―――相反する思考をもってなお、己のコミットメントを選択できるからである、という。
 まぁ、この男も同じなのだろうなとは思う。ヴィルケイとて、相手を単なる手段以下の存在に見なしてはいない以上、彼の行為は全くの善―――とはちょっと言い難いかもしれないが、少なからず悪ではない筈だ。きっちり気持ちよくなってさっぱりわかれる。それも、また望ましい関係性なのだろう。濃密な関係性だけがパートナーシップではない。
 ジゼルは、腰に手を当てて顔を上げた。視線の先には、ガントリーに収容されたままの紫赤の機体が色も無く佇立していた。
 クレイの乗機であるORX-013SR《ガンダムMk-V》。肩にN-B.R.Dが装備されているのは見慣れた光景だったが、その左腕には物珍しい武装が装備されていた。
 武装、というのは正しくないようにも感じられる。平坦な外見はまさにシールドであるからだが、それでもジゼルがその兵装を武装と認識し得るのは、そのシステムがシールドに尽きないからであろう。
 その先端にはメガ粒子砲が搭載されていて、シールドでありながらも砲撃戦に対応し得る。加えて、そのシールドはバックパックに装備することで増加のブースターユニットにすらなるというのは素晴らしい兵器であろう。加えて、シールドとしての耐久性も高い―――。
「なんかお前ら面倒くさそうだよなぁ」
 のそのそと膝に手を当てて支えにしつつ、身体を伸ばしたヴィルケイもまた《ガンダムMk-V》へと視線をやった。
「あのシールドも新型兵器の実証試験とかなんだろ? クレイとお前はよくやるよ」
「そう? 私としては新型機開発の方がよっぽど面倒くさそうだけど」
「Ζ系の割には悪くねーよ。Ζ計画自体結構蓄積がある技術から完成度たけーし、《ゼータプラス》以上の量産機作ろうって意気込みは感じる。ありゃ良い機体になるぜ」
「にゃるほどねぇ」
 先ほどの気落ちした様子はどこ吹く風で、ヴィルケイはまるで大学生が昔の玩具を財力と技術を駆使してリメイクしているような、そんな笑みを浮かべていた。
 飄々としているようでMSのことが好きなのだ。じゃなけりゃ元々こんな仕事はしていないのだが。
 あぁそういえば、ヴィルケイに借りたままのDVD返さなきゃなぁ、とすっかり元気になったヴィルケイの顔を思い出している時だった。
(ヴィセンテ!)
 格納庫に、刺すような声が響いた。ヴィセンテが顔を上げるのに釣られるようにしてジゼルも声の方向―――紫赤の《ガンダムMk-V》の胴体の前にかかるキャットウォークに目をやった。
 浅黒い肌の少女がひらひらと手を振る。彼女の表情は、遠くでそこまで明瞭に知ることはできなかったが、ジゼルには彼女が―――困っているように、見えた。眉同士が相談しているように寄りあい、いつもふにゃふにゃの口元には何事か言いたげな、それでいて言説化しようがないもどかしさを孕んだように閉じられていた。
(あのさぁ、質問なんだけど)
「なんだよ?」
 ヴィセンテの無線機越しに聞こえた紗夜の声は、やはりどこか歯切れが悪かった。
(次の演習ってN-B.R.Dの試験がメインなんだよね? 実戦装備は重量の関係で装備するだけなんだよね?)
「一応シールドのビーム砲のテストもするんだったか?」
 手許のタブレット端末に目を落としながら、ヴィセンテがキャットウォークの手すりに寄りかかる紗夜の姿を一瞥した。紗夜はそれでも釈然としない様子で首を傾げるばかりだった。
(FCSの設定って砲撃戦用?)
「あぁ、次の演習は専用の設定でやるって聞いてたが―――」
 手許のタブレットを忙しなく手で触れていると、ヴィセンテはどこかのページで手を止めた。眉間に皺を寄せて、まじまじと穴のあくほどに注視した後、「変だな」と独り言ちるように声を漏らした。
「なんかあったの?」
「いや、次の演習の資料を見てたんだが、聞いてたのと情報が違う所が―――」
 ほら、と8インチほどの黒々したタブレット端末の液晶画面を指さす。
「どうなってんだ―――?」思案気に顎に手を当てたヴィセンテが《ガンダムMk-V》を仰ぐ。紫赤に染め上げられた巨人は、何も言わずに黙然と佇立するばかりだった。
(これ直しちゃっていいの?)
「いや、待ってくれ! ちょっと隊長に聞いてみる」
 ぶんぶんと両手を振って紗夜に静止の意を伝えながら、ヴィセンテが駆ける。その後ろ姿を視界の端に捉えながら、ジゼルはクレイの《ガンダムMk-V》の姿を網膜に映した。
 取りつく島のない険嵯を纏わせながら、射殺すような鋭い視線がどこかの虚空へと注がれていた。 
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