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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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56話

 赤毛の男は、右手を口元に当て、手慰みに頬の肉を強く揉んでは緩めるを繰り返し、執務室の男の話を聞いていた。時折力を入れすぎ、内側の頬の肉が歯に当たる。その度に、その報告に来た男が恐々と身動ぎしていることに赤毛の男は気づいていたが、やめる気も無かった。それくらい赤毛の優男は苛々を感じていたのである。
「―――つまり、彼らは失敗したと」
 長々とした報告を終えた男に、赤毛の男―――『エウテュプロン』はただそれだけで応えた。
 は、と黒いスーツに身を包んだ男が肯く。溜息が漏れそうになるのを抑え、椅子に寄りかかった男は静かに瞼をおろし、瞑目した。
 目標の捕縛には失敗―――それだけを取り出せば、結果は失敗なのだろう。だが、と目を開けた『エウテュプロン』はマホガニー材の仰々しいデスクの上にやや不釣りあいな様子で佇む、銀色の無機的で飾り気のないパーソナル・コンピューターのモニターを目にした。
 黒い《ゼータプラス》。《リゲルグ》と近接機動格闘戦闘をするその機影は、ただの《ゼータプラス》ではない。
その黒々とした存在の隙間から、神々しいとすら呼べる蒼い燐光を幽らめかせた姿が網膜に強く焼き付く。
「まぁ、そもそも捕獲出来れば良いくらいにしか思っていなかったからね。本来的にはこれが見られただけでも良かった」
 平時の声色で、微笑を浮かべた男は回転式のチェアをくるりと回す。
 とあるサイドの首都として建設されたコロニーでも、まさに市街地に建つ高層ビルの上層階から眺める下界を目にしながら、左手を右の腋に回し、それを台座にでもするように右腕を載せ、右手で己の口元を掴んだ『エウテュプロン』は、背後に棒立ちする男には見えないようにして、眉と眉を相談させるように皺を寄せた。
 右手の中指で左頬の頬骨を一定の調子で軽く叩く。組んだ足を少しだけ揺らす。身体を伝った振動が脳みそに響いていく。
 内心舌打ちした。以前の「あれ」が効いている恐れもある。そもそも、あまり自分たちの手の内を世界に晒すには時期尚早ではないか―――。
 ふと目を落とす。片手だけで腕を組むように胴体巻かれた左腕の腕時計の時計を目にした『エウテュプロン』は、慌てて―――とはいえそれを身振りで示すようなことも無くゆっくりと椅子を正面に戻した。
「報告ご苦労。これからも励んでくれ」
 黒いスーツの男が身を正し、堅苦しい声を出す。型通りすぎるその動作も、初々しさ故と思えば感じるのは期待である。『エウテュプロン』も立ち上がり、デスクを回って男の前に立つ。小柄な『エウテュプロン』よりも背も高ければ肉付きも牢乎な男は、緊張気味に身体を強張らせた。その男の腕を取り、『エウテュプロン』は男の手を固く握った。
「君のような若い存在がこれからの世の中を作っていくのだ。新たな世のため、君の尽力を期待するよ」
 口を堅く結んだ男は、感動したように肯いた。『エウテュプロン』の右腕を痛い程に握り返し、握手を終えた男が礼をする。踵を返した男の闊歩は若々しい勇ましさを感じさせた。
 男がドアの前で再び踵を返して一礼し、ドアに向き直った時だった。男が重く冷たいドアノブに触れるより前に回転し、重圧を感じさせる濃茶色のドアがゆっくりと開く。
 『エウテュプロン』の秘書の女だった。ドアの前に立つ長い黒髪に中東の厳つさを感じさせる秘書はドアの前に立つ男に一瞬目を丸くした後、粛々と一礼して後ろに下がる。男もまた深々と礼し、足早に部屋を退出していった。
「バラティエ様、婿様がいらっしゃっておりますが」
 ドアを閉めた浅黒い肌の女が言う。どこか耳心地の良い声だ―――『エウテュプロン』は、もちろん才能も込だがその声を理由に彼女を秘書にしていた。
「予定通りだな」
 もう一度時計を見る。むしろ、少し早いくらいだ。この無神論的な世界に在って、敬虔で礼儀正しい男の顔が脳裏に浮かんだ。
「彼ほどの人物を待たせるのは世界にとって不幸せだろうね。行こうか」
 女が静かに肯く。女がドアノブに手を伸ばすよりはやく、ドアノブに手をかけ、ドアを開けた『エウテュプロン』は右手で外を指し示し、その方向へ軽く頭を傾けた。
「バラティエ様がこのようなことをする必要は…」
「中世の騎士や貴族は礼節から女性を丁重に扱ったものだよ」
 くすりと彼女が笑う。口に手を当て、口元を見せないようにするその品の良さもまた、良いところだと『エウテュプロン』は思う。最近の若い子は―――などという人類史の始まりから使い古されたセンテンスを繰り返す気はないが、それでもげらげら声を上げて間抜けのように笑う姿のなんと見苦しいことだろうか。もちろん、それは男にも当てはまることである。
「ありがとうございます―――しかし中世の騎士や貴族も皆が皆高い徳を持っていたわけではないでしょう?」
「賢慮のない騎士や貴族などはその名に相応しくないということさ。礼節を忘れ、欲に目がくらんだ人間など惰民でしかないよ」
 なるほど、と微笑を浮かべた秘書に続き、『エウテュプロン』も己の執務室を出る。長い廊下を歩き、久々にエレベーターに乗る。何階か降りて、客室についたのは5分ほど経ったかどうかという時間だった。
 今度は秘書がドアを開ける。礼を言い、部屋に入れば、赤毛の男の執務室ほどではないが酷く広い客室が広がった。
 ソファに座る男―――というより少年は、その音に軽く振り返ると、ソファから立ち上がって振り返った。
「お久しぶりです、バラティエさん」
 素朴そうな男である。純朴そう、と言い換えてもいい。ひ弱そうだが、その目の光はしっかりと『エウテュプロン』を正面に捉えている。人の良さそうな大人しい笑みを浮かべた少年の姿に、『エウテュプロン』も我知らず微笑を浮かべた。
「久しぶりだね、『アリストテレス』」
「やめてくださいよ。僕はそんな風に呼ばれるほど、偉大な人ではありません」
『アリストテレス』と呼ばれた少年は、気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。色白な姿は肉体的な強さこそ感じさせなかったが、しゃんと立つ姿は自信に満ち満ちているようにも見える。
「君の若さでドクターの資格、物理学や生物学だけでなく哲学や神学の資格も取っている君を差し置いて、万学の祖たる者の名に相応しい人物が居るのであれば僕に教えてほしいな」
「所詮はゼネラリストです。本当のスペシャリストには敵いませんよ」
 奢らない少年だった。そして謙虚な姿だった。
 こうでなくてはならない。これこそ、尊ぶべき若者の規範的な姿であろう。
 『アリストテレス』と握手を交わし、彼の前に浅く腰掛ける。この少年のような青年の前では、彼もまた自然と襟を直そうという気になるのだ。
「それで、例の話は?」
 彼は、期待に満ちた表情で言った。『アリストテレス』は、まだ何も聞いていないのである。わざわざ、『エウテュプロン』の口から聞こうという気持ちで来ているのだ。そういう、男だった。
 ちくりと胸を刺す。この男の期待を裏切ってしまうことが、酷く不道徳なことのように思ってしまった。
 数秒ほど言うのをためらってしまったことから、『アリストテレス』も察したように唇を噛んだ。
「申し訳ない。君に約束しておきながら」
「いえ、良いのですよ。私も急いでいるわけではありませんから。答えを性急に得ようとしても碌な結果にならないことは、私も何度も経験していますし」
 『エウテュプロン』は深く頭を下げると、すぐに表情を改めた『アリストテレス』が慌てたように手を振る。彼はただ年上、という理由だけで純粋に『エウテュプロン』を敬っていたのだ。
「無理はなさらないでください。バラティエさん、私たちには貴方が必要です。所詮私たちは民間人でしかありませんから―――」
「そう言ってもらえると助かるよ。次こそは、きっと君に良い報告を齎そう」
「はい。楽しみにしています」
 頓着のない笑みを浮かべた『アリストテレス』が力強く肯く。
 その後些末な会話を交わし、秘書に『アリストテレス』を見送らせた『エウテュプロン』は客室の窓際へと寄った。
 執務室からは何階か降りているはずなのだが、それでもそれなりの高さだ。市街を見下ろした『エウテュプロン』は、隣のさらに高い高層ビルを見上げた。
 『ラケス』はあまり表だって動かしたくは、ないのだが。
 いつものように、口元に手を当てた赤毛の男は、まるで憎悪でも抱いているかのような険峻な眼差しで、隣接する高層ビルを睨みつけた。 
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