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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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35話

 朝、クレイは絶叫のような空の裂ける音で目を覚ました。
 雷が鳴る音が酷く鼓膜を切り付ける―――朦朧とする知覚を明瞭な意識で無理やり叩き起こす。穴倉から外を見れば、未だ空は薄暗く、大粒の雨が飽きもせずに降りしきっていた。
 スコールとは急に訪れて急に去っていくものではなかったのか? 自分の認識違いだろうか―――だが、長時間の雨ならそもそも事前の気象予報に出てもいいものではないのか? コロニー内の気象を制御するシステムに不具合でも生じているのか―――。
 奇妙な違和感を抱きながら、クレイは考えないようにした。今考えるべきは漫然とした不安ではなく、眼前の諸問題の解決だ。
 とはいえ、とクレイは入口付近まで歩いていく。近づいてみれば雨脚はやや落ち着いているようだが、強いことに変わりはない。波が高ければ、ゴムボートの脱出は非現実的だろう。ゴムボートの中にあった発煙筒は雨風が強いためやはり無駄だ。そのほかにも色々考えたものの、畢竟たった今解決しなければならない緊喫の課題は無かった。
 背後で低く響く唸る静かな音が耳朶を打つ。振り返れば、眠そうに目元を擦ったエレアが可愛らしい声で欠伸をしていた。瞼をぱちぱちと上下にう7う7しばたたかせながら、ゆっくりとした動作でこちらを向けたエレアは、そのままぼーっとクレイの方を眺めた。
「おはよう、エレア」
 エレアは応えず、しばらく漫然とクレイを眺めた後にいきなり奇声を上げて立ち上がった。突進する勢いでクレイの側に来て、手を痛い程に握りしめたエレアの形相はいつになく必死だった。
「大丈夫なの? 足痛くない? 疲れはとれた? えっとそれから……」
 アサルトライフルの火箭のごとく捲し立て、忙しなくぶつぶつ喋る姿に圧倒されながらも微笑を浮かべた。大丈夫だよ、と彼女の頭に優しく触れた。海水を浴びた髪は少しざらついていた。
「ほんとにだいじょうぶ?」
「本当に大丈夫だよ」
 安堵したように顔を緩ませながら、しかしエレアは何故かしゅんとしてしまった。
「雨、まだ降ってるね」
 外の方に目をやったエレアが物憂げに呟いた。エレアもまたこの雨に疑いを抱いているようだった。そうだね、とクレイも雨空を眺めた。
「ボート大丈夫かな?」
「ボート?」
「流されないかなって」
 エレアがクレイを見上げる。何故か彼女の瞳も声色も、妙に『ずれて』いるように感じた。頭に引っかかるような、と言ってもよかった。「ボートはしっかり固定したけど」とは言いながらも、この答えはエレアの不安に直截に応えていないという当ての無い不安感は、次第にクレイの中で増幅していった。
 見に行った方が、良いだろうか。雨はまだ降り続いていたが、昨日よりもほんの少しだけ弱まっているようでもある。雨に塗れるのは気が進まないが、逆に言えば問題はそれだけでもあった。
「見に行こうかな」
 エレアは、うんともすんとも言わずに、やはり何か不安げな表情をしていた。手を握る彼女の力が微かに強まった。
「エレアも行きなよ」
 洞窟の向こうから声が響いた。目を覚ましたエルシーは盛大に大欠伸をして涙を滲ませていた。
 エレアが背後を振り返る。そうしてまたクレイを見上げても、エレアはまだ決めかねているようだった。
「あたしは別に一人でも大丈夫だよ。熊でもいりゃ恐いけどさ。『敵』だって居ないんだし」
 だから行きな、とエルシーが表情を緩めた。
「じゃあ、わたしも行く」
 意を決したようにエレアがクレイの瞳を覗き込んだ。そんなに重大な決意が必要なのだろうか。微笑ましいような、なんというか。ともかくおう、と頷いた。
 実際に洞窟から出たのは、すっかり焼かれてしまって木の棒に厳かに磔にされた蛇を3人でむしゃむしゃと食らってはやたらと多い小骨を吐き出して朝飯を済ませて30分後だった。E型サバイバルキットの携帯食糧は左程美味しくも無いが、いざという時のためとっておいた方がいいという考えから携帯食糧には手は付けなかった。
 洞窟の外に出てみれば、昨日と左程違いがあるようには感じられなかった。吹き付ける風の素っ気なさは相も変わらずで、風に乗って肌を叩く温い雨の厚顔さは昨日ぶりの友人のそれだった。分厚く墨を流したような雲の切れ目から困惑したように顔をのぞかせる明るい光がなければ、昼を過ぎて夕暮れを待つあのどっちつかづな時間帯と勘違いしてしまうところだ。
 「行こう」クレイと同じように空を見上げてから、左手の小指に小指と薬指を絡めたエレアは奇妙な顔をしていた。その顔色の名称をクレイは知らなかったから、特に気にも留めずに森の中へと分け入っていった。
 雨が降りしきった森というのはとにかく最低だった。ぬかるんだ地面はぬるぬると滑るし、それに輪をかけて濡れた植物が意地悪く足を掬うからだ。事実、クレイは何度目か転びそうになった。
 正直に言えば―――クレイは自分の左手を見た。クレイの手を視線でなぞれば、小指だけを絡めたエレアの右手が果敢無げに繋がっていた。手を繋いでぬかるんだ道を歩くのは予想以上に難しかった。しかし、エレアは一向に離そうとしなかった―――それどころかなおもって濃く接合しよう薬指まで絡めてくるのであった。クレイはそれを拒もうともしなかった。歩きにくいことなど、彼女と微かに接触しているこの仄かな喜びに比べれば、取るに足らない些事でしかない。
 浜辺の途上、クレイとエレアは特に言葉を交わさなかった。クレイと同じように、エレアもあまり喋る質ではなかったし、2人は関係性に対してそこまで緊密なプライベートで築かれているわけでもなかった。畢竟、クレイは今日も雑談のネタを持ち合わせていなかったのである。その上エレアはいつにもましてぼんやりしていたため、声をかけてもうんとかすんとかしか語らないことの方が多かった。
 砂浜に着いたのは、クレイはいつものように吃りながら会話に苦慮し、そしてエレアはちっとも楽しそうじゃなかったことに心が砕けそうになってきた頃合いだった。
「まだだね」
 エレアの声は砂浜に打ち寄せた灰色の波の割れる音に吸い込まれていった。波の高さを素早く図ることはできなかったが、海際からそれなりに距離があるのに、クレイとエレアが居る場所まで淀んだ塩水の飛沫が降りかかってくるほどだった。顔に着いた海の破片だか雨だかを拭ったクレイも、エレアに同意した。
 明日までに止むだろうか。空を見上げたが、淀んだ雲がのっぺりと広がる空からは天気が安定する様子は窺い知れなかった。当初の懸念だった軍事用の、黒々として不釣りあいに大きなゴムボートは、近づいてみれば雨と波にさらされて水浸しになってこそいたが、しっかりロープを木に括り付けられていて大丈夫そうだ。一応念を込めてヤシの木に括り付けたロープの部分を調べてみたが、やはり勝手に解けてボートがなくなることはなりそうだ。しかし、微笑とともに大丈夫そうだね、とエレアの顔を伺ってみたがまだ顔色はくすんでいた。まだ、彼女は何か不安を抱えているのだろうかと思案してから、クレイは戸惑いがちに「エレアは大丈夫?」と声をかけた。少しだけ、彼女は首をかしげることで疑問符を示した。
「いや、ほら。エレアはその―――人工的にニュータイプの能力を付与されてるんでしょ? どういう原理かは知らないんだけど、薬とかを使っているんだったら定期的に投与しないのは不味いのかなとか思って」
 虚を突かれた様な顔をしたエレアは、今日初めて表情を微かに緩ませた。彼女は大丈夫、と言いながら、小さく首を横に振った。
「確かに定期的にお薬を飲まなきゃだめなんだけど、でもそんなに頻繁じゃないから。先生が言ってたけど、わたしは結構新しい技術で作られてるから昔ほど不安定じゃないんだって」
 エレアは特に思うところも無いように、すらすらと口にした。
 脳の皺にエレアの言葉が引っかかる。先生とはエレアの生体管理に関わっている医師だろう。『新しい技術で作られている』―――その言い方が棘を含み、深く刻まれたクレイの脳のクレバスに魚の骨のように突き刺さる。だが、クレイは特にそれを表に出そうともせずに「なら良かった」とだけ応えた。
 もう一度空を見上げて、雨脚と並みの具合からして今すぐ帰るのはやはり無理そうだということを改めて認識した。
「帰ろうか」
 くいとエレアの手を引く。いつの間にか5指が絡まった彼女の手は、微かに震えてた。少女はクレイの言葉に反応せず、蝋人形のように平坦な顔でルビーにサファイアを映していた。
 もう一度彼女の手を引っ張る。ようやく身体を動かしたエレアは、恐ろしく緩慢な動きでクレイを瞳に投影した。寒さで色を失った彼女の薄い唇が動いたのかすらもよくわからないほど小さく動き、蚊の羽音のような声を漏らした。
「怖かったんだよ」彼女の指が強く絡まる。
「クレイが倒れた時死んじゃうのかって…居なくなっちゃうって思ったら怖くて…ねぇ、居なくならないよね? ねぇ?」
 ほとんど波に飲み込まれそうな声は、しかし確かに音となってクレイの鼓膜を明確に打ちならす。彼女の顔が酷いくらいに歪み、頬を液体が垂れていく。
 絡んだ指の力が緩む。するりと手元から抜けていった彼女の白い手がクレイの身体に回り、酷く弱弱しい冷たい感触が身体の正面に触れた。
 何故、と大脳新皮質から言葉が這い上がる。腕の中で弱弱しく震える冷たい少女の強くクレイを掴んで離さないその想いは、クレイにはもう当惑するしかなかった。だってそうではないか。クレイとエレアはまだ出会って数か月ほどの仲で、しかもそこまで親密に過ごす時間が長かったわけではないのに―――。初めてエレアと唇を触れあわせたあの日も、そして今日も、彼女の愛はあまりにも唐突で苛烈だった。
 だが、とクレイも少女の身体に手を回す。確かに彼女の愛は唐突で戸惑いを覚えるが、それ以上にクレイは悦楽に満たされていた。こんなにも真っ直ぐに誰かから想いを突きつけられたことなど、クレイのさもしい人生には今まで塵ほども無かったのである。
「場違いかもしれないけど」エレアの身体をもっと強く抱き寄せた。少女の身体は未だに小刻みに震えていた。
「すごく嬉しいよ。そこまで想ってもらったことなんて、無いものでして」
 恐る恐るといったようにエレアが顔を上げる。彼女の白い目もとは、少し赤らんでいた。
「エレアが俺のことを好きだと思ってくれるなら、俺はエレアのことずっと大切にするよ」
 心臓が早鐘を鳴らす。
 野暮ったい男には似合わない台詞だった。歯が浮くような気分をありありと感じながらも、まぁいいじゃないかと思った。ただでさえ未経験な事態のただ中にいるのだから、身振りが多少違っても―――。
 不意にクレイは自分の身体に生じたいつも通りの変異を感じた。その変異はクレイだけでなく、エレアもほぼ同時に理解した。その異変はメタフィジカル的な現象ではなく極めてピュシス的な現象だった―――平易に言えばクレイの下半身はエストロゲンによっていつも通りの反応を起こしていたのである。青臭い台詞は台無しだった。
 2人してぎこちなく微笑を向い合せた。エレアの目元はまだ赤かったし、降りしきる雨のせいで唇にはいつもの瑞々しさは無かったが、沈鬱さはもう霧散していた。
「したいの?」
 エレアの声が耳元を擽る。
 彼女が何を言ったのか理解するのに、大分時間がかかった。そして理解して、「はい?」と間抜けな返事をして彼女の顔を伺えば、ほおずきみたいに紅くして胸に顔を埋めていた。
 心臓の上をエレアの熱い吐息が擽る。いよいよ心臓がはち切れんばかり拍動した。左心室が血液を絞り出し、右心房に酸欠になった血流が大量に押し寄せては心臓と肺を駆け巡った。
 だから、と腕の中でもがいたビスクドールの少女が恨めし気にクレイを睨む。ぎゅっと結んだ唇は力を入れすぎて戦いていた。
「こ、ここで…?」
 わざとらしくきょろきょろと周囲を伺う。白い砂浜の先は灰色の海と空が混然とした世界は悪天候に閉ざされていたが、空間的物理的には酷く開けていることに違いはない。流石に尻込みした―――クレイは童貞なのだ。もちろんいつかは捨ててやろうと息巻いていたし、絶対に『魔法使い』になぞなってたまるかと鼻息を荒くしたものだが、初めてが外だなど誰が想像しよう?
「嫌なの?」
 エレアの声は不機嫌そうだった。実際は、エレアは羞恥のあまりに不機嫌さを装っていたのだが、何分クレイは狼狽していてとんと気が付かなかった。
「嫌ならいいよ」と頬を膨らませてぐいぐいとクレイの身体を押しのけるエレア。
「嫌なわけじゃないんだ」腰に回していた右手をもっと上へ、肩のほうまで上げると腰に回したままの左手と合わせて、逃れようとする矮躯を離さぬようにした。
「ただ外でするのは中々羞恥を喚起させる行為だけれどエレア的には大丈夫なのかなと思った次第で」
 白い肌を一層赤くしたエレアは身を縮こまらせて声を咽喉の奥に押し込めてしまった。恥ずかしいのは恥ずかしいのか、思惟したクレイは、肩に回した手をエレアの頬に当て、長く垂れるもみあげをそっと掻き上げると、人差し指と中指で銀色の髪を絡めながる。そのまま小指と薬指を形のいい頤に滑らせ、17歳にも見えない少女の顔をくいと上げた。
 エレアは笑った。クレイは緊張してヘンテコな顔になっていたからだった。笑みを穏やかにした小さな人が少しだけ背伸びをする。それに合わせて、クレイも少しだけ実を屈めた。
 仄かに唇が触れ合う。たじろいだエレアの薄い肉感の感触が離れ、温い吐息がクレイの唇と鼻先を撫でる。顔を離して今一度サファイアにミルキークォーツを描いてから、再び火照った口唇同士の境界線を綜合させた。
 恐る恐る、勝手のわからない少年のような青年は唇の溶解線に舌を挟み込む。びくりと身を揺すったものの、エレアも同じようにおっかなびっくり舌を出し、その境界的器官を絡めあわせた。
 どれほど猥雑なキスをしていたのか、はたして短かったか長かったか。彼女の腰と内腿に手を這わせることにも執心していたクレイが一端行為を中止したのは、何より呼吸困難に陥ったせいであった。彼女の唇との接触を止めると同時に、顔を真っ赤にしながらげほげほと間抜けなほどに噎せた。肺が軋むほどに、咳嗽を繰り返した。
「慣れていないもので…」
 実際『唾液の交換』をしたことなど一度もなかった。彼女はころころと笑った後、クレイの手をぎゅっと握った。
「あっちに、いこ」
 顔を赤くしたまま、もう一方の手で森の方を指さす。先行く彼女についていき、密生する木々の中のみすぼらしい一本の元へたどり着くと、蝋の肌の少女はおずおずとクレイに背を向け、支えにするように樹木に手をついた。
 何も、言わなかった。ただ、腰まで伸びるほどの重金属の髪が水滴を垂らしていた。
 何も、言わなかった。ただ、心臓に肺が圧迫されて呼吸が苦しくなりながら、彼女の括れた腰に手を当て、すぐに手のひらほどの胸と白に青い血管を透かした太腿に手を伸ばして―――。
 もうそれからはよく覚えていない。確かにクレイは行為に及んだが、その内実をどのようにこなしたのかはとんと記憶になかった。ただ、確かに想起しえたのはエレアの膣の締まり具合と啼き声だった。クレイは行為の終了と共に脱力し、そのまま雨でぐしゃぐしゃになった地面にこけて泥まみれになったのである。
                    ※
 火が、談笑していた。
 木を苗床にし、ぱちぱちと密やかに語り合う火は仲睦まじげだ。ゆらゆらと身体を揺らす様はなんとも雅で、自然と心も和む―――・
 その他にはエレアとエルシーの健やかな寝息がただ聞こえるだけだった。
 洞窟の向こうを見る。外はもうすっかり風は止んでおり、雨雲も困惑気味に水分を地面に垂らしては吸い込まれていくだけだった。
 今日にでも帰ることも可能ではあっただろう。だが、暗闇の海中ゴムボートを漕ぐのは躊躇われた。プロフェッショナルがいるのならともかく、クレイもエレアも所詮は軍事課程の一環で習っているに過ぎないのだ。今は拙速ではなく遅功を得るべきだろう。仮にゴムボートがなくなっていたとしても、朝になってから発煙筒でも焚けばいい。
 うとうとと意識が揺らぐ。今は、何時ごろだろうか。体内時計の具合はAM.1:00あたりだろう。時間の狭間を過ぎ去ってから1時間。疲労感を感じるには大分早い時間だったが、まだ疲労を引き摺っているのだろう。それに今日は今日で色々あった―――隣で時々珍無類な鼾をかくエレアを意識した。
 女の子とは案外太い神経をしているのだろうか? おろおろするばかりだったクレイに対し、エレアはほとんど平然としていたことには感心したものである。
 クレイがいよいよ睡眠に倒れ込まなかったのは、ふと何かを感じたからだった。
 音―――音、だった。静謐が横溢した空間の中に、ほんの微かに雑味が混じったのだ。定期的にリズムを刻み、濁った音を引き摺る音。壁に寄りかからせた身体を起こし、粗野な音源を、洞窟の外に目をやったクレイの網膜を刺激したのは、あまりにも鋭角的な白の閃光だった。それが人工の光で、ライトの光だ―――と理解したのは、泥を撥ねた軍靴の足音とヘルメットの下に灯っていた瞳を見たからだった。
「ハイデガー少尉でしょうか」
 その唐突な声色は、2人いる内のもう1人の男の声だった。
「私はジオン共和国国防軍の者です。貴官の部隊の隊長から要請がありませて、救助にきました」
 柔和な笑みとともに敬礼する。
 救助―――ほっと胸を撫で下ろしながら、クレイも立ち上がって名前と階級を言いながら敬礼した。
「まさかコロニーの中で遭難することがあるとは思いませんでしたよ」
 そうでしょうね、ともう一人の男が快活な笑みを浮かべる。救助の際には柔らかな態度で要救助者を安堵させることが大切だと言うが、なるほど本当のようだ。少なからず、クレイは一気に疲労と脱力が押し寄せるのを感じた。
「ヘビに噛まれるなんて災難でしたね。毒がなくて何よりでした」
 人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。
「全くですよ―――救助だって」
 締まりのない笑みを浮かべながら、背後を振り返る。まだ眠たげにくうくう寝息を立てるエレアに、エルシーはもうすっかり目を覚まして―――。
「―――お前たちは何だ?」
 重たい声が耳朶を打った。
 視線の先にいたエルシーの顔に、クレイは思わず身を竦ませた。鋭く切れ上がった碧い瞳には警戒が―――否、明らかな敵意、威嚇とすら思えるほどの苛烈さに満ち満ちていた。
「もう一度聞くぞ、お前たちは何者だ?」
 どこか快濶な少女といった様子とは明らかに相反するその冷然とした声色に、軍服に身を包んだ男がたじろいだ。ですから私たちはジオン公国の、と慌てたように言葉を漏らした男に対し、エルシーの先鋭化した不快感は露骨なままだ。
 明らかにおかしい。エルシーのその態度も、そして怯えたように身を縮めるエレアの様子も、この男2人が単純に救助に来たわけではないということを雄弁に物語っていた。
 ―――待てよ、クレイは男2人に背を向けながら思案した。何か引っかかる。頭の灰白質に言葉の小骨がつっかえている奇妙な感触。
 背後で大気状態が悪化する予定になっている云々を必死に説明している声を虚しく聞きながら、クレイはそのロゴスの破綻を―――。
「ですから早く我々の連絡艇にですね―――」
 憤懣を言葉の端々からにじませた小太りの男が口角に泡を出しながら説明する中、ぶつりと脳の皺に突き刺さっていた言論の棘を引き抜いたクレイは、一度唇を舐めた。
「あなた方は随分優秀なようですね」
 背の高い方の男が訝しげに顔を顰めた。
「いえ、簡単な話なんですよ」振り返りながら、両腕を後ろに組んだクレイは微笑を浮かべたままにした。「貴方がたは別に医療班というわけではないのでしょう? なのに私のこの左足の太もも裏のこの細かい蛇に噛まれた跡を素早く見つけたわけだ。いや素晴らしい。明かりも碌に出ていないのに大したものです。僕には到底成し得ない妙技ですよ。そうでしょう?」
 ねぇ、ともう一人、やや小太りのほうの男に笑みを向ける。
 困惑を纏った男の視線がもう背の高い男と交錯する。
 アイコンタクトをとったのだ。その一瞬の動作をクレイは見落とさなかったが、かといってクレイは鬼の首を取ったような安堵を覚えたわけではなかった。
 どうやら事前にこの場所の出来事を何らかの手法で知り得ていた―――確かにこの眼前の人間は単なる救助目的ではない。
 目的。考えるまでも無い、クレイは背後の少女の存在を脳裏に描いた。
 だが何者だ? ジオン共和国が? それとも別の―――? 湯水のように湧き出す思案全てが虚しかった。たとえ相手が不穏な何かであることを把握したとしても、クレイにはどうしようもなかった。完全武装している男が2人を相手にクレイはほぼ丸腰。いざともなれば、3秒と経たずに―――。
 頭の中でビープ音がけたましく鳴り響く。滅茶苦茶に打ち鳴らされた鐘が轟音を炸裂させる。
 相も変わらず酷い音が頭の中で鳴り響き続けていたが、クレイにはどうすることもできなかった。
 誰かの声が耳朶を打った。自分の名を呼んでいる気がしたが、遠方より届く雷鳴のような音がその声を飲み込んで―――。
 ハッとクレイは空を見上げた。洞窟の縁と木々の間の漆黒の空、クレイは確かにその音を聞いたことがあった。
「これは―――!?」
 男が狼狽えて同じように空を見上げる。
 音は確かに明瞭な輪郭を描き、クレイが見知った《リゼル》が搭載するZ計画系の新型ミノフスキー・イヨネスコ核融合炉が迸らせる咆哮の轟きだった。コロニー内の大気を蹂躙するほどにスラスターの閃光を爆発させた18mの巨人が上空に舞うや、サーチライトの眩い閃光を降らせた。
「ハロー! 聞こえてるー?」
 外部敷設されたマイクから出力された声は、聞き覚えのない音声だった。スリッド型のカメラアイの奥に潜む単眼がクレイを見降ろしていた。
 666の《リゼル》ではない―――クレイの目は、ゆっくりと木々をへし折り、草花をまき散らしながら大地に足をつけた《リゼル》のフロントスカートに描かれたハートマークと矢のマークを捉えた。
 まだ遠くない記憶の何かと重なり合う―――。
 スリーアローズ。記憶の中で写真撮影されていた女性と《リゼル》の姿が重なり合う。真っ赤なゴーグルカメラの光と眼鏡越しの瞳がシンクロし、クレイの瞳を見返した。
「フェニクスに頼まれてタクシーしに来たわよ」変わらずフランクな女性の声がコロニーの中に響く。
「ささ、この陰険な場所から帰りましょ?」
 クレイは、あの時スリングショットを着ていたプラチナブロンドの女の姿を思い浮かべた。 
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