| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

7話

「全力でやるのは構わないんですけど、もっと優しく使ってほしいのですけど?」
「本当だぜ。《ガンダムMk-V》だって安くないんだぞ?」
 両脇を技術屋に固められる―――2人の険阻な面持ちは、クレイを委縮させるには十分だった。
 ガントリーに押し込められた漆黒の《ガンダムMk-V》の前にかかるキャットウォーク上。ヴィセンテとモニカの刺々しい声を浴びせられながら、クレイは眼前に佇むデュアルアイの顔を見やった。
 ORX-013―――現在、ORX-013"SR"としてサナリィが試験運用する《Mk-V》は、元々はグリプス戦役と呼ばれる一連の内紛の折に開発されたMSだ。地球連邦軍の有するニュータイプ研究所たるオーガスタによって開発された本機は、本来量産型として開発された経緯を持つものの、量産体制を断念してからは新技術を盛り込んだ技術実証機へと変わり、3機がくみ上げられ数機が予備機として生産された。内1機は『ペズンの反乱』の折にニューディサイズで使用され、内1機は戦後処理の慌ただしい中所在不明。内1機は実戦試験を行った後、予備パーツと共にモスボール処理されたと言われるが―――。
「聞いてんのか?」
 男性の割に黒髪を長く伸ばしたヴィセンテが詰め寄る。「聞いています! 聞いていますとも」と顔を引きつらせながら声を張り上げたクレイは、身を固くした。
「《ゼータプラス》のベンチマークとして追加で生産して使わせてもらっているんですから。贅沢に使えるほど数がないんですよ」
 烈火のごとき怒り、というほどの様相ではなかったが、それでもモニカが鼓膜に刺さる声を張り上げる。クレイはしょぼくれた声で、はい、と応じるしかなかった。
 モニカ・アッカーソン17歳。6歳年下の女性―――少女相手に叱られるという情けなさと惨めさを味わいながらも、モニカの内心を知れば仕方ないとも思った。それだけに、クレイは何も言うに言えずに口を噤んだ。
 第666特務戦技評価試験隊は、サナリィと地球連邦軍が合同で行う試験を請け負う試験部隊で、そもそもは教導隊ではないというやや特殊な趣を持つ。その後、紆余曲折あって試験部隊兼教導隊という奇妙な体制が出来上がるのだが、今はどうでもいい話―――モニカは、この部隊に出向したサナリィの人間だ。サナリィの資産たる《Mk-V》をあまりにも無碍に扱われては心穏やかではないということだ。
 心労を吐き出すように鼻息を吐いたモニカは、しかし「でも良かったです」と固さの中に柔和を覗かせた声を出して、手すりに背中を預けた。
「期待していたよりは腕はよさそうですし」
「そうっすねぇ。流石はトップガンて奴?」
「はぁ……?」
 ふてくされたように言いながらも、声は自然と上ずった。褒められることは悪くない―――なんでそこでトップガンなんだ、とは思うが。
「良いです、今日はまあ十分に言ったし。帰っていいですよ」
 モニカがキャットウォークに寄りかかる。まだこの地に着いてから数日と言うのに、彼女の整備服と顔は油に塗れていたが、その顔には埋没した疲労感は無い。
 17歳にして技は卓越―――か。
 純粋に関心を覚えている自覚を持ったクレイは、苦笑いした。
 脳裡に浮かぶのはあの男の顔―――嫉妬だな、と思った。
 今後は気を付けます、と敬礼する。2人の返答を受けた後、踵を返してキャットウォーク端のエレベーターへと足を向けた。
 キャットウォークの途上、2人の微かな声が耳朶を打つ。
 歩みを止め、周囲に視線を投げた。
 眼下に写るジゼルの《ガンダムMk-V》。向こうに視線をやれば、全身の装甲を取り外している作業の最中である《FAZZ》が2機。違う格納庫には《リゼル》と《ゼータプラス》が存在する―――大変だな、と思い、今一度振り返って、背後に小さくなったヴィセンテとモニカを目にした。
 すっかりメカの話に花を咲かせているらしい2人の笑う声がする。かちゃんかちゃんと金属音が響く格納庫の中で、二人が何の話をしているのかは流石に分からなかった。
 全く異なる機体4種を整備するのが、一体どれほど大変なのか―――互換性のある機体など皆無。《ガンダムMk-V》に至っては、特殊すぎる上に準サイコミュ搭載機だ。整備が大変なんてレベルではない。
 上手く使わなければ―――思ったクレイは、ヴィルケイの顔を思い出した。
 あれだけ回し蹴りや踵落とし、蹴りを見舞っておきながら内部フレームにほぼダメージを残さなかった―――と知ったのは、演習後彼の《リゼル》に乗った時だ。
 またあの男の顔が視界を掠める。
 苦笑いも顔に浮かんだが、それ以上に胸中を占めた感情はより峻烈だった。
 まだまだ及ばない―――。拳を握りしめたクレイは、ガントリーの壁に埋め込まれたエレベーターの前まで行くと、抵抗の少ない赤い色のボタンを押した。
 ※
 消灯時間は22時。
 時計を見ると針はその時間を回って久しかった。消灯時間を迎えた宿舎は、遠くから見れば静けさを纏っていたが、クレイは未だその静瀟の内に微睡んではいなかった。
 ひんやりとする夜風がクレイの頬を、頭を撫でる。さわさわと栗色の髪が靡いた。
 じっとりと身体を湿らせる自分の汗が冷えるのを感じながら、深い息を吐いた。
 宿舎周辺の周回はおよそ5キロ。インナーシャツにBDUという軽装であれば、5周―――およそ25キロ走った程度では息切れもしない。それでもさすがに久しぶりに実機に乗ったせいもあってか、骨の髄が痙攣するような疲労を感じ、芝生の上に腰を下ろしていた。
 夜空を見上げる。
 空に浮かぶ明るい星々の光―――人の営みの光が、そう見せるのだ。
 地球の大地からの夜空を一度も生で見たことは無いが、本やインターネット上の画像などで見たことはある―――案外、コロニー内の夜空も似たようなもので、つまらなかった感想を抱いた記憶がある。
 深蒼の夜空に浮かぶ、幽邃の光が数十数百とひしめき合う光景。違いは、地球から見える星々の光は恒星が放った深淵よりの聖光であるのに対して、コロニー内から覗えるのは人々の営みの光であるという点だ。
 大抵の人―――スペースノイドの人々までも、地球で見た夜空の方が美しいと礼賛する。コロニーの空を美しいというものは、地球に降りられない「宇宙人」が僻みで言っているだけでしかない。そんな宇宙世紀開闢以来繰り返され今に至る横柄な論調を、クレイはどこか苦々しく思っていた。確かに、手の届かない遥か彼方に赫々と煌めく炎の星の光を美しいとは思う。しかし、人々の営みの光のその力強さも、同じくらい綺麗なものではないか―――。
「お。やっぱり走ってたか」
 不意に声が肩を叩いた。それでも、クレイが余裕を持って「慣習って奴だよ」と返せたのは、いつも耳に親しんだ声―――攸人の声だったからだ。
 背後に視線をやれば、フライトジャケットにSDUという出で立ちの攸人が両手をポケットに突っ込んだまま、冷風に黒髪をそよがせていた。
「よくやるよ」
 感嘆と呆れが混じったような声だった。とはいえ、攸人の瞳は無邪気そうにクレイを見返していた。
「お前と違って非才の身故な」
「自主的にやる分には十分十分。俺なんてさっきまでこれ読んでたわ」
 ひらひらと右手にぶら下げていた本をそよがせながら、どっこいしょ、とまるで老年のような掛け声とともに攸人が隣に腰を下ろす。シャワーに浴びたばかりなのか、少しだけ濡れた髪から石鹸の無垢な香りが鼻孔に触れた。
 攸人の右手の本―――ライトノベル、とかいう本だ。ぱらぱらとページをめくる友人を脇目で見ながら、ワザとらしく溜息を吐いた。
「ラノベねぇ……息抜きで読む分にはマシなんだけど」
「ラノベを小説として読むからだめなんだって。あれはイラスト集なの」
「そーなの?」
「いやまぁ誇張だけど。正確に言うならあれは「小説」ではなく「ライトノベル」という新しい何かとして捉えなければならないとは思うんだが。まぁそんなに気軽に区別できるわけじゃないけど」
 先ほどまでページをめくっていた本をメガホンのように丸めると、無理やりズボンの後ろポケットに突っ込んだ攸人が身体を横にする。クレイも横になった。
 人工の星光が張り付いた空を自然と見上げる形になった―――きれいは変わらずに、在る。
 そういえばさぁ、と思い出したように言うと、もそもそと攸人の陰が動く。ジャケットのポケットでもまさぐっているらしい。
 彼の目的のものが出てきたのは、直ぐのことだった。
「さっき自販機で買ったんだけど、これ、飲めよ」
 攸人が探し物は飲み物らしい。身を起こした攸人がそのブツを握った手をずいと差し出して、クレイの頬に押し付ける。夜ということもあって、何が入っているのかを窺い知ることはできなかったが、頬に感じる冷たさと水滴の感触はなるほど買ったばかりらしい。身体を起こして、クレイは攸人からそれを受け取った。
 350mlの紙パック入りだ、と知ったのは獲物を受け取った時の質感だが、クレイはいささかその重さに首を傾げた。やたらとずっしり重いそれを不審に思い、BDUのポケットからペンライトを取り出す。ふにふにとした触感のボタンを押し込むと、白光が広がった。
「『栄養補給! スッキリ炭酸グリーンティー』……?」
 怪訝な面持ちのまま、紙パックに記されていたその長々しく実に愉快な字面を読み上げた。緑色の融解しかけたゲル状生物が泡を吹いているというグロテスクな表紙のソレに、顔を引きつらせる。
「エドワーズ限定品! 面白そうじゃん」
 ペンライトの光を受けた攸人の顔は、今は明瞭に見えた。
 至極楽しそうな、少年のような笑みである。そして、この攸人少年はおもむろにもう1つのその獲物を取り出した。
 同じく、表示に描かれているのは満面の笑みのゲル状生物が踊る魔界の飲物―――同じものだ。クレイが顔を引きつらせているのを気にも留めず、攸人は迷いも淀みもなくストローを取り出し、白い丸の挿入口に突き立てた。
 白いストローに口をつけ、吸い上げかけ―――攸人は眉を顰める。
 本気で吸うこと十数秒、諦めた攸人はストローから口を離した。
「これ、吸ってるのに全然中身出てこないぞ」 
 目を丸くした攸人が紙パックを眼前に掲げる。どうやら中身は液体ではなくゲル状の何からしい―――あるいはドロドロすぎて吸えないとか。どちらにせよ、それをどうして紙パックに詰めたのだと商品開発責任者を弾劾裁判にかけたいところである。
 クレイは、複雑な心境でその紙パックに視線を落とした。飲むのに苦労すると分かっているのに、わざわざそれを飲むのは正直嫌なのだが……クレイは、横で必死にストローを吸う攸人を見やった。
 折角買ってきたものを、無碍にするのも悪い。悪意があったわけではないということは、たった今敵機と格闘戦を演じる昔なじみの男の姿を見ればわかるだけに、いらないとは言えなかった。
 飲むしかないか―――重たい腕を動かそうとした時、俄かに水気を含んだ破裂音が耳朶を打った。  
 ぎょっとして隣を見ると、紙パックの内容物をぶちまけ、顔面に浴びた攸人が身体を固まらせていた。
「お前は何をやってんだ」
「いや、押せば飲めるかなと思って押した」
 溜息を吐きながら、クレイは素早くハンカチを取り出した。支給品の、迷彩柄のその布きれを渡す。攸人はあまりハンカチを持ち歩かない男だ、と十分に理解している。サンキューと気さくに返しながらハンカチで顔面に張り付いたその濃緑色のゲル状物質を拭うと、「ひどい目にあったよ」と苦笑いをしてみせた。
「でも味は悪くないぞ。緑茶をめっちゃ甘くして冷たくした感じで」
 指で濃緑色の破片を掬い、口に運んだ攸人が味を吟味するように視線を上にしながら言った。
「グリーンティーを甘くするってどこの魔法少女アニメの提督の発想だよ?」
「んなこたぁないぞ。日本の和菓子にだってそういう奴があるんだ」
「そ、そうなのか?」
「多分」 
 お道化たように肩を竦めると、攸人はストローの口からパックの中身を覗き込むように視線を降ろした。クレイも、釈然としない視線を自分の紙パックに注いだ。
 自分の部屋で処理しよう。
 一人決意していると、
「まだ走るのか?」
 紙パックを開け、残った緑茶のジュース…ゼリーを指で穿り出しては口に運ぶ友人の素行に閉口しながらも、クレイは支給品の時計を見やった。
「今日はここまでにしとく。明日は《ゼータプラス》の試験だし、色々やることも多そう」
 それもそうだな、と攸人も頷くと、2人は切りそろえられた芝生の上に立ち上がり、伸びをした。
 《ゼータプラス》の試験―――第666特務戦技評価試験隊の結成理由とすら言われる、MSZ-006X1/2《ゼータプラス》の技術実証が明日にはあるのだ。ニュータイプ用による運用を想定された特殊機―――ニュータイプ、という言葉に複雑な評価を持つクレイは、しかし物珍しい試作機というその響きに得も言えぬ期待を持っていた。
「《ゼータプラス》のパイロット、大丈夫なのかなぁ」
 空になった紙パックを折りたたみ、BDUのポケットに捻じ込んだ攸人が星空を見上げる。さぁな、と返したクレイも、思案するように腕組みした。
 基本的な人員は、今朝のブリーフィングの際に顔を合わせた。中隊長のフェニクスに、第一小隊は攸人とヴィルケイ。第二小隊は《FAZZ》のクセノフォンとオーウェンに、《Mk-V》のジゼルとクレイ―――第一小隊の人員一人だけが、その場にいなかったのだ。そして、《ゼータプラス》X2型1番機のテストパイロットたるその人員は、どうやら気分がすぐれないという理由でいなかったらしい。
「気分がすぐれないって、なんだったんだろうな?」
 夜空を見上げながら、手慰みに潰れた紙パックを弄る。単なる顔合わせなら、少しくらい気分が悪くても問題はないはずだ-――それだけ気分がすぐれなかったのか、はたまた別な理由があるのか。さぁな、とクレイもまだ新品の紙パックを弄りながら、息をするように返事をした。
「「強化人間」て奴だったりして」
 少しの間の後、攸人がそんなことを嘯いた。思わず攸人の横顔を見た―――冥が降りた世界で、彼の顔を窺い知ることはできなかった。
 X2型の1番機にはサイコミュデバイスが搭載してある。しかも、《Mk-V》に搭載されているような準サイコミュシステムではなく、まさにニュータイプ用に調整されたデバイスを搭載している―――ということは、モニカから聞いた話だ。つまり、X2型《ゼータプラス》1番機のパイロットはそれを操るに足る人間、ということになる。そんな単純な思考の探索をしてみれば、あるいは攸人の言う言葉もあり得る話である。
 むしろ、適当だともいえる気がした。クレイの乗る《Mk-V》も、元々はその型番が示す通りにオーガスタ研究所で試作された機体である。地球連邦軍のニュータイプ研究所と言えば、ニュータイプの研究によるMSの間接思考制御への貢献や優秀な機体の開発などで有名だが、他方黒い噂の絶えない所でもある。
 「強化人間」―――その肉欲的な概念には反吐が出るが、クレイはいたって落ち着き払って言葉を口にすることに努めた。
「天然物かもしれないけどな。まぁ「強化人間」如何に関わらずニュータイプの素養がある人は感受性が高いから、気分を悪くしやすいんじゃねーのかな」
 右手に持った紙パックを真上に放り投げ、そして落下してきた物をキャッチする。
 至極、冷静な声だった―――そして、割かし平静とした心持だった。
 ふーん、と納得したのかしていないのかわからない喃語のような相槌を打つ。元々思い付きだったの思考だったのかもしれない―――と思いついたように攸人がクレイを見やった。
「お前、士官学校時代論文書いたんだっけ……なんだっけ、『新たなニュータイプの展望』だっけか?」
 ああ、と曖昧に頷く。哲学系の何かの雑誌に、クレイは論文を投稿したことがある―――結果はさんざんなものだったが。「大した話じゃないさ」とばつが悪そうに苦笑いすると、攸人は屈託のない笑みを浮かべて首を横に振った。
「大したことだと思うけどね。そういうのはやっぱりちゃんとやってきた奴じゃないとできないもんだろ? 俺にはできないよ」
 攸人の声が蝸牛の内のリンパ液をざわざわとゆらめかせる。
 思わずして彼の顔を見る―――破廉恥な含蓄なぞ微塵も感じさせない、素直な素直な笑みだった。
 クレイは何事か言いかけ―――やめた。代わりに、「まぁ、趣味みたいなもんだから」と応じたクレイは、今一度空を見上げた。
「世の中ってそんなに平等じゃないよなぁ。お前が俺だったら、こんなところでパイロットしてないで大学の院にでも入ってバリバリやってたのかな」
 膝を曲げて土手に座った攸人の顔色は窺い知れない。寝そべった状態から攸人の背を見て知れることは、この男も同じようにまがい物の星空をわけもなく眺めているらしいということだった。
 どうだろうな―――応じながら、クレイは自分の『親』の顔を思い浮かべた。
「なんやかんやでMS動かすのは楽しいんだよな。哲学云々とかは趣味でできるけど―――趣味でやるにはとんでもなくキツいし本当にやってる人らに言ったら怒られるだろうけど―――MSパイロットは趣味でできるわけじゃないし、俺がユートだったとしてもこの道を選んでたさ」
「楽しい、ねぇ? 血族って奴?」
「遺伝要因は何も引き継いでないけど環境要因では大分影響受けてるだろうな」
「お前のマンマは教育熱心だったからな」
 まったくだ―――2人で笑いながら、クレイは頭に浮かんだ肉親の顔を脳髄の奥にでも仕舞い込んだ。
 クレイが先ほど思い浮かべた顔は、一つ。
 母親の顔だ。
 座った時と同じ掛け声で攸人が立ち上がる。つられるようにしてクレイも腕時計を見やる。
 そろそろ戻った方がいい時間だった。
 帰ってシャワーでも浴びよう―――とびっきり熱い奴だ。
「おろ?」
 攸人の声。
 なんだよ、と彼を見やれば背後の土手の上を見ているらしい―――クレイもその視線を追った。
 赤く濡れた風が頬を撫でる。
 肌が粟立った。
 肺が誰かに握られたように萎縮し、心臓の拍動が気まぐれに乱れる錯覚を覚える。
 少し小高い土手の上に、人が居た。
 女―――というよりは少女と呼ぶ方がしっくりくる小柄な体躯。重金属プルトニウムの銀髪を長く靡かせ、干したばかりのシーツに垂らしたトマトソースのような真紅の瞳が妖闇の中で無邪気に幽らめく。
ビスクドールを想起させる綺麗な肌に人口の光が照りかえった。
「こんばんはっ」
 頽落的な人間存在を鼻で笑う、その艶めかしさを内在した少女が口にした言葉は、しかしひどく日常的だった。
「よう、こんばんは」
 気兼ねなく応じるクレイの隣の人間。そんな攸人の素っ気ない気兼ねさに安堵したのか、珠のような笑みをこぼした少女が覚束ない足取りで土手を下ってくる。
 基地職員の人だろうか―――少女の容貌に眩暈を覚えたクレイは、目頭を指で抑える。そんなクレイを知ってか知らずか、ずいと脇腹を肘でつつく。
「ロリコン先生よ、あの子可愛いんじゃないっすか? 子どもっぽい感じの割に出るとこ出てるしぃ。ロリコンの癖におっぱい大好き先生様の好みドストレートだろう」
 攸人が浮かべる猥雑そのもの―――卑猥の権化といっていい笑みに対して、普段なら窘める一言もあって良かったが、クレイはその少女の姿に釘付けになっていた。
 無論、攸人が言うような理由ではない―――嘘。正直に言えば確かに可愛いなと思ったし、小柄な割にはSDUのジャケットらしきもの越しでも十分にわかる豊饒のアヴァロンに目がいかなかったわけではない。だがそれと同等―――ではなくそれ以上に、クレイは身体的な違和感を知覚していた。
 上手く語りとして表現できない感覚―――。
 脳髄の奥にヘドロが溜まるような感覚―――。
「おい……」
 攸人に肩を掴まれた感触で、クレイはハッとした。なんだ、と応じる声も、上ずってしまった。
「何勃たせてんだよ……」
 一瞬、攸人の言葉が単なる音声に聞こえた。そしてその意味を理解しようと努力し、そして理解が及んだところで、クレイは自分の下半身を見やった。
「そりゃお前の性癖は知ってるけどそんなに過激だったっけ?」
 眼前に映った光景に、一人の少年的な青年は言葉を失い、情けなくなった。慌ててそれをどうにかしようとし、同時にコンテクストを理解する。
 クレイは、逡巡の後勢いよくしゃがみこむという応急処置を取った。
 丁度クレイと攸人の前まで来たところだった少女はクレイの奇行にぎょっと体を強張らせると、「どうしたの?」と拙い口調で言った。
「いや、なんか急に腹が痛くなったんだよ……」
 額に冷や汗が流れる。決して、腹痛の際に流れる脂汗ではない。引きつった苦笑いを浮かべながら俯くと、少女はどこか釈然としない様子で首をかしげたが、それ以上クレイの奇行については尋ねなかった。
 数秒ほどの沈黙―――俯いていたクレイは、ふと視線に気づいた。
 恐る恐る顔を上げると、その混じりけのない紅い瞳にクレイを映していた―――不意に、少女が身を屈め、クレイの眼前に顔を突き出した。驚いたクレイがもたつく様をぽかんとした表情でひとしきり見つめると、その蠱惑的なかんばせを子どもっぽく緩ませた。
「ふしぎな人」
 花がほころぶような―――という形容の仕方があるが、まさにそれだと思った。得体のしれない心臓の拍動を感じたクレイは、おうだのあうだの言うだけで、しどろもどろになるほかなかった。
「おにーさんも、それ飲むの?」
 不意にしゃがんだ少女の面が眼前にくる。至近で見れば見るほど見惚れる美麗な肌。心臓の中でキャニスター弾でも炸裂しているのかと思うほどの過緊張になりながら、彼女の言葉を何とか理解しようと努めた。
 それ―――右手に持った紙パックのことだ。
「私も、それ好きなの。ほら」
 ごそごそとポケットを探った彼女がそれを出す。
 紙パックに描かれているのは緑色のヘドロ野郎―――タイトルは見るまでもなく、心の中で復唱することすらばかばかしく感じる。
 旨いのか―――?
 顔が引きつる。
「旨いんだけどさぁ、それどうやって飲むんだ? 上手く飲めなくて」
 大げさに両手を上げてお手上げのポーズを取る攸人。
 少女が顔をきょとんと硬直させたのもつかの間、少女らしい華のような笑みを浮かべた少女が紙パックの裏に貼り付けられたストローの袋から中身を抜き出す。ストローを伸ばし、尖った方を紙パックの口に差し込む。
 ぱすっ、という気の抜けた音が鳴った。
「んーとね、こうやるの」
 半分ほどストローを突き刺すと、彼女はごく普通にストローに口をつけた。飾り気のない濡れた薄い唇が淫猥にその白い棒を咥えると、両手で紙パックを抑え込んだ。
 器用に両手の力を咥え、ゲル状の中身を押し出しては可愛らしいその唇が微かに動き、艶めかしく咽喉が上下する。
「なるほど、微妙な力加減ってわけか」
 感心したように攸人が腕組みする。
 こくこくと首を傾げて肯定する少女の笑み―――彼女を見上げるクレイは、心臓が不定にうねるような感触を理解できずにいた。
 いや、理解はしていた。理解はしていたが、それを信じようとはしなかった。
 あの時感じた違和感は『そういうもの』ではなかった―――確かに、攸人の言うように少女に幻想を抱いているクレイにとって彼女の存在の衝撃は言うに及ばないのだが。
 後で悩もう―――取り敢えずの判断停止をしたクレイは、自分の痴態の収束を確認すると、重たい腰を上げた。
「お腹治ったの?」
「なんとか」
 ワザとらしくお腹のあたりを触って、笑みを浮かべてみる。
 自分でもぎこちない表情になった自覚があった。けれど、彼女は気にも留めない様子で、ただ、よかったねとだけ口にした。
 改めて相対して思う、小さい女の子だ。身長は150あるかないかぐらいだろうか、身長だけならジュニアハイスクールの生徒と言っても納得してしまう。それに、リスがどんぐりを掴むように紙パックを手に持ち、無垢に緑茶を飲む様子とその童顔。むしろまだその年代の少女なのではないかと思ってしまうが、こうしてSDUを着込んでいるのだから成人はしているのだろうが―――。
 ふらふらとクレイと攸人の間を赤い瞳が行き交う。何か探しているような、それとも何も考えていないような顔。
 ひたとクレイを眼が捉える。
 赤い宇宙でもぽっかり空いているのかと思うほどまじまじと見つめてくる彼女にたじろぎながら、なんだい、と必死に応じる。
「んーんー?」
 ストローを咥えたまま、首を左右に揺らす。釈然としない顔で、今度は攸人へ―――またも、同じように釈然としない顔をして唸るだけだ。
 あんたの方がよっぽど不思議だよ、と思いながら攸人を見る。
 攸人の視線も、クレイを捉えた。考えていることは同じことらしい、ということは友人の苦笑いのような、困ったような表情を見れば理解は容易かった。
 幾分、クレイはこういう人に出会ったのは初めてであっただけに判断に困るのである。
 男2人が判断にあぐねいていると、魔物を飲み下したらしい少女がストローから口を離す。
 そろそろ時間、そういって時計と2人を見比べる。
 確かに夜も遅い時間だ―――空を見上げれば、星々の数も気持ち少なくなっている気がした。
「確かに遅いなぁ。送っていこうか?」
 気さくにこういうことを言えるのはクレイには難しかった。下心なぞ感じさせない気配りができるのは素直に感心する―――同時に得も言えぬ哀愁を感じながら、クレイもわざとらしく、その方がいいな、と相槌を打つばかりだった。
「んー、とおまわりに帰るからいいよ」
「そうか、なら気を付けてね」
 うん、と元気よく返事をした少女は踵を返し、小走りに土手を登っていく―――と、上に登ったあたりで顧望した。
「ばいばい」
 ひらひらと手を振る彼女の顔は窺い知れない。
 どっちに言ったのだろう。そんな思惟を過らせたクレイは、自分の矮小さを内心窘めながら敬礼を取った。人差指と中指だけ立てるくだけたやり方だ―――格好つけているのだ。そして、自分がしてもあまり格好良くはないんだろうな、とも思った。
 またね。
 手を振っていた攸人が脇腹を小突く。
「もうちょいフランクにいかないとダメだって」
 わかっている。内心でも、そして返答でも、そう応える。
 右手に掴まれた紙パックに目を落とした。不定にうねるヘドロの化け物の眩しいばかりの笑みがプリントされたそれ―――飲んでみようか、と思った。
 変わらない―――いつまでたっても。呆れるような感慨を覚える。
 2人は並んで彼女の姿が見えなくなるまでぶつくさとひとしきり言い合うと、そそくさと宿舎へ向かった。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧