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藤崎京之介怪異譚

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case.4 「静謐の檻」
  Ⅲ 7.2.PM1:42


「くどい様だが、ここは完全に不協和音になる。象徴的なのは“バラバ'の部分だから、ここにチェックをしといてくれ。単にフォルテじゃなく、飽くまで強調だからな。厚みのある音で表現して欲しいんだ。じゃ、もう一度。」
 そう言い終えると、俺はタクトを振り上げた。今は“マタイ受難曲”の仕上げに掛かっているのだ。手狭な部屋に、何とか全員入ってもらっているが…もうカツカツだ。ま、今日だけだから我慢してもらうしかない。
「よし、これで良い。明日はオケだけでブランデンブルグをやる。コーラスは田邊君に任せてあるから、中と最終日にやるやつを練習しておいてほしい。みんな以前演奏したものばかりだが、くれぐれも気抜かりの無いようにしてくれよ!」
「はい!」
 全員気合いが入っていた。バッハという偉大な作曲家の音楽ということもあるが、旧ホール最後の演奏会という方が大きいのかも知れない。
 俺達演奏家にとっては、演奏ホールは人生と言っても過言じゃない。音楽だけでなく、演劇など他の人にとっても同じなんじゃないかと思う。
 だから、古くなったホールというのは、それだけ人々の思い…喜怒哀楽が染み付いているようで、それが壊されるというのはどのようなホールにしろ、やはり一つ二つの思いや寂しさが込み上げてくる。
 それは、そこで初めて演奏したとしても同じことだ。
「それじゃ、今日はこれで解散にする。各自楽器の手入れを怠らないように。」
「了解です!」
 やはり軍隊のようだ…。まぁ、息が合っているってことで、良い傾向だとは思うんだけどな…。
 この日はこれで休みとして、俺は副業へと向かうことにした。夕方に数名と話を出来る様にしてあると山之内氏より言われていたので、旧館のフロアに行くことになっていたのだ。
「先生、どちらへ?」
 旧館へ行こうとしていた時、後ろから田邊が声を掛けてきた。今回は一人でやるつもりだった俺は、その声にビクッと体を硬直させた。
「やぁ、田邊君。今日はもう休んでも良いのだよ?一体どうしたんだい?」
「先生…あからさまに変じゃないですか…。まさか、また変な事件に巻き込まれてるんじゃないでしょうねぇ…。」
 田邊は半眼で俺を見据えている…。こいつは顔形が良い分、こういう顔付きはかなり怖い…。
「い、いやぁ…そんなことはないさ。」
「やっぱり巻き込まれてるんですね?」
「なぜそうなるんだ?」
 田邊の勘は鋭い。いや…単に俺の隠し方が下手なのか?何にせよ、田邊に隠し事は無理だと諦め、暫く話すかどうか考えていると、痺れを切らして田邊が口を開いた。
「また先生に何かあったら…僕、首を吊りますよ?それでも言ってはくれませんか?」
「やめなさい!全くなんてことを…。仕方無い、話すよ。実はこの旅館のオーナーに、僕の副業を知られていたようでね。ま、僕を推薦したヤツがいたみたいで、その仕事を…」
「また相模さんですか…。」
 俺の言葉を最後まで聞かないうちに、田邊が青白く燃え出してしまった。
 田邊は相模のことをかなり嫌っている。まぁ…相模との仕事で無傷だった試しはないからなぁ…。
「ま、まぁ…そう怒るなって。今回は前金で依頼料も貰ってあるし、どうしても無理だったら、ドイツの叔父に話して来てもらうからさ…。」
 田邊は尚も不服そうな顔をしていたが、「まぁ…それでしたら…。」と、渋々了承したのだった。
「しかし先生。それでしたら、僕も手伝わせて頂きますよ?僕は僕で勝手に動くと言うことで、報酬は一切要りませんから。」
 全く…田邊らしいな…。忘れそうになるんだが、こいつは金持ちだからなぁ…。まぁ、仕方無い。
「分かったよ…。それじゃ、君には別のことを頼みたい。」
「何ですか?」
「今から三十年程前に起きた、当時の山之内家当主の失踪についてだ。失踪時と、その後どうなったかを詳しく調べてほしいんだ。」
「先々代ですか…。先代の尚輝氏のことではなくて…ですか?」
 こういうことだけはよく知ってるな…。ま、資産家の息子だし、大抵の資産家のことについては知っていて当たり前か。
「そうだ。先々代の龍之介氏についてだ。先代については、完全に病死と分かってるからな。じゃ、俺は今から話を聞きに行くから、君はその事を出来るだけ早く調べておいてほしい。」
「分かりました。それでは直ぐに取り掛かります。」
 田邊はそう言って一礼すると、直ぐにその場から離れて行った。俺は田邊が去ったことを確認し、身を翻して旧館へと急いだのだった。



 
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