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黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇

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7部分:第七章


第七章

「幾らでもね」
「そこもいつも通りか。相変わらず楽しむのう」
「さっきも言ったわね。楽しみには時間をかける主義だって」
 それをまた言うのだった。
「それだけよ」
「やはり日本人とは思えぬが。まあいい」
 これ以上話をしても堂々巡りだと思った。それで話を止めるのだった。
「行くのじゃ。よいな」
「ええ。それじゃあね」
「うむ」
 こうして沙耶香は老婆の店を後にした。そうして出口のところで一旦懐に手を入れた。そこから黒い懐中時計を出した。それは銀の鎖で服に繋げられている。
「思ったより長くかかったわね」
 彼女は時計が示す時間を見て呟いた。見れば九時である。
「さて。お昼には少し時間があるけれど」
 その空いた時間をどうするか考える。その標的を探るのかそれとも。彼女はここではとりあえずは前者を選ぶのであった。
 一歩前に出る。すると足元の他ならぬ彼女自身の影が動いた。そうしてその影が不意に幾つにもなりそれぞれが沙耶香となったのであった。
「仕事をはじめるわ」
 沙耶香は周りにいる自分自身達にそう告げた。影達はまずは沈黙してその言葉を聞いている。しかしやがてその中の一人が口を開いた。
「私達は私達で動けばいいのね」
「ええ、そうよ」
 沙耶香はその影の一人の言葉に応えた。
「何をしてもいいわ。その方が情報が集まり易いし」
「そう。わかったわ」
「それじゃあ好きにやらせてもらうわ」
 影達はそれぞれ本体に対して述べる。影ではあるが姿は全く沙耶香と変わりはしない。影まである。そうした意味で完全に沙耶香自身であった。
「私も好きにやるから」
 沙耶香自身も言う。
「そういうことでね」
「ええ」
「それじゃあ」
 沙耶香達はそれぞれ別れた。ある者は青い渦を出してその中に消えある者はそのまま霧となり姿を消しまたある者は踵を返して何処かへと向かった。そうしてそれぞれ動き出したのであった。
 沙耶香自身ももう動いていた。その暗く誰もいない道を通り抜けて店が立ち並ぶ中を抜ける。商売人達の喧騒を聞きながらまずはある場所に向かうのであった。
「まずは。あそこね」
 そう呟きながら向かったのは黄浦区であった。かつてはイギリスの租借地であり上海の中心商業区でもある。言わずと知れた上海の中心地区である。
 彼女はここの豫園に入った。ここは明時代の庭園であり「豫」は愉を示す。つまり豫園とは楽しい園という意味である。かつては四川省の役人であった潘允端が両親のために贈った庭園であり一五五九年から一五七七年の十八年の歳月を費やし造営されたものだ。黒い屋根に赤い建物が実に映える。広がっている池は鮮やかな緑でありそこがまた目につく。沙耶香はそこに多くの観光客達と混じって入るのだった。
 彼女が留まるのは豫園入口の前の緑波池という蓮の池のところであった。そこの池の中にある二階建ての東屋にいる。ここは丁度池の中央ににあることから湖心亭と呼ばれている。四〇〇年前に建てられたものであり清代の一七八四年に一度再建されている。中は喫茶店になっているが沙耶香はそこには入らす橋に向かった。ここはここと湖心亭を結びギザギザにかかっている。この橋の名を九曲橋という。沙耶香はこの九曲橋の上を進んだ。その下にはやはり目が眩むばかりの鮮やかな緑の池が広がっている。
 この橋は以前は石造りであったが一九三二年に鉄筋コンクリート製に再建された。この橋がギザギザになっている理由はであるが人間はジグザグに歩けるが悪霊は真っ直ぐ進むのでこれを池に落としてしまう為とも湖岸から見たデザインがいいとも橋をジグザグに歩けば景色がいろいろに変わるからだとも言われている。また曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので規模が大きいことを象徴するということらしい。中々色々と話がある橋である。
 その橋の上を歩いていると。前から誰かがやって来た。それは黒い服に目を包み丸く黒いサングラスをかけた小男であった。手には杖を持っている。
「おかしなことね」
 沙耶香は前から来るその男を見て呟いた。何時の間にか周りには誰もいなくなりこの広い場に二人だけとなっていた。面妖なことにだ。
「この橋は悪霊は歩けない筈だけれど」
「ほほほ、左様ですか」
 男は沙耶香のその言葉に笑う。笑いながらもその足を止めない。杖を頼りに前に進んでいるがその動きはやけに速いものであった。
「では私はそういった類ではないのですな」
「さて、それはどうかしら」
 沙耶香はその男に対して述べた。
「とてもそうは思えないものがあるけれど」
「それはまたどうして」
「気配よ」
 沙耶香は男を見据えながら言う。
「その気配はとても普通の人間のものではないわ。そう、まるで」
「まるで?」
「人ではないもの。異形の者の気配ね」
「おやおや、初対面の者を捕まえて」
 男は沙耶香のその言葉におかしそうに笑ってみせてきた。
「随分と失礼な方です」
「生憎と礼儀作法には相手を選ぶのよ」
 沙耶香は男を見据えたまま言う。言いながら足の動きを止めていた。
「悪いけれどね」
「左様ですか。ですが私は違いますぞ」
 男は確かに礼儀正しい。しかしそれは普通の礼儀正しさではなかった。何か得体の知れない不気味さと剣呑さを含ませたものであった。それを身に纏わせたまま沙耶香の方に歩いて来るのであった。
 
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