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黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇

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26部分:第二十六章


第二十六章

「それだけなのよ」
「それでもこうして私を抱いていてくれるのね。貴女は」
「だから。それは貴女の美に敬意を表してよ」
 また彼女の耳元で囁いた。
「わかっていてくれて欲しいわ」
「じゃあ。わかったわ」
 妖鈴は沙耶香のその言葉に頷いた。
「その言葉を。最後に聞けたから。貴女のその心も受け取ったから」
 もう終わりであった。顔は完全に蒼白になった。顔にも力がなくなっていく。妖鈴はその顔で最後の力を振り絞って沙耶香に対して語っているのだ。
「満足よ。これまで満足したことなんてなかったけれど」
「全てを手に入れてもそうだったのね」
「それだけで満足できるものではないわ」
 また沙耶香に語る。
「人というものは。何で満足できるかなんて自分でもわからないから」
「そうね」
 彼女のその言葉に頷いてみせる。これはわかった。
「だから人は難しいものね」
「けれど私は最後に満足することができた」
 それに満足している妖鈴であった。
「それでいいわ。それでね」
「そう。それで」
「だから。さようなら」
 最後の別れの言葉であった。
「最後に満足させてくれて抱き締めてくれた貴女にだけこの言葉を贈るわ」
 そこまで告げて頭を垂れた。そうして沙耶香の腕の中で静かに息を引き取るのだった。
「終わったわね」
 妖鈴の亡骸を抱いて呟いた。
「これで。それじゃあ」
 一旦彼女を寝かせた。既に目を閉じているその身体を仰向けに寝かせる。そうしてその両手を胸の上で組ませるとその横に立つ。それから自分の手に一輪の花を出した。それはあの薔薇ではなく牡丹であった。白い牡丹の花を出したのであった。
「美しいものは永遠にそのままで」
 妖鈴に対して告げる。
「そうしてその中で眠るのが相応しい。だから」
 牡丹を彼女の上に投げた。それは瞬く間に散り夢幻の様に彼女を覆ってしまった。それで彼女の亡骸を包み込んでしまったのであった。
 沙耶香はそれを見届けると屋敷を後にした。既にそこにはもう誰もいなかった。屋敷も何もかもが牡丹の花びらに覆われて。後にはそのかぐわしい香りがあるだけであった。その香りを背に一人戦いの場を後にするのであった。
「それで終わりじゃな」
「ええ」
 上海を発つ直前に老婆のところにやって来た。そうして最後の話をしていた。
「これでね。全てが終わったわ」
「よくやったのう」
 老婆はそこまで聞いて彼女にねぎらいの言葉をかけた。
「わしからはこれをやろうぞ」
「お酒ね」
「紹興酒じゃ」
 すっと自分の前に出したボトルを指差して告げる。
「好きなだけ飲むがいい」
「何か姉妹とそこは同じね」
「そうなのかい?」
「ニューヨークではバーボンをもらったわ」
 目を細めさせて言う。
「それでそれを頂いたのだけれど」
「まあ姉妹じゃからな」
 老婆も目を細めさせてそれに応えるのだった。
「贈り物が似るのも当然じゃろうな」
「考えてみればそうね。それじゃあ」
「貰ってくれるかのう」
「くれるものは貰っておくのが私の信条よ」
 そう述べて手を伸ばす。そうしてその紹興酒を手に取ったのであった。
「では頂くわね」
「紹興酒の中でも絶品じゃぞ」
 老婆はそれを強く保障した。
「楽しんで飲んでくれれば何よりじゃ」
「そうね。お酒は楽しむ為のもの」
 既にそれを手の中に収めている。そうしたうえでの言葉であった。
「是非そうさせてもらうわ」
「そうしてもらうと何よりじゃ。それにしても」
「何かしら」
 ここでまた老婆の言葉に顔を向けるのであった。紹興酒から一旦顔を離している。
「よく生きておったな」
「彼女を抱き締めたことかしら」
「それもあるがあの女の術でじゃ」
 老婆はそこも言うのであった。それこそが彼女にとっては最大の謎であったのだ。
「丹薬を飲んでいたとはいえな」
「かなりの量を飲んだわ」
 沙耶香は自分でそれを告げた。
「そのせいよ。元々かなりの効果がある丹薬だったけれどね」
「質と量か」
「ええ。かなりのものを支払ったけれどその価値はあったわ」
 道士にかなりの寄付をしたことも言う。だがそれは沙耶香にとっては決して高いものではなかったのだ。それだけの価値があるものだったからだ。
「おかげでこうして仕事を果たせて」
「最後に抱き締めることができたからかい」
「美女の最期を看取るのは最高の幸せよ」
 そう述べてまた目を細めさせた。
「違うかしら」
「そうじゃのう。少なくとも絵になるな」
「それができたからいいのよ。それでね」
「左様か」
「少なくとも悔いのない仕事だったわ」
 それはかなり満足していた。
「おかげでね」
「ならよいことじゃ。そして」
「そして。何かしら」
「これからすぐに東京に帰るのじゃな」
「飛行機のチケットはもう用意してあるわ」
 そう老婆に対して答えた。
「暫くしたらね。この店を出たらすぐに空港に向かうわ」
「ではまた今度じゃな」
「そうね。気が向いたらここに立ち寄ることもあるでしょうけれど」
「どうせ女を楽しむついでじゃろう」
 沙耶香の言葉に笑って言葉を返した。
「違うかのう?主のいつもを考えると」
「そうかも知れないわね」
 そして沙耶香もそれを否定しないのであった。
「それかお酒か」
「どちらにしろ。主の好きなものばかりじゃな」
「美女と美酒は人生の悦びよ」
 妖美な笑みを浮かべての言葉であった。
「その二つがあるのなら何処にでも行くわ」
「わかった。じゃあその二つに巡り合えればまたな」
「ええ。それじゃあ」
 紹興酒を魔術で何処かへと消してそれから踵を返し後姿で別れの挨拶をする。
「また。縁があればね」
「東京に帰ったら宜しく伝えてくれ」
 老婆は東京にいる己の姉妹に宜しく言うように伝えた。
「それかニューヨークにな」
「ニューヨークはわからないけれど東京はわかったわ」
 沙耶香は老婆の言葉に背を向けて歩きながら答えた。
「帰ったらすぐにね。伝えるわ」
「頼むぞ」
「じゃあ。またね」
「うむ」
 沙耶香は最後に老婆の方を振り向いて別れの挨拶を告げた。老婆もそれに応える。そのうえで彼女は上海を後にするのであった。上海の風は潮と牡丹の香りがした。沙耶香は牡丹の香りが漂うことに微笑みながらこの街を後にする。そうしてその香りを身に纏いつつ東京へと帰るのであった。


黒魔術師松本沙耶香  毒婦篇   完



                 2007・12・18
 
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