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黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇

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1部分:第一章


第一章

                 黒魔術師松本沙耶香  毒婦篇
 上海。この街は俗に魔都と呼ばれている。
 今その街に漆黒の堕天使がいた。長い黒髪を上で束ね漆黒のスーツとズボン、靴、白いカッターと赤いネクタイを身に着けている。男に見える身なりであるが服の上からでもはっきりとわかる豊かな胸が彼女が女であるということを示していた。長身でありさながらモデルのようである。
 顔は面長で雪よりも白い。唇は小さく紅の色をしておりブラックルビーの輝きを放つ目は切れ長で奥二重である。濃厚な退廃を漂わせた美貌であった。
 その美貌の持ち主が夜の魔都を歩いている。歩きながら何かを探しているようであった。その彼女のところに一羽の鳥が来た。それは黒い梟であった。
「そう」
 沙耶香はその梟から何かを聞いたようであった。納得した顔で頷いていた。
「わかったわ。それなら」
 その言葉に頷いて右手を前に掲げる。すると梟はその手の平の上に止まりそこで露と消えたのであった。後に残ったのは一輪の黒い花であった。
 その花も彼女の手の中に消えるとそのまま何処かへと行くのであった。行く場所は夜の街だった。夜の中に浮かび上がる一つの店の中に入っていた。
 そこは清代の趣を漂わせていた。赤、いや紅の光で店の中を照らし出し燈篭の弱々しい灯りと胡弓、琴の調べがゆったりと聴こえている。女はその中の一席に座っている。そこにこれまた紅のチャイナドレスに身を包んだ女が彼女のところに歩み寄ってきた。顔が奇麗に化粧されその切れ長の黒い目と頭の左右で団子にした髪、何よりも大きくスリットが入り白く奇麗な脚を目立たせると共に金や銀の糸で刺繍されたそのドレスが中国というものを意識される。何処までも中国の持つ退廃の美貌を魅せる女が漆黒の女のところに来るのであった。
「女の方なのね」
「女はこの店に来てはいけないのかしら」
 黒衣の女は中国風の黒い木の椅子に座っている。テーブルも同じ色でありそこに置かれているワインを楽しんでいた。紅いワインであった。
「そういう決まりはなかった筈だけれど」
「ええ、ないわ」
 チャイナドレスの女はその女の問いに妖しく笑って答えるのだった。
「それは本当よ」
「じゃあいいのね」
「ええ。ただ貴女は」
 ここでチャイナドレスの女は漆黒の女のことに気付いたのだった。
「中国人ではないわね」
「ええ、日本人よ」
 自分からそれを認めてみせた。悠然と笑って。
「名前は松本」
「松本さんね」
「そう。松本沙耶香」
 今自分の名を名乗った。悠然とした笑みのままで。その悠然さには妖艶さも混じっておりワインに実に合っていた。
「それが私の名前よ」
「何か如何にも日本人という名前ね」
「そうかしら」
 それには全く自覚がない。だから沙耶香もこう答えを返したのである。
「私はそうは思わないけれど」
「日本人は結構そういうところに鈍感ね」6
「それはそうかも知れないわね」
 何となくわかることではあった。沙耶香も日本人だが自分の名前が日本人らしいかどうかは考えたことも意識したこともなかった。それは事実である。
「けれど。自覚しているものはあるわ」
「何かしら、それは」
「自分の美しさよ」
 その言葉と共に妖しげに笑ってみせる。そのうえでの言葉であった。
「それは自覚しているわよ」
「そういうところは日本人らしくないわね」
「よく言われるわ」
 やはり笑って述べる。日本人というものは謙遜を美徳とすると言われている。そういう点においては沙耶香はあまりそうではなかった。
「気にはしていないけれどね」
「そういうところも日本人らしくないわね」
「かもね。ところで」
「ええ」
 ここで話題を変える。今度は沙耶香が彼女に問う番であった。
「貴女の名前は?」
「私の名前?」
「そうよ。聞きたいのだけれど」
「それは何故かしら」
 美女もまた妖しく笑う。そうして沙耶香の答えを待っていた。二人はその言葉のやり取りを楽しんでいる。それはさながらお互いを愛撫し合うかのようであった。
「一夜を共にする相手の名前を聞いて悪いのかしら」
「あら、私を選んだのかしら」
「そうね。今夜は」
 また彼女に告げる。
「貴女がいいわ」
「女同士なのにいいのかしら」
「男は男で」
 それに応えて述べる沙耶香であった。
「女は女で快楽があるわ。今夜はそれを味わいたいのよ」
「そうなの。それで私なのね」
「駄目ならいいわ」
 あえて突き放してきた。
「私は無理強いはしないわ。少なくとも今はね」
「私に対してはという意味ね」
「そうよ。あくまで私は待つだけ」
 また言ってみせてきた。あえて動かずに。
「貴女をね。貴女がはいと言えばそれでよし」
「嫌だと言えば?」
「それなら仕方ないわ」
 グラスの中のワインを飲み干す。紅いワインが口の右端から流れる。さながら血を飲み干しそれが流れるようである。美女はそれを見てそっと顔を近付けさせた。そうしてワインを舐め取るのであった。それだけでかなり妖しい美が生まれていた。
「これはよしということかしら」
「だったらどうなのかしら」
 沙耶香の口元から流れるワインを舐め取った美女は彼女に問う。妖しい笑みを瞳の中にも含ませて沙耶香に対して問うてきたのだ。
「決まっているわ。それじゃあ」
「けれど。ここでは駄目よ」
 沙耶香がその身体を抱こうとすると言ってきた。上にある彼女の顔を見たままで。
「ここではね」
「わかっているわ。ここはあくまでお酒だけを楽しむ場所」
「ええ」
「そして他の場所では」
 彼女を抱かずに言葉を続ける。言葉と共に笑みがさらに妖しくなってきていた。
「そういうことね」
「ええ。それじゃあいいわよ」
 遂に今はいと言った。これで決まりであった。
「貴女で」
「女だけれどいいのね」
「それは貴女の言葉ね」
 美女もまた沙耶香に言葉を返す。笑ったまま言葉をかけていく。
「女同士には女同士の悦びがある。そうね」
「そうよ。それじゃあ」
「ええ」
 沙耶香と美女は頷き合う。そうして同時に立ち上がり奥の部屋に向かう。ここで沙耶香は美女の名を問うたのであった。
「貴女の名前を聞いておきたいのだけれど」
「その方がベッドの中でいいものね」
「そうよ。睦言の中でお互いの名前を呼び合うことこそ」
 そこにはいささか倒錯した悦びと快楽があった。彼女はそうしてそれもまた楽しむのであった。
「いいものなのだから」
「そうね。それじゃあ私の名前は」
「何かしら」
「紫麗よ」
「紫麗ね」
「ええ、言っておくけれどこれは本当の名前よ」
 それもまた沙耶香に言うのであった。こうした店の中では普通名前というものは所謂源氏名である。しかし彼女はあえて本当の名前を沙耶香に告げたのである。
「本当のね」
「あら、それをあえて私に教えてくれたのね」
「わかるわよね、このことが」
 妖しい笑みをさらに妖しくさせて沙耶香に問う。
「このことが」
「勿論。じゃあ楽しみましょう」
「ただ楽しむだけではなくて」
 紫麗は沙耶香にまた告げた。
「私を何処まで燃え上がらせるかよ。期待しているわよ」
「私は期待を裏切ったことはないわ」
 沙耶香は紫麗の言葉に自信に満ちた笑みと声で言葉を返した。
 
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