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黒魔術師松本沙耶香 仮面篇

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10部分:第十章


第十章

「今はね」
「左様ですか」
「よかったらもう一本は後でね。ひょっとしたらまだ何本か頼むかも知れないけれど」
「それはまたえらくお強いですね」
 沙耶香の酒豪ぶりを聞いて少し苦笑いになる。
「大丈夫ですか?そこまで飲まれて」
「ええ、全然平気よ」
 妖しい笑みをまた浮かべて答える。
「飲めば飲む程」
「冴え渡るのですか?」
「そう、何事もね」
 既に美酒を楽しむ顔になっていた。妖艶な雰囲気をその身体に纏っていた。
「ワインがあれば」
「ワインは神の酒といいますし」
 ディオニュソスの酒だ。ワインは昔から飲まれ崇拝されてきた。それを今言うのだった。
「確かにそれもいいかも知れませんね」
「夜は。まだ長いわ」
 まだ開いてもいないカーテンを見て言う。この歌劇場のカーテンは厚い。カーテンコールにおいてはまずはメインの歌手が総登場し、それからそれぞれの歌手が出て来るというのがこの歌劇場のやり方である。最後には指揮者が出て挨拶をする。この日は言うまでもなくジミーが出るのだ。
「何本あっても足りないかもね」
「ではお客様にはまずは一本を」
「ええ」
 妖しい笑みを湛えたまま頷く。
「御願いするわね」
「はい。それでは」
 間も無くそのワインとチーズが運ばれ沙耶香に愛されることになる。沙耶香は酒が作り出す楽しく退廃的な雰囲気を味わいながら幕が開くのを待った。そうして幕が開いてからは酒と舞台、退廃的な雰囲気を堪能したのであった。それが彼女の夜の過ごし方の一つであった。
 しかし夜は長い。これは他ならぬ沙耶香自身の言葉だ。彼女はその言葉に忠実に舞台が終わると立ち上がった。そうしてその足である場所に向かうのであった。
 そこは楽屋であった。この歌劇場は楽屋もまた広く豪勢である。かけているコストが違うのもまたアメリカであった。なお管弦楽団はかなりの高報酬であるがその割りには大味な演奏をするとも酷評されていたりもする。
 沙耶香はその楽屋に入るのだった。するとすぐにその前に一人の女性が立ってきた。
「あら」
「申し訳ありませんが」
 若い女性であった。ブラウンの髪を奇麗に後ろに纏めたグリーンの髪の女性でありその顔は知性的な美貌があった。大人しいグリーンのスーツからどうにも堅苦しい印象を受ける女性であった。だがその顔立ちも顔も中々のものだった。沙耶香はそこを見た。
「ここから先は一般の方は少し」
「遠慮願いたいというのね」
「はい。どちらの方でしょうか」
「今日の演奏だけれど」
 沙耶香は質問に答えずにまずこう述べてきた。
「あのロジーナの歌手の方はもう帰っているかしら」
「まだです」
 女性は毅然として答えてきた。
「おわかりですよね。あの声が」
「声、ね」
「そして拍手が」
 舞台の方から激しい拍手と歓声が聞こえてくる。カーテンコールなのは言うまでもない。素晴らしい演奏であればある程カーテンコールも長くなる。それがオペラというものだ。
「聴こえますね」
「ええ」
 沙耶香は答える。答えながら女性を見る。見れば少し誇らしげな顔になっていた。
「今彼女はその中にいます。ですから」
「そう」
 女性の言葉に頷く。
「取材でしたら暫しお待ち下さい」
「ところで」
 沙耶香は今の言葉と先程の誇らしげな顔を見ながら女性に問うた。
「貴女は随分彼女について言うわね」
「当然です」
 沙耶香に顔を向けて答えてきた。
「チェルリーナ=シエナ」
 そのロジーナ役の名前だ。イタリアミラノ出身であり今売り出し中のメゾソプラノだ。このままいけばいずれはテレサ=ベルガンサやアグネス=バルツァに匹敵するメゾになるだろうとも評価されている美貌と技量を併せ持った歌手だとされている。
「彼女のマネージャーですから」
「そう、マネージャーだったの」
「ですから」
 また沙耶香に対して述べる。
「取材等はまず私は」
「実は彼女には今は用はないのよ」
 沙耶香は目を細ませてこう述べるのだった。
「シエナに用はないと」
「ええ」
 妖しい笑みを浮かべていたがマネージャーはまだ気付いてはいなかった。
「今はね」
「ではどうしてこちらに」
「貴女に用があるのよ」
 すっと一歩踏み出しての言葉であった。その知的に整った顔を覗き込んでいた。まるでそのまま全てを吸い取ってしまうかのように。
「貴女にね」
「私に興味があるって」
「そう、今は」
 さらに一歩踏み出す。そうしてその背を抱いた。
「今から何をされると思っているのかしら」
「そんなことは」
「恐れているわね」
 マネージャーの心を覗き込んでの言葉であった。
「これから起こることを。そうね」
「まさか貴女は」
「ええ、そうよ」
 そのマネージャーの恐れを言うのだった。心の中に忍び込んで。
「貴女を。抱くわ」
「女同士で」
「それがどうかしたのかしら」
 沙耶香の言葉にはモラルを嘲笑するものがあった。少なくとも同性愛といったものを否定するようなものはそこには一切存在しなかった。
「女同士であるということが」
「人を呼びます」
「呼べばいいわ」
 あえてこう返した。口元に妖艶な笑みを浮かべマネージャーの背を抱きながら。まるで男が女を抱くような姿であった。だが沙耶香は女である。そこに完全な違いがあった。
 
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