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幻影想夜

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第十七夜「螢」



 それは、彼女の最期の願いだった。
「私ね、ホタルが見たいの。」
 そう弱々しい声で、囁くように言った。
「元気になって、また見に行くんだろ?あの小さな町へ…。」
 細くなった彼女の手を強く握り締め、俺は涙を堪えながら優しく答えた。

 彼女は癌に冒されていた。それと分かった時は、もう手の施しようもない程に広がっていたという。
 俺に出来ることと言ったら、傍に居てやることしかなかった…。

 彼女は俺の顔を見つめ、凛とした声でこう言った。
「ねぇ、和彦。私…死んじゃうから、生きているうちに…感じられるうちに見ておきたいの…。」
 俺は、この言葉に愕然とした。彼女は自分の死期を感じている様子だったから。


 彼女と最初に出会ったのは、高校二年のクラス替えの時だった。その頃は、別にただのクラスメイトでしかなかった。
 卒業し、皆別々の大学へ進んだが、就職した先で偶然一緒になったのだ。一目見るなり、彼女から声を掛けてきたのだった。
 それが切っ掛けとなり、時々は夕食を食べに行って学生時代の話しをするようになった。
 自分で言うのも憚られるが、そんな若い二人だから、男女関係になるのも早かったと言えた。


「ホタル…見に連れてってやるよ。」
 俺は、窶れた彼女の顔を見つめて言った。
 彼女の顔立ちは、決して美人とは言えない。けれど、俺は彼女の飾らないその素顔が好きだった。
 そんな彼女の顔は今、頬は痩け、目は落ち窪んで蒼ざめている。髪は抜け落ちて、もはや見る影もない状態になってしまっていた。
 一時は俺を遠ざけて、決して病室には入れないようにしたこともあった。衰えゆく自分の姿を見せたくなかったのだ。
 そんな時、俺はただ病室の前で何時間も待つだけだった。少しでも長く、彼女の傍に居たかったから…。
 ただのエゴかも知れない。そう思うこともあった。
 どれくらいそんな日が続いたんだろう…?その日、やっと彼女が病室の中へ俺を入れてくれた。

 それは…ただ…。

「じゃあ、日取りを決めないと…。和彦はいつが大丈夫なの?仕事…大変でしょ?」
 彼女は微笑みながら尋ねてきた。
 だから…言ったんだ。
「明日の夜、迎えに来るよ。」


  †  †  †


 俺たちは、全ての人を裏切ったのかも知れない。でも俺は、彼女の願いをどうしても叶えたかった。
 何もしてやれなかった俺が、最後にしてやれることだったんだ…。


 ここは住んでる街から程近い、緑豊かな小さな田舎町。以前、彼女と訪れたことのある町だ。

「大丈夫か?」
 助手席に座る彼女が心配で聞いた。
「大丈夫…。今日は気分が良いから…。」
 そう言う彼女の横顔を対向車のライトが青白く照らしだす。
 無論、彼女の躰は、こんな小さな旅路ですら儘ならないことは知っている。
 無理はさせまいと、親友から大きめのワゴン車を借りたものの、彼女の躰に負担がかかるのは変わり無い。
 しかし、二人ともそれを承知して抜け出してきたのだ。そしてこれが、最後のささやか旅になるのを感じていたんだ…。


 湿った風のそよぐ山道。近くには川のせせらぎしか聞こえてこない静かな夜だった。
 この場所は二人の思い出の場所でもあり、行き着くまでに然程時間は掛からなかった。
 だがその間、彼女の具合は悪化の一途を辿っていた。
 俺は何度引き返そうとしたか分からない。それを察知してか、彼女は何度も「私は大丈夫だから。」と言ってきたのだった。
 まるで最後の使命を果たすかのように、彼女の決意は揺らぐことはなかった。
 その決意が何なのか、その時の僕は理解することが出来ないでもいた…。

 その日は空を薄く雲が覆い風も弱く、ホタルが舞うには丁度良い日和りと言えた。
「ねぇ…和彦。ホタルってね、想いを残して死んだ人の生まれ変わりなんだって…。」
 彼女が突然、話し始めた。その言葉は何故か遺言のような響きがしたのは、俺の考え過ぎだったのだろうか?
「なんだよ藪から棒に、一体何を言いだすかと思ったら…」
 俺は自分の思考を拭い去ろうとしたが、彼女はそんな俺の言葉を遮るように、また話しを続けた。
「ホタルはね、想う人のために輝くんだよ?その想いが強い程に、その光は純粋で美しく輝くんだって…。」
 彼女は雄弁に語った。今の彼女のどこに、これだけの力が隠されていたのだろうか?
 車の計器が放つ淡い光だけが、二人の姿を照らしている。
 だがその中でさえ、彼女の強い生命力を感じるのはなぜだろう?

「和彦、外に出して…。」
 暫らくの沈黙の後、彼女は言った。
 俺は彼女の思うままに従って車椅子を後ろからから出し、彼女を慎重に移動させた。
「ありがと…。我儘言ってごめんね…。」
「なに言ってんだよ。今更だろ?」
 なんとかそう言うのが精一杯だった。
「今頃病院は大騒ぎになってるかなぁ…。でも、きっと大丈夫。」
 ポツリと呟く彼女の言葉に、俺は返答が出来なかった。
 今になって事の重大性に身動いだとしても後の祭りだが、内心穏やかとは言えなかった。

―本当に…彼女のためだったのか…?―

 ふと、そう思った時だった。
「ぅわぁ…!」
 彼女が驚くような声を上げた。そして、眼前に広がる風景に、俺は目を見開いた…。

「ホタルが…ホタルがこんなに…!」


 それはまさしくホタルであった。それも数えきれない程の…。
 彼女は両手をいっぱいに広げて喜んでいる。少し手を伸ばせばぶつかる程のたくさんのホタル。
「ほら、ホタル。和彦、ホタルがこんなに!」
 その光で彼女の顔がはっきりと見えた。
「ありがとう…和彦。私ね、もう一度二人でホタルがみたかったの…。」
 彼女はその細くなった手で俺の手を握り締め、顔を上げて言ってきた。
「私、もう行かなきゃ…。」
 とても弱々しい声だった。辺りには無数のホタルが飛び交っている。
「何言ってんだよ。きっと来年だって…」
 悪い予感を払拭すべく紡いだ言葉は、彼女の言葉によって宙に四散していった。
「もう、分かってるでしょ?ごめんなさい…。私、和彦のことが好き。大好き。ずっと一緒に生きて行きたかった…。でも、もう限界…。だから…ホタルになるから…。和彦が幸せであるように…」
「バカ、もうそれ以上言うな!」
 俺は彼女を抱き締めた。今にも壊れそうな躰を、強く、強く抱き締めた。そうしなければ…彼女が逝ってしまいそうだったから。

 でも、無駄だった…。

「和彦…あなたは絶対…幸せにな…って…。私は…かずひ…こに…であえて…しあ…わせだっ…た…よ……」

 それが…彼女の最期の言葉だった。

「そんな…嘘…だろ…?ユミコ…?優美子っ!」
 彼女の燈が消えたのを見届けたように、無数のホタルは天高く舞い上がり、そして散って行ったのだった。
 その時、不意に理解した。
 優美子は…俺だけに看取られたかったんだって…。


 どれくらいの時が経ったんだろう。
 僕は、もう動かなくなった優美子を、ずっと抱き続けていた。段々と冷めてゆく彼女の躰を、ずっと強く…ただ、強く抱き締めていた。

「優美子…ゆっくり休んでくれ…。」

 涙も枯れはてた俺は、力なく天を見上げた。
 さっきまで彼女と見上げていた星空は、今も変わることなく広がっている。
 ただ…優美子が居なくなっただけだと言うように。

「…あれ…?」

 そんな無常な星空から、一つの光が降りてきた。
 フラフラと、まるで…。

「…螢…?」

 もう一匹も居なくなってしまったと思っていたホタルが、まるで何かを忘れたかのように天から降りてきたのだ。
 そのホタルは、僕と冷たくなってしまった優美子の周囲をユラユラと漂いながら、不意に俺の肩に止まった。
 それから何回か光を点滅させると、またフラフラと飛び始めた。
 俺は何となく、それが優美子の魂なんじゃないかと思った。

「…優美子…。」

 そっとホタルに向かって彼女の名を囁いた。
 すると、そのホタルは己が呼ばれたのだと悟ったのか、数回点滅を繰り返し、優美子の亡骸に舞い降りた。
 俺の目からは、枯れ果てたと思っていた涙が止め処なく溢れてきていた。

「優美子…!」

 愛していた…。
 俺は彼女のことをどこまでも愛し、守り続けたかった。
 結局、その想いは果たされることはなかった…。そんな後悔が沸き上がってきた時だった。

―自分を攻めないで…。私は幸せだったって、言ったでしょ?―

 俺の胸のなかに、優美子の声が響いてきたのだ。

―今度は和彦が幸せになる番よ?私が神様にお願いしてるんだもの…きっと大丈夫。だから…笑っていてね…。―

 そう聞こえたと思ったら、ホタルはその場を飛び立った。
 またフラフラと天へ昇ったかと思ったら、今度は強い輝きを放ち、そして…星空へと消えて逝った。

「優美子、ありがとな…。俺…幸せになる…。お前の分まで笑って生きてやる…。いつかまた逢えた時、お前に文句言われないように…。」


 まだ涙は止まらない。だけど…いや、今はいい。

 もう動くことのない優美子の傍らで、俺はいつまでも広大な星空を眺めていた。



       end...



 
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