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藤崎京之介怪異譚

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case.3 「歩道橋の女」
  I 9.05.pm8:16



 とある街に、俺と田邊が演奏旅行を行っていた時の話だ。
 そこは海辺にある小さな街だったが、クラシックが本格的に演奏されている街でもあり、俺の演奏にどう反応してくれるのか楽しみでもあった。
 この時は、オルガンとチェンバロのソロ・コンサートを二夜に渡って行うというものではあったが、ものはついでにと、田邊にも第二チェンバロを演奏させようとも画策していた。
 合唱指揮者が彼の本業だが、なかなか鍵盤も巧いのだ。嫌がるだろうがな…。
 さて、演奏会を明日に控え、俺と田邊は演奏会場になる教会で最終調整をしていた。
「先生、トランペットなんですが…。」
「うん…。全開にするとヴォルフを引き起こすなぁ…。調律するか。」
 俺と田邊は裏にまわり、微調整をし始めた。田邊もオルガン構造に詳しくて助かった。
 ここでいう“トランペット”とは、パイプ・オルガンの管(パイプ)の名称の一つだ。本物のトランペットが付けられているわけではない。
 さらに“ヴォルフ”というは、不協和音になった時に起こる現象のことをさして言う。英語のウルフと同じで、その不協和音が狼の遠吠えのように聞こえることからその名が付けられた。
「おや、未だいらしてたんですか?」
 俺達が裏にいるとき、表から声が聞こえてきた。
「佐藤神父。いや、ちょっと調律しないとならないかってね…。」
「トランペット管ですか?」
 神父がそう言ったので、俺は驚いて作業の手を休めで表に出た。
「なぜ分かったんですか?!」
 横にいる田邊も不思議そうにしていた。
 もし、仮にヴォルフが起こっていたとしたら、専門の調律師に依頼しているはずだし、そうでないにしろ、一定の期間に調律は行われるはずだが…。
 無論、管に異常があれば、直ぐ様修理を頼んでいるはずだ。
「いつも同じ管なんです。調律師も不思議がってますが、管には異常がなく、何回調律しても狂うんだそうです。それもEの音だけだとか…。」
 俺が今調べていたのも、全く同じ場所だった。どういうことなんだろうか?
 田邊と二人顔を見合せ、一旦神父のところへと降りて行った。
「佐藤神父、その話しはいつ頃からのことですか?」
 俺は神父に問い掛けた。いつも同じ管だけ狂うのは、些か不自然だからだ。
 さっき見てみたが、管には歪みや亀裂なんかはなく、正常に保たれていた。
 そうなると、他に原因があるかも知れないということだ。
 暫く神父は黙していたが、観念したかのように溜め息を吐いて話し始めた。
「最初に話しておくべきでしたね。本当は、このオルガン自体にも、あなたの力を借りたいとも考えておりました…。」
 俺は目を丸くした。このオルガンの調律と俺とが、一体どう結び付くんだ?
 不思議そうにしている俺達に、佐藤神父は椅子を勧めた。どうやら長い話しになるようで、神父自身も椅子に腰掛けたのだった。
「最初からお話しましょう。あのオルガンは阪田調律師に一任しておりますが、その方がある音大の先生にこのオルガンの話をされたことがあるのです。その先生は興味を持たれたようで、数ヵ月前に一度見えられたことがありました。」
「もしや…宮下教授ですか…?」
 宮下教授とは、俺が大学時代にオルガンの教えを受けた恩師だ。かなり厳しい方だが、反面、家族思いの優しい方でもある。
 俺がバッハを好きになったのは、この宮下教授のお陰なのだ。大学時代は叱られてばかりだったがな…。
「はい、宮下教授です。その教授が、藤崎先生ならば解決出来ると推薦して下さったんですよ。勿論、演奏の腕は確かだと太鼓判を押して頂いたので、先生をこの教会へお招きさせて頂いたのです。」
 無謀と言えるし、なんだか押し付けられた気もするが…。
 俺達は唖然とし、何を言って良いやら分からなかった。
 大体だ、どちらが本当の依頼なんだ?オルガンの謎解きか?それとも演奏なのか?
 こちらが思案に暮れていると、佐藤神父は申し訳なさそうに言ってきた。
「ここで申すのもなんですが、実はもう一つ、依頼があるのです…。」
 …もう何でも言ってくれ。一つと言わず、二つでも三つでも、こうなりゃ自棄だっての!
 横で田邊も呆れ顔で聞いている。
「どうぞ…遠慮はいりませんから…。」
 声のトーンはかなり低くなってしまったのは言うまでもない…。これだから貧乏音楽家は金に縁が無いのかと思う…。
 俺の思いを知ってか知らずか、神父は慌てて言ってきた。
「無論、タダではありませんので心配なさらないで下さい。それと言うのは、この街にある室内管弦楽団の指導と指揮なんですよ。」
 さっきとは裏腹に、俺は目を光らせた。もうランランと星の如くにだ。
 こんな巧い話しは滅多にない。ここで引き下がっては、人生おしまいと言うものだ。
「喜んでお引き受けします!」
「先生っ!?自分の楽団どうするんですかっ!」
 俺が神父の申し出を快諾すると、今まで黙っていた田邊が吠えた。まるでヴォルフだ…。
「分かってるって。しかし神父、曲目は決まってるんですか?」
「いや…、藤崎先生の返答を待ってからにしようかと思いまして。何かご提案でも?」
 俺はある考えてを思い付き、田邊を見てニヤリと笑った。田邊は露骨に眉を潜め、不信感たっぷりの顔をしている。
 それから俺は神父へと視線を戻し、考えた案を提示したのだった。
「マタイ受難曲を演奏しましょう。」
 これには田邊も佐藤神父も驚いていた。
“マタイ受難曲”とは、やっぱりバッハが作曲した宗教作品で、彼の作曲した作品中でも最も大きく、宗教上から見ても最も偉大な作品の一つに数えられている。
 時間にして約二時間半、二つの管弦楽に二つの合唱、それにオルガンとチェンバロ(又は二つのオルガンかチェンバロ)を必要とする。
 各曲も難曲が多く、当然素人には手が出せない代物だ。
「藤崎先生…本当にマタイで宜しいのですか?」
 神父が困惑した表情を浮かべながら俺に確認してきた。
「ええ、マタイを振ります。但し、練習期間を二ヶ月程頂きますが。」
 俺がそう言うと、神父も頷いて「分かりました。」と、なんとなく弱々しい返答を返してきたのだった。
「先生、まさかここへ全員招集するんですか?楽団員は六十人以上いるんですよ?」
 またヴォルフ…。今度からヴォルフ君と呼ぼうか…?
「全員だ全員!」
「仕方ないですねぇ…。明日にでも連絡して、スケジュール合わせときますよ。取り急ぎは、この難解なオルガンですね。」
 忘れるとこだった…。このオルガンをどうにかしないと、明日の演奏会に支障をきたしてしまう。これは死活問題だ。
「佐藤神父、もう少し時間が掛かりますが宜しいですか?」
「ええ、構いません。私はここに住んでますので、時間を気にすることはありません。それでは、お茶でもお持ち致しましょう。」
 そう言うと、神父は直ぐに礼拝堂を後にしたのだった。
「先生、指揮どころか演奏を聞いたこもない楽団でマタイをやるなんて…。少し強引なんじゃないですか?」
 神父が出て行ったのを確認すると、田邊が呆れ顔で言ってきたので、作業に戻っていた俺は田邊にこう言い返した。
「だから二ヶ月の猶予が要ると伝えただろう?二ヶ月もあればマタイだけじゃなく、オラトリオも出来るさ。」
「それこそ無理ですよ…。」
 ま、それもそうだが…。
 それ以降は、俺も田邊も黙々と作業をこなしていた。幸い、他の管は全て正常だったので、点検するだけで済んでいた。
 大方の点検作業を終わらせると、俺は音を出してみるべく演奏席へと移動した。
 幾つかの和音を出してみたが、これといって問題は無さそうだ。
「大丈夫なようですね。音も割れてないですし、これなら全開にしても差し支えありませんね。」
「そうだな。ま、取り敢えず試奏してみるかな。」
 俺が鍵盤に触れる直前、神父が礼拝堂へと入ってきた。
「少し休憩してはいかがですか?なにもないですが、軽い食事を用意させていただきましたので。」
 俺達は驚いた。お茶でもと行って出ていったのに、食事を用意してもらえるなんて…。
 俺と田邊は、直ぐ様下へと降りた。
「申し訳ありません。神父にこんなことを…。」
 俺も田邊も恐縮して頭を下げた。しかし、神父はニコニコしながら、こう言ってくれたのだった。
「いやいや、一人住まいでこういうことには慣れてますから。どうぞ、温かいうちに召し上がって下さい。」
 そう言われて俺達は、有り難くその料理を頂くことにした。
 神父の料理はどれも美味しかった。知らなければ、これが神父の手料理だとは気付くまい。プロさながらだったのだ。
 俺達は料理を堪能し、暫くは色々と話を楽しんだ。
 そこで分かったことだが、この佐藤神父は以前、プロのシェフを目指して勉強していたそうだ。
 道理で…。
「先生、そろそろ試奏を…。」
 話しの最中、田邊が小声で言ってきた。話しに夢中で、すっかり忘れていた…。
「あ、佐藤神父。これから試奏しますから、何か聞きたい曲があれば演奏しますが。」
「宜しいんですか?」
「ええ、食事のお礼と言ってはなんですがね。」
 神父は少し考えると、何かを思い出したかのように言った。
「それでは、スヴェーリンクの“我が青春はすでに過ぎ去りによる変奏曲”をお願いします。ご存知ですか?」
「勿論です。それでは…。」
 俺はそう返事をすると、田邊を連れて演奏席へと向かった。 しかし、スヴェーリンクとは…なかなか渋い選曲だな。
 このスヴェーリンクとは、バッハ以前の音楽家であり、オルガニストとしても有名な人物だ。オルガンのための変奏曲を多く残し、“我が青春はすでに過ぎ去りによる変奏曲”はその代表作に挙げられる。
 さて、俺は演奏席に座り、田邊にストップの指示を出した。ストップとは、要はオルガンの音色を決めるボタンのようなもんだ。これを組み合わせることで、いろんな音を出すことが出来る。
 俺が演奏を始めると、礼拝堂がまるで音だけの世界に感じる。教会そのものが音を生かすように設計されているようで、とても響きが良く、また雑な音を残さなかった。
 曲を終えると、神父は大喜びして惜しみ無い拍手を送ってくれた。
 試奏でも、やっぱり聞いてくれる人がいると嬉しいものだな。
 俺はその拍手に答えてもう一曲、有名なパッヘルベルの“カノン”を演奏したのだった。
「演奏会は成功間違いなしですねぇ。」
 試奏後に言われた佐藤神父の言葉が、いつまでも耳に残っている…。



 
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