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義愛

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2部分:第二章


第二章

 森川清治郎という人がいた。山梨に生まれたと言われている。それから神奈川に移った。山梨、神奈川といっても生まれはまだ江戸時代の文久元年、一八六一年であった。小柄でよく肥えた体格の人であった。顔には濃い、そして長い髭を持ちそれを自慢にしていた。性格は生真面目で清廉であった。信仰も心得ていてよく神仏を敬ったという。昔ながらの気質の人であったようだ。酒や煙草を好んだという。
 長じて看守となり横浜の監獄に務めた。そこで結婚し子をもうけた。まずは普通の人であった。
 それが変わったのは時代によるものであった。日清戦争を経て台湾が日本のものとなった。それに伴い統治において治安を維持する警官が必要となったのである。
 このことが彼の耳にも伝わった。それで思うところがあった。
 まずはそれを妻に話してみた。
「台湾といいますと?」
 妻のちよは最初台湾と聞いて首を傾げさせた。
「何処にあるのでしょうか、それは」
「清の南の方にあるらしい」
「清といいますと」
「シナだ」
 森川は妻にそう言った。
「そう言えばわかるか」
「ええ、それでしたら」
 それならばわかった。シナとは中国の通称である。戦前はよく使われた。始皇帝の秦からはじまったもので英語読みのチャイナから来ているのだ。
「そこにある島でな」
「はあ」
「この前の戦争で日本のものになったのだ」
「ああ、あそこですか」
 そこまで言われてようやくわかった。納得したように頷いた。
「それでそこがどうしたのですか?」
「何でも今そこで警官を募集しているらしい」
「警官をですか」
「うむ、それでな」
 森川は髭に手をやりながら言う。濃い髭なので指にも引っ掛かる。
「わしは台湾へ行こうかと考えている」
「そこにですか」
「実はな、彼の地は何かと大変らしい」
「そうなのですか」
 ちよは知らなかったが台湾はまだ未開の地と言ってよく部族間の抗争や黒社会の支配等があり無法地帯であったのだ。疫病や阿片等もはびこり清としても見捨てていたのである。だから日本に台湾を割譲しても何も思わなかったのだ。中華風に言うならば『華外の地』であったのだ。
「今からそこで治安をよくし、人々を教え導く人材を求めているのだ」
「それに行かれると」
「わしは百姓の出だがな」
 森川は言う。
「それでも心は士族でありたい。だから」
「行かれるのですね」
「当分御前と真一にはここにいてもらう」
 自身の子のことである。
「まずはわし一人で行きたいのだ」
「そして彼の地でお仕事を果たされたいと」
「よいか?」
 そう言ってから妻に顔を向けてきた。その目をじっと見る。
「それで」
「私は貴方の妻です」
 ちよの最初の言葉はこうであった。
「妻は夫に従い、それを支えるものです」
 かっての価値観であった。ちよは明治の日本の女であったのだ。
「ならばそれをどうして拒みましょうか」
「済まぬな」
 森川はそれを聞いてあらためて礼を述べた。
「御前には苦労をかけるだろうが」
「そんなことは構いません」
 ちよはこうも言った。
「それよりも御自身のお仕事を」
「済まぬな。では行って来る」
「御気をつけて」
 ちよは夫に対して一時の別れの言葉を告げた。
「そして立派なお仕事を」
「うむ」
 森川の心は決まった。彼は自ら願い出て台湾へと向かった。そしてその地で巡査に任命され正式に赴任した。

 
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