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牡丹

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5部分:第五章


第五章

 あえて表情を隠す。それで続ける。
「呂布の妻にと考えておるのじゃ。どうじゃ?」
「それは」
 その言葉を聞いて震えさせた。顔も青く見せる。
「どうしたのじゃ?」
「お許し下さい、それだけは」
「待て、どうしたのじゃ」
 ベッドから身体を少し浮かせて問う。
「急に。顔がおかしいぞ」
「私は董卓様の僕です。それ以外の方には」
「待て、貂蝉」
 董卓はその言葉にはっとなる。
「御前はわしのものだというのか」
「はい」
 顔を隠しながらもこくりと頷く。その姿が実にいじらしく見えた。
「その通りでございます」
「そこまで申すのか」
「はい」
 顔を俯けて礼をする。何気ない仕草だが今の貂蝉の言葉を聞いた董卓には何も言えぬ程の言葉であった。それだけで彼は全てを捨てるつもりになえなった。
 衝撃が走ったのだ。それまで暴虐なまでに好色であった彼が変わった。今彼は他の何者よりも貂蝉を欲しいと思ったのである。
「わかった」
 彼は貂蝉の言葉に頷いてみせた。
「ではわしの下にずっといるのじゃ。御前はわしだけのものじゃ」
「本当ですか、太師」
「うむ」
 董卓は貂蝉に顔を向けて満足そうに頷く。もう彼は後戻りできなくなっていた。
「よい。それでな」
「有り難うございます」
「そなたはわしだけのものじゃ」
 そう言って彼女を抱き寄せる。もうその顔は野獣のものでも覇王のものでもなかった。一人の女のことだけを考える一人の男になってしまっていたのであった。
 
 このことはすぐに李儒にも伝わった。彼はそれを自分の屋敷で聞いた。話を聞いた時彼は妻と食事中であったが思わず箸を落としてしまった。
「馬鹿な」
「よくあることではないのですか?」
 妻が夫に問う。彼女が董卓の娘である。娘であるが父には似ていない。まだ少女の若さを残した美しい女であった。李儒にとっては自慢の妻であった。
「父上が女性を愛されるのは」
「そういう問題ではない」
「どういうことですか?」
 夫の驚く理由がわからない。ついつい首を傾げさせてしまっていた。
「それは」
「よいか」
 彼は真顔で妻に言ってきた。
「すぐに郷里へ戻れ。張繍殿のところにだ」
 董卓の部下の一人だ。彼の部下にしては中庸な人物であり人望もそれなりにある。李儒の親友でもあり彼は常に家族にはいざという時は彼を頼るように言っているのだ。その彼の名を出してきたのだ。
「いいな、すぐにだ」
「あの、あなた」
「明日だ」
 妻に多くを言わせなかった。
「明日経つのだ、よいな」
「は、はあ」
 夫の言葉に戸惑いながらも頷く。その中でも問う。
「では最後に父上にお話を」
「それには及ばぬ。太師にはわしから話をしておく」
 それすらも許さない。李儒の顔は何時にも増して焦ったものであった。それにも増してその焦りを隠そうともしない。これは今までの彼にはないものであった。
「よいな。子供達を連れてだ」
「わかりました。ではあなたも」
「うむ」
 しかし彼はそのつもりはなかった。未来がわかっていたからだ。それでも妻子だけは何とか逃したのであった。これは人としての情であった。
 次の日の朝早く李儒の妻子は張繍のところへ向かった。彼はそれを見送った後で使用人達に家の残った金目のものを分け与え暇を与えた。広い屋敷に一人残り呟いた。
「終わりじゃ。何もかも」
 廊下の真ん中で庭を見て項垂れる。空は赤くなり落日が今沈もうとしていたのであった。もうそれを止めることは誰にもできそうになかった。
 
 その話を聞いたのは王充も同じであった。彼はそれを聞いてふう、と溜息をつくだけであった。
「いよいよじゃな」
 彼もまた落日の中にいた。赤い光が彼のいる世界を染め上げている。彼はその中で庭の牡丹の花を見た。
「白い牡丹が今は」
 彼が見ている牡丹は今はもう赤くなっていた。落日が白い筈の牡丹を赤くしていたのであった。彼はそれを見て遂に全てが終わることを感じていた。
 呂布はこの話を聞いた時胸が張り裂けんばかりであった。李儒から一旦は貂蝉の話を聞きそれが反故になったからだ。彼は李儒に詰め寄った。
「これはどういうことなのだ」
「そのままじゃ」
 彼も無念の顔であった。呂布から目を逸らして答える。
「太師はあの娘を手放されぬ。それで」
「馬鹿を言え、わしは貂蝉を」
 呂布は言う。その顔は何時になく激しいものであった。鬼にも例えられる彼が一人の女を想っていたのだ。それ以外は目に入らぬかのようにだ。
「なのに。何故だ」
「太師もそうであられるからだ」
 李儒は血を吐くようにして呂布に述べた。
「だから」
「認めぬ」
 しかし呂布はこう言う。
「認めぬぞ、そんなことは。どうしてだ」
「済まぬ」
「御主に謝られてもどうにもならぬ」
 彼はそう返す。
「どうにもな。わしにとっては貂蝉は」
「何にも増しているのか」
「わしはそもそも天下なぞに興味はない」
 思いも寄らぬ言葉であった。天下きっての猛将と謳われた男がである。
「貂蝉、貂蝉だけが欲しいのだ」
 そこまで思い詰めていた。もうそれは止まらなかった。
「だからこそ」
「想いは変わらぬか」
「無理だ」
 彼は吐き出した。
「何があってもな。それだけは」
「そうか」
 李儒は何も言えなかった。最早彼ではどうしようもなかった。
「そうなのだな。その心は変わらぬか」
「わしとても変えたい」
 呂布は言う。
「しかしどうしても変わらぬのだ。わしはもう貂蝉だけしか見えぬ」
「わかった」
 李儒はそこまで聞いて述べた。
「わしにはもう何も言えぬ。最早な」
「李儒殿」
「さらばだ」
 彼は呂布に背を向けた。そのうえで歩み去っていく。

 
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