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彼岸花

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2部分:第二話


第二話

「そして殿下はどの様にお考えなのですか」
「私の考えですか」
 丹は問われ息を飲んだ。だがその飲んだ息を吐き出し語った。
「刺客を送ろうと考えております」
「刺客を」
「はい。かっての襄政の様な優れた刺客をです。先生ならそうした者をご存知だと思ったのですが」
「私が」
「はい。誰か知っておられますか」
「そうですな」
 彼は考えながらこの計画がほぼ確実に失敗に終わるだろうと思っていた。秦王は用心深い人物として知られている。そして頭が切れる。おそらく相当の者を差し向けても失敗するであろう。そうなれば後の燕の運命も決まる。
(それもまた運命なのか)
 彼は一瞬だが瞑目した。だが丹はそれには気付かなかった。
「一人心当たりがあります」
「それは」
 それを聞いた丹は思わず身を乗り出した。
「荊軻という者です」
「荊軻」
 丹はその者を知らなかった。
「はじめて聞く名ですが一体どういう者ですか」
「はい」
 田光は話しはじめた。それを聞き終えた丹は苦い顔をしていた。
「お聞きしたところ大した者ではなさそうですが」
「いえ」
 田光はここで首を横に振った。
「只の遊侠の徒ではありませぬ」
「しかし今のお話を聞くかぎりは」
「確かにそう思われましょう。ですがそれだけではありませぬ」
「といいますと」
「あの御仁は実は智も勇も備えておりまする」
「本当ですか!?」
「はい。その剣技はまるで流星の如く、その知識はまるで書庫の如くです。おそらくこの燕でもあれ程の方はおられない
でしょう」
「しかしそれ程の人物が何故埋もれていたのか」
「名を隠しておられていたのです」
 田光は答えた。
「一度故国で己が考えを述べて受け入れられず、以後は身を隠していたのです。中にはそうした隠者もおります」
「ふうむ」
 丹はそれを聞き腕を組んで考え込んだ。
「興味がおありですかな」
「はい」
 彼は答えた。
「一度お会いしたいですな」
「わかりました」
 彼はそれを聞き大きく頷いた。
「では今から彼のもとに参ります」
「今からですか」
「思い立ったが吉日です。今動かなくて何時動きましょう」
「わかりました」
 丹はそれを認めた。そして家を出、馬車に乗り込んだ田光に対して言った。
「では宜しくお願いします」
「わかりました、必ずや話をして参りましょう」
「お願いします」
 丹はそう頼みながら田光に顔を近付けてきた。
「そしてこれは重要な話ですが」
「はい」
 田光もそれに合わせて顔を近付けさせた。
「この度の話、国家のの大事にございます。決して他言なさりませぬよう」
 それを聞いた田光の顔色が一瞬変わった。だが彼はすぐにそれを消した。
「御心配無用、それはわかっております」
「ではお願いします」
 彼にとっては些細な一言であった。だがそれは田光にとっては極めて重い言葉であった。だがそれを感じているのは田光だけであった。
 彼は荊軻の家に向かった。そして街中の貧しい造りの一軒家に向かった。
「荊軻殿」
 彼は玄関で名を呼んだ。
「おられますかな」
 程無くして玄関の向こうから声がしてきた。
「はい」
 そしてすぐに彼が姿を現わしてきた。
「おお、先生でしたか」
 荊軻は彼の姿を認めると微笑んだ。
「お久し振りです、まあどうぞ」
 そして彼を家の中に招く。
 家の中はこれといって何もなかった。極めて質素である。だが大きく見事な剣が一振りと多くの書物が置かれていた。
「また読書に励んでおられていましたな」
「まあほんの暇潰しです」
 そう言いながらも読まれている書はどれも名著の誉れ高いものであった。
「大したものではございません」
「いやいや」
 田光はそれを否定した。荊軻は書を片付けながら彼に対して言った。
「すぐに酒の用意をしますので」
「いや、今日は酒ではござらぬ」
 田光は彼に言った。
「では何でしょうか」
「実はな」
 田光の顔が深刻なものになった。
「先程私は太子とお話をしておりました」
「太子と」
「はい。これからの燕の行く末について話をしました」
「また厄介な話ですな」
 燕の未来は彼にも見えていた、その時になったら身を隠して難を逃れるつもりであった。
「それで秦についても話をしました」
「秦について」
「はい。あの国をどうするべきかと。太子はいたく悩んでおられました」
「そうでしょうな」
 荊軻は腕を組み考えながら答えた。彼もあの国をどうするべきか考えあぐねていたのだ。
「最早秦の勢力はこの中国を覆わん程にまでなっております、しかしそれに対して我が国はあまりにも脆弱です」
「はい」
 それは覆すことのできない真実であった。秦の力はあまりにも強かった。それに比して燕の力は弱かった。
「太子は秦と燕は決して両立できないと言っておられました」
「それは私も同意です」
 だがその根幹が違った。彼は燕が秦に滅ぼされると考えていたのだ。だがそれは口には出さなかった。
「そうなればどうやってあの国を倒すかです。一番よいのは各国と同盟を結び秦にあたることです」
「それが一番でしょうな」
 しかしそれでも効果は期待できなかった。秦の力はそれ程にまで強くなっていたのだ。
「私が若ければ各国を説き連合を組むのですがもう歳です」
「残念です」
「そこで私は貴方を太子に推挙することにしました」
「私を」
「はい」
 田光は頷いた。
「今燕には貴方程の人材はおりませぬ故。それで貴殿を推挙致しました」
「何と」
 荊軻はそれを聞いて言葉を失った。まさかこのようなことになるとは夢にも思わなかったからだ。
(ううむ)
 彼は心の中で思った。
(私は燕の者ではない。ただ流れ着いただけだ。そのようなことをする仁義はない。だが)
 田光を見た。
(しかし先生にはいつも目をかけて頂いている。それを忘れたことは一度もない。士は己を知る者の為に動くという)
 彼はここで侠の心を思い出した。それに従わないわけにはいかなかった。
「わかりました」
 彼は答えた。
「先生のご期待に添えましょう」
 そう言って頭を垂れた。
「引き受けて下さいますか」
「はい、この命燕に捧げましょう」
「命もですか」
「はい」
 荊軻は顔を上げた。その顔は真剣なものであった。
「これでもう思い残すことはない」
 笑った。だが何処か寂しげな笑みであった。
「先生、その御言葉は」
「荊軻殿」
 田光は荊軻に言った。
「最後に太子にお伝えしたいことがあるのですが」
「最後などと」
 荊軻はその言葉を笑い飛ばそうとした。だがそれはできなかった。田光の目は真剣そのものであったからだ。
「宜しいでしょうか」
「はい」 
 そう答えざるをえなかった。
「有り難い」
 田光はそれを受けて笑った。それから言った。
「優れた者は事を為すに当たって人に疑いを抱かせないといいます」
「はい」
 それはよく言われている言葉であった。荊軻はその言葉に対して頷いた・
「私はここに来る時殿下に言われました。『決して他言せぬように』と」
 だがこれは常に言われる言葉である。少なくとも荊軻はそう思った。だが彼は違っていた。
「これは私を疑っておられるということです」
「いや、それは考え過ぎでしょう」
「いえ」
 田光はそれには首を横に振った。
「違います。以前の私はそうではありませんでしたから」
「たまたまです。おそらく殿下も国の大事故そう申されたのでしょう」
「それでもです」
 だが田光は結局納得しなかった。
「私も老いました。人に疑いを抱かせるようではもう終わりです」
「それは少し」
「荊軻殿」
 彼は強い声で荊軻に対して言った。
「もうお話することはありません。私は自分の考えを変えるつもりはありません」
「それでは・・・・・・」
「はい」
 田光は答えた。
「これでお別れです」
 彼はそう言うと懐から剣を取り出した。そして呆然とする荊軻が止めるのより早くそれを首に突き刺した。
「せ、先生!」
 ようやく動けるようになった彼は田光に近寄った。だが彼は既に血の海の中にいた。
「最後に殿下にお伝え下さい」
 彼はその中で荊軻に対して最後の願いを託した。
「これで秘密は守れましたと・・・・・・」
 そして事切れた。後には呆然とする荊軻だげが残った。

 
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