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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―8―


 8.

 ニブレットは三日、荒野を歩き続け、四日目に調査に来ていたセルセトの小隊と合流した。王宮に帰還したニブレットを、聖王ウオルカンはあまり歓迎しなかった。彼女がサルディーヤを失い、託宣にあった男を見つけ出せず、更に石相との境界の揺らぎも確認できなかった事を知ると、ニブレットを罵った。ニブレットは相手にするのも面倒くさく、生返事をするに留めた。その覇気のない様子にウオルカンは拍子抜けし、早々に退室するよう命じた。ニブレットはあっさりそれに従った。聖王の隣では、正王妃ベリヤの骸が黒く乾いている。王の荒野は石に覆われ、彼女は弔われるべき場所を失ったのだ。
 私は戦場で死のうと、ニブレットは思った。王族として死ねば、無様な骸を晒す事になる。私室に戻ると、程なくしてオリアナが戸を叩いた。ニブレットはオリアナを抱き寄せ、久方ぶりに肌を合わせたが、もはや以前のような欲情は感じなかった。繰り返し、見も知らぬ他人としての人生を過ごし、数知れぬ人間と出会った、オリアナもその一人に過ぎない。そして自身もまた、世界が時を積み重ね、移り変わってきた中の、吹けば飛ぶような無数の人間の一人に過ぎないのだ。その無力感は肉欲で癒せるものではなかった。
 オリアナは、愛していると可愛い声で囁くが、彼女が誰を愛しているのか、即ち自分が誰なのか、ニブレットには定かにはわからぬ。そして、ここがどの様な場所なのか、自分が本来どこに所属するべき人間なのか、確かにわかる事は一つとしてなかった。
 この様な心中は、誰にも打ち明ける事はできぬ。秘密を抱える事以上の孤独はないと、ニブレットは虚しく思った。
 翌日、所属する連隊の司令室に呼ばれた。司令室にはカチェンに代わり、老境に差しかかった男が立っていた。二年前に退役した筈の男だった。
「これは、カルミナ殿」
「改めての自己紹介は無用だな。魔術総帥の要請により軍務に復帰し、死亡したカチェン前連隊長に代わり君たちを指揮させて頂く事となった。本日から君には、私の指揮下に入ってもらう」
「それは心強い。光栄です、連隊長」
 歴戦の将校に、ニブレットはにこりともせず応じた。カルミナはカチェンに良く似た気質の将校だ。しかし、二年間の安息は、彼にどのような変化をもたらしたのだろうか。新指揮官の目は淀んでおり、軍務への復帰が不本意であった事を物語っている。
「早速だが、君に会わせたい人間がいる。来たまえ」
「誰でしょう」
「王の荒野で、君の放った追跡者が捕らえた魔術師だ」
 カルミナは司令室の戸に手をかけ、振り向いた。
「興味はないかね?」
 二人は連れ立って廊下を歩いた。カルミナは司令本部を出て、ニブレットを監獄塔に連れて行く。向かった先は、地下の、魔術暗室であった。この先、己を守る緋の界の力は通用しない。ニブレットは緊張しながら、衛兵から受け取ったカンテラを頼りに一歩ずつ闇を歩いた。
「結論から先に言うと」
 カルミナは白い息を吐きながら、ニブレットを見ず話した。
「捕らえられたのはレンダイルの弟子だ」
「驚きですね。レンダイルは弟子をとらぬ主義と聞いておりましたが」
「それが、非公認にして唯一の弟子を軍団の作戦行動にも同行させていたというのだ。レンダイルの甥の息子だ」
「それで魔術暗室に。腕のほどは」
「まだわからん。尋問官によれば、相当の術と知識を叩きこまれているそうだから、素質はあるのだろう」
「レンダイルが王の荒野で何を為したか、口を割る気配はありそうですか」
「それがどうも、忘却の術を最後にかけられたようでな」
 カルミナは鍵束を手に取り、鳴らした。
「王の荒野の状況を鑑みるに、レンダイルが歌劇に関する何がしかの情報を得た事はまず間違いない。それについては専門の調査団を設け調べている」
「結果が出る見込みは」
「それについて私から言える事はない。個人の見解は控えさせてもらおう」
 かつて発相の巫女によって書かれ、第一幕の上演のみで水相を没落せしめた滅びの歌劇。
 神々は、第二幕の上演を望んでいると聞く。
 その為、発相では役者という名の生贄が未だに神に供されているという。発相はこの木相から遥か遠い。だがレンダイルなら、そこに渉る事も不可能ではないのではないか。発相か、役者か、あるいは第二幕の台本か……そのいずれかの力に触れ、荒野に布陣する兵士たちは皆塩になった。そういう事ではないか。
 では、一人だけ死を逃れた弟子とやらは、一体何者なのだ?
 カルミナが牢の鉄扉を開けた。二重扉の向こうには、衛兵と囚人の姿があった。
 壁に埋めこまれた手錠には、思いのほか小さな手が繋がれていた。痩せた細い手だ。
 子供だった。黒髪の少年が、手錠で壁に吊るされている。上半身は裸で、鞭打たれた無数の傷跡があり、深く項垂れているせいで、顔は髪に隠れ見えない。
 カルミナが剣を抜き、子供の顎にあてがった。そうして強引に顔を上げさせた。子供は、怯えた目でカルミナを見て、ついでニブレットを見た。
「こちらにあらせられるは我が国の第二王女ニブレット様だ。名乗れ、囚人」
 子供は怯え、震えている。黙っている子供の頬を、カルミナが拳で殴った。やめて、と――残酷な事に慣れていない、佐々木綾香の自我が叫んだ。ニブレットは眩暈を感じた。
 私は誰?
 子供の目から涙が溢れ、頬を伝い落ちた。切れて血が滲む唇を動かし、震える声で名乗った。
「ミューモット」
 ニブレットは幼いミューモットに歩み寄った。
「歳は幾つだ」
「九歳――」
「貴様は王の荒野で何を見た?」
 問いを受けるや、傷だらけの体が震え、子供は目を見開いて喘ぎだす。そして、激しく身を捩り、喚き始めた。カルミナがもう一度顔を殴るが、止まらなかった。よほど恐ろしいものを見たに違いなかった。
 二人は牢を出た。
「あの子供、これからどうするのです?」
「まずは徹底的に経歴を洗う。その後記憶が蘇るかどうか試し、次に素質の試験だ」
「それから?」
「あらゆる魔術と渉相術、そして殺しの技を叩きこんだ後、神が選んだ歌劇の『役者』に向けて放つ」
 カルミナは廊下を歩きながら眉を顰めた。
「それが魔術総帥のお考えだ。王の荒野にもたらされた歌劇の力はその片鱗に過ぎない。歌劇の脅威を目の当たりにした今、世界が長らえる為に必要な事だと」
 世界が長らえる。ニブレットはそれを皮肉な気持ちで聞いた。人間は、人間が全て死ねば世界は終わると思っている。だがそうではない。幾多の相に分かたれた世界、その上に、新たな階層が積もるだけだ。
 監獄塔を出た。雪がとめどなく降っていた。
「して、私は王の荒野から手ぶらで帰還したわけだが」
 ニブレットは肩を竦めて尋ねた。
「第一王女ブネの動向について何かご存知ではありませんか、連隊長」
「陛下から聞いていないのか」
 カルミナは目を瞠り、視線を逸らして答えた。
「ブネ様は亡くなった」
「それはまた。なにゆえ」
「白の間で自害された。そのお姿を侍女アセリナが発見した。書状が遺されていてな、聖王陛下とレレナの神殿の神官長に偽りの託宣を伝えたと……罪の意識から逃れる為の自害だろう」
「では、私が探した件の男は存在しなかったというのか」
「さあな。どこまでが偽りだったかはわからん」
 ニブレットは気持ちを燻らせながら、カルミナと歩いた。王の荒野で感じた、瑠璃の界と青い貴石の神聖で慈悲深い魔力。もしかしたら、ブネが言う男は本当に存在したのかもしれぬ。その男を手に入れたいと願い、連れてくるよう命じた。その為に託宣を偽った。そういう事もあるのではないか。
 全ては憶測に過ぎない。
 ニブレットはオリアナに、死後のブネの扱いについて尋ねた。王族とはいえ、偽りの託宣を告げるは万死に値する重罪。ブネの葬儀をあげる事は許されず、父である聖王ウオルカンの慈悲により王の荒野にひっそりと埋葬される事になったが、荒野が石化した今それも叶わず、今も白の間に横たえられているという。
 ニブレットは幾日も、徒労感に身を任せてぼんやりと過ごした。侍女オリアナは、もはやニブレットの心が自分に向けられていないのを感じているようだった。
「お疲れのご様子ですね」
 ある晩、オリアナは横たわるニブレットの裸体に香油を塗りながら、労りをこめて囁いた。
 ああ、と、ニブレットは眠たげに返事をした。
「ああ。オリアナ。私は遠い所に行った」
「はい、ニブレット様」
「お前が思うよりもっと遠く、ずっと異質な所だ」
 ニブレットは目を閉じ、枕に顔をうずめた。
「そこに石相などなかった」
「では何が」
 ぱちりと瞼の闇に光が弾け、ニブレットは目を開けた。そして、うつ伏せの姿勢から体を起こすと、オリアナの顎に指をかけ、顔の前に引き寄せた。
「オリアナ」
「はい」
 侍女の目に緊張が漲る。
「……知らぬ方がよい事もある」
 怯えた顔はニブレットの嗜虐心を刺激し、僅かに肉欲を駆り立てたが、それだけだった。無力感と無常感が、たちまち胸に満ちてきて、オリアナから手を放し、元通り横たわった。
 このニブレットも、このオリアナも、儚いものだとニブレットは思った。様々な命が積み重なって死んで層となり、そんな階層が重なった先に一体何がある? 何に向かって、人間は命を次の世代に繋いでいるのだ? 命は、人間という種は、何を目指し、どのような結末に向かっているのだ?
 そんな疑問を抱こうとも、ニブレットが答えを知る事はない。知る事はないのだ。
「何もかもが変わっていく」
「はい」
 オリアナが香油の壺をかき混ぜ、またそれを死せるニブレットの体に擦りこんでいく。
「オリアナ、私は近頃思うのだ。永遠というものに耐えられぬが故、人は数十年で死ぬように出来ているのではないかとな」
「左様でございますか」
 香油を塗るオリアナの指は優しく、その感触に身を委ねながら、ニブレットは目を閉じて、今度こそ深い眠りの中に落ちていった。

 ※

 程なくしてニブレットは戦場に戻った。死から死へ風が吹き、そのさなかの木の葉のように、ニブレットは鮮血を纏い舞った。一度死したニブレットは、漆黒の剣を手に、誰より激しく戦った。ニブレットは死が怖くなかった。自分が何者でもないのなら、死など恐れるに値しない。むしろそれが訪れる日を、気付けば待ち望んでさえいた。このニブレットという自我が消える日を。
 現実感は日に日に薄れ、もはやどれほど人を殺したかわからず、どれほど部下を失ったかわからない。ニブレットはもはや何も感じなかった。ただ、オリアナとの間の恋が消えていく事だけが、彼女を苦悩させた。
 都から遠く離れた戦地で、ニブレットはある覚悟を決めた。月が冷たく満ちる夜だった。彼女は漆黒の剣を血でぬかるむ土に立て、ヘブが呼び声に応じるを待った。黙して待てば、戦火の神は崇拝者の周囲に、濃密な気配で以って現れた。
「我が神よ、戦火の神ヘブの崇拝者ニブレットは、やはり王の荒野にて、既に失われた」
 ニブレットの肉体は傅き、言った。
「私はもはや、この漆黒の剣を持つに(あた)う有能な信徒では御座いませぬ。剣を返上いたします。私を、灼熱の地獄の星へ、あるいは極寒の地獄の星へ、連行し囚えるがよいでしょう。この剣で魂を狩り取り、あなたの膝下に送りこむという約束を、私のほうから(たが)える事になりますゆえ」
「それには及ばぬ」
 ヘブは鷹揚な笑い声で崇拝者に応じた。
「お前は余に非礼を働いたわけではなく、また余と敵対する神を奉じたわけでもないのだからな。よって、お前が火と氷の星に囚われる必要もなく、剣を返上する必要もない」
「しかしながら、私は――」
「ニブレットとして生きろ」
 ヘブは崇拝者を遮り、諭すように言った。
「覚えておくがよい、我が崇拝者よ。魂の名は一つだ。その名を知った者だけが、人である事をやめ神になる。万一お前が神となり、我が敵対者となる恐れがあるのなら、余はお前を屠るだろう。だが、お前が、(すなわ)ちニブレットの名を持つ自我が、その名を知る事はないのだからな」
 剣が緋の色彩を纏う。色彩は、天に吸い上げられるように揺らいで消え、同時にヘブの気配も消えた。後には疲れた目をして傅くニブレットが残された。


 
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