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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―4―



 4.

 気を許しあわぬ二人は二度目の夜を迎えた。馬たちは青い石と化した野営のテントの陰に座り、ニブレットとサルディーヤは向かいあってカンテラの火を見つめている。
 積荷には馬の餌と水しかない事を、ニブレットは確かめていた。屍となった己はもとより、サルディーヤもまた食料や水を必要としていない。ニブレットは敷布の上で足を組み替え、サルディーヤを睨んで「おい」と呼んだ。
「何だ」
「先の戦い、私以外の魔術師達はどうなった」
「何故今になってそのような事を知りたがる」
「興味本位だ。ビョーサーはどうだ?」
「戦死した。呼び覚まされし地の底の騎兵団に彼は呑まれた。数知れぬ漆黒の馬たちの太く逞しい脚に踏まれ、蹴られ、砕けた骨を収めた青黒い肉塊となり果てて死んだ。その肉塊は誰が見てもビョーサーであるとわからなかった」
 サルディーヤが陰鬱な調子で答えた。ニブレットは質問を続けた。
「レプレカは」
「戦死した。彼女の頭上に巨人機兵の岩の拳が振り下ろされるや、レプレカは乳鉢が如き地の窪みの底で、君が羽織るマントの布地よりも薄く平らになった。巨人機兵はなおも拳をよじって地に擦りつけ、彼女と周囲の兵たちを入念に擂り潰した。拳が地から離れると、十数人分もの血や肉や鎧の融合した欠片が、拳から剥がればらばらと地に降った。その後も窪みには夥しい血が流れこみ、骸が沈んだ。レプレカの遺体と呼べるものなど、その中のどこにもない」
「では、コンショーロは」
「戦死した。黒界の風によって眠りから覚めた亡者がコンショーロの影を捕らえ、頭を、肩を、腕を、胸を、腹を、腰を齧り取った。その影が両の腿に至り、足首を、更に足の指先までも食い尽くすや、影なきコンショーロは実体を維持できず、永劫に消滅した」
「ベーゼは?」
「無傷で生きている」
 ニブレットは肩を揺すり、短く笑った。
「役立たずほどしぶといものだな」
「同感だ」
「使い物になる将校は皆死んだというわけか」
「そういう事だ」
「サルディーヤ」
 改めて名を呼び、その奥に両目があるはずのヴェールを凝視する。サルディーヤが物問いたげに口を開いた。ニブレットは言葉を続けた。
「では、貴様は将校ではないという事になるな」
 薄く開いたサルディーヤの唇が閉じる。
「貴様は何者だ。どういう立場で、先の戦いの軍議に参加していた」
 ニブレットはサルディーヤの唇を見つめ、待った。その口角が吊り上り、彼は声なく笑った後、ゆっくり喋った。
「記憶を失った君を見るのは、とても悲しい」
 悲しみからは程遠い、嘲るような口ぶりである。
「ならば、私が失くした記憶について教えてくれてもいいんだぞ。戦友のよしみだ。それくらいの親切心があっても良かろう」
「君が友という語彙を持ち合わせていたとは驚きだ。減らず口は大概にした方がいい。死後の生を与えられた恩を忘れるな」
「貴様は私から呼び名を与えられた恩を忘れたみたいだがな」
 サルディーヤの口から笑みが消えた。
「いつまでも何も知らぬままと思うな」
 レンダイルがサルディーヤを作ったのならば、サルディーヤの真の名をつけたのはレンダイルだろう。果たして自分はその名をレンダイルから聞いていただろうか。レンダイル亡き今、自力で思い出すしかない。
 どこか遥か遠くで、強い魔力の軋みが生じた。その軋轢は遮るもののない荒野を渡り、二人の魔術師の感性に訴えた。魔術師たちはその軋みを、悲鳴のように感じた。
「捕らえたな」
 ニブレットは唇を片方だけ吊り上げて笑う。背中に手を回し、帯に挟んだ黒曜石の手鏡を外した。魔力の軋みの発生源での出来事を覗き見ようとした瞬間、記憶の中の、自分の声が耳を打った。
『私の鏡に穢らわしい物を映すな!』

 ニブレットは左手に黒曜石の手鏡を携え、立っている。右手には剣。足許で、一羽の白耀鳥が大きな翼を広げて死んでいる。切り裂かれた体から流れる血に、飽くなき雪が降り積もる。ニブレットは剣の血を拭き、鞘に納めた。そして、鳥の前にしゃがんですすり泣く若すぎる侍女アセリナを、冷酷な目で見下ろした。
 第一王女ブネが、この小さな庭に現れた。侍女アセリナはまだ子供だ。ブネが目をかけ、他の侍女たちによる陰湿な苛めから庇っている。本人はそのつもりだ。庇えば庇うほど、見え難く、陰湿になるだけだというのに。白耀鳥はブネが飼い、アセリナが世話していたものだ。ブネは息をのみ、駆け寄って来た。
「何と惨たらしい事を。ニブレット、これはあなたが」
「だとしたら何だ。白耀鳥は我が神ヘブが使いの軍馬の天敵ぞ。目障りでならん」
「さような伝説は、この鳥には罪なき事。ああ、かわいそうなアセリナ」
 ブネはむせび泣くアセリナの震える背中を撫でながら、ニブレットに非難の目を向けた。
「ニブレット、あなたは人間らしい心というものを知るべきです」
 ニブレットは薄笑いを返した。
「お前はイヴィタと同じ事を言うな。ところでブネよ、我らが母上は先が短いようだ。ベリヤ亡き後、イヴィタと同じ道を辿らぬよう気を付ける事だな」
 ブネの痩せた頬から血の気が引く。
「白耀鳥の一件に関しては、非はお前にあるぞ。ヘブの崇拝者にとって白耀鳥は穢れ。私は分魂の儀式を控え、穢れとの接触を禁じられた身だ。鳥など籠にしまっておけばよかったものを」
「あなたがこれほど冷血であるとは思いませんでした、ニブレット」
 木戸を軋ませて、オリアナが姿を見せた。彼女は姉妹の様子に困惑を見せるも、表情を押し殺してニブレットの足許に傅いた。
「ニブレット様、分魂術の支度が整いました」
「ご苦労。行くとするか」
「ニブレット」
 憐れを誘う声でブネが呼び止める。そうすれば、詫びの一つでも口にすると思っているのか。アセリナは震えたまま、顔を上げもしない。ニブレットはふと、オリアナを愛人の座に置くにあたり、反対する侍女を三人斬り殺した事を思い出した。
「ただ今の私の行為が許されざる事ならば、儀式は成功しないだろう。何と言っても貴様の神レレナの名のもとに行われる儀式であるからな。どうだ、ブネ。儀式が失敗し私が死ぬるを願うか?」
 残忍な笑みを残し、ニブレットはオリアナを従えて庭を後にする。

「見ないのか」
 サルディーヤが問う。ニブレットは黒曜石の手鏡を握りしめ、ラピスラズリの荒野に敷かれた敷布に座したまま硬直していた。
 レレナ、そして分魂術という言葉が頭の中に渦巻いていた。レレナ。陰陽と調和の神。陰陽。分魂。男と女。ニブレットはサルディーヤを凝視して、口を開いた。
「私の魂を返せ」
 サルディーヤはまた、癇に障る笑いを静かに唇に浮かべた。
「嫌だと言ったら?」
「腕ずくで返してもらう」
「無理だ。君は私の名を知らない」
「そんな事が関係あるものか。もとはと言えば、貴様は私じゃないか。レンダイルの分魂術によって、貴様は私の魂を分け与えられた。その影響により私はしばらくの間立ち歩けぬほど力を落とした」
「私がもともと君であったとしても、術師レンダイルの名づけによって私と君は完全に分かたれた」
「貴様は私だ」
 ニブレットは言い募る。
「その真の名前ごと、私に還るがよい。さあ、私の命の手綱を私に返せ」
「そこまで言うのなら」
 サルディーヤの声に、楽しげな響きが混じる。
「そこまで言うのなら、ニブレット、君は誰なのだ?」
 ニブレットは敷布を踏んで立ちあがった。
「私はセルセト国第二王女ニブレット、貴様の作り主だ」
 背後で魔力が渦を巻き、緋の界からの力が迸り出るのを感じた。
「レレナの名のもとに陰陽は調和する。記憶を返してもらうぞ!」
 サルディーヤが素早く立ち上がる。彼の背後で紫紺界の魔力の道が開いた。雷鳴が轟き、迸る閃光がニブレットを襲った。ニブレットを守る緋の界の炎がサルディーヤに襲い掛かるのと同時だった。地が割れ、雲が乾き果てるほどの激しさで魔力がぶつかりあう。混沌たる紫紺と緋の魔術の世界を、二人の魂は落ちていった。
「返せ」
 どことも知れぬ空間で、ニブレットは落ちてゆくサルディーヤの胸倉を掴む。
「貴様の魂を喰わせろ!」
 己の、長い、赤い髪が視界を遮る。空いている方の手で髪を払った。そうしながらも、背後から己の体を通過して流れこむ緋の界の炎を制限しようとはしなかった。サルディーヤも同じであった。稲妻が牙となり、ニブレットの五体に食らいつこうと狙っている。
 ニブレットはサルディーヤの顔を隠すヴェールをはぎ取った。
 ヴェールの下からは、思いもよらぬ顔が現れた。
 ニブレットは笑う。首を仰け反らせ、高く笑う。
「何という事だ! この男、私と同じ顔をしているではないか」
 サルディーヤがむき出しの魂で笑う。ニブレットも同じ顔で笑う。肉体なき体は牙と鋭い爪を生やし、互いの体に食らいこむ。
 ニブレットは血を流しながら、サルディーヤの喉仏に牙を立てる。サルディーヤは血を流しながら、ニブレットの腹を鋭い爪で貫く。食いあう魂の争いを片隅の些事として、深遠なる紫紺と緋の色彩は、和合し、混ざり合い、閉じる。

 荒野から、緋も紫紺も魔術の力も消えた。地には晴れ渡る夜空と星々の色彩、空には月を隠した雪雲が広がるばかりであった。
 三頭の馬はいずれも、先刻の魔力の衝突に怯え、とうに逃げ出していた。荒野の奥から冷たい風が吹き、捲れあがった二枚の敷布がラピスラズリの大地を滑っていった。カンテラは砕け散り、明かりとなる物はなかった。雲が割れ、月が出た。月光が、地に伏すただ一人の人間の輪郭を浮き彫りにした。
 その人間は、意識を取り戻すと、手をついて体を起こした。座りこみ、辺りを窺って、他者の不在を確かめる。
「勝った」
 荒野にただ一人の人間は、低い声で宣言した。
「勝ったのは私だ」


 
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