| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

Lirica(リリカ)

作者:とよね
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

ヴェルーリヤ――石相におけるジェナヴァ――
  ―5―

 5.

 ヴェルーリヤは群晶の前に椅子を設けて老人を待った。一番大きな水晶を睨みつけて待つ内、老人が現れて、皮肉っぽい口調で言った。
「今日はお前の神の名を呼ばんのかね?」
「もはやジェナヴァに神はおらぬ」
 神を待つ日々に疲れ切ったヴェルーリヤは、殺気立った声で答えた。
「神殿が閉ざされて以来、外界で何が起きた」
「ほう、お前が私に教えを乞うのかね。これは驚いた」
 老人はわざとらしく目をくりくり動かしてから答えた。
「そうさな、何と言っても一番大きな出来事は、歌劇が行われた事かの」
「歌劇?」
「そうだ。全く、お前は物を知らなすぎる。水相という相があってだな。様々な技術が他の相に比べぬきんでて発達した相だった。水相はその力で他の相に侵略し支配した」
 ヴェルーリヤは暗い(まなこ)で老人を見つめ、先を促した。
「水相による支配から逃れるべく動いたのが、発相におけるタイタス国だ。ネメスの都で神レレナとネメスの託宣によって魔性の歌劇が書かれた。その歌劇が上演されることによって、水相は没落した」
「レレナとネメス……。それほど高位の神々が何故、人間の身勝手な争いに手を貸したのだ?」
「さてな。神の考えを知ろうとするな。ろくな事にならん」
 最高位の神レレナの名に、ヴェルーリヤは驚いた。レレナは原初の混沌の神であり、陰陽と調和を司る。水相はレレナの目に余るほど、階層の力の調和を乱したと言うのだろうか。
「時が来た、という事だ」
 胸中を汲んだように、老人は言った。
「不変のものなど人の世には存在せぬ。水相も、またその他の多くの相も、それを思い知らされたというだけの事だ」
「この相の領界の揺らぎも、歌劇が書かれ行われた事と関係しているのか」
「無関係とは言えんな」
 ヴェルーリヤは椅子から立ち上がり、空に顔を上げた。
「こら。人から物を教わったら礼くらい言わんか」
 老人を無視し、揺らめく相の境界を、昨晩よりも慎重に探った。そうして、己の気配を限りなく無に近付けて、炎の線を越えた。
 またも巫女の後ろ姿と、彼女を守り取り巻く赤黒い花が見えた。真っ白い世界には、床もなく、壁もなく、無数の窓が変わらず青空を映していた。
『オリアナ。ブネは何をしている』
 耳を澄ますと、高圧的な女の声が、いずれかの窓から聞こえてきた。
『変わらず白の間におこもりになられたままでございます、ニブレット様。侍従長が説得を試みておりますが、入室さえままならぬと』
『ふん……無能が!』
 ああ、と巫女が耳を塞いだ。そして、首を左右に振りながら、また、ああ、と声をあげて嘆き、すすり泣きを始めた。
 彼女もまた人間を恐れているのだとヴェルーリヤは理解し、久方ぶりの憐憫の情が胸に湧くのを感じた。すると、ヴェルーリヤの感情に呼応するように、女が泣くのをやめ、振り返ろうとした。
「同情してはならん!」
 老人の声によって、ヴェルーリヤの意識は群晶の間にある己の肉体に引き戻された。
「何故、邪魔をする!」
「無謀な真似をするな。覚悟を伴わぬ憐憫は、身の破滅にしかならんぞ」
「貴様には関わりのない事であろう」
「過去の失敗の理由がわからんのか」
 水晶の中で、老人の顔が大きくなった。
「お前に人間の何がわかる? お前が人間をよく知り、人間に必要な物が何であるかを知っているというのなら、わしは止めんかった」
 ヴェルーリヤは怒りに頬を染めながら、老人から顔を背けた。老人は言い募る。
「お前は人間をもっとよく知る事ができた筈だ。人間の中で生きる知恵を身に着ける事もだ。だが、ヴェルーリヤ、お前はそうはしなかった」
「人間は私を害し殺そうとした。そのような連中の何を知る必要がある」
 殺される恐怖を思い出し、震え出しそうになった。
「私が邪魔であるならば、ただジェナヴァの町から出て行くよう言えば良かったのだ。ならば、私は従った。なのに何故、人間たちはあのような仕打を!」
「それはお前も同じ事だろうが。あの晩、人間が怖いなら、ただお前が人間の前に姿を現さないでおればよかったのだ。死にゆく人間たちに門を閉ざし、みすみす見捨てる必要はなかった。ヴェルーリヤ、お前は臆病だ。臆病ゆえ、人間たちは死んだのだ」
「違う! 人間たちの末路は彼らの自業自得だ!」
「お前は」
 老人の顔が水晶の中をうつろい、ヴェルーリヤの眼前に来た。ヴェルーリヤはなおも顔を背けた。
「人間たちを見殺しにし、その行為を正当化し続けるために、成熟する事もなく、安全な神殿に引きこもり、人間を憎み、自分を憐れみ、神に縋り」
「黙れ」
「ただその為に何百年の時を無駄にしたというのだ?」
「黙れと申しているであろう!」
 ヴェルーリヤの銀の瞳に、怒りと恐怖が散った。老人を黙らせなければならないと、彼は強く思った。そうしなければ、長い長い平穏が、崩れ去ってしまう。この老人は相の異変を知らせに来たのではない、相の異変をもたらした元凶であると思えた。ヴェルーリヤをもう一度外に駆り立てて、殺してしまう為に。
 ヴェルーリヤの右手に、冴え冴えとした氷の閃光が宿った。
「私が時を費やして学んだ事は、こういう事だ」
 閃光が手から放たれ、水晶を打った。書庫の古き魔術書に記されていた通り、意に沿わぬ者の気配が散逸し、消え去る手応えを得た。
 水晶に、刃で刻み付けたような一筋の傷が残った。ヴェルーリヤは感覚を研ぎ澄ませ、不愉快な老人の気配が残っておらぬか確認しようとした。
 老人の気配は、もうどこにもなかった。
 代わりに、明確な敵意を持つ者が、階下から来るのを感じた。それは、かつて人々から向けられたのと同じ種類の敵意であった。殺意だ。
 群晶の間の扉を開け放ち、屍の番兵が槍を振りかざし、ヴェルーリヤに向かってきた。
 ヴェルーリヤの指先が胸の前で弧を描き、その軌跡から放たれた閃光が番兵を弾き飛ばした。
 番兵の五体がちぎれ飛び、槍が落ちた後、神殿に静寂が戻った。
 老人は消えた。だが、誰かが、誰かの意志が、ヴェルーリヤによる長き支配を超えて、屍に干渉した。
 神殿を統べる力の均衡が既に崩れている事を、ヴェルーリヤもついぞ、認めざるを得なかった。

 ※

 今、神殿を覆う夜空には、大いなる炎が赤く渦巻いていた。傍らでひっそりと光を放つ月は、秒ごとに満ちていく様子さえ目に見えるようだった。
 ヴェルーリヤはテラスに立ち、神殿の屍と亡霊を支配する腐術の強化に集中していた。隙あらば死者達をヴェルーリヤの手から掠め取ろうとする、木相から流れこむ馴染みなき力の存在を、炎の渦から絶えず感じる事ができた。
 その力の背後にある神はレレナに違いない。あの巫女はレレナを奉じる巫女であるらしかった。ヴェルーリヤの父、根と伏流の神ルフマンよりも、遥かに高位の神だ。ヴェルーリヤは心に渦巻く畏れに打ち勝とうとした。神の力と、それを借りて行使する人間の力は、全く別のものだ。レレナの巫女を石相から閉め出す事は、レレナに刃向う事と同義ではない。そう己に言い聞かせていなければ不安だった。
 ヴェルーリヤには、己以外に頼れる者はなかった。あの不愉快な老人は、どうやらあれでも、聖域内の均衡の維持に必要な存在であったらしい。滅した事は浅慮であった。
 首を横に振り、雑念を払う。
「……私は、この居場所を失うわけにゆかぬ」
 銀の瞳から感情が消え、意識が炎の渦を潜った。
 その先は、白く静まり返った世界だった。空間には清浄なレレナの神気が満ち、肌を優しく刺激した。
 レレナの巫女は、ヴェルーリヤに背を向ける形で椅子に掛けていた。真昼の青空を映す無数の窓は、ヴェルーリヤの出現によってその半数が夜の星空に変わり、気配を察知した巫女は、音もなく立ち上がった。
 振り向いた巫女の顔を、ヴェルーリヤは初めて見た。後ろ姿からは疲れて老けこんだ印象を受けたのだが、正面から見れば、思ったよりも若い女だった。ふっくらした頬と垂らした前髪のせいで、子供っぽくさえ見える。黒々と艶めく瞳を向けて、巫女はヴェルーリヤに、嬉しそうに笑いかけた。
「ブネ、と申されたか」
 ヴェルーリヤは、穏やかに語りかけた。巫女は白い衣の裾をはためかせて駆け寄り、言葉もなくヴェルーリヤの体に腕を回し、抱きついた。肩に巫女の顔が押しつけられ、困惑しながらも、ヴェルーリヤは話し続けた。
「石相にある我が領域への干渉をやめて下さらぬか」
 巫女はしばらくの間、ヴェルーリヤに抱きついたままでいたが、ようよう言葉を理解しだすと、顔を上げ、困り果てた様子で目をあわせた。
「そなたが侵犯する領域は、根と伏流の神ルフマンの加護を受けた聖域であり、私の棲家だ。そなたの力の流入によって聖域の平穏は破られようとしている。手を引いていただきたい」
 巫女の瞳が潤み、口は何かを言いたげに小さく開いた。そして拒否を示し、首を横に振った。
「聞き入れて下され。私は荒事は好かぬ」
 巫女は両手で顔を覆い、激しく首を横に振り続けた。彼女は声を立てず泣いた。両手の間から涙がこぼれ落ち、衣にしみを作った。ヴェルーリヤは居たたまれない気持ちに耐えた。
 次に巫女が顔を上げた時、その目は血走り、目尻は吊り上り、歯は鋭く尖って血を欲する牙となっていた。辺りに獣の臭いが満ちた。
 しかし、獣の目で身構えたヴェルーリヤの顔を凝視する内、牙は鋭さを失い、目はもとの形となり、悲しい光が宿った。
 巫女は化生(けしょう)の相貌と人間の相貌を、交互に形作った。それは、彼女の狂気と正気が激しく相争う様そのものであった。
 周囲の様子に気を払えば、夜を映す窓に、懐かしいジェナヴァの町並みと、その灯りが見えた。
 昼を映す窓には、雪に閉ざされた荒廃した街並みが見えた。家々の平屋根は厚い雪を乗せ、通りには瓦礫が散乱し、折れた矢が散見される。そうした戦の痕も今は、冬の寒さに沈黙するだけだ。窓からしんしんと押し寄せる冷気を感じた。この冬と荒廃が彼女の現実なのだ。何と寒々しい光景だろう。彼女は何を失い、如何なる傷を受けたのだろう。
 それでもヴェルーリヤは、またも縋りつくブネの両肩に手を添え、彼女を引き離した。
 ブネの唇が大きく裂けた。目が吊り上り、牙を剥く。獣臭が鼻腔に満ちた。
 危険を感じ、ヴェルーリヤは即座に彼女の領域から撤退した。首筋に食らいつこうとした牙が噛み合わさるカチリという音が、間近で聞こえた。
 テラスに戻ったヴェルーリヤは、力を振り絞って強引に境界を閉ざそうとした。
 遅かった。空に渦巻く炎は月ほどに小さくなったが、レレナの巫女の意思が領域の死者に入りこみ、それがまた別の死者たちへと瞬く間に伝播していく様子が肌で感じられた。
 眼下で、番兵たちの槍の穂先が不気味にきらめいた。背後で、施錠されたテラスの木戸が激しく叩かれた。ヴェルーリヤは唇を固く結び、光を宿す指先で、ルフマンの神印を結んだ。
 木戸に戦斧が打ちこまれ、木っ端微塵に砕けた。現れた番兵に向けて、ルフマンの神印より無数の水の刃が放たれ番兵を粉砕した。その亡骸を踏み越え、ヴェルーリヤは屋内へと退避した。直後、彼が立っていたテラスに、矢の雨が降り注いだ。
「ルフマンよ、我に加護を」
 襲い来る槍と剣をかわし、書庫で得た魔術の知識で番兵を薙ぎ倒しながら、階下へと進んだ。その全てが、初めて身を守る為に用いる術であった。一時、神殿から離れようとヴェルーリヤは決した。水と大気の精霊が、危機の少ない道筋をヴェルーリヤの感覚に教えた。
 ヴェルーリヤはようよう洞窟への隠し通路にたどり着いた。背後に点々と残る屍を辿って、背後から番兵たちがとめどなく押し寄せて来る。隠し扉の内側に閂をかけたが、突破されるのは時間の問題に思われた。
 内なる目を頼りに通路の闇を抜ければ、かつてルフマンが用意した小舟が残されている筈だった。
 やがて、裏の洞窟の、月明かりを反射してのたうつ黒い海面が見えた。洞窟に飛び出したヴェルーリヤの眼前に、何者かが素早く立ちはだかった。回避する間もなく、それはヴェルーリヤの肩に、槍の穂先を叩きこんだ。
 よろめき、海に転落しながら、その番兵が纏う衣にギャヴァンの神印が描かれているのをヴェルーリヤは見た。ヴェルーリヤは手を上げ、岸を掴もうとした。その体を、黒い海の底から伸びる二本の腕が掴み、海中に引きこんだ。
 大小の泡が苦しげに、海面に浮かんで弾けた。
 その内に、泡も消え、海に静けさが戻った。

 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧