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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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死の谷―発相におけるネメス―
  ―3―

 3.

 太陽が傾いて、西の山脈に触れた。空は茜から薄紫に色を変え、東から夜が藍色に押し寄せてきた。
 大聖堂図書館の前階段に座りこんだミューモットが干した果物に齧りつき始めた。彼は、隣に座るリディウに果物を差し出した。リディウは首を横に振った。
「私には、神官達が残していった食料があります」
「食わんのか」
 リディウは答えなかった。
 夜が恐怖を連れて来るのをリディウはひしひしと感じていた。命の刻限が迫りつつある。今夜中に死ぬ。そのさだめを逃れても、神官達によって星図の間から崖に突き落とされて死ぬ。もはやその実感を直視せずにいる事はできなかった。
「ミューモットさん、あなたは何故、ここにたどり着いたのですか?」
「さあな」
「あなたは知っているのではないですか?」
 リディウは階段に手をつき、身を乗り出した。
「何故、あなたと私は、このような場所で出会わなければならなかったのですか?」
「何故今、そんなことを考える」
「偶然このような出会いがあるなど、おかしいではありませんか」
 一語放つ間にも、夜は二人の顔を染める。
「あなたは、私がここにいるから、いらしたのではありませんか? あなたがあなたの導きによって旅をなさっているのなら、私と出会うべくして発相にいらしたのではありませんか?」
「自意識過剰だな」
 ミューモットは口から干し葡萄の臭いをさせながら言った。
「俺とお前の出会いに意味があるとしたら、その意味は何だ? お前はどう思う。わかったところで、どうしたい」
「私をあなたの旅に同行させてください」
「逃げる気だな」
 ミューモットが星を宿した目でリディウを凝視する。
「家族に累が及ぶとは思わんのか」
「神官たちは明日の昼、大聖堂図書館に来ます。彼らに、私が逃げたのではなく、何らかの事故に遭ったと思わせる事ができるなら」
「そしてまた、ネメスの都で生贄が選ばれるわけか」
 胸の奥深くで憎しみが冷たく(こご)り、リディウは泣き出しそうになった。
 赤い炎が視野を染めた。リディウは目を細めた。ミューモットは、掌の上の炎を凝視した後、ゆっくりとリディウに視線を移した。
「とにかく、明日の朝まで待て。お前が生贄の役に足ると決まったわけではあるまい」
 彼は立ち上がり、マントの砂を払う。
「お前が役者ではなく、お前に使えるところがあるなら、考えてやってもいい」
 リディウは涙を拭った。今はミューモットの言葉を信じ、心の支えにするしかなかった。そして一人馬車に向かい、ドレスと靴を替えた。空腹は感じず、ひどい吐き気がした。
「ついて来てください」
 馬車を出て、リディウはミューモットの腕に縋った。
「ついて来て。お願いです」
「泣くな」
 手套が汚れるのにも構わず、リディウは手の甲で涙を拭きながら、声をあげて泣き始めた。膝はがくがくと震え、今にも砂の上に座りこみ、立ち上がれなくなりそうだった。
 これまでの生贄達は何と勇敢だったのだろうとリディウは考えた。こんなに情けない私が、神のお気に召す筈がない――そして私は生き延びて、朝を迎え――逃げる。この人に逃がしてもらえる。そんな明日が必ず来ると信じよう。
 リディウは左手に二本の蝋燭を握りしめ、右手でミューモットの肘を掴んで、嗚咽を殺しながら一歩ずつ前に進んだ。闇に満たされた建物内部を、ミューモットの魔術の炎が照らした。南棟テラスから石階段を下り、森の小径を進む。その道行きは昼間とは全く違う貌(かお)を見せていた。風は涼しいどころか切るように冷たく、夜行性の鳥の鳴き声が禍々しく響いている。
 階段状の客席の天辺で、ミューモットが足を止めた。
「ここからは一人で行け」
「ミューモットさん」
「この舞台と客席は陣を成している。部外者の俺が足を踏み入れるわけにはいかん。お前が行くんだ、生贄」
「では、ここにいてください」
「構わん」
 ミューモットは溜め息とともに頷いた。
「くれぐれも、途中で帰ってしまったりなど、なさらないでくださいね」
「わかっているから、行け」
 リディウは何度も振り向きながら、客席の間の通路を下りていった。舞台の両脇の蝋燭台に蝋燭を刺し、火打ち石を打った。今、頭上に死の星ネメスが輝いているかなど、恐ろしくて確かめる事はできなかった。
 二本の太い蝋燭も、広い舞台を照らすにはあまりにも心許なかった。リディウは二つの光の輪が及ばず消える、舞台の中央の暗がりに立った。
 呼吸は乱れ、腕は上がらず、膝は震えが止まらない。無理だと、リディウは思った。昼のようには踊れない。指を揃え、硬直した右腕を頭上に上げ、一本の棒のように立った。
 舞わなければならない。その為に生きてきた。
 死の女神ネメスは、神々に対する人間の不敬に憤り、数多(あまた)の町を滅ぼした。ネメスの舞はその故事を語り継ぐべくある。
 第一の舞をぎこちなく開始したリディウは、間もなく足をもつれさせて転倒した。ざわめく森、突如飛び立つ鳥の羽音が、無様な舞い手に対する神の怒りの声に思え、倒れたまま硬直した。
 顔を上げた。舞台の両端の二つの蝋燭以外、何も見えない。
「ミューモットさん?」
 リディウは恐慌に駆られ、呼んだ。
「ミューモットさん!」
「ここにいる」
 返ってきた声に安堵し、舞台に蹲り、恐怖が和らぐのを待った。一人ではない、見捨てられてはいない、と、胸で唱えながら立ち上がった。目尻を拭い、もう一度、舞の開始の合図として、右手をまっすぐ上げた。
 リディウは目を閉じて、改めて舞い始めた。体のぎこちなさについても、乱れた呼吸についても、考えまいとした。夜の森に光る動物達の視線についても、靴底を通じて伝わる石舞台の冷たさも、考えまいとした。ただこの森の中にいる、一人の観客を意識した。首にかかった母親からの贈り物を意識した。その内リディウは何も考えない、無心の状態になっていった。
 空に目を見開いた。
 満月に目が吸い寄せられた。
 月。月だけをリディウは見る。
 半月状の舞台。
 半月状の客席。
 その間を裂く闇の河。
 リディウは目を瞑り、満月の真円を想った。蝋燭の光と通路の闇によって分け隔てられた、この舞台と客席が真円になる様子を想った。
 光と闇の和合。
「レレナ」
 唇が自然と動き、リディウは曇りなき眼で改めて月を見上げる。
 月と夜。光と闇。陰陽と調和。
 レレナへの祈りは、月が欲しいという事なのだ。
 第二の舞に入る一瞬、ある想念が、リディウの脳に入りこんだ。
「光と闇が」
 口をつぐむ。
『光と闇が和合する場所で、月が落ちてくる』
 再び目を閉じた時、リディウの魂は、その肉体のどこにも存在しなくなる。
 リディウは舞を忘れた。重い体を忘れた。ただ、魂の眼に映る光景に、意識を集中した。
 おかしな所だった。
 まぶしい夜。無数の四角い塔が聳えている。全ての塔の、実に多くの窓に、光が点っている。その光景が、視界の限り広がっていた。
 見た事もない、緑や青や赤の、異質な光。それは意味のわからない図像を象り、煌々と点る。文字だろうかと、リディウは考える。
 塔と塔の間の地面を流れる赤い光と黄色い光。リディウは光の一つ一つに意識を向けた。
 人を乗せて動く、奇妙な形の箱であった。それを牽引する馬も牛もいない。不可思議な魔術が介在しているのだろうか。
 彼女は唐突に理解した。
 これは地球の光景だ。前階層の地球なのだ。
 そして月、不変の月が、地球を照らしている。
 リディウは強い力に引かれた。月が遠ざかる。落ちていくのだ。月ではなく、リディウが。落ちてゆく。リディウは月に手を伸ばす。
 いかないで。
 かつて崖から突き落とされた娘達と同じように、リディウは転落のさなか、涙を振りまいた。その涙の粒が一つ、冴えた光を放つ。
 来た。
 リディウにはわかった。
 その光点。
 炎の結界の中、リディウは肉体の目を開く。光点は変わらずあった。
 万物が調和する点。
 全ての時と空間と可能性が折衝する点。
 光点に手を伸ばしたリディウの口を、荒れた掌が後ろから塞いだ。喉に当たる刃の冷たさを、リディウは知覚した。
 研ぎ澄まされたナイフが、リディウの喉を切り裂いた。
 既に二つの蝋燭の火が消され、陣が無効化されていた事に、リディウは気付かなかった。喉から迸る血の熱さに、リディウは気付かなかった。
 光点が消える。
 それだけが、リディウにはわかった。
 開かれた扉が閉じる。
 どうして。
 リディウは手を伸ばす。これまでの生贄達が皆、そうして来たように。
 果てない闇へと落ちていきながら、リディウは最後の涙を流した。涙は二度と、光らなかった。
 舞台から転落した憐れな役者・リディウの亡骸を、冴え冴えとした目でミューモットは見下ろした。ナイフを拭う彼の姿を、月だけが照らしていた。

 ※

 翌日、ネメスの神官達が兵士に守られて来た。神官達は大聖堂図書館の内部をくまなく調べ、リディウの不在を確かめた。舞台の土が吸った彼女の血には、誰一人気が付かなかった。リディウは生贄の役を全うしたのだろうと、神官たちは判断した。これで暫くは、ネメスの都から生贄が出る事はあるまい。彼らは疲れた顔で帰っていった。
 翌年の夏至の晩、ネメスの巫女は凶つ星の託宣を受けた。かくて新たな生贄の娘が、ネメスの下町から選ばれた。
 神官たちは首を傾げた。
 では、リディウはどこへ?

 新月の晩であった。風はなく、昼の熱気がいつまでも消え残る、寝苦しい夜であった。バルドーとエテルマの夫妻は、互いに背を向け、眠ったふりをして夜を過ごしていた。
 誰かが足を引きずって、通りをやって来る。胸に不吉な予感が満ち、夫妻はどちらともなく身を起こした。
 果たして足音は、二人の家の前で立ち止まった。その誰かはゆっくりと戸を叩いた。
 バルドーが誰何(すいか)するより早く、エテルマが戸を開け放った。噎せ返る死の臭いが玄関口に満ちた。
 訪問者を目にしてエテルマは悲鳴を上げた。
 喉をかき切られ、崖から突き落とされた死者の、あちこち砕け折れ曲がった姿のおぞましさに悲鳴を上げたのではない。水分を失って、皺だらけの、土気色になり、眼球を失ったその顔貌に悲鳴を上げたのではない。筋肉が委縮して小さくなり、破れたドレスからあばら骨を露出させた体に悲鳴を上げたのではない。
 彼女はその死者の正体を誰より早く悟り、その残酷さに悲鳴を上げた。血で黒く汚れた金色の髪と、それでもまだ、何らかの絆の証のように首に下げられた首飾りの悲しさに悲鳴を上げた。
 泣き崩れる妻の手を引き、バルドーは裏口から家を出た。そして、悲鳴を聞きつけて出てきた隣人に、神官を呼ぶよう頼んだ。
 バルドーはカンテラの明かりを頼りに、エテルマを下町の小さな広場に連れて行き、無言で肩を抱いた。駆けつけた神官と腐術師が、自分達の家に入っていく物音を聞いても、じっとして動かなかった。
 やがて静寂が戻ると、バルドーはエテルマの耳に囁いた。
「あれは、あの子であってあの子ではない」
 エテルマは泣くばかりで、返事をしなかった。
「あの子の魂は既に神のもとに召されたのだ。亡骸は、腐術師と神官が(ねんご)ろに慰めてくれる。きっとそうだ。エテルマ、そうに違いないよ――」
 するとこの夏の夜の底に、死のように冷たい風が吹いた。バルドーは驚いて、カンテラを落とした。風は、火を吹き消して通り過ぎた。夫妻は闇に包まれた。


 
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