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青い春を生きる君たちへ

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第15話 破綻

《え?拓州会の本部事務所の場所?》
「そうだ。どうしても、俺はそこに行かなくちゃなんねえんだよ」


電話の向こうの町田の表情は見えないが、声色だけでもビックリしている事だけは分かった。溢れた涙の筋を拭う事もなく、単刀直入に尋ねた小倉は返事を待つが、町田からの答えはやや渋り気味のものだった。


《いや、まぁ親父が知っとるとは思うけども……どうしたんや一体?何でお前がヤクザなんかに用事があんねん》
「ヤクザの息子のお前が、それを言うか?とにかく、拓州会には用事があんだよ」


まさか、田中の一件を懇切丁寧に説明する訳にもいくまい。そもそも水面下で動いている話なのだ、余計に巻き込む人を増やしても、きっといい事はない。それに、事情を全て聞いた所で、普通の人間ならこう言うだろう。そんな危ない奴と関わるのは止めて、さっさと普通の日常に戻れ、と。しかし、小倉にとってはその選択肢だけは無かった。よって、小倉としてはとにかく教えろと、ゴリ押しする以外になかった。


《……お前なぁ、まさか、ヤケになってヤクザにでもなるつもりなんか?止めとけよ。ホンマにそれは止めとけ。甲子園ら出れんでも、お前は頭もええんやし、いくらでも人生やり直し効くよってに。なぁ、考え直せよ、ホンマに……》
「バカ!そんなんじゃねえよ!……でも確かに、俺にはその場所に行かなきゃならねえ理由があるんだ……」


小倉はもどかしかった。自分のような一旦踏み外した人間がヤクザの事務所の場所を突然聞いてくるなんて、普通に考えれば、町田が言うように、ヤケになってヤクザの仲間入りしようとしているとしか思われないだろう。しかし、自分が拓州会本部事務所の場所を知る伝は、町田しかない。引き下がる訳にはいかなかった。


「……なぁ、今さら俺の身の上心配してくれるんなら、どうしてあの時、俺を庇ってくれなかったんだ?」
《え?えぇ〜……》
「あの時お前も、他の3年2年と一緒になって、上級生のシゴきなんてない、小倉が1人勝手にトチ狂って一年ボコったんだって、そう言ったはずだろ?少なくとも、俺を庇いはしなかったし、正直に全てを話しもしなかった……」
《……》


卑怯だな。小倉は自分でそう思った。例え町田一人が自分を庇い、慣習的に先輩から後輩へのシゴきがあった事を正直に暴露した所で、甲洋野球部から追放される人間が1人増えるだけの事。理由など全て後付けで、そもそも自分の退学は監督による息子の仇討ちの体を成していたのだから、結局自分が出て行かねばならなかった事には変わりがない。だったら、自分の身を守ることを優先するのは合理的で正しい選択だし、もし自分が逆の立場でも、小倉は迷わず見捨てていただろう。そこまで理解した上で、小倉は町田を詰っていた。手段を選んでられないから。もう既に一度間違えてしまった人生、こだわってなどいられない……


「……なぁ、本当に頼む。お前が俺に借りがあると思ってるなら、負い目があると思ってるなら、今は黙って俺の頼みを聞いてくれ。どうしても、どうしても必要なんだ」
《……》


電話の向こうで、町田の舌打ちが聞こえた。続けてゆっくりと吐き出されたため息が、呆れを表していた。


《……そこまで言うなら、しゃあないな。親父に聞いといちゃるわ。またメールでお前に送っちゃる》
「できるだけ早く頼む。……ありがとう」
《礼ら言わんでええわい。……でもな、これでホンマに、俺とお前は貸借りなしやで。むしろ俺が貸しとるくらいやわ。やから、俺からの言うことも聞けよ》
「……分かった、聞くよ」
《絶対、絶対にヤケになんなよ。ほんで、来年の春の甲子園、俺らの野球見に来い。そん時までに堅気やなくなってたり、くたばっとったらぶっ殺すからな》
「……くたばってたら、お前が殺すのも無理だけどな」


電話越しに、小倉と町田は笑いあった。それはかつてと同じような、屈託のない笑いのように、小倉には感じられた。もしかしたら、自分がそう思っただけの話かもしれないのだが、それでもこの笑いを、小倉は疑う気にはなれなかった。



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町田からのメールは案外早く、翌日の夕方には送られてきていた。拓州会は関東の暴力団で、いくつかのダミー企業の集合から出来ているという点では他の暴力団と変わらない。その本部事務所の住所も、検索してみれば不動産会社が入っている事になっているビルだった。逃亡生活を送っている田中に、それほど時間の余裕があるとも思われず、小倉は早速、そこに赴く事にした。

電車にいくらか揺られて着いたその街は、郊外の廃れた街だった。みすぼらしくなった建物に、やたらキツい色の古いネオンサインだけが輝く、小汚い街。いかにも爪弾き者の吹き溜まり感が出ている街に、自ら足を運ぶことは今後無いだろうが、小倉はこれが最初で最後になる事を祈りながら、一歩を踏み出した。


「あぁ?」


怪しげな店の呼び込みを振り切りながら辿り着いたそのビルの入り口詰所には、警備員の代わりに柄の悪い若者が入っていた。煙草の煙をプカプカさせながらガンを飛ばしてくる相手に対し、小倉がどうしたものか、と迷っていると、ちょうど良く、小倉のスマホが音を立てた。画面には、田中智樹の名前。


「言われた通り、今事務所の前だぞ」


素早く電話に出て、いきなり言った小倉に対し、田中は電話越しにヒュウ、と口笛を吹いた。


《さすがだ。この通話をスピーカーに出してくれ。後は俺が話す》
「分かった。俺は、使者だもんな」


言われた通り、小倉はスマホのスピーカー機能をオンにした。田中の声が、小倉のスマホを通じて大きく響き渡る。

《拓州会の皆さん、こんばんは!》
「……!」


拓州会という名前がどこにもないはずのビルの前で、組織の名前が呼ばれた事に、入口番のチンピラが怪訝そうに、そして更に威圧感を増して出てくる。田中はいつも通り飄々と話し続けるが、その迫力を実際に目の当たりにしなければならない小倉はさすがに怯んだ。自分のスマホを介した会話は、どうやら田中の思惑通りトントン拍子に進んでいるらしい。小倉は、よく喋る自分のスマホを持ったまま、ビルの中に通された。



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薄汚い外見の割に、内装はやや豪奢なくらいに整えられているのは、さすがはそれなりの規模のヤクザの本部事務所だった。応接間のように見える一室に小倉は通される。窓は、あまり光を通さないような色付きのガラスで覆われ、固く閉ざされていた。外からは、中の様子を伺うことはできまい。普通のオフィスに見えて、所々、怪しさを伺わせるような所はある。例えば、壁にかけてある白黒の写真。組織の主の背中だろうか、しかしただの背中が写真として飾られている訳がなく、その背中をキャンバスとしてド派手な龍の絵が描かれているのだ。刺青の写真である。


「……で、お前の要求てのは何だ?」


小倉をソファに座らせ、スマホをローテーブルの上に置かせた、ボス然とした男が向かいのソファに座って言った。その男以外にも、手狭な応接間には構成員が何人も。ドアの前に一人、ボスの傍に一人、そして小倉の背後に一人。囲まれたな……そう感じて、冷や汗を垂らしながら、小倉は田中の言葉を待った。


《そうですね〜。とりあえず俺、お国の方に捕まっちゃったらまず命ないんで、亡命したいっすね〜。》


こいつ、今俺が置かれてる状況分かってんのか。いつも通りの腑抜けた声出しやがって……小倉は苛立った。何故田中は直接、拓州会に電話をかけなかったというと、それでは信用がないからだ。信用を得るために、小倉は田中に差し出されている。人質として……
しかし、田中がちゃんとやる事を、信じるしかない。それが奴の、愛の実験なのだから……


「そこの所は心配するな。俺たちは、国に雇われてお前を追ってる訳じゃない。俺たちの依頼人は、敵偵処のエージェントだ。お前を見込んでいるらしいぞ。亡命の手はずもキチンと整えているはずだ……」
《ほうほう》


よかった。話は丸く収まりそうである。そもそも最初から、両者の思惑は一致していたのだ。国から追われて逃げ延びたい田中と、海外の諜報員と結託して国に先んじて田中を確保したい拓州会。どちらも、国に反目して生きる爪弾き者同士で。小倉が少し緊張を解きかけた次の瞬間、しかし、スピーカーからは信じられない言葉が飛び出してきた。


《……で、日本人の癖に中共の使いパシリするってのは、一体どういう気分なんすかァ?反社会勢力の皆さん?》


小倉は、田中が一体何を言ったのか、すぐには理解できなかった。それは拓州会構成員も同じらしく、突然スピーカーが発した嘲りの言葉に、理解が追いついてないようだった。しかし、スピーカーの向こうの田中は、そんな状況を斟酌もせずに続ける。


《ヤクザも落ちぶれたもんだよなァ、金積まれただけで支那人の言うことなんて聞くようになるとはよ!任侠仁義が笑わせるぜ!日本を植民地にしようとしてる連中の言うことに従いやがって!同じ日本人を裏切るような真似しやがってよ!誰がお前らなんか頼るか、バーーカ!俺をお前らみたいなゴミクズと一緒にすんな!同じ爪弾き者でもレベルが違うんだ、レベルが!あばよ、チャンコロヤクザ!》

構成員達の表情に段々と怒りが蓄積され、反論となって放出される直前の、絶妙なタイミングで一方的に田中からの通話が途絶えた。スピーカーがツー、ツーと間抜けな音だけを響かせる。小倉は、キョトンとしていた。というか、キョトンとするほかない。人質として差し出されている自分。その存在に関わらず、田中は拓州会に全力で喧嘩を売った。それが意味する所は一つ……

ガチャン!


小倉は後頭部を引っ掴まれ、ローテーブルに顔から叩きつけられた。自分の背後に控えていた構成員がやったのだろう。ドアを守っていた2人も歩み寄ってくる。スキンヘッドのこめかみに青筋立てて、眉間に寄ったシワが怒りの程度を表している。ソファに座ったまま小倉を見下ろすボスだけは冷静だった。いや、冷静というより、冷酷。そう表現するのが正しい眼光が、色のついたメガネの奥にちらついている。


「……随分と大人をバカにしてくれるガキだな。今時珍しいが、それなら大人も本気を出してやるよ」


ボスは立ち上がり、ローテーブルに押さえつけられた小倉の横顔を片足で踏んづけた。靴底がグリグリと、肌を擦る。


「お前をわざわざここに残してバカにしやがたって事は、奴の代わりにお前をどうしたって構わねえって事なんだろうなァ。お前をさんざ痛ぶって、奴の居場所をゲロらせてみやがれって、そういう事なんだろうな、おい?」
「…………」


田中に、裏切られた。小倉は、漠然と思った。不思議と、甲洋の監督室での出来事のように……どうしようもなく、理不尽で、やるせない思いというのは湧いてこなかったのが不思議だった。そうだ。こうなる可能性は十分あった。自分はそれを想像できなかった訳では無かったはずだ。何せ田中は、国に追われる逃亡者なのだ。爪弾き者という意味では、ここにいるヤクザどもとも変わらない。突然、他人を貶めて、無為に犠牲にする……そんな冷酷な真似をしたって、不思議でも何でもないではないか。実際、この前の工業地帯での日本赤軍のテロを手引きしたのだって田中だ。自分の都合のために関係ない人間を巻き込んで恥じないブッキレた野郎だってのは、あの件でも分かっていた事だ。そんな奴の言うことを、何故信じてしまったか。何故自分はここまで来てしまったのか。

簡単な事だ。裏切られるより、裏切る方が怖かった、ただそれだけだ。裏切られるのは、まだ慣れていた。しかし、自分から裏切って、見捨てるとなると……自分が裏切られた経験があるだけ、それをするのは怖い。裏切られた痛みを理解していたから、自分が裏切る側に回る気にはなれなかったし、裏切ってしまった自分を許してやれそうにもなかった。結局、そういう恐怖に突き動かされた消極的判断は、信頼なんかではない。それを田中も分かったのだろう。愛の実験は、既に破綻していると……

構成員の一人が、火の点いたタバコを腕に押し付けてきた。熱さ、痛み、小倉は呻く。暴れようとしても、強く押さえつけられていて身動きがとれない。

こうやって、地味にすり潰されて少しずつ死んでいくのか。小倉は覚悟を決めた。自分の夢を裏切ったあげく、最後は他人に裏切られて無惨に死ぬか。もうまったく、くだらない……

小倉が自分の意識を閉ざそうとしたその時、パリィーーーン!という、豪快な音が部屋に響いた。


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「んっ!?」


構成員の一人が、ローテーブルに押さえつけられている小倉から視線を上げる。それと同時に、破裂音が連続して響いた。構成員は頭の数箇所から血を吹き出して、目を見開いたまま倒れこむ。小倉の顔に、構成員の血が飛び散った。

一人目がくたばるのを待つまでもなく、侵入者は床を蹴って跳躍する。次の標的は小倉を押さえつけている二人だ。一人はその小さな影の素早い動きに、咄嗟に小倉から飛び退いたが、もう一人は律儀にも、小倉の拘束を続けてしまった。


「がっ!」


侵入者が飛びかかり、全体重をかけて突き刺したナイフが、小倉に覆いかぶさっていた構成員の首筋に突き刺さった。その切っ先は延髄を的確に切り裂き、瞬時にナイフが引き抜かれたその傷からどくどくと血を溢れさせた構成員は絶命する。


「なろォ……」


先ほど飛び退いた1人が、スーツの上着の内側に手をやる。何か得物を手にする気だったのだろうが、その手に握られた黒光りする拳銃が引き抜かれる前に、甲高い破裂音がまた何回か。銃を握った手に力が入ることも無く、構成員は倒れこんだ。


「だぁあああああああ」


ソファに座っていたボスは立ち上がり、侵入者の視線が脇に避けた1人に向いたその隙を突いて、懐から脇差を取り出すことに成功していた。しかし、声を上げて振られた脇差の一閃は豪快に空振りに終わり、身を屈めた小柄な侵入者が、ボスの大きなアクションによって空いた懐にサッと潜り込んで心臓にナイフを突き刺した。ボスの大柄な体が痙攣し、口から血をどっと吐いて動かなくなる。


「あ、あああ……」

最後に残った構成員は、腰を抜かして床に座っていた。カエルのように開かれた足がピクピクと震え、股間には水たまりができている。目には涙を浮かべて、痙攣したように首を横に振っているが、無慈悲に破裂音が響き、無様な顔面の額から血をプッと吹き出させて、床に倒れこんだ。


「…………」


小倉はローテーブルに突っ伏した姿勢のまま、顔だけを上げて様子を見ていた。信じがたい光景だった。自分をさっきまで嬲っていたヤクザ達が、突然圧倒的に葬られていく。人が死んでいくのを見たのはこれが初めてで、血をここまで大量に被ったのも初めてだったが、散乱する屍より何より、小倉の目を釘付けにしていたのは、拳銃とナイフを両手に携えた侵入者の姿そのものだった。

小柄だった。体に密着した、バイク用のレザースーツみたいな服装をしているが、その華奢な体の、無駄が削ぎ落とされたかのような控えめで素朴な曲線……顔を隠すマスクから見える目ともども、小倉には見覚えがあったのだ。

「……逃げるわよ、小倉くん」


そう言って、マスクを外した後に現れるのは、艶やかなショートの黒髪、形良く尖った顎、スッと伸びた鼻筋、薄い唇、頰だけ赤く火照った白い肌。高田紫穂その人の顔だった。


「高田……」


小倉は、イマイチ状況を整理し切れない。なぜ?なぜ高田がここにやってくるんだ?両手に持ってるアレは本物?いや、本物じゃないはずがないじゃないか、たった今アレで5人、一瞬で殺ったんだから。え?殺った?高田、何の躊躇いもなく人を殺した?ちょっと待て、犯罪だろ、いくらヤクザとはいえあんなあっさりぶっ殺して良いものなのか?そもそも、窓から入ってくるってどういう事だ?この部屋、二階だぞ?
色んな疑問が脳内に溢れ、小倉が固まってしまっていると、部屋のドアの向こうから、慌ただしい足音が多数聞こえ始めた。


「……ッ」


高田は小さく舌打ちすると、レザースーツのベルトにいくつかくっ付けている球体の一つを手に取り、その球体の上部についたピンを口で噛んで勢いよく引き抜いた。その球をドアの方に放り投げた高田は、ローテーブルに突っ伏したままの小倉を、華奢な体からは想像もできない力で引っ張った。


「伏せて!」


鋭く言いながら、高田はソファの影に小倉を倒しこむ。そして小倉を守るように、その上に覆いかぶさって抱きしめ、身を硬くした。小倉が、高田に染み付いた硝煙の香りを感じるのと同時に、部屋に耳が馬鹿になりそうな爆発音が響き、埃と煙が舞った。

まさか、手榴弾?小倉がそれを口にするよりも先に、高田に乱暴に起こされ、腑抜けた足で立たされた。


「走るわよ」


高田は短く言うと、自分より遥かに体の大きな小倉を脇に抱えるようにしてから床を蹴った。小倉は高田に引っ張られ、何とか転けずについていこうと、走る。部屋を飛び出すと、爆発で破られたドアの前に死体が幾つも積み重なっていた。それらを避ける余裕もなく、隣の高田に引きずられるように足を動かす小倉。足下に、ぐにっとした嫌な感覚がした。踏んづけた事を、申し訳ないと思う暇もなかった。時々、高田が片手に持った拳銃を撃つ。廊下から飛び出してくる構成員の頭を、高田が放った銃弾は誤りなく撃ち抜く。見えた、と思った瞬間には既に倒れている構成員達の亡骸を超えて、二人は拓州会本部のビルを脱出した。



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「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
「ここまで来たら、一安心ね」


どれだけ走ったか分からないほど、走った。路地裏の一角に足を止めた小倉は荒い息を繰り返して、酸素を吸い込み続ける。高田の走るペースは恐ろしく速く、全力疾走でやっとついていけるレベルだった。今こうして立ち止まる直前には小倉は既に限界を超えており、それこそ高田に、殆ど引きずられるようにしてやっと足を動かしていた。息ひとつ乱していない高田とは対照に、小倉は四つん這いに突っ伏した。


「おぇぇええええええ…………」


小倉は吐いた。吐くほど走らされるなんて、それこそ甲洋野球部以来である。一度吐いて落ち着いてみたら、今度は、遠くで響くパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。それを聞いた瞬間、小倉は思い出した。高田に撃ち殺されて、目を向いたまま動かなくなった死体のその目つき。自分にも染み付いた、血の匂い、硝煙の匂い。


「げほっ!ごほっ!がはぁっ!ぁぁぁあ……」


何度も何度もえづいた。吐くものが無くなっても、吐き出したくてたまらない。このほんの僅かな時間の間に、一体何人死んだのか。平和な日常というものが、どれだけ遠くなってしまったのか。体が、この不可解を拒否するのかのように、胃液を吐き出し続けた。


「大丈夫?」


高田は小倉の側に膝をついて、その背中をさすってやっていた。やっとの事で小倉のえづきが収まると、高田はその体を起こさせ、ビルの壁に背中をもたれかける形に座らせた。冬の寒い風が吹いてくる。コートも全て拓州会本部に置いてきた小倉が、びっしょりかいた汗を冷やして、奥歯をカチカチと鳴らして震え始めると、高田は小倉の隣に座り、背中に手を回してその肩を抱いた。高田のほのかな体温が、寒さの中では殊更に暖かく感じられた。


「……本当、無茶な事をして。ヤクザの事務所に乗り込むなんて、二度と勘弁してね」


呆れたように言った高田に、小倉は少し、反発心を覚えた。俺だって、好きであんな所行った訳じゃない。あいつが、あのクソ野郎が行けと言わなけりゃ……それに高田だって十分、無茶をしてるじゃないか。


「お前に無茶とか、言われたくねぇな……一体その銃とナイフ、どこで手に入れてきたんだよ?さっきは一体何人殺したんだ?タダで済むとは思えねえけどな……」
「大丈夫よ。私の心配はしなくて良いわ。これらの武器は支給品だし、あの程度の活劇も、まぁ想定内だから。あなたを助ける為と言えば、十分許されるわ」


涼しい顔で言う高田に、小倉は恐ろしさを覚えた。支給品?武器を支給されてるという事は、こいつ何かの組織の一員なのか?あの程度の活劇?あれだけの人間を殺しておいて、あの程度、だなんて、一体何様のつもりなのか。それとも、あれだけの殺人は当たり前な、そんな世界に生きてるとでも言うのか?その可能性は高いだろう。高田の殺しは、やけに手慣れていた。しかし、そこまで人の命を軽視する連中が何故自分を助けるのだろう。


「あんだけの人を殺してまで、俺を助ける価値なんて……」
「あるのよ。田中くんの居場所を知ってるとしたら、あなただけだから」


小倉はぎょっとした。田中?今、高田は田中と言ったか?俺と田中の可能性の関係がバレてる?高田も、田中を追ってるというのか?……いや、高田が、というのはおかしいだろう。厳密には、高田が属している組織が、田中を追っているのだ。


「高田……お前………」
「ダメよ、離れちゃ。まだ、寒いでしょ」


戦慄して、高田から身を離そうとする小倉を、高田は更に強く引き止めた。小さく華奢な体を押し当てて、冷え切った小倉の体を温めようとする。そしてそれ以上、高田は何も言わなかった。小倉は、高田の温もりのありがたさが身にしみつつ、この、無表情を保っている美しい少女の不可解さに、胸のざわつきを抑えられなかった。

 
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