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四重唱

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第十一章


第十一章

「死んでいくのね」
「そう。薔薇の騎士の初演は一次大戦間近」
 同時にハプスブルク家の崩壊間近である。第一次世界大戦によりこの古く美しい帝国は呆気なく最期を迎えることになったのだから。
「オーストリアがなくなる時間でもある」
「それまでの繁栄が」
「なくなることでもあったんだ」
「つまり私達の柱となるものが」
 なくなろうとしていたのである。つまり国もまた少しずつ死んでいく。それもまた表わされていたのである。滅びゆくオーストリア=ハンガリー帝国もそこにはあったのだ。
「死んでいくことでもある」
「支えがね」
「なくなっていっていたんだ」
 こうハンナに告げてみせたのであった。
「それも少しずつね」
「そう。そうして」
「次になくなっていくものは」 
 彼はまたしてもマルシャリンに尋ねた。
「何かな」
「恋よ」
 ハンナの言葉は。自分と重なってこれまで以上に哀しみを帯びたものとなっていた。
「それがなくなって。死んでいくの」
「そう、恋が」
「元帥夫人はそれからも逃れたかった」
 彼女は恋をしていたかった。だがそれから離れざるを得なかったのだ。少しずつ死んでいきなくなっていく自分の時を感じながら。それを受け入れるしかなかったのだ。
「それを受け入れた時が終わりだったわね」
「そうだね。それが薔薇の騎士の終わり」
「全てを達観したその時が」
 ハンナは安楽椅子の上で前を虚ろに見て。呟くように言葉を出していた。
「全ての終わりだったのよ」
「けれど。この作品は本当に死んでいくんだね」
「人生が終わっていくもの。秋の話なのよ」
 そうなるのだ。しかも晩秋の話だ。人生の秋を感じてその中に身を置く元帥夫人の。その話なのである。
「死んでいくのは元帥夫人の時間と恋」
「それを哀しみと共に受け入れる」
「最初はこんなこと気付かなかったのよ」
 語るハンナの顔がこれまで以上に哀しいものとなる。今彼女も同じものを胸に抱いているからだ。そう出ないと心からわからないものであるから。
「それでも。今は」
「わかったんだね」
「皆そうだけれど」
 他の皆もこのことをわかっていることは知っている。だがハンナは。それを他ならない自分のこととして受け止めているのであった。そこが大きく違っていたのだ。
「それでも私は」
「けれど」
 アンドレアスは優しい声をハンナにかけてきた。そっと彼女の近くに来て。
「何?」
「元帥夫人はそれを乗り越えたよ」
「ええ」
 夫のその言葉にこくりと頷いた。
「そうね。それを一人で受け止めて」
「誰でも。秋が来る」
 人生とはそうしたものだ。春があれば秋がある。それは誰も変えられるものではないのだ。例え時計を止めても。それでも時は動くものなのだから。
「仕方ないことなんだ」
「私も同じなのね」
 ハンナはそのことをまた噛み締めた。
「彼女と」
「そうさ。君は元帥夫人なんだ」
 そのことを妻に対して告げた。
「元帥夫人になって今度の舞台を」
「わかっているわ」
 今度の言葉は。それまでのものよりは幾分は強いものになっていた。顔も少しだが上がっていた。
「私は。歌えるわ」
「そうだね」
 ハンナのその言葉を受けて静かに微笑む。
「君はきっと」
「どんな心でも」
 ハンナはこうも述べた。
「私はきっと」
「だからだよ」
 彼はまたそこを言う。
「そんな君だからこそ」
「私だからなの」
「そうじゃなかったら僕は今ここにはいないよ」
 アンドレアスの言葉は何処までも優しい。その優しさでハンナを包もうとしているようだった。
「そうじゃないかい?」
「私の歌は。そうしたものなのね」
「君はマルシャリンを演じて歌う為に今ここにいる」
 こうも述べてきた。
「少なくとも今は。マルシャリン以外の何者でもないよ」
「そうだったら私はこのシーズン、何があっても歌うわ」
 今それを心に誓うのだった。
「何があってもね」
「その意気だよ。そうしてね」
「ええ」
 また夫の言葉に頷いた。
「最高の舞台にするわ」
「最高の薔薇の騎士を頼むよ」
「わかったわ」
(そして)
 夫に応えると共に心の中でまた誓う。その誓いは彼女にとっては誓わなくてはならないものであった。哀しみと共にある誓いであった。
(全てを終わらせるわ)
 そう誓うのだった。自分自身に対して。彼女は今自分の全てをそこに捧げようともしていたのだった。
 
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