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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第1話 本当ハ静カナ町

 ―1―

 また雨が降ってきた。クグチは舌打ちしたくなった。都市を覆う透明の天蓋板に大粒の雨が弾け、水の膜となって流れ、流れ落ちるそばからまた新しい水の膜が作られる。
 雨は珍しくない。居住区にいる限り、雨に濡れる心配もない。それでもクグチは雨が嫌いだ。
 何故だか、出動時には雨が降ることが多い。雨は陰惨な仕事を更に陰惨にさせる。額に浮く汗を腕で拭い、制服の胸ポケットから眼鏡を取り出し、はめた。
 すると、疾走する警備車両の外を流れる世界に色がついた。
 眼鏡越しに見る世界には、都市を覆う天蓋板も、そのフレームもない。
 もちろん、雨もない。
 頭上には無限の青空。そこから七色の光の粒が、はらはらと地上まで降ってくる。雪の結晶の形の光。羽根の形の光。
 肉眼では黴で黒ずんでいるようにしか見えない家々の壁も、眼鏡をかければ統一性のない様々な妄想によって隠される。ある壁は緑の蔦と、豊かに実る葡萄で覆われている。その葉陰から小人が顔を覗かせては消える。またある家の壁には岩間を割って伝う滝が現れ、その家の庭は深く澄んだ湖であり、流れ落ちる滝の波紋と、魚の影が見える。天から降る七色の光で、湖面は目が痛くなるほど眩しい。
 それでも、本当は雨は降っていると、クグチは知っている。
「耳のもつけろよ、明日宮(あすみや)
 ハンドルを握る早川が、無闇に大きな声で言った。
 彼の左の耳の穴には無線イヤホンが詰めこまれ、耳たぶで留められている。そしてクグチの眼鏡越しの視界には、早川の姿に重なって、彼の現在の『幸福指数』が表示されていた。
 星10個中5.5個 幸福指数B。
 警備車両に同乗する他の面々も早川と同じようなものだ。Bランク以上の者も以下の者もいない。
 クグチは無視した。
 路上に少女が現れる。クラクションが鳴らされた。少女の驚愕した顔がクグチの目に焼きついた。避ける間も、その必要もなかった。車は少女の体をすり抜け、道の先へ急ぐ。
 少女が両手でスカートをおさえて怒鳴っている姿がバックミラーに映った。それもたちまち遠ざかる。
「躾が悪いんだよ!」
 隣席の同僚が車の床を蹴った。その目には時折火を噴く龍が踊っている。この男の、半永久装着型レンズの下の目がどんな光を宿しているか、見たことがない。クグチ以外の誰もが同じだ。目の中で揺れ動く龍や、虎や、蜥蜴。
 存在しないものを見るためのレンズ。その声を聴くためのイヤホン。
「ああ、イライラする」彼は続けて苛立ちを吐く。「俺たちが出てくる時は隠しとけっての。巻き添えで消去しちまっても知らんぞ。なあ?」
 誰も応じなかった。クグチは表情一つ変えず、窓の外に目を移す。空が急激に夜に染まり、緑色の光のベールが、家々の屋根に触れそうなほど近くに降りてきた。赤、白、緑のオーロラの中、スカイパネルが十五時を示す。時報だ。
 やればやるほどわかってくる。この町の本当の人口が。
 通り過ぎる広場で、歩道で、人々が談笑している。恋人のように。家族のように。
 眼鏡を外した。目に見える人の数が半分に減った。オーロラも、美しい星空も消えた。
 都市の外では雨が天蓋板を叩いている。
 若い女が公園のベンチで、誰もいない空間に大げさな身振り手振りで話しかけている。小さな男の子がネットに入れたサッカーボールを蹴りつつ、嬉しそうに一人で喋りながら歩いている。カフェテラスではす向かいに座る男女。けれど二人とも、連れ合いの顔を見てはいない。
 クグチには、この町の未来の人口さえ見える。
 十年後。まだこの町の大半の人間が生きている。
 三十年後。あの老人は生きていないだろう。黄疸が出ているあの中年男も怪しいものだ。
 四十年後。五十年後。自分は生きているだろうか。
 六十年後。まだ生きている自分を想像できない。
 眼鏡を外しても見える人間は、死んで骨になる。あのベンチに、あの歩道に、あのカフェのテーブルに、無言の骨が残る。眼鏡やレンズ越しにしか見えない連中――可視電磁体たちは、いかに人間らしく見えようとも骨を残すことなどあり得ない。ましてや子供など。連中は持ち主が死ねば、何も残さず消滅する。拒んだところでクグチたちに狩られるまでだ。
 現場に着き、車にブレーキがかかった。ベルトを外し、床の高い警備車両から全員が飛び降りる。同僚が目の前でロゴ入りのジャンパーを羽織った。同じものをクグチも着ている。
〈A.C.J.〉――オーロラ・サイバネティクス・ジャパン。
 現場は郊外のありふれた一軒家だった。門扉を開けた班長の早川が、すりガラスの引き戸に飛びつく。
「大里さん! 大里さん!」
 先輩にあたる立場の同僚から目で合図され、クグチは母屋を周りこむ形で走り出した。
「大里さん! ACJ社の者です。少しお伺いしたいことがあります。大里さん! 大里さん!」
 同僚の男は共に走りだしながら、クグチを思い切り睨みつけた。
「眼鏡をつけろ! 仕事中だぞ!」
 やればやるほどわかってくる。こうした時、〈守護天使〉とその持ち主がどこにいるか。
 家の裏側、開け放たれた広縁に、老人が一人でいた。青ざめてソファから立つ。クグチは諦めた心地になって眼鏡を装着する。
 老人の姿に重なって、彼の職業、簡易プロフィール、現在の幸福指数が見えるようになった。
 星10個中3.5個 幸福指数C。
 そしてもう一台のソファに、十歳程度の男の子がぽつんと座っている。
 ACJ社のレンズを装着している者には初めから、クグチには眼鏡をかけて初めて、その少年が見えた。

 人間の社会的価値は幸福指数が決める。幸福指数を示すのは可視電磁体〈守護天使〉だ。
「守護天使は自分自身だ」
 可塑性のある知性と性格を持つ電磁体。ACJ社の最高傑作。持ち主は特殊なレンズやイヤホンという外付けの装置を身につけることによって、その電磁体を都市の巨大サーバから自由に呼び出し、会話することができる。
「これにはもともと何の知性もなければ性格もない。そうしたものはこれと会話し、飾りつけ、自分や他人と知識を共有することで形成される」
 守護天使は持ち主の職業や勤務会社、学業成績、他人との交流度、口から発せられる単語の意味の善し悪しやその割合、笑う回数、顔をしかめる回数、配偶者や子供の有無、等の様々な要素で幸福指数を割り出す。
 後見人であり育て親でもある男の言によれば、どの居住区でも、まともな市民なら守護天使を持っている。
「仕事の間はこの眼鏡を使え。守護天使でも何でも、ACJ社が提供する電磁体を見ることができる」
 なので、クグチはまともな市民ではないことになる。

『市民のみなさま、つい先ほど入ったニュースです! 本日六時五十一分頃、太陽活動観測衛星〈みらい〉の打ち上げ基地を有する第十一防衛海域にQ国の巡視船が侵入したことが判明しました』
 無線イヤホンをつけるなり、スカイパネルが喚き散らすニュースが耳から脳に流れこんできた。
『Q国の巡視船はその後二度にわたって同海域への侵犯を試み、海上では依然として睨みあいの状態が続いております。この挑発的な行為に海上自衛軍は――』
「何のご用ですか」
 老人は恐怖に顔をこわばらせながら、見かけばかりの怒りを声にまとわせた。同僚が聞き飽きた言葉で応じた。
「ご存知かと思いますが、あなたの守護天使は外界の廃電磁体に汚染されています」
 何をするんですか。何ですかあなたたちは。廊下で老女の声が叫んでいる。帰って。帰ってください。玄関から靴音が来る。土足で上がりこんだ早川がものも言わずに、UC銃を抜いて子供に向けた。UC銃は人体には無害だが、電磁体をその一撃で完全に消去する機能を持つ。
「待って!」
 妻は叫び、夫は早川の正面に立ち、その両肩を掴んだ。
「どういうことだ、やめろ。出て行け! 何の権限があって」
「ACJ本社が定める利用規約第五章第二十一条に基き、本日を以って大里シヨウ様へのサービスの提供を停止させていただきます。弊社では〈守護天使〉を主とする電磁体育成サービスをご利用いただくにあたり、利用者にて解決できない問題が発生した場合は弊社の特殊警備センターにてサービスの強制停止を実行し、利用者はそれに同意するものとしております」
「問題だと。どんな問題があると言うんだ」
「そちらの星川から説明があったと思いますが、あなたの守護天使は汚染されました。原因としてACJ社が定める電磁体安全利用圏外にて守護天使の呼び出しを行った、あるいはそれを利用したことなどが考えられますが」
 老人の足が震えだすのが、クグチの目にも見えた。
「……多いんですよ。守護天使をそうやって外界に、特に墓参りなんかに連れて行く人は」早川はうんざりとため息をついた。「こういうことになるから、やめとけって言ってるのに。わかんないんですよ。あんたみたいなお客さんは」
 子供の姿がぽんと、ソファから弾けて消えた。
「F-57202、アウト。アウトだ! F-57202」
「あなたの守護天使はACJ社のサーバに戻れません。あれは健全なその他の製品と区別しなければならない」
「ミツルは製品ではない! 黙らんか!」
「不良品です。残念ながら」
 イヤホンから子供の叫び声が聞こえた。家の垣根の向こうへと、標的の位置を示す赤い矢印が伸びる。メートル単位で標的との距離を示す数字が大きくなり、小さくなり、また大きくなる。
「ミツル!」
 老人が腹の底から声を張り上げた。
「お父さん! 助けて!」
 クグチは庭に降り、枝折(しお)り戸を開け放つ。
「出れないよ! お父さん!」
 同僚たちが老夫婦を押さえつける、その乱闘じみた気配と音。
「助けて!」
 表示される数字が小さくなる方へ走った。後ろから早川が追ってくる。
 あんな言い方をする必要があったのですか。以前そう訊いたことがある。その時……その時は何と答えられただろう?
『みなさん! 我々は傲慢な侵略者に対してこれ以上我慢すべきではありません。今こそ立ち上がる時です。我が国の領土と歴史と先進技術は我ら国民ひとりひとりの手によって守らなければなりません! みなさん――』
 スカイパネルが戦争を喚いている。クグチはレンズに投射される数字にばかり気を取られ、入り組んだ路地に迷いこんでいた。迷ったことを自覚し、じわりと脇の下に汗をかく。
 焦る必要はない。対象はこの区画を囲む電磁防壁に捕らえられている。
 三角形の家に行き当たった。家の辺に沿って、道が分かれている。右か。左か。
 右に行った。
 いきなり少女がいた。
 降り注ぐ電磁体の羽根が少女の姿を洗っている。
 家々を覆う幻覚の色彩が風もないのにたなびく。
 その中で、ただ一つの不動のものとして少女は立っていた。
 白いブラウス。白いスカート。白い靴下。全ての闇を吸いこんだような黒髪。黒い瞳はまっすぐぶつかったクグチの視線から逃れようとしなかった。視線も、その髪一本さえ、こ揺るぎもしない。
 はじめに動いたのは、幻でもないのに鮮やかな赤い唇だった。
 笑った。
 彼女には、目の中で揺れ動く紋様も、イヤホンもない。
 クグチは眼鏡を外した。本来ならば少女の姿に重ねて表示されるはずの幸福指数が見当たらなかったからだ。しかし、少女はいた。歳は十六、七くらいだろうが、そうとは思えぬほど落ち着き、堂堂としている。
「守護天使を見なかったか」
 唾を飲んでから、気を取り直して尋ねた。
「男の子の姿をしている。十歳くらいで……」
「あなた、守護天使がないのね」
 少女は幻の羽根より柔らかい、しかし冷淡な、嘲笑うような響きの声でクグチを遮った。
「ACJの人なのに。どうして?」
 イヤホンの中で警笛が鳴り響く。早川が、応答しないクグチを罵っている。慌てて眼鏡をかけた。赤い矢印が動いてくる。数字が猛スピードで縮まってくる。
 ありもしない青空の下で、クグチも走った。
 八百メートル。七百メートル。六百。五百。
 三百。百。五十。二十。
 銃を構える。
 曲がり角から現れた少年の表情が絶望を示すまでの間もなく、引き金を引いた。
 少年は泡のようにぱちんと消えた。

 ―2―

 ひと仕事終えた特殊警備員たちは、ACJ南紀支社の彼らの詰所に戻っていた。広い部屋の片隅で、六人の仲間たちが円卓を囲み、それぞれの操作端末を手に通信ゲームに夢中だ。出動中と打って変わって、病的なほど明るい。彼らの座る間隔がやたらと空いているのも、その会話がちぐはぐなのも、間に彼らの守護天使がいるからだ。眼鏡をかけさえすれば、クグチにもその姿が見える。
「そしたら高田がまたよぅ、B班の高田だよ、あいつ女房に追い出されたとかでさあ」
「風呂と言えば俺の家の風呂釜が」
「ほんと、くだんねえことに大金使うよな」
「あいつ仕事できねえくせにそんな給料いいのかよ」
「あ、卑怯だぞ」
 クグチは部屋の反対の隅の、自分のデスクに両腕を置き、その腕に顎を乗せるという姿勢でだらしなく背中を丸め、同僚たちの声を聞くともなしに聞いていた。背後で静かにドアが開き、閉じた。
 入ってきたのは百八十二名の特殊警備員を束ねる特殊警備センター室室長の強羅木(ごうらぎ)という男だった。仲間たちは彼らだけが共有するゲームの音楽や守護天使たちの声に夢中で、上司の入室に気付かない。
 強羅木はクグチの横に立った。クグチは一瞥をくれたが、何も言わなかった。
「報告書は書けたか」
 クグチは顎を上げ、その顎を、壁際のレポートボックスに向けた。強羅木は呆れた様子で溜め息をつく。育て親であるこの男とは、六歳で引き取られてからもう十五年もの付き合いになる。
「あんな紙切れ一枚で済ますつもりか。少しは真面目に働け」
「特筆すべき事柄はありません」
「だからと言って毎回毎回、書き方見本みたいな文面ばかりあげてくるな。目を通すのは俺だけじゃないんだぞ。明日宮」話しかけながら、隣の椅子を引いて座る。「……クグチ。今さら俺が言うことじゃないが、お前は他の警備員たちとは違う。お前はお前が思う以上に人から見られている」
「守護天使がないからか」
「そうだ」
「そうだろうな。クビにする口実が欲しいんだろ。だからせめて人並み以上に真面目にやれと言うんだろう」
「逆だ」
 クグチは初めて相手をまともに見た。強羅木は最初から、視線をじっとクグチに定めていた。次に口を開いた時には、口調が自然と育て親に対するものから、上司に対するものに変わっていた。同時に背筋も伸びた。
「どういうことですか」
「もう一度聞く」
 クリアファイルが机上に置かれた。報告書が挟まれている。クグチが書いた報告書だ。
「十五時〇四分、対象利用者の自宅に到着、自宅内にて対象利用者と接触」
 ささくれ立った太い指がその内の一行をなぞる。
「対象者はお前を見てどう反応した」
「怯えていました。当然です」
「何故怯えていたと思う」
「もちろん、せっかく育てた守護天使を抹消されるわけですから」
「せっかく育てた守護天使を、か。お前はそれをどう思う」
 不愉快な感触が胸をなでる。クグチは眉をひそめた。
「どうとは――」
「守護天使を持ったことのないお前が、何を以って『せっかく育てた守護天使』などと言っている? どういうつもりでそれを消している?」
「質問の意味が分かりません。ACJの特殊警備員は……」
「何も咎めてはいない。それが職務だ。むしろ対象の守護天使をしっかり消してくれなければ困る。ただ適性を知りたい。守護天使を持つ人間とそうでない人間、職務への適性の判定が今求められている」
「初めて聞く話です。それでどうしろと」
「何を思ったのか書け」
 クリアファイルを机の上で滑らせて、強羅木はクグチに報告書を返した。
「報告書に個人的な心情を書けということですか?」
「そうだ。俺がやめろと言うまでだ。他の警備員数名にも試験的に同様の指示を出している」
「書けません。出動中は無感情です。対象は泣いたり、怒ったり、殴りかかってきたりする。冷淡に事務的にやらなければ対象に引きずられます。それでは精神的にもたない」
「事務的に仕事をこなすことと、無感情になることは全くの別だ。出動は嫌か」
「好きという人はいないでしょう」
「それは、出動が嫌なものだからだ。嫌と感じる以上感情は働いている。今回の出動で、お前は何が一番印象に残っている?」
 路地の少女の面差しが思い起こされ、クグチの表情を動揺させた。
「……何も特別なことはなかった」
「特別なことを書く必要はない。先ほどの指示通りに書き直して提出しろ」
 強羅木は、部下たちの誰にも存在を気付かれぬまま席を立つ。退室しようとするその背に、クグチもまた立ち上がり、呼び止めた。
「何だ」
「あんたが俺に守護天使を持たせなかったのは、将来何か特別なことをさせるつもりだったからか」
「俺の教育方針だ。十五年も前に決めたことだぞ。そんな先見の明はない」
 強羅木が呆れたように言い残して部屋を出て行ってしまうと、クグチは取り残されたような気持ちでずるりと椅子に座りこんだ。えも言われぬ疲労感が全身に貼りついている。報告書を前に深い溜め息をついた。
 戦争があった頃、まだ人と電磁体の関係は今ほど密着しておらず、人々の虹彩の奇妙な紋様もなかった。
 覚えているのは、逃げこんだ夜の暗い山から見下ろす火、火、火。隣でいい歳をした男がおいおいと泣き叫んでいた。大切な人があの火の中にいたのかもしれない。彼の妻か、子供か、両方か。
 押し黙っていた人たち。口を半開きにして、一つの町が滅ぶのを見ていた。
 その夜からしばらくののち、どこかの家に預けられていた記憶がある。何という名の住人だったか、どこの町だったか、わからない。
 家の前に田が広がり、その向こうに里山が並んでいた。のどかな田舎だった。
 ただ一つの鮮明な記憶の中で、クグチはその古い家の濡れ縁に座っている。
 女が針仕事をしていた。赤い刺繍糸を通した針を動かしながら、彼女は守護天使でも、目に見えないどんな奴らでもない、他ならぬクグチに話しかけ、応じる声を聞き、また話していた。軒の向こうでは、夏の雨が優しく降っていた。か細い滴がプリズムとなり、七色の光を撒き、ある瞬間やわらかな黄色の太陽光に染まる。
 女が細い鼻筋を天に向けた。そこでは雲が切れ、青空が見えていた。雲はたちまち形を変え、青空を広げ、雨粒は光輝を強め、すると――青空から顔を出す爆撃機。
 大音量のサイレンが鳴り響いた。
 空襲ではない。
 出動だ。

 ―3―

「E77874C-A、アウト!」
「DKJ89KKKC3J、アウト!」
 仲間たちが通信端末を手放し、守護天使をサーバに戻している。クグチはいち早く廊下に飛び出していた。UC銃保管庫のロックを解除し、自分の得物(えもの)を取る。その先の出動車両にたどり着く。一足遅く仲間たちが追いついた。
「ついてねえよな!」
 班長の早川が運転席に乗りこむ。
「あと三十分で交代だったってのによ!」
 仲間たちは口々に嘆き、悪態をついた。一日に二度も出動しなければならないからだ。以降、会話はない。
 不運ゆえに口を利く気を失くしたわけではない。
 間に守護天使がいないからだ。
 クグチはまだ子供時代の記憶に片足を突っこんでいる。
 あの戦争は超規模の太陽フレアと、それがもたらす磁気嵐によって続行不能となった。そうでなければ、自分は生き延びられなかったかもしれない。同僚たちも。居住区の市民たちも。警備車両は通りを抜け、現場にたどり着いた。数時間前と同じ展開が繰り返された。
「小島さん! 小島さん! ACJ社の者です!」
 やればやるほどわかってくる。諦められぬのは老人ばかり。出動によって深い傷を負うのは、若者よりも老人たちのほうだ。
「なんです」
 老婆だった。
「ACJ南紀支社特殊警備センターの早川と申します。利用規約第五章第二十一条に基き小島モトコ様へのサービス提供を強制停止させていただきます」
 言うが早いか、硬直する老婆を腕で押しのけて、早川が土足のまま家にあがりこんだ。同僚たちが続いた。
「待って」老婆は早川を追い、二の腕を掴んだ。「待ってください。何かの間違いです」その横を特殊警備員たちがすり抜けて、戸という戸、襖という襖を開け放ち、足跡を刻みつけ、二階に踏みこみ、どすどすという足音を天井から響かせた。
「お察しでないはずはないとは思いますが、あなたの守護天使は汚染されました。他の利用者への汚染拡大を防ぐためあなたの守護天使は消去されなければなりません」
「嘘よ」
 二階から、いたぞ! と聞こえた。早川が足を踏み出す。老婆はその腕を抱きしめるように縋りつき、足止めした。
 逃げたぞ! と二階の声が叫んだ。
 老婆が腕を振り上げ、その皺だらけの、肉付きの薄い手で、早川の胸を叩き始めた。クグチは老婆の後ろからその手首を掴んだ。きつく掴めば親指と人差し指が触れあう細さだった。老婆はわっと泣き、叫んだ。
「人でなし!」
「人でないのは私たちではありません。諦めてください。あなたも昔は守護天使なしで生活していたのでしょう」
 目の前にいる早川の声が、イヤホンからも聞こえる。
「対象は俺と明日宮で確保している。早く探しに行け!」
 足音が、階段を踏み鳴らし、勝手口から飛び出ていく。老婆はもがきながらまだ、早川の二の腕を握りしめて放さない。
「あなたのあれは幽霊です」
 もがく老婆を、早川がなだめすかしにかかった。
「小島さん、あなたは持ち主を亡くした守護天使がどうなるかご存知ですか」
「守護天使は生涯を持ち主と共にするわ」
 老婆は肩で涙を拭い、早川を睨んだ。
「持ち主のレンズと共に埋葬される」
「ここはひとつ、身も蓋もない言い方をしましょう。持ち主は棺の中に遺品としてレンズを入れ、共に火葬されることを許されている。守護天使は登録抹消されます。管轄支社のサーバから永遠に」
 老婆の手首がぴくりと力んだ。
「ところが先の戦争で亡くなった方々には、そのような葬儀や登録抹消作業を行う余裕などなかった。なにせ万単位の人々が一瞬で蒸発したり、焼け焦げたり、または未だに行方不明だ」
 力んだ手が震えだす。老いた体ごと。今度はその体の芯から力が抜けていくのが伝わってきた。
「その結果が外界の様です。消されなければならなかった守護天使たちは、居住区の外の、磁気嵐の中で生きている。持ち主の鮮明な死の記憶と共に」
 老婆が床に座りこんだ。クグチは手を離した。
「あの廃電磁体たちはさながら電子の幽霊です。焼きつけられた死の瞬間の恐怖の鮮明さと強烈さゆえに、元の持ち主と仮想人格としての自己との区別がつかない。自分を死んだ人間だと思っている。遺族を探して居住区に入りこもうとしている。そんな奴らに増殖されては困るんだ!」
 クグチは後ずさった。これ以上見ていたくはなかった。早川の指示を待たずに、玄関から家を出た。そこかしこで仲間たちが守護天使を探す声がイヤホンから聞こえる。門扉を出、そして、対象の守護天使がいる方角を示す矢印を頼りに走り始めた。
「くそ! ちょこまかちょこまかと」
 視界に、抹消対象の守護天使の容姿が投射された。自分と同じくらいの歳の、若い女だった。
 やればやるほどわかってくる。老人たちにとって、守護天使が何なのか。
 クグチはやっと思い出した。
 あんな言い方をしなきゃ同じことをしやがるのさ。
 早川はそう答えたのだった。
 優しく言おうがきつく言おうが、俺たちのやることは変わりゃしないんだ。だったらもう二度と守護天使なんざ使おうって気にさせない方が親切ってもんだ。わかるか?
「こっちだ! 一緒に来い!」
 サバンナを映す家の角から仲間が顔を出して叫び、引っこむ。その後ろ姿を追う。先行する仲間の背中が視界の先で次々と角を曲がる。
 裏道に入りこみ、階段が現れた。
 階段を登りつめた先のテラスに、白い服の少女が立っていた。
 クグチにはそれが誰だかわかった。こちらを見下ろしている。
 仲間たちが一人、二人、少女の横を通り過ぎ、その先の下りの坂道を突き進んでゆく。
 息を切らして階段を上りきった。
「何をしているんだ」
 苛立った声をぶつけられても、少女は上目遣いにクグチを見、いたずらっぽく笑うばかりだった。
「幽霊狩りを見るのがそんなに楽しいのか?」
「楽しくないわ」少女は、昼に出会った時と同じ冷淡な声を放った。「私も幽霊だもの」
『また見失った!』
 耳の中で仲間が叫んでいる。
『そっちに行ったぞ、明日宮! 迎え撃て!』
「幽霊?」
 クグチは呟き返す。
『えっ、何? 何て言った?』
「今なんて言った?」
『それはこっちのセリフだ、おい!』
「私はハツセリ。幽霊なの。死んだ場所を探しているの」
 思わず指を伸ばした。
 少女は逃げなかった。袖口のフリルに触れた。眼鏡を外した。依然として存在している。
「悪趣味な冗談はやめろ!」
 すぐにまた眼鏡をかけた。
 眼前に色彩が現れた。一瞬で人間の形になった。
「ねえ」
 UC銃を抜いた。引き返してきた仲間もUC銃を構えた。
 空気が水のように重くなる。
「よければ、私があなたの守護天使になってあげようか」
 幻聴のように、遠く聞こえた。
 守護天使の女が首をよじってクグチがいる方向を見た。
 その守護天使はクグチのことも、UC銃も見なかった。特殊警備員の姿も見なかった。その視線は切実な光を宿し、クグチの顔の横を通り抜け、テラスの先の階段にまっすぐ注がれた。
 唇が開いた。
 イヤホンの中から、その声が鼓膜を刺した。
「見つけて!」
 指が重くなった。
 引き鉄を引けなかった。
 代わりに仲間が仕事をした。
 守護天使は弾けた。弾け、消えた。
 クグチはゆっくりと振り向いた。その守護天使が最期に見たものと、同じものを見た。
 どうやって早川を振り切ったのか、テラスの手すりを握りしめて、灰色の髪を乱した老婆が息を切らして立っている。急激な運動と目の前で展開した出来事のせいで、顔が土気色だ。
 やればやるほどわかってくる。本当はこんな仕事は嫌いだと。
 老婆の膝は今にも折れそうで、大きく開いた口は体じゅうのものを吐きそうで、手すりに体を預ける。自然な動作に見えたが、しかし、続く不自然な動作は明らかに、彼女がわざとやったことだった。
 老いた体が手すりの向こうに消えた。
 銃を手にしたまま、クグチは声も出せずに手すりに駆け寄った。
 老女の体が遥か下の車道に落ちた。
 頭がくしゃりと苺のように潰れ、赤い果汁を散らした。
 その上に路面バスが来た。バスは潰れた苺を車輪に巻きこみ、様々な体の部品をばら撒き、ブレーキをかけて停まった。


 
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