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駆け落ち

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第二章


第二章

「本当に素晴らしい方よね」
「その通りよ。何もかもがあられて」
「それに対して貴女は何もない」
 声はこれまでになく意地悪いものになった。
「何も。そうよね」
「それは・・・・・・」
「違うのかしら」
 意地悪い声で囁き続けてきていた。
「その通りよね。貴女が一番わかっているわよね」
「嘘は。言えないわ」
「嘘じゃなくて」
「そうよ。それじゃあわかってるわね」
 答えを導き出そうとしていた。
「どうするべきか」
「私は。どうしたら」
「帰るのよ」
 声はここでこう言ってきた。
「帰るのよ。それが一番よ」
「何処に帰るの?」
「それはもう決まっているわ」
 声の笑みがさらにまとわりつくようなものになった。
「家よ。貴女の家に」
「私の家に」
「今なら帰られるわ」
 誘惑の響きさえ込められていた。
「今ならね。誰も知らないから」
「誰も知らない」
「家の皆も」
 家の人間も話に出してきた。
「お父様もお母様もね」
「父ちゃんも母ちゃんも」
 愛美は親を家ではこう呼んでいるのだった。実際に声に出すとそれが実際に心の中に入って行くのだった。静かだが確実に浸透していく。
「知らない」
「さあ、戻りなさい」
 ここぞとばかりに囁きを続ける。
「貴女の家に」
「私の家に」
「戻るのよ。お兄さん達もお姉さん達も心配してるから」
「兄ちゃん達、姉ちゃん達」
「いいわね」
 説得まで含めてきた。
「帰りましょう。お家に」
「けれど」
 だがここで愛美は言うのだった。
「私は」
「私は?」
「修史さんが好き」
 この言葉が自然に出た。
「修史さんが好き」
「好きって?あの方がなの?」
「ええ」
 こくりと頷いた。
「あの方が好きだから」
「帰らないのね」
「決めたから」
 声はまだ弱いものだった。しかしそれを出したのは確かだ。
「決めたから。もう」
「帰らないっていうのね」
「帰らない」
 声はさらに強いものになった。少しだけだが。
「私は。帰らない」
「駄目よ」
 嘲笑だった。
「そんなのしても駄目よ。釣り合わないわ」
「私と修史さんが?」
「その通りよ。貴女は農家の娘。ただの農家の」
 声はまたこのことを愛美に言ってきた。
「それに対してあの方は」
「大地主の息子さんね」
「そうよ。とても立派なお方」
 このこともまた囁くのだった。
「とてもね。とても釣り合わないわ」
「釣り合わない。私は」
「どう考えてもね。いいわね」
「いいって」
「諦めるのよ」
 またこのことを囁いてきた。
「釣り合わないから。どうしても」
「いえ、それはないわ」
 声の強さがまた一段と増した。
「それはないわ。絶対に」
「あら。あの方と貴女が釣り合うっていうの?」
「釣り合うという問題じゃないのよ」
 愛美の言葉は声に対して次第に優勢になろうとしていた。
「それはね」
「身分が違うのに」
「身分なんてないわ」
 それをはっきりと否定した。今度は。
「そんなもの。最初からないわ」
「強がりかしら」
「強がりじゃないわ。修史さんが言った言葉だから」
 これはこの通りであった。彼は愛美に対して直接告げたのだ。身分なぞこの世にありはしないのだと。だから愛美が好きなのだと。確かにこう言ったのだ。
「だから。嘘じゃないわ」
「あの方は大学を出ておられるのよ。けれど貴女は」
「それも関係ないわ」
 それも否定した愛美だった。
「それも。関係ないわ」
「あらあら」
 声は愛美の今の言葉を聞いてからかうようにおどけてみせた。
「そうなの。尋常学校と帝国大学は同じなの」
「それで人はわからないから」
 愛美の言葉はまたしても強さを増した。
 
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