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Eve

作者:ぱすた
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第一部
第一章
  現実から虚実へ

「……」
今日も、ここは晴れていた。
視界いっぱいに広がる、青々とした草が生い茂った大草原と広大な空。風の旋律が織り成す粒子の流れは、背高く生い茂った草原を騒めかせ、眼下に見据える俺の頬を撫ぜ、俺が凭れかかる柳の枝垂れた枝に葉を靡かせた。
いつ見ても非現実的なほどに清々しく、そして生き生きとした世界がここには広がっている。お日様の眩しい陽光も、柳の枝に葉を縫って木漏れ日となって俺たちに降り注ぎ、世界を今日も明るく染め上げた。
……少し、眠たいかな。
大きな柳の木の袂。よく俺たちが日陰で休みたいときに、いつものようにやってくるこの場所に、今日の俺の目覚めはあった。
草原の、小高い丘の上に一本だけ雄々しく伸びる一本の柳。周囲に春の涼風を遮るものもなく、自らのその身を幾十年も揺らし続けてきたのだろう。そんな孤独な生き様の中に、波打つような生命の躍動をひしひしと感じる。そんな一本柳だった。
今日も元気に枝に葉を揺らすこいつを見てるとね……何故か力が湧いてくるんだよ。今日もここに帰って来れたかって実感と一緒にさ。
……なぁ、イブ。
俺は俺の膝の上ですやすやと仰向けになって寝息を立てる少女の、その柔らかな頬に指一つで触れながら心の中で呟いた。
「……イブ。」
「……」
問いかけてみても、イブの返事はない。ただ気持ちよさそうに寝息を立てて、目蓋をきゅっと閉じては、時折その長い睫をぴくんと震わせた。
俺が起きた時には、もうこの状態だったからな……眠かったんだろう。
この場所が、春の涼風と丁度良く暖かい木漏れ日の組み合わせが心地よいいってこともあるんだとは思う。
にしてもだ。以前に『春眠暁を覚えず』と、そんな言葉をイブから聞いた気がするんだよな……。確かに、俺自身もこの陽気をもろに食らっていれば、そりゃ眠くはなるけれどもさ。でも、その言葉で俺に惰眠はいけないよと釘を刺してきた当の本人が俺の眼前で、しかも本人の膝の上で気持ちよさそうに惰眠を貪るとはどういう了見なのか。小一時間と言わずに、一日中ずっと問い詰めたい。
俺はイブの細やかで長い。俺の膝から草木の上に放射状に広がる髪を指先で絡め、二・三回巻きつけながら、ゆっくりと毛先に向かって指を引いた。
でも俺は、今はこの清々しい陽気に包まれて眠るよりも、この清々しい陽気に囲まれながら春眠に耽るイブの。その髪や肌に触れていたいって気持ちの方が圧倒的に強くて……。
だから、イブを叩き起こしてまで何かを言うつもりもない。わざわざ起こすようなこともない。ただ、イブが目を閉じて俺の膝の上でその身を任せてくれている、この間だけでも……俺は絶やすことなくイブの髪。肌。その肌に纏う装飾に触れていたかった。
……イブ。
イブの小さな、ぷっくりと膨らんだ薄桃色の唇に、俺は人差し指を軽く押し当てる。
「……ん。」
少し怪訝そうにイブは眉をひそめる。でも、起きるそぶりはない。しっとりと濡れたイブの唇に、ぴとっとくっつく俺の指。
やっぱり、柔らかいな……。
触れてみて感じる、イブの唇の柔らかさ。自分のそれとは、比較にすらならない。こんなにも違うものなのかと疑うほどに、それは質が違っているかのようで……。
しばらくの間、こうして触れていて。何となく……何となくだけれども。少しだけ、いたずらしたい衝動に駆られて……俺はちょっとだけ指を上下左右に揺り動かした。
「……」
くにくにと俺の指が押すように形を変えるイブの唇。ちらっとイブの目を見るけれども、怪訝そうにひそめていた眉はいつものように、スッとした安らかな表情に戻っていた。静かな寝息は、俺まで安らかな気分にさせるほど静かでゆったりとしていて……まだイブ自身は到底起きそうにもなかった。
今度はもう少し強めに……。
手に籠る力が、また少し強くなる。そしてその分だけ、ぷにっとした唇はさらに形を変えて奥まで沈み込む。左右に揺らすと、俺の指の位置に合わせて沈み込む場所によって深さを変え、寄る位置も、その時折で変えた。
楽しい……。
意図せずに、口元にニヤけた笑みが浮かんでしまうのを隠せないくらいには、正直なところ楽しかった。
俺はいったん、イブの唇の上で手を休める。
今度はどうしてやろうか。唇を左右に引っ張ってみようか?それとも、ちょっとつまんでみようか?
そんなことを考えていた。
「……ひょーや?」
「お…っと。おはよう、イブ。」
が、突然の不意打ち。イブの寝起きの弱々しくも高めの声が俺の鼓膜を震わせた。
ちょっと熱中し過ぎたか……?
イブの寝起きのまだボーっとした雰囲気を感じさせる、力の抜けたイブの声が俺の名前を紡ぐ。どことなく安心感を感じさせる、イブのいいところが相まった可愛らしい声。目蓋は半開きのまま、虚ろな目を俺に向けて。ときおり気になるのか、イブの唇に触れる俺の手を見ようとしては、瞳を揺り動かした。
……かわいい。
俺は空いた左手で、イブの少しだけ乱れて顔にかかった前髪を左右に掻き分け、揃えた。
「……あにひてうの?」
「髪揃えてるの。」
細い数本の、まだ揃えきれていない髪を正す。
「……ひがう、こっち。」
「ん?」
どうも違うというイブの目を見据えると、イブの視線は下の方を示す。そっちに目線をずらせば、イブの左手の人差し指が指し示す、イブ自身の口元。というよりも、イブの唇に触れる俺の指。
まあ、そりゃそうだよな。
俺は左手で自分の下唇に手を当てて、少しだけ考えた。その結果、出てくる答えは一つだけ。
「……いや、なんとなくかな。」
「なんとなくって……」
俺は、イブにいたずらする手は止めずに答えた。イブも呆れたように、そして恥ずかしそうにして。目を細めて、ジトッとした目で俺のことを見据えていた。
「もうちょっといじっててもいい?」
「……やだ。」
イブが俺から顔を背けて、明後日の方向を向く。だけれども俺は動かす手を止めない。止めずに、ただ気の赴くままにいじり続ける。
「やだって言ったのに……」
視線を逸らしながら、頬を朱に染めてイブは呟いた。
そりゃあな。やだって言われたら、むしろやりたくなるじゃないか。というよりも、やるのが礼儀じゃないか?
俺は空いた左の手でイブの髪を梳きながら、イブの言葉などなかったつもりで口に頬辺りをいじり続けた。ただひたすら、楽しみながら……。

……いつの間にか、どれほどの時間が過ぎていたか。俺は飽きもせずにイブの唇に触れる指でイブにいたずらを続けて、イブはただじっとそれの様子を眺めているだけで……そんな他愛のない時間が早々と過ぎていた。
「……あの、きょうや。」
「なに。」
「……いふまで、ほーやってうの。」
左手も右手も、相も変わらずに各々の仕事をこなし、イブを全身全霊楽しんでいる俺に向かって、そんな質問を投げかけてくるイブ。ふと気がつけば、そんな俺の様子を見てかイブの目はさらに細く、じとっと重たくなっていた。
「イブ、声聞き取りづらいよ。」
「ほれはひょーやのせい。ボクのせいじゃないよ!」
抗議の声。だがその声は俺には届かん。
んー、いつまでと聞かれたか……そうだな。
「んー、俺が飽きるまで?」
「……それ、ほれくらい?」
イブが紡ぐ言葉と一緒に、イブの左手が俺の腕を柔く、でもしっかりと掴んで離さない。流れるように自然に止めようと、柔く力を込めているんだろうけれども、そのくらいの力で俺を止められるはずもない。それくらい、イブ自身だってわかっているだろうに……。
それにイブだって、本気で止めようとしているわけじゃないって。なんとなくだけれども、そう思う。自意識過剰かもしれないけれど……。
だから……。
「……1時間、くらい?」
「え……?」
俺の答え。イブの表情が凍った。
その反応は予想済みだよ。今までこんなに長時間いじること自体……そもそも俺自身、イブの唇に触れていじるだなんてことなんて、ほとんどなかったもんな。
俺は微笑み。その微笑みを向ける先のイブの凍り付いた表情は、段々と諦めを帯びたような、引き攣ったような普段はなかなか見られない表情に変わっていった。
「……ほんなには、やだ。」
そう、小さくイブは呟いた。けれども、俺の腕を掴んでいた力は弱まって、少し困ったように眉を歪ませるイブ。頬を朱に染め、腕の力はもう、添えてるだけって。本当にそれくらいまで、力は弱まっていた……。
俺の勝ちかな。
小さく心の中で呟いて、心の中で大きくガッツポーズをかました。さて、再びイブの可愛らしい唇へと指を這わせようかと、イブの唇手前辺りまで俺自身の手を動かした。
「……ボクだって。」
「……え?」
聞こえるか聞こえないかの境界線。それくらいの声量の呟きが、僅かに俺の耳に触れた、その瞬間だった。背筋が伸びきり、張り詰めるような感覚に見舞われたのは。
な、なんだこれ……?
俺の左人差し指に感じる、さっきとは違った感触。硬い……そう、硬い何かが、俺の人差し指を上下から挟む感触が、俺の人差し指を襲った。でも、指の第一関節のあたりに感じるのは、さっきまで俺が触れていたイブのしっとりと柔らかくふくらんだ唇の、そのしっとりとした柔らかな感触だということは確かで……。
強張ったようにピンと張りつめる俺の身体。少しだけ、想像が補った現状が脳裏を駆け巡り、やがて急激に鼓動が高鳴りだした。
……いや。まさかね。
俺は硬直する筋肉全体に鞭打ち、咄嗟に自分の手元を……そして、イブの唇を見た。
「……んむ。」
「い、イブ!?」
想像が描き出していた脳内の映像は、俺の瞳に映り込むイブの姿で、完璧に補完された。されてしまった。
さっきまで俺の指が触れていたイブの唇。その柔らかくピンク色の朱肉に、今度は俺の指が咥えられていた。さらに朱肉の奥にひっそりと伸びているであろう白い歯が、今度は俺の指を、甘噛みしていて、それが俺の指の腹を離さないでいたのだった。
あまりに強烈な姿が俺の視線を捉えて離さない、イブの行為行動。俺の第一関節から下が、すっかりイブの口に咥えられているこの光景に、どうして鼓動が高鳴らずにいられるだろうか……。
な、なんで……イブが俺の指を?
考えが纏まらない。整理する余裕も時間もない。
俺の……俺の指が、イブに……?
出てくる言葉は、さっきからほとんど同じ言葉だけ。もう、それしか頭に浮かんでこなかった。
あまりにも予想外な反撃に、俺の心が刻むビートは収まりつかず、額に噴き出す冷えた汗と身体中を包む鳥肌。きっと俺の頬はイブの唇よりも朱に染まりきっていることだろうと思う。
普段のイブからは考えられない……物凄い威力を孕んだ強反撃に、心臓まで口から出てきてしまうんじゃないかってくらい、脈打つ鼓動は強くなっていく。身体中を巡る血液が、身体の下部中央に集まり始める感覚は、もう俺にはどうすることもできない。ただ、イブのあまりにも普段とかけ離れた姿に、いけないと思いながらも視線を逸らすことができずに、この目はガッチリと釘づけになってしまっていた。
「くっ……!」
ゆ、指に唾液が伝って……。
優しい甘噛み。イブの口腔内の暖かさと、イブの唇の柔らか朱肉の感触。歯から、俺の指へと伝う唾液の感触と温度を、指先から鋭敏に感じる。鋭利な歯と俺の指のサンドイッチは、無機質だけれども、しっとりとした鈍い圧迫感を孕んだ感覚を、指先から脳へと鮮烈に甘美に、蕩けるように伝えた。
時おり、強弱をつけて押し付けてくるイブの前歯と唇の相反する二つの感触も、こうなっては俺の下半身で暴れる激しい性の奔流を織り成す、一つの要素でしかなかった。
「……んむぅ。」
え、ちょっとイブ……?なにして……。
上目づかいで、俺の目をじっと見据えるイブ。俺の膝の上で、髪を放射状に乱して、頬を朱に染める。じっと俺のことを見据えながら、咥えていた指から歯、唇をゆっくりと離したかと思いきや……。
「……ん。」
「い、イブ……」
再び指を挟む、上唇と下唇。馴染むように、張り付くように俺の指がイブの唇に吸い付いて……。
「ッ!?」
瞬間、指先に触れる感触が急に変わった。背筋を駆け上がる、ゾクゾクっとした刺激。快感とは、何かが違うような……よくわからない感覚。硬いイブの歯が挟んでいるわけではない、もっと違う……俺の鼓動の早さを、これまでにないほど限界まで高めさせるイブの行為。
……これ、待って。ちょっと、待って。
声が出ない。意識的にはイブを止めようと思ってはいても、俺の身体が言うことを聞かない。驚きと妙な気分。変態にでも成り下がったかのような気分、イブの容姿と行動とが俺の動きを制限する。
イブの……舌が舐る、俺の指先から全身へと伝播する痺れるようなビリビリとした感覚が、俺の精神をも麻痺させ、行動すらも抑制していた……。
「んむぅ……」
「ちょ、ちょっとイブ。待って……」
「……んぶ。」
時おり、イブの唇と俺の指との接合部から漏れる、卑猥で湿り気を帯びた粘着質な音が、俺の耳から神経を伝い、そして脳を蕩かす。俺の膝の上にその身を横たえ、その身全てを預けてくれているイブ。時おり俺の目を見つめ、そして時折目を閉じながら、俺の腕に軽く両手を添え、俺の指先から爪先までを上下に舐り、自分の唾液が絡みつけては、また自分の舌が絡め取り、舐り取っていく。少しざらついた感触と、舌の熱の伝った唾液の熱が、俺の熱をも上げる。
「あっ……」
情けない声が漏れ出でた。
くっ……こんなのって……。
心臓も下半身も恐ろしいほどに苦しく、息が早くなる。今までに感じたことのない刺激が、脳から神経全てを駆け巡り、暴れる。イブの顔から目を逸らせなかった……。
「ん……」
「イブ……?」
やがて、さっきまでは軽く添えるだけだった、俺の腕にかかるイブの力が少しだけ強まった。とは言っても、イブの力自体が弱々しい。そのはずなのにもかかわらず、今の俺はその弱々しくも、ある意味では強力なイブの力に抵抗できるだけの意志……というよりも、一種の理性のようなものは残っていなかった。
俺はイブから目を逸らさない。逸らせない。
イブはゆっくりと目蓋を閉じながら、小さな口をゆっくりと開いた。柔らかく吸い付くイブの唇と俺の指とが、その張力を断ち切るように離れ、外気に触れた指が涼しさにぴくっと揺れた。
「んぁ……」
俺の手を添えるように掴むイブの手が誘うがままに、俺の手がさっきまで咥えられていたイブの口から抜かれる。瞬間、俺の指に絡みついた唾液とイブの舌と唇、歯とを結ぶ唾液が細長く糸を引き、柳の枝葉を透かした木漏れ日を屈折させて、キラキラと透明な線が煌めいた。イブの手に誘われる俺の手、指がイブの唇から距離を離していくにつれて、糸引く唾液は細く放物線のような形になって、草原を駆け抜ける涼風に靡いて……。それはやがて、イブのぷっくりとふくれた唇から白く柔らかそうな頬、細くしなやかな首元。白のレースと、どこまでも淡い空色のリボンが可愛らしい純白のワンピースの襟元を濡らし、そして汚した。
「……」
「きょーや……」
言葉なんて、そんなものは出てこなかった。出てくるはずもなかった。
可愛くて……そして、今のイブの全てがどこまでも官能的で……。俺の指に絡みついた、イブの艶めかしく光を乱反射させる唾液も……すごくいやらしくて。
もう、正座をしているこの体勢すらもつらいものがある。でも足を崩せないこの状況に、俺はどうすることもできない瞬間というものの存在を思い知らされた。
俺の視線はイブの口元や瞳。イブの口元からしばらく離れた、俺自身の人差し指とを交互に移動する。イブの視線は、ちらっと下を向いた。そのイブの唇と頬を汚すのは、糸引いて垂れた粘液。イブは俺の腕に添えていた手を離し、その甲で自分の口元から頬にかけてをそっと拭った。
……無理だって、こんなの。
イブが拭った手の甲は艶めかしく輝き、その手でまた俺の手を添えるように掴んでくる。そしてまたイブの為すがまま、誘われるがままに俺の腕は宙に浮いた。
な、何を……?
イブと俺を繋いでいた、俺の右手人差し指。もうこれで終わりかと思っていたけれども……どうやらそうじゃないらしい。
少しずつ。本当に少しずつ、イブに誘われるがままに俺の顔へと近づいてくる俺自身の、さっきまでイブの口腔内で舐り回されていた、俺の指。何をするのかとイブの表情を、限界を超えた心臓の鼓動を押さえつつ見据えれば、その顔はいたずら心に溢れた。それでいて、どことなく恥かしさも孕んでいるような。そんな不思議な表情をしていて……。
「い、イブ……?」
「……」
無言のイブ。俺の指と俺の顔との距離は……もう目と鼻の先で。もう何も言えなかった。この先の展開も……予想できてはいても、もう止めようとする理性は欠片とも微塵とも残ってないどいなかった。
「きょーや。」
きゅっと、俺の腕にかかる力が一層強くなって……俺の腕は俺の口元へと、一気に近づいた。
「ッ!?」
……そして漏れ出でる、言葉にならない声。いくら予想していたとはいえ、とてもじゃないけれども心の準備は追いついていない。
……。
俺自身の唇に触れる、細い俺の指。触れた瞬間に感じる、しっとりと濡れた感触と、唇を侵食する粘性のある感触。
……指が。
イブの手によって、俺の指が俺の口に押し付けられていた。唇に触れているのは、イブの唾液の絡んだ指。
……これって。
「んぐッ!?」
瞬間、俺の唇に触れるだけだった指の、その腕にかかる力がまた一段と強まった。急にぐっと強まった力に対応するだけの時間はなく、そのまま唇を押し開いて俺の指は俺の口腔内へと……そして、俺の舌先へとその指を押し付けた。
……。
また言葉を失った。唇に触れるだけに留まらなかった俺の指。
「きょーや?」
「へ……?」
情けない声が漏れる。ボーっとイブの腕を眺めていた俺は、イブへと視線を向けた。と、その視線の先のイブの表情は優しげで、微笑を携えていて……。
「間接キス、好き?」
「……」
不意打ちのその一言。さっき俺がもしやと思っていた、その言葉を……イブはあっさりと言ってのけ、逆に俺はイブの口から出たその言葉に心臓が口からマッハで飛び出しそうになってしまった。
数秒ほど、俺の指を俺の口の中に突っ込んでいたイブ。ゆっくりと俺の腕を引き、俺の口からまた指を抜く。その俺の指は、今度はイブと俺の唾液が混ざり合った液体になって絡みつき、指を煌めかさせていた。
しかも何を思ったのかイブ。その俺の指を、今度はイブ自身の口元へと誘って……。
「え、まっ……!」
俺が止めるまでもなく、また再び俺の指を躊躇もなく咥えて、しかも今度は咥えた瞬間から、おもむろに舌を絡めて……。俺の指を舐り絡めとるように、何度も舌先を俺の指に這わせてくるイブ。
「ん……」
「あっ……!」
指から脳へと伝う、少し粒状の起伏がついたイブの舌の感触と、俺の眼前に広がるのは、表現のしようもない甘美で淫らな光景。
ダメだって、ほんとダメだってんのに……。
言葉にならない、俺の心からのつぶやきというか叫び。やめさせなければと思う気持ちと、やめさせたくない気持ちとの葛藤が生み出す、これまた妙な気持ちが全身を支配する。ある意味では天国で、またある意味では地獄のような時間……。
しばらくしてイブは小さな口を開き、舌を絡めていた俺の指をスッと引き抜いた。同時にさっきと同じようにイブの口から糸引くのは、イブ自身の唾液。でも、今回はイブのだけじゃない。俺とイブの二人の唾液が合わさり混ざりあって、俺の指とイブの舌、口に絡んでは糸を引いた。その感じが何とも言えず扇情的で、俺の心から脳を全て掻っ攫っていくには十分すぎる様相を見せつけてくれていた。
「イブ……」
俺はようやく解放された自分の強張っていた左腕を、力なく下へと重力に逆らうこともなく下げた。同時に地面にぶつかり、動きを止める俺の腕。俺自身、少しだけボーっとした頭に必死に鞭打って今までの出来事を思い返しながら、イブからは相も変わらずに視線を逸らせずにいた。
でもイブも、俺からは視線を逸らさない。紅潮した頬に細まった目。艶やかしく、しっとりとした唇。所々が濡れた白いワンピース。そんなイブの全て。どこもかしこも、やっぱり扇情的でしかなくて……。
「ちょっと、やりすぎちゃったかな……」
……なんて。そんな一言だって、今の俺には効果覿面だってんのに、普段のイブとはまた違った姿や言動に、俺の頬はイブのそれよりも紅潮してしまっていることだろうと思う。俺は咄嗟に顔を手で覆って、なんとかイブから顔を逸らすと、やがて俺の膝にかかっていた軽い重みがスッと引いていった。
「ん、恭夜。まさか照れてる?」
「……んなわけないだろ。」
顔は逸らしたままで、視線だけをいつの間にやら上体を起こしていたイブの方へと向ける。その視線の先でイブの顔には、抑えきれない笑みを無理やり抑えているかのような悪い笑みが浮かんでいた。
「……ふーん。」
「……」
まぁ、ばればれだ。いくら顔を逸らしていても、この赤く火照った頬はイブからでもよーく見えるだろうし……。
俺は合わせていた視線をまたも逸らして、ふっと目を瞑り、虚空を切り裂きそうなほどに大きなため息を一つついた。
「ボクの勝ち、かな?」
「……まぁ。」
目を輝かせて俺の瞳をじーっと見つめるイブに、認めたくないという心中の意をふんだんに孕んだ肯定の一言を、俺はぼそっとつぶやいた。
「やった。」
その俺の言葉を聞くや否や、イブの顔に花開く満開満面の笑みを浮かべて、両手を胸元で握りしめて、本当に嬉しそうに笑うイブ。そんなイブの様子を見ていて自ずと心に芽生えるのは、今まで何度想ってきたかもわからない、可愛らしいと思う感情と、日に日に増していく想い。これが儚くも確かな恋情だという自覚は、いつの間にかあった。
イブ……。可愛くて、優しくて。時には、今日みたいな一面を見せてくれて、俺に癒やしと勇気を与えてくれる……。
そんな俺の……愛しい人。
抑えきれない想いを心のなかでつぶやいては、イブの勝利に喜ぶ様子を、ぼんやりと恋情に浸りながら眺める。満面の笑みを携えては、時おり俺を見つめて楽しそうに勝ち誇ったような顔をする。
……そうか、普段は俺がからかってばかりだったからな。確かに、俺にとっても新鮮っちゃ新鮮だった気がしないでもないし、何より普段は味わえない経験だったけれどもさ。
俺はさっきまでの一連の出来事を振り返っては、今のイブの行動に照らし合わせながら想いに耽る。
……でも、ちょっと刺激的すぎた。しばらくは引きずっちまいそうなくらいには。
自分の胸元に手を当てて、心臓の確かな鼓動の早さを確かめてみれば、なるほど。俺自身、大分落ち着いたような素振りはしているけれども、身体は俺の意志に関係なく正直だ。早まる鼓動は、まだまだ治まりそうにはなかった。
「んー。恭夜、顔あかーい。」
「うっさい。」
「ねぇねぇ、こっち向いて?」
「……いやだ。」
「えー?」
問答する度に顔を背けざるを得ない俺と、いたずら心に火が着いたかのように、にやーっとした笑みで俺の顔を覗きこんでくるイブ。顔ごと視線を逸らしても逸らしても、イブは顔を回りこませて細めた目で俺を見つめてくる。
……ったく。調子乗ってるな、イブのやつ。
俺にいたずらなんて、いつもならば滅多にしてこないのに、味をしめたのか今日に限ってはここぞというばかりにからかってくる。まあ、それもしかたないかと思う反面、なんとなく悔しい気持ちも強い。
そりゃそうだろ。普段からからかってる相手に、散々っぱらからかわれ続けているんだから……。
でも、イブの普段は見れないような表情に高鳴る鼓動は……やっぱり俺の言動に反して正直だってことは変わらなかった。
「ねぇ、恭夜。」
「……ん?」
少し落ち着いた口調。心なしか表情もいつも通りの微笑みを携えた、いつも通りのイブに戻っているような気もする。さっきまでの悪い笑みじゃない。もっと純粋ないつも通りのイブらしいイブの笑み。
「お、おい。」
スッとさり気なく、特に意識した様子もなく俺の方へと顔を近づけて、見上げるように上目遣いでイブは俺の顔を覗いてきた。
ちょ、ちょっと待てよ。ようやく心の臓の鼓動も正常に戻ってきたってんのに、また……。
「今、楽しい?」
「え?」
「ここにいて……楽しい?」
不意に、何の前触れもなく突然イブは言葉を紡いだ。イブとの距離に意識が向き、また高鳴る鼓動。微笑みを浮かべて、俺のすぐ近くで……もうすぐ顔と顔がこつんと、当たってしまいそうなほどに近くで俺を見つめる。
イブの心中は正確には察せない……けれども、その言葉の裏にはどことなくいい意味も悪い意味も、そのどちらともを含んでいるような気がするのは、さっきまでのイブが本当に楽しそうに笑っていたからなのか、それとも……。
「……いきなり、どうしたんだよ。」
イブの頭に触れる。さらっとなでる度にくすぐったそうに目を細めては、頭を下ろした。
「んー、とくに意味はないよ。ただ……」
「ただ?」
一度、どもったようにイブは言葉を区切った。どう言おうか迷っているのか、それともいうべきか言わないべき迷っているのか、はたまた全く違うことを考えているのか。それはわからない。でも、何か自分の中で問答しているような、そんな表情をしているのが、なんとなく気になってしまう。
「……ちゃんと楽しんでるのかなーって。それだけ。」
すぐに一言、沈黙の割には当り障りのない言葉を口に出しはするものの……なんとなくぼんやりとした、ハッキリとしない違和感は、俺の心の隅で燻った。
でも、その間にも俺がこの手でイブの髪に触れるたびにくすぐったそうに目を閉じて、ゆっくりと頭を下げては、俺のなでやすいように動いてくれる。そのイブの姿、様子を見ているって、ただそれだけで、ぼんやりと考えているだけじゃわかりもしないことをぼーっと考えていることが、だんだん馬鹿らしくなってくるもんで……。
「……楽しいに決まってるだろ?」
特に当り障りのない。でも確かに本心からの想いを乗せた、ほんの短い言葉を目の前の少女に向けて、燻る思いは心の内だけに秘めて、俺のできる限り優しさを込めて呟いた。
「……そっか。」
言葉少なに、ぽすっと俺の胸元に頭を預けては、口を閉じるイブ。俺もこれ以上は何も言わない。さっきから高鳴り止まない鼓動がイブに伝わらないかと、内心ドキドキしながらも、俺はイブの頭に手を乗せる。いつものようにイブが頭を預けてくれるのならば、俺だっていつものように髪に触れ、指で梳き通し、頭を撫でる。それだけで、もう至福の時間だった。ずっとこうしているだけでも、俺にとっては何にも代えがたいひと時だった。

………
……


「……寝すぎちゃったね。」
「……ま、そうだな。」
俺たちは隣り合わせで、大きな一本柳の太幹に背を預けて、眼下に広がる広大な草原を見据えては、無常で無情な時間の流れをひしひしと感じていた。体感時間は、まだそれほど経っていないようにも感じる。でも、イブが……俺にちょっかいをかけていた時には、空の真ん中少し手前に燦々と輝いていたお日様も、いつの間にやら地平線との距離を詰め始めていたのか、既に俺たちの影は後ろに伸び始めていた。
確かに寝すぎたよな……これは。
一連のじゃれ合いのようなものの中で、イブの突然の行為に俺自身、体力精神力ともに、多分だけれども相当持っていかれていたんだと思う。イブが凭れかかってきてから僅かな間の記憶こそあるものの、そこからの記憶はさっぱりだった。俺も……イブもきっとすっかり眠りこけていたんだろうさ。
「くあぁ……」
隣から可愛らしい欠伸が聞こえてくる。
「まだ眠いの?」
「んー……ん。これくらい眠い、かも。」
そう言いつつ、腕を広げて見せるその大きさは、両腕いっぱいもある。見事に広がったその手は全開。右手は俺の目の前でぷらんぷらんと揺れている。
「……まぁ、すごく眠いってことはわかる。」
「うー……ん。」
本当に眠そうに、ボーっと眼前の光景を眺めているイブ。たまに我慢しきれなくなったように目を閉じては、すぐにハッと我に返ったように目を見開く。そしたらまた、目の前の平原をボーっと眺めては、やがて目を閉じる。それの繰り返し。
多分、本当に眺めているだけなんだろうな……。
ボーっと眠たそうなイブを、ただ俺はじーっと見つめる。
そうだなぁ……最近、イブと会っても一緒にいるだけで特に何もせずに過ごしてるからな。いや、むしろその方が俺は好きなんだけれども……でも、たまには散歩がてらに少し遠くまで出かけてみるのも悪くないかもしれないな。
イブの顔を覗く。もういつの間にやら完璧に寝落ちたらしいイブは、俺の腕に寄りかかったまま小さな寝息を立てて、肩を縦に揺らしていた。
……疲れたんだろうか?あれだけ散々俺をからかっておいて、自分だけ疲れたとか言わないで欲しいけれど。
「……」
イブのゆったりとした呼吸に合わせて、静かに上下する肩。身体は完全に俺の方へと傾いて、軽いけれども確かな重みと暖かさを、服の上から感じる。仄かに漂う、ラベンダーの爽やかでいて仄かに甘い香りも、イブの髪から香っては、俺の鼻腔をなでた。
……今日は起こすの、止めておこうか。俺が起きる時間まで、きっともう少しだろうし。
俺は一つ、目の前の平原を眺める。広がる広大な平原。若緑と紺碧、純白のコントラストが映える世界。唯一の建造物は、遠方にぽつりと一つ、しかし雄大に佇む巨大な廃ビルだけが、その異様な姿を晒す。いや、それも含めていい景色じゃないかと、これも何度思ったかもわからない感想が、ふと出てくる。こんな景色を見ていれば、段々と散歩欲が高まってくるってことくらい、なんとも当たり前な話だった。
散歩……いい案じゃないか。でも、散歩の誘いはまた明日。あっちの世界での明日という日が終わってからでも十分間に合うさ。
俺は視線もイブへと戻して、静かに寝息を立てるイブの目元にかかっている前髪を、睫と目蓋に触れないように横に掻き分けた。そのまま左手でイブの右手をそっと握って、俺自身はイブの顔をじっと覗きこんで……。この世界での今日という日が終わるまでの間ずっと、イブをこの目に、脳に焼き付け続けた……。 
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