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良縁

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第九章


第九章

「そう聞いていますが」
「そうか。東京にか」
「はい」
 何の淀みもない答えだった。
「その通りです」
「わかった。では最後に聞きたい」 
 副長はかなり疑いを持っている目であった。その目で彼に対して最後の問いを出してきたのであった。かなり慎重な様子であった。
「そのお嬢さんの名前だが」
「名前ですか」
「何とおっしゃるのか」
「井伏です」
「井伏!?」
 疑いがかなり確信に近付いた目になった。
「井伏か」
「はい。井伏祥子さんとおっしゃいます」
 下の名前も述べた。
「それがその方の名前です」
「いかんな」
 副長はその名前を聞いて首を横に振った。
「いかん、いかんな」
「といいますと」
 残念そうに首を横に振る副長に対して問うた。
「何がでしょうか」
「いかん、その人は駄目だ」
「駄目ですか」
「そうだ」
 顔を上げて言った。
「そのお嬢さんはな。駄目だ」
「駄目といいますと」
「諦めるべきだというのだ」
 今度ははっきりと言ってきた。
「あの人はな」
「また何故」
「訳を知りたいみたいだな」
「はい」
 そのことを否定しなかった。今度は彼がはっきりと答えた。
「その通りです」
「そう言うと思っていた」
 副長もそれは呼んでいたようである。
「君ならな。それではだ」
「それでは?」
「ああ、済まない」
 副長は何故かここで艦橋にいた先任下士官の一人に声をかけた。実質的に船を動かしている古強者達である。軍の縁の下の力持ちだ。
「少し頼めるかな」
「わかりました」
 これだけで話が通じた。
「それでは暫く」
「悪いな。では砲術士」
 彼を役職で呼んだ。普段士官はこうした艦内での役職で呼ばれるものだ。少尉という階級で呼ばれることは少ないのである。
「行こうか」
「は、はい」
「とはいっても安心してくれ」
 彼が不安になる前に言ってきてくれた。
「別に何かをするわけじゃない」
「左様ですか」
「ただ。事実を話すだけだ」
 しかしここで副長の顔が険しいものになった。
「事実をな」
「事実をですか」
「それだけだ。では行こう」
「わかりました」
 こうして彼は副長に連れて行かれた。連れて行かされた場所は何と艦長室だった。副長はまずその鉄の扉の前に立ちノックした。するとすぐに返事が返って来た。
「何だ」
「副長及び砲術士です」
 こう扉の向こう、部屋の中にいる艦長に対して返した。
「入ります」
「うむ」
 こうしたやり取りの後で扉が開かれる。そうして中に入ると艦長は丁度自分の机で何かを書いていた。部屋の中は艦長室らしく中々広くそのうえ豪奢な装飾まである。流石は戦艦の艦長室だけはあると思わせるものがそこにはあった。窓のカーテンも白く奇麗にされている。艦長はその部屋の木の机に座っていた。
「それで副長」
「はい」
 二人がまずやり取りをはじめた。
「何があった?艦内のことか」
 甲板士官でもある伊藤を見つつ副長に問う。
「何かあったのか」
「艦内のことではありません」
 副長はきびきびとした動作での敬礼と共に艦長に答えた。
「そうではないのです」
「違うのか」
「はい。あのことです」
「あのこと!?」
 あのことと聞いただけで艦長の眉がぴくり、と動いた。
「あのことか」
「そうです。井伏様の件ですが」
「わかった」
 艦長は伊藤を見つつ副長の言葉に頷いていた。
「そういうことか」
「その通りです。如何しましょうか」
「わしから話そう」
 伊藤を見たまままた副長の言葉に応えていた。
「それでいいか」
「ではそれで御願いします」
「うむ。しかしだ」
 二人だけでの深刻な会話が続いていた。
「君もいてくれ。いいな」
「わかりました」
「それではだ」
 艦長は副長とここまで話したうえで伊藤に顔を向けてきた。そのうえで彼に対しても言うのだった。
「砲術士」
「はい」
「まずは座って話をするか」
「座ってですか」
「そうだ。この話はだ」
 語るその口が重厚なものになっていた。
「かなり厄介な話だからな」
「それでもいいか」
 副長も横から彼に言ってきた。
「それでもいいというのならいいが」
「勿論です」
 彼は迷わなかった。
「是非共御願いします」
「わかった。それではだ」
「まずは座ろう」
 副長と艦長がまたそれぞれ言ってきたのだった。
「それからだ。話は」
「それでいいな」
「わかりました」
 こうして伊藤は二人から話を聞くことになった。そしてその話は。彼にとっては驚くべきことであった。
「お妾さん、だったのですか」
「そうだ」
 艦長が伊藤の向かい側にいた。今伊藤と二人は艦長室のソファーのところに向かい合って座っている。伊藤が一人で、艦長と副長は並んでである。
 
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