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良縁

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第六章


第六章

「いつも。晴でも雨でも」
「家の方にはついて来てもらわないのですか」
 これは用心の為だった。誘拐やそういったものを心配してのことである。
「それはないのですか」
「お父様のお考えでして」
「お父上の」
「そうなのです」
 こう答える祥子だった。
「お父様が。そうされよと」
「またどうして」
「何でも陛下がそうされていたとか」
「陛下!?ああ、そうですか」
 この言葉で何故彼女が学校から家まで一人で往復しているのかわかった。昭和帝、つまり今上帝に倣ってのことだったのである。
「乃木大将のあれですね」
「そう、あれです」
 祥子もそれに答える。
「雨でも晴れでも一人で歩いて通学しなければならないと」
「よい教えです」
 宿敵とも言っていい陸軍だったがこのことは素直に賞賛している伊藤だった。
「皇室の方にそう進言できるとは。御見事です」
「そうですね。確かに」
「そしてそれをお受けになられた陛下」
 当時はまだ皇太子でもなかったがあえてこう呼んだのだ。
「御立派です」
「それでお父様は私に」
「そうだったのですね」
「はい。それで私はこうして」
 己の事情を再び話す。
「家から学校まで。一人で歩いているのです」
「それはいいことです」
 彼もそれはいいこととする。
「ですが」
「ですが?」
「用心はして下さい」
 こう言うのであった。
「いざという時は。街にはよからぬ者もいますので」
「それはわかっているつもりです」
 しかし祥子はここでこう言ってきたのだった。
「それもまた」
「わかっておられると」
「はい、そうです」
 またこくりと頷いてきた。
「ですから。御安心下さい」
「何か備えでもおありで?」
「これです」
 小袖の中に手を入れた。そしてそこから出して来たのは何と一振りの小刀であった。確かに小さいが何か得体の知れない威厳がそこにはあった。
「これをいつも持っています」
「小刀ですか」
「これもお父様に言われました」
 言葉自体はおずおずとしていた。
「我が身は何としても守れと」
「我が身は」
「そう。そして」
 祥子はさらに言う。
「それができない時は」
「その時は」
「自ら命を絶てと」
 言葉だけでなくその目も険しいものになっていた。それまでの穏やかな雰囲気の祥子からは全く想像できない顔がそこにあった。
「そう。教えられています」
「覚悟をですね」
「そう。覚悟をです」
 自分でもそれを言う祥子だった。
「何があっても」
「何があってもですか」
「女も誇りを持てと」
 言葉がさらに強いものなっていた。
「そう言われて今までやってきました」
「左様ですか」
「はい。誇りと恥を知れと」
 祥子の言葉が続く。
「そう言われてきましたので」
「そうだったのですか」
「ですから。何があっても」
 また言う祥子だった。
「私は守ります。お父様の御言葉を」
「そして誇りをですね」
「そうです。何があっても」
「よい御心です」
 伊藤は祥子のその言葉を聞いて微笑んでい頷いて言った。
「そこまでの覚悟がおありとは」
「私はただ」
「ですが滅多に持てるものではありません」
「覚悟をですか?」
「そうです。俗にはよく言われることです」
 この時代ではそうであった。女もそれだけの覚悟を持てと。しかしそれを実際にここまで覚悟して生きているのは彼が見たのは祥子がはじめてだったのだ。それで感銘を受けない筈がなかった。
「ですが。現実には」
「そうだったのですか」
「貴女は立派な方です」
 こうまで言った。
「そこまでの心を持っておられるとは」
「有り難うございます」
「この洋館におられるのですね」
「はい」
 伊藤の言葉に頷いてきた。
 
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