Ball Driver

第三十八話


カァーーン！

その打球に譲二は反応できなかった。
サードの譲二の脇を抜けたライナーは、レフト高杉の前で鋭く弾む。

譲二のタイムリーで二点差まで詰め寄ったその次の八回裏の守り。紗理奈は帝東の先頭・4番の大友に痛烈なレフト前ヒットを浴びた。

(どうだ！)

先ほど紗理奈の生還を食い止められなかった大友は、マウンド上の紗理奈を睨みつけた。その視線に笑顔を返すくらい、紗理奈には余裕がある。

しかし、紗理奈にも異変は起こっていた。先ほど無理な姿勢でホームインした為に、脇腹がジンジンと痛んだ。少し捻りすぎたのかもしれない。

(……ああ、これは明日は権城くんに任せた方が良さそうだ)

しかし、紗理奈は今日のマウンドを譲るつもりはない。痛みがあろうと、それを全く表情にも出さなかった。事実、紗理奈にとってそんな痛みなど、全く問題ではなかった。野球の楽しさに比べたら。

コツン！

5番の佐武は送りバント。
紗理奈は先ほどのように機敏には動けず、このバントは成功となる。
一死二塁。一方的に点差を詰められ続ける帝東に、最後のチャンスが来た。

<6番ファースト楠堂さん>

のっしのっしと、大きな体でどっしりと歩み、楠堂が打席に入る。

(相手のヒットは11本なのに、こちらはヒット8本……強打の帝東の名が廃るわ)

大きく伸びやかに構える。その姿の雄大さは女のものとほ思えない。

(私が決める。)

その雄大な構えに対して、紗理奈はいきなりインコースを突いていった。

カァーーン！！

楠堂の描いた大きな放物線は、大きくレフトポールの左側へ。大ファールに観客席がどよめく。マウンド上の紗理奈は笑っていた。

(笑ってられるという事は、今のはファールを打たせたということ？)

紗理奈の笑顔に怪訝な顔をして、楠堂は意識を締め直す。

(大きいのは要らない。キッチリ一点とれば私の勝ち……)

楠堂は二球目に対して、アウトコースと読んで踏み込んだ。だが……

バシ！
「ストライク！」

紗理奈はインコースを続けた。逆を突かれた楠堂はこの球に手が出ない。ツーストライクと追い込まれる。

(さすがに敵の主将。度胸が据わっている。)

楠堂は不敵な笑みを見せる。果敢な敵に対する賞賛の笑みだった。

(ただ、やはり投げる球は大した事がない。)
カキィーーーン！

楠堂が流し打った打球は、恐ろしいスピードでライトへ。ライトの権城はその打球の迫力に一瞬足が止まった。

(……伸びる！)

前進して掴むべきライナーかと思えば、楠堂のライナーはぐん！と伸びた。
権城はその場でジャンプして、グラブを伸ばした。

パシッ！

白球は権城のグラブに収まった。

「おーととと」

掴んだは良いが、権城は打球の勢いに押されて尻餅をつく。それを見た大友は三塁へ。楠堂の打球はライトライナー。二死三塁に状況が変わる。

(……ツキがない)

楠堂は小さく舌打ちしてベンチに帰る。
権城は胸に手を当てて、乱れた呼吸を整えていた。

(あぶねぇー！今足が止まったから良かったものの、最初の勘に従って前進してたら絶対頭越されてたぞ！ラッキー……)




カキン！
「セカンド！」

楠堂の次の7番は、今日当たっていない。
キッチリセカンドゴロに打ち取ってゼロに凌ぐ。

制球力と精神力。キャプテン紗理奈が4回を無失点に抑え、遂に南十字学園の攻撃は最終回へ。


ーーーーーーーーーーーーーーー


「さぁ、最後の攻撃だよ」

9回の攻撃前の円陣で、紗理奈はこの回先頭のジャガーまでもを呼び寄せて語りかけた。

「二点差だ。みんな、次に次につないでいこう。みんなの力であと二点、いや三点とろうじゃないか。」

紗理奈はベンチ全員の顔を見た。

「勝とう！私はまだまだ、野球をしていたい！」
「「「おおぉーーっ！！」」」

ベンチ全員の大きな叫びで、9回の表が始まった。


ーーーーーーーーーーーーーー


<8番キャッチャー山姿さん>

先頭はジャガー。今日は2安打を放っている。安打でなくとも良い。とにかく塁に出たい所だ。

(最後くらい、ピシャリと切ってとる！)

しかし、帝東エースの浦中も、この回が最終回とあってエンジン全開。ガンガン飛ばしていって、ジャガーを圧倒した。

「ストライクアウトォ！」

威力抜群のストレートの前にジャガーは三振。先頭が倒れてしまった。

<9番ショート合田くん>

そして続くのは、今日譲二以上に上がり目の無い不甲斐ない凡打を繰り返している9番の哲也。哲也は打席に向かう前に、何度も紗理奈を見た。

(ほ、本当に俺で良いのか？)

しかし、そんな哲也の視線に紗理奈は笑顔で頷くばかり。結局代打はなく、哲也がそのまま打席に入る。

(よし、こいつは安パイ……)

そう頭をよぎった大友は自分の顔をマスク越しにガンガン叩いて気持ちを入れ直す。

(何を考えてるんだ俺は！さっきもそんな事を考えて本田に打たれたんじゃないか！)

挙動不審な大友を見て、打席に立った哲也は少し安心した。この9回、帝東も平常心を失っている。ビビっているのは自分だけじゃない。

(あんた、ホント振り回してばっかりよねー)

打席に立った哲也の頭の中に、紅緒から言われた言葉が聞こえてくる。ずっと昔、小学生の頃、野球で遊ぶ事を覚えた頃に言われた言葉。

(でも、それだけ振られたら、それなりに怖いわよねー。……ま、あたしは当てさせないから、良いけどね！)

紅緒の、少し意地悪な笑顔が思い出される。哲也は、その記憶の中の笑顔に応えるように笑った。

(そうだよな！……もう難しい事考えるのはやめだ！権城の言うことなんて聞かねぇ！三振上等！)

哲也は、権城より紅緒の言葉の方を信じた。浦中が投げ込んでくるストレートを、体の前で、ヤマを張って振り抜いた。

カァーーーーーン！！

出会い頭の奇跡が起こった。





ガシャン！
神宮球場の青い外野席に、白いボールが高く弾んだ。

「うぉおおおおおおおお！！」

哲也は右手の人差し指を高々と掲げ、ダイヤモンドを全力疾走で回る。自慢の俊足をホームランで見せつけるという意味不明な結果となったが、しかし最高の結果である。9番ショート、足を引っ張りに引っ張った合田哲也のソロホームラン。7-8。ついに一点差にまで迫った。

「やったー！」
「哲也先輩、最高ー！！」

南十字学園ベンチは予想外の出来事にお祭り騒ぎ。そして、予想外の出来事は続く。

「良いぞー！！サザンクロスー！！」
「このまま帝東食っちまえー！！」
「島の子の意地見せろー！！」
「頑張れサザンクロスー！！」

何と観客席からも、南十字学園を応援する声が上がり始め、気がつけば「サザンクロース！」のコールの大合唱が起こっていた。神宮球場の内野スタンドが大きく揺れる。

(……判官贔屓に火がついちまった。高校野球ファンなんてだいたいがそうだからな。)

バックネット裏からの大声援を背にして、大友が冷や汗を流す。

(……くそっ)

マウンド上の浦中は、しかしこの状況にもポーカーフェースを保っていた。






ブン！
「ストライクアウト！！」

浦中はこの異様な雰囲気が球場を覆う中でも、球威が落ちなかった。
高杉は三振。
奇跡を期待する球場の雰囲気そのものに立ちはだかる。




「あとひとり……」

南十字学園ベンチで誰かが呟いた瞬間、大きな声がした。

「銀太ァーーー！！終わるなァーーー！！次につなげぇーー！！」

最前列で身を乗り出し、月彦がロン毛を振り乱しながら叫んでいた。

「おら、銀太ァ！！ムカつく奴だったけど、今だけは応援してやる！！絶対に打てよぉーーー！！」

哲也も同じように、腹の底から叫んでいた。

「いける！まだいけるよー！！」
「勝とう！ここまできたら勝とう！！」
「頑張れ良先輩！！」

南十字学園ベンチから、今までにない程の声援が飛んだ。それを打席で聞いた銀太は、しみじみと自嘲的に笑っていた顔がみるみるうちに崩れていった。

「ばっ……お前ら……やめろよ……お前らが諦めてくれねぇとよォ……」

左打席で構えた銀太は、クールやニヒルを気取る事もできずに、顔をくしゃくしゃにした。

「俺も……まだ勝ちたいとか、思っちまうじゃねぇかよ！」
カァーン！

銀太の打球は痛烈なゴロ。三遊間を襲う。

ザザッ！

ショート佐武がその打球に対して、灼熱の人工芝に果敢にダイビングして捕球した。

(まだ終われねぇ……勝ちてぇよ！)

銀太は無我夢中で走った。
足が千切れても良い、そう思って走った。みるみるうちに近づく一塁ベースに頭から飛び込んでいった。

(……だめか？)

ヘルメットをずり下げながら、銀太は一塁審を見上げる。一塁審は困惑気味に腕を横に広げた。

「セ、セーフ」
「え？」

銀太が内野を振り返ると、ボールはショートの佐武が持ったままだった。どうやら、送球にまでは至らなかったらしい。

「やった……やったぞー！！」

銀太は両手を上げてガッツポーズした。





「出たぜ出たぜ同点のランナーが！」
「あの銀太さんが泣いてるよォ！」
「これ無駄にしないでよ！」
「いけぇ茉莉乃ーー！！」

銀太が首の皮一枚つなげたチャンスに、打席に入るのは茉莉乃。今日はタイムリーツーベースを一本放っているが、それ以外の打席は全て三振である。天才少女の本領発揮には、まだ至ってない。

(ちょ、冗談じゃないわよ！こんな雰囲気で、こんな雰囲気で……)

茉莉乃の表情はこれまで以上に真剣だ。
もう生意気な一年生の姿はそこにはない。

(終わっちゃったら戦犯あたしじゃない！)
コツン！

茉莉乃はここでセーフティバントを仕掛けた。強打一辺倒で、バント練習などしている様子は欠片もなかったはずなのだが、このバントが異様に上手い。帝東サードも全くのノーマークであり、茉莉乃は足が速い。悠々セーフになり、首の皮一枚のチャンスが更に広がる。

「茉莉乃ー！」
「茉莉乃がセーフティ！？」
「もう何でも良いぞー！！よくやったー！！」

自軍ベンチからの声に、茉莉乃はそっぽを向くが、その表情は安堵に満ちていた。

(……やっと、やっと野球になってきたじゃねぇか。やっとチームになってきたよ！)

この土壇場で晴れ晴れとした顔で打席に向かうのは権城。打てなきゃ負けの胸突き八丁。だが、権城の中では結果に対する恐れより、チーム全員で作り出したこの反撃の雰囲気に対する喜びが勝っていた。
ずっとこういう野球がしたかった。
今は皆が一つだった。勝利への執念もなく、夏もただ負けて、今年もいつもの4回戦、で終わっていた今までとは違う。みんな、勝ちたがっていた。みんな本気だった。

カーン！
カーン！

浦中も同点のランナーを2塁に背負うと、いよいよ一球ごとに声を上げ、鬼気迫る表情で投げ込んでくる。そのボールに権城も食らいついていく。両者の気迫がぶつかり合う。

「権城ー！！打てよぉーーー！！」
「打ってくれ！頼む！」
「お前にすべて任せたァーーー！」
「権城先輩！頑張れーーー！！」

哲也が、譲二が、月彦がさけぶ。一年生達も必死だ。権城は打てる気がした。
自分は一人で野球をしてはいない！

(ここで打たなきゃ男じゃねぇー！！)

浦中はこのピンチに、かわしにはかからなかった。自分の最も自信のある球、ストレートを最後まで投げ込んだ。そのストレートを、コンパクトに前でひっぱたいた。

カァーン！

快音が響いた。



ーーーーーーーーーーーーーーーー


バシィ！！


権城の会心のライナーは、マウンドに仁王立ちした浦中のグラブに収まった。その瞬間、神宮球場に大歓声が満ちる。

「…………」

権城は言葉もないまま、左打席に両膝をついた。

「あぁ……」
「終わった……」

マウンドに集まってハイタッチを交わす帝東ナインの姿を目の当たりにした南十字学園ベンチは、あまりにも呆気ない幕切れに、誰もその場から動けなかった。

(夏が、終わったか……)

紗理奈はネクストバッターズサークルで、神宮の空を見上げた。突き抜けるような青。その青色に、紗理奈は微笑んだ。


ーーーーーーーーーーーーーー


「よく頑張ったぞサザンクロスー！」
「最後はマジ凄かった！！」
「久々に感動したぞー！」

整列後、ベンチを片付ける南十字学園ナインには、暖かい大きな拍手と声援が降り注いだ。帝東を上回る14安打。八点差を一点にまで縮めた終盤の怒涛の追い上げは、観る者を魅了した。

「なぁ、終わったんだよな本当に？」

荷物を片付けながら、譲二が哲也に尋ねる。

「あぁ。……終わったよ。」
「俺たちの、ガキの頃からの野球が」
「あぁ。終わったんだ。」

その瞬間、譲二の動きが止まった。
肩を大きく震わせたかと思うと、目から大粒の涙をこぼし始めた。

「お前らとももう最後なのか……ちくしょう……もっと……もっと大事に、大事にするんだったなぁ……これまでの一瞬一瞬をなぁ……」
「……楽しかったぜ」

咽び泣く譲二の肩を抱いた哲也も、その目は真っ赤だった。



「紗理奈キャプテン、すいません。キャプテンの前で終わっちゃいました。」

紗理奈の前で、権城は頭を下げた。紗理奈は自分のセカバンのファスナーを締めながら、静かに言った。

「いや、謝らないでよ。……もう十分、“主役”を演じさせてもらったし、このうえサヨナラ、なんて。一生分の運を使い切っちゃいそう。」

話しながら、紗理奈はテキパキとチームの荷物も片付ける。

「楽しかったなぁ。8-0からあわや逆転まで追い詰めるなんて、私が脚本でも考えないストーリーだよ。最後までどうなるか分からなくて、ハラハラして……演じながら、観客をしてる気分だった。自分達自身にここまでドキドキしたこと無かったよ。……ホント、すごくすごく楽しかった。みんなにありがとうを言わなくちゃ……」

ここで紗理奈は、権城が突っ立ったまま動かない事に気づいた。両手で顔を覆って、激しく咽び泣いていた。紗理奈は片付けの手を止め、権城に歩み寄って、しっかりと強く抱き締めた。

「……ありがとう権城くん。君の力が無いと、ここまでは来れなかったよ。」
「すいません……すんません……」
「謝るな。……君の夢の力に、私は本当に期待してるよ。来年こそは、夢、叶えてね。ずっと応援してるから……」

権城は紗理奈の胸の中で泣いた。
紗理奈は微笑みながら、権城をずっと抱き締めていた。