六歌仙容姿彩
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第五章
第五章
第五章 文屋康秀の章
「やれやれ」
礼服を着た若い男がある貴人の御殿で苦笑いを浮かべていた。身なりはよいがどうにも顔立ちがひょうきんで朗らかな感じがする。仕草も飄々としていてどうにも憎めない有り様である。
「おや、これは」
彼を見て一人の礼服を男が声をかけてきた。
「文屋殿ではござらぬか」
「はて私はその様な」
その男文屋康秀は悪戯っぽく誤魔化そうとした。だが名前も顔も知られているので誤魔化せる筈もない。
「また悪ふざけですから」
「おわかりですか」
「勿論です。全く貴方ときましたら」
「私が何か?」
「ここに呼ばれたのも理由があるでしょうに」
「さて」
彼はとぼけてきた。
「どんな理由でしたかな」
「貴方が呼ばれる理由は一つしかありますまい」
男は言った。
「歌です」
「気が乗りませんな」
だが彼は飄々とした様子を崩さずこう述べた。
「今はどうも」
「また何故」
「どうにも。歌う気にはなれません」
苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「勘弁してもらいたいです」
こう言ったのには理由があった。彼は恋に敗れたのである。それでどうにも歌う気にはなれなかったのだ。失恋の傷で塞ぎ込んでいたのだ。
「左様ですか」
「はい、申し訳ありませんが」
「折角紙も用意してきましたのに」
男はそう言って懐から一枚の紙を取り出してきた。見れば黄色く染められた紙であった。
「筆も」
「用意がいいですな」
「康秀殿の歌を見せて頂けるのでしたらと思いまして」
「御気持ちは有り難いですが」
康秀はその言葉に愛想よく笑いながら外を見た。春とはいえ晩春でもう花も落ちている頃である。彼はそれを見てついその落ちた花と自分を重ね合わせて見た。
(花が散るように)
彼は心の中で呟いた。
(私の想いも)
終わり、散ってなくなっていくのだ。それが運命だと思った。だが。彼はそこで思わぬものに目を止めてしまった。
「あれは」
「どうされました?」
男は急に声をあげた康秀に顔を向けて尋ねた。
「また急に」
「花が」
「まだありましたか」
「ええ、あそこに」
康秀はその花のある場所を指差して言う。そこには確かに花があった。
本来なら花の咲くことのない木にそれは咲いていた。一輪であるが確かに。そこに咲いていたのである。
「咲いていますよね」
「はい」
男は何でそんなに騒いでいるのかわからないがそれに頷いた。
「確かに」
「成程」
康秀はその花を確かめて納得したように頷いた。それから男に顔を向けた。
淡い黄色の花だった。白や赤の花とは違い気品に溢れるわけではない。だがそこにはえも言われぬ愛嬌があった。その愛嬌を感じて康秀はふと歌心をもたげさせたのである。
「あの」
そのうえで男に声をかけた。
「その筆と紙を」
「宜しいのですか?」
「はい。気が向きまして」
「それではどうぞ」
「はい」
紙と筆を受け取った。すぐにおもむろに書き出す。
花の木にあらざめにども咲きにけり古りにしこのみなる時もがな
さらさらと書いた。書き終えると男に手渡した。
「如何でしょうか」
「ふむ」
男は歌を受け取るとその目を確かにさせた。そのうえでまんじりと眺める。
「よいのではないですか」
「そう言って頂けると何です」
康秀はそう言ってもらえて気をよくした。にこりと笑う。
「しかしまた急な心変わりでしたな」
「そうでしょうか」
「しかしよきことです。やはり貴方には歌が似合う」
「ははは、褒めて頂けるとは」
もう康秀は普段の飄々とした康秀に戻っていた。世辞を笑って聞き流す。
だがふとあの花をもう一度ちらりと見た。花は変わらずそこに小さな姿を見せていた。
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