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弱者の足掻き

作者:七織
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十二話 「蟲」

 
前書き
三ヶ月ぶりくらいかな。久しぶりの更新 

 
 目を開けた先、目の前にあるのは広い水たまり。石を構えて、水面に投げる。
 空にかかるのは月。この世界で一度として満ちたことのないそれが天から見下ろし、水たまりの中心にその姿を鏡のごとく写している。
 浅瀬で足を濡らし、拾った石を合わせ鏡の月へと必死で投げる。
 何度も、何度も、何度も。
 生まれる波紋が、飛び散る飛沫が、その鏡月を揺らす。

 水は止まっていない。濁っていない。澱んでいないのだと、確かめるように、自分でそれを壊すように、何度も投げる。
 鏡月の歪みに心が安らぎ、止水に恐怖する。
 だから、石(異物)を投げるのだ。その意味を忘れてもなお、無意味さに気づいてもなお。
 
 だから、気づかないのだ。異物は異物でしかないことに。飲み込まれることなど、ないことに。
 投げ入れた石が積み重なることを。見えぬ鏡の下、水面が割られる。姿見のそれが歪みを見せつける。
 水は埋まり、異物(石)が顔を出す。




















 寝転がり見上げる天井。何もないのは分かっているが、そのままなんとはなしに俺は見続けていた。
 既に冬に入りかけの日だ。段々と寒くなってはきているが、昼の時間帯であることもありそこまで寒いわけではない。

 片手は頭、もう片方は床。床に下ろした手には何度も読み返した親のアカデミー時代の忍術教本。寝て読んでいたが、腕か疲れたのだ。起きればいいのだが、それをする気にもなれない。ただただ、天井でゆらゆら揺れる電球を見つめ続ける。

 昼も大分過ぎたというのに自堕落なのは自分でもわかっている。だが、何もする気が起きないのだ。
 顔を横に向けた先、部屋の隅で白が本を読んでいる。さきほど見た時とは違う本。無地の背表紙だが色と草臥れから察するに毒の本だろう。さきほどは体術の本だった。自分と違うその真面目さに俺はぼーっとそれを見つめる。
 
 あの日、初めて自分の意志で人を殺した日。あの日以来白は前よりも前向きに、貪欲に知識を集め始めた。知識だけではない。体術や武器術、チャクラ操作、術。それら全てに対してだ。今まで通りだけでなく、自分で考え、時間を作り、身に修め始めた。
 理由は、察しがつく。それは俺の利になるモノのはず。だから、何も言わない。やっと白が好きに動き始めたのだ。凡人は凡人、天才は天才。下手に口を挟んでも良いことなどない。挟める度胸も、今の俺にはない。

 視線を天井に戻して頭を抑え、俺はため息をついて頭を抑える。
 頭が、痛い。
 あの日以来、逆に俺はあまり積極的に動かなくなっていった。従来通りの鍛錬はしている。だが、それ以外に動く気が起きないのだ。それの大部分はきっと、痛み続けている頭が原因だろう。

 今までもたまにだが痛むことはあった。どういう条件で痛むのかも分かっていたし、暫くすれば収まるものだった。だが今回のこれは収まることがない。痛み自体は小さくなることはあっても、頭の奥の方でジクジクと小さな鈍痛が収まらない。小さな虫が脳の中に巣食い、絶えず金切り声を上げている。それが、心を静かに削いでいくのだ。
 
 理由はわかっている。止め方も分かっている。けれど、脳の中の虫がそれを許さない。
 脳を食い、体を食い、中身がドロドロに溶けた肉の皮袋にでもされたようだ。
 その虫は人の姿をしている。その声は怨嗟の声。赤子の用な金切り声。背丈は酷く幼い。
 ずっと昔、俺が生まれてすぐ。その時からあった卵。時間を餌に、それが孵化した姿。
 心をよこせと、体をよこせと、キィキィと泣いている。
 その虫が、どうしても掴めないのだ。

 心の臓腑をくれてやれば気が済むのだろう。だが、気づくには遅すぎた。生きると誓い、また自分で卵を植えつけてしまった。それを破れば、きっと、蟲が増えるだけだ。今度こそ逃げられなくなる。
 目を背けている間に背負ったもの、者。自分を生きがいにさせてしまった存在。自分がねじ曲げた少女|(はく)もいる。逃げ出すことなど、どうやったら出来るというのか。自分が死んでもう一度放り出すなど、既に出来る訳が無い。
 
 カチッ。小さく音が鳴った。目を動かした先、時計の短針が先程までより一つ次の数を指していた。
 今この体を動かすのはやらねばならぬという責務感。俺は体にムチをいれ起き上がる。それに合わせるように白もパタンと本を閉じる。
 今日はこれからカジ少年たちと遊ぶ約束なのだ。出来るなら、彼らに早く会いたかった。何かしていたほうが気が紛れる。……いや、何かした気になれる、からか。僅かでさえ誤魔化せない自分の心につい哂ってしまう。

「疲れているようですが、体は大丈夫ですかイツキさん?」
「大丈夫だ。動く分には問題ない」

 多分、だがな。
 そう思った時、視線の先、立ち上がった白の手が一瞬腹部を抑える様に動く。それと僅かに潜めた眉も。次の瞬間には何事もないように戻っていたが、どこか悪いのだろうか。

「そっちこそ大丈夫か。悪いなら言え」
「いえ、問題はありません。大丈夫ですので気にしないでください」

 嘘、だろう多分。喋る間に白は瞬きをしなかった。終わってから瞬きをゆっくりと二回。今までの付き合いで気づいた癖だ。他にもいくつか、本当に注意しなければわからないレベルでの癖もある。
 何もない、ではなく、問題ない。だが大丈夫だと言う以上聞くべきでもない、はずだ。
 結局、どっちもどっち。寧ろ気を使われているだけこちらがそれほど不安定に見えるのか。
 まあ、いいや。どうでも。

 窓から見た外。遠くでは微かに霧が掛かっていた。本来ならその先には、海が見えていたはずだが、今は見えない。ああ、そう言えば確か近くで喧嘩か何か知らないが事件が起きたらしいとか。誰か死んだとか死なないとか。物騒なことだ。曇り空というのはロクなことを思い出さないな。
 ぼおっとそれを眺めながら、隣に来た白に言う。

「行くか。文句を言われてもかなわん」
「はい」







 三回。
 これは盗賊を襲った回数。
 あの日だけでなく、それからも二回。情報を貰い、襲って殺した。最初の一回とは違い、盗む過程で人を殺しまではしていない奴らであろうと構わず襲った。二回目、三回目は一人も逃しはしなかった。

 毒を盛り、仲間に化け、罠を張った。
 術の威力を知る為の的にした。
 どれだけ血を流せば死ぬか。その実験台にした。
 関節の外し方。骨の折り方。血管のある場所、止血の方法を練習した。
 白に針を打たせ、どこに打てばどこが麻痺をするのかも練習させた。

 トライ&エラー。
 神経の通う場所、その切り方。どこが動かなくなるか。
 毒の服用方法。その適量と致死量。複合薬の効果。
 十分なだけの穴の大きさ。血の落とし方。
 悲鳴の……悲鳴を消す方法。

 練習すればするだけ、経験値を貯めれば貯めるだけレベルが上がるのが理解できた。
 繰り返すたび、心が切り離されるのも分かった。俯瞰風景が如く遠くの上空から自分を見下ろしプレイアブルなキャラを動かす様な錯覚さえも覚え始めた。心と動作の分離。それが顕著になっていった。

 盗賊の持っていた、盗んだ宝があれば貰った。個人が特定されるような物やいくつかの物は「落し物」として返しに行った。涙を流して感謝され、恩という繋がりを持てた。

 その度に、頭の中の虫は育っていった。









「おい、大丈夫かよイツキ」

 心配そうなカジ少年の目が俺を見る。それに「大丈夫だ」と笑って返す。
 珍しくいつもとは違う、街の外れでの集まり。何をするのかさえ決めていないのに集められるのはいつものことだ。けれど、周りの視線が自分の方に向くのに少し、気が重くなる。

「なんかなー。あの家出の日から元気ないよな。何あったんだよほんと」
「何もなかったよ。気のせいだ。俺はいつも通りだ」
「いつもそれだよな。確かにどこが変かって言われれば言いづらいけどさ」
「だろ? そりゃ、何も変じゃないからな」

 おどけたように肩を竦める。そんな俺を納得がいかなそうにカジ少年は眉を潜めて見る。
 子どもの心は鋭いというが、どこか第六感的なところがあるのだろう。それとも俺の演技が下手なのかもしれないが、友人たちはどこか違和感を確かに感じている。それに家出は一度では終わらなかった。三度あったのだ、何か思うなという方が無理だろう。だが、だからといって何か言えるわけでもない。
 反抗期故の小さな冒険。それであの家出は終わっているのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
 黙ったカジ少年と代わりに、ナツオがそう言えばと口を開く。

「こないだ、イツキの親見たぞ」
「へえ。何してたんだ」
「何か黒いスーツ着た人と話してた。余り見ない感じだったな。書類貰っていたぞ。頭がどうとかって」
「仕事関係だろうな。其の辺は俺は知らないよ」

 交易だか貿易関連の仕事だと聞いている。なら、外からの人間とのつながりもあるだろう。気にはなるが、込み入って調べることでもない。

 カジ少年は右手首……あの家出の土産として渡した木彫りの腕輪、それを見ながら何度か俺との間で視線を往復させる。
 このままでは埒があかない。それに、こんな展開は望んでいない。だから、俺は適当に口を開く。

「ま、取り敢えず今はいいじゃないか。それより今日は何するんだ? 何か考えでもあるのか?」
「……あるよ。今日の為に用意したやつがさ」

 その言葉に俺だけでなく他の奴らも微かに驚いているのが伝わる。考えなしに集まりその場で適当に考えるのがいつもの常。考えてあっても適当なのに前もって準備とは初めてではないか。
 他の友人たちの意識もそちらに写ったようで俺に対しての視線が消える。ただ、視線の中心に当てられたカジ少年の視線だけは俺に向き続けている。
 それが酷く居心地が悪く、つい視線を逸らす。
小さく、舌打ちが聞こえた気がした。

「用意してあるのならさ、早くそれしようぜ」
「ああ、それもそうだな。じゃあ、行くか」






 暫く歩いた先、街からも随分離れた所で着いたのは湖の畔だった、
 元々は海の一部だったのだろう。辺りは森と山。反対側の更にずっと先に海が見える。湖の円周は酷く広く、そして歪だ。
 俺は前に、一度か二度来た覚えがある。確か白と一緒にだ。探索のついでと、鍛錬にいい場所を探して。

 見る限り人は余り見当たらない。整えられた道から僅かに離れているのもあるのだろう。
 後ろで楽しそうに話し合う友人たちの輪に入る気にもなれず、先頭を歩くカジ少年のすぐ後ろについてその畔を進む。
 喧騒と静寂。その狭間を歩く。水辺に小さく波が押し寄せるせせらぎが横から押し寄せる。

「話さないなら別にいい」

 唐突にカジ少年が言う。後ろの友人たちにはきっと、届いていない声。俺にだけ聞こえているだろう。
 別にいい。もう一度、カジ少年が言う。

「話さないっていうならつまり、信頼されてないんだろ。ならいいよ、もう、別に」
「そういうわけじゃ……」
「なら何なんだよ。年上だし、嫌味たらしいとこあるけど良いやつだと思ってた。仲良くなれたと思ってたよ。けど、違ったんだろ。そう思ってたのはこっちだけだったよ。バカみたいだ。勝手にしてろよ。勝手にして、勝手に悩んで死ね」

 淡々と、声も荒げず。後ろの奴らに聞かせないように、必死に感情を押し殺した声で、カジ少年はそう俺を罵倒する。
 違うのだと、そう言いたい。けれど、何が違うのか。何も言わないで何を察してくれというのか。
 否定すれば気を逆撫でる。肯定すればその心を傷つける。それが分かってしまうから何も言えない。
 きっと、体に合った心だったなら戸惑いながらも何か言えたのだろう。何故分かってくれないのだと激情に駆られ、あるいは悲しみのままに口を開いたはずだ。大人の心が、周りと合わぬちぐはぐな精神であるが故の欠落。

 その背にかける言葉がない。否定も肯定も出来ない。無言が、余計にカジ少年を傷つけると知りながら、言葉が出せない。
 白にも何かを隠され、その白にも自らを隠し。そして今、カジ少年にも。今度は、一方的に隠して傷つける。

 何があっても隠さねばならないのなら最後まで、死ぬ時まで隠さねば成らぬと、知られてはならないと確かに知っていたはずだ自分は。生まれてすぐ、あの名を呼ばれた日に。自らがいる意味を知った時に。
 歪みを直そうと、贖罪を果たそうとした時に誓ったはずだ。なのに自らの力不足で、心の弱さでただ一人の子供にさえ隠せていない。
 思えば思うほど頭が痛くなる。虫が嗤いながら脳裏を食い荒らす。このザマがおかしいと跳ね回る。

 カジ少年が桟橋で止まる。その横にかけられていた布を剥ぎ取るとそこには一席の小さな小舟があった。二本の櫂と本来岸につなぎ止めておく為の綱、それから釣竿も。
 後ろの連中が小走りで寄ってくる。

「おいカジ、それか?」
「ああそうだ。一回湖で船漕いで見たくてさ。興味ないか?」
「前に父さんに乗せてもらったことあったなー。けど漕がせて貰えなかったよ」
「なら漕いでみろよ。真ん中で釣りしようぜ」
「おお、いいな!」
「あ、私にも貸してよ!!」

 わいわいと。楽しそうに舟を水辺に引きずって行く友人たちを見る俺の横に白が来る。

「何かありましたか? どこか辛そうですが……体調が悪いなら僕が――」
「大丈夫だよ。ただ、少し冷えただけだ」
「確かにそうですね。弱いですが風も吹いていますし」
 
 見上げた山の上には霧がかかっている。曇り空もその寒さの一員だろう。もっとも、服はある程度着込んであるのでそこまで寒くはない。それは白も同じで、腰周りと重点的にいつも以上に服を着込んでいる。
  
「おーい、お前らも来いよ!」

 桟橋の先まで運び終わったらしい。水にチャプチャぷと舟が浮かんでいる。
 呼ばれ、桟橋で待っていた友人たちの元に行く。六人くらいなら楽に乗れそうな大きさの舟だ。
 一人一人慎重に乗っていく。俺と白が乗り最後……いや、まだ一人。あの大人しい少女が、桟橋に残っている。

「どうした?」
「ちょっと怖くて。えへへ……」

 困ったように少女は笑う。確かに不安定な小舟だ。桟橋と僅かだが距離もある。恐怖心もあるだろう。
 俺は身を乗り出し手を伸ばす。少女は少し驚いた顔をして、すぐに手を伸ばしてきた。小さく、柔らかな手。強く握り返してくるその手を引き、少女の足が宙に浮き舟へと乗り込み俺の横に座る。
 楽しげに櫂を握り、親の見様見真似だと水を掻き始めたナツオの手で船が動く。

 速さと正確性を重視しなければ動かすこと自体はそう難しい話ではない。水を掻く面によって生まれた推進力で進むだけの簡単な原理。ゆっくりと、不格好にだが舟は進む。向かう場所があるわけでもない。自然と湖の中心へと船は進んだ。
 下が見通せた浅瀬と違い、既に水は底を隠していた。見下ろしたそこには暗いだけの、どこまでも沈みそうな水面があった。覗き込んだそこには映る自分の顔があるだけだ。
 
 真ん中辺りまで来て何を言うでもなく、自然と舟は動きを止めた。幾本か用意されていた釣竿を出し、針に餌を付けて水面に垂らし始める。全員分があるわけではなかった。特に気が向かなかったこともある。俺はただボウっと、釣り糸を垂らす友人たちと、視界に映る緑。そして何も見とおせない水面を見ていた。
 
 静かな時間。ゆらゆらと、水面で蓮の葉が揺れる。
 何かをしなければならないわけでもない。酔いやすい船の上だというのに、酷く落ち着く。
 涼しい空気が、不確かな船の上、周りに何もない孤立した空間が、何も考えないでいい時間が楽だった。
 見える霞が、山を隠す霧が、見えるすべてを多い自分を隔離してくれるように感じた。

 時折、カジ少年の視線がこちらを向いていた。そこに怒りの色は感じ取れない。どこか心配しているのを感じさせる。きっと、この時間は俺の為に用意してくれたのだろうと分かる。あれだけ言ったのに、それでも気にかけてくれる。けれど返せるものがなく、俺は一度も視線を返さない。
 見下ろした視界の中、隣に座る少女のすぐそばに虫がいた。餌に使っている小さな虫だ。気づかれぬようにそれを摘み、虫を握りつぶす。どうしたのだと笑いかける少女に何でもないと返し、自らの顔を移す水面に手を入れて歪ませそれを洗った。

 暫く経った後、最初に声を出したのはハリマだった。
 仕掛けを水から揚げ、何もついていないそれを不満げに見て口を開く。

「釣れねー。そもそもここ何かいるの?」
「前来た時は釣れてたよ。お前が下手なだけじゃないの」

 売り言葉に買い言葉。軽いいつものからかい。笑うナツオにハリマは苛立ちを隠せないようで、もう一本あった櫂を握って舟を漕ぎ出す。

「場所が悪いんだよ場所が。もう少し向こうなら居るって」
「おい、やめろって下手くそ。漕ぎ方全然違う。違う方行ってるぞアハハハハ」

 手本だと言わんばかりにナツオは立ち上がり持っていた櫂で漕ぐ。それに対抗するようにハリマも櫂を動かす。

「おい、お前らやめろって」

 止めるカジ少年の声も無視し、二人はチグハグに漕ぐ。
 思ったように動かず苛立つのだろう、見ている端からハリマの動きが雑になる。そして一際大きく、力ずくで櫂を動かす。
 波が立ち、舟が大きく揺れる。座っていた俺たちは平気だ。だが予期でないその揺れに立っていたナツオの体がぐらりと揺れる。バランスを崩し、水の方へと体が傾く。

「う、わっ!?」

 捕まるものを探すように伸ばされる手。動けたのは立っていたハリマだけ。咄嗟に動きその手を掴みナツオを舟へと引き戻す。
 
「わりぃ。大丈夫か」
「助かったよ。……あ」

 視線の先、櫂が二本とも水の上に浮いていた。今ので落としたのだろう。ナツオが手を伸ばして取ろうとするが、ヘタをすれば水に落ちそうで届かない。舟の揺れで生まれた波紋が、どんどん櫂を離していく。
 皆が何も出来ず無言で見ている先、離れていった櫂は静かに少しずつ水の底へと沈み、その姿を消していった。
 もう、あれでは取るのは不可能だろう。

「おい、どうすんだよ」
「知らないよ……」






 何も出来ず、ただいたずらに時間だけが流れた。何か都合のいい偶然でも起きないかと期待するように、何もせずただ座り時間だけが過ぎた。
 釣竿で軽く水を掻いてみたが、ただ小さな波が起きるだけで舟は動くわけもない。微かに吹く風は舟を動かすには足りず、結局のところ湖の中から動けないまま。

 山を覆っていた霧は地へと降り、湖面を漂い始めた。少しずつ、少しずつ視界から陸地を覆い隠していった。これでは誰かに気づいてもらうことも無理だろう。
 空は雲が覆ったまま明かりは無い。日が早くなる季節、既に僅かだが暗くなり始めている。霧が覆っていることもある。空気は肌寒さを増し、静かに吐いた息は一瞬白く霞む。

 見えない、というのは酷く不安を誘う。聞こえてくるのは自らの置かれた現状を絶えず教える波の音だけ。触れる空気は寒い。
 世界に取り残されたかのような、切り捨てられたような錯覚。

 何も見えない水の上、不安定な舟だけが一隻残されている。白一面の世界に囲まれ、まるで異世界に紛れ込んだかの如く。空さえも、霞でロクに見えない。
 落ち着け、という方が無理なのだろう。誰も彼も……正確には俺と白以外は皆、沈痛な表情を顔に浮かべ、自分の体を抱くように小さくなって座っている。
 
 俺の隣、少女とは逆側に座っている白が静かに近づき、他の奴らには聞こえないように囁いてくる。

「動かしますか? 大体の方角は覚えています」

 バレぬように白が指を入れた水面、その水が歪む。渦巻きありえない流れを産み、水の中で小さな渦の球を指先に作る。
 チャクラを流しているのだ。一定方向への流れを作り出す程度なら印を結んで術を使うまでもない。けれど、これをすれば確実に怪しまれるだろう。小舟を動かすには指一本程度では恐らく無理で、片手をつける程度は必要のはず。それを隠すのは、これだけ近くにいる他人にはほぼ不可能。バレる事を覚悟しなければならない。
 だから、小さく首を横に振る。

「止めろ。バレるのは得策じゃない」
「ですが、気づかれない、となるとロクに動けません。それでは他に手が」

 小さく、横で押し殺した声が聞こえた気がした。そして小さく服を掴まれる。
 視線を向けた先、少女が俯いて顔を自分の膝で隠していた。俺の服の裾を掴み、自分の体を抱きしめて。その震えは寒さか、不安か。
 普通の少女では、限界だろう。きっと、他の皆も。

 思うと同時、それがすとんと落ち、自分が何をすべきか理解できた。
 動く理由とその必要性さえあるのなら、それ以外はどうでも良かった。

「悪い、離してくれ」
「……」

 無言で首を振る少女の指を一歩一本はがし、俺は立ち上がる。
 向けられる視線を理解しながら、俺はカジ少年に視線を向ける。

「カジ、そこの綱を取ってくれ」
「……ほらよ」

 何をするつもりだ。そんな目を向けながら、けれど言わずカジ少年は綱を俺の方に放り投げてくれる。

「まさか……イツキさん、それな僕が代わりに」
「お前は、さ。一応女の子だから。俺でいいんだよ。俺がしたいんだよ。黙って座ってろ白」

 何でもいい。何かをしなければ変になりそうだった。だから、それを奪おうとする白の頭を掴み、立ち上がろうとするのを阻止する。俺の顔を見た白はそれ以上何も言わず、黙って一方向を指差す。

「向こうか。ありがとな」

 服を脱いでいく。寒さに厚くしてきた上を脱いでシャツ一枚、下はズボンを脱ぎパンツ一枚になり靴も脱ぐ。そして俺は腰に綱を巻き付け、反対側の端は呆然としているカジ少年に投げ返す。

「そこらに適当に巻き付けろ。無理なら、俺と同じように腰に巻いて舟にしがみつけ」
「ま――」

 静止の声が届くよりも早く、俺は舟を蹴って足から水に飛び込んだ。

 心臓まで止まりそうな、肌に突き刺さり凍える初冬の水の冷たさ。
 どこまでも沈んでいきそうな落下感の中、目を開けると見えるのはそれでも見えぬ水の底と果てのない水域、水面の逆さ蓮華。音のない世界なのに、冷たさで脳裏に突き刺さる静寂の氷の様なキンとした残響。やってきた浮遊感に身を任せ上へと上がり顔を水上に出す。
 下の世界と違い、上は見える世界が雲泥の差。心配げにこちらを見てくる友人たち。泣きかけていた少女は呆然とした瞳を向けている。
綱は船の頭に括りつけたらしい。これなら問題ないだろう。

「泳いで引っ張る。まあ、これくらいの人数なら時間はかかるが少しずつ進めるはずだ。現状、これが一番早い」

 返事も聞かず背を向ける。
 水の冷たさが煮詰まっていた頭を凍らせてくれたようで酷く軽い。深く息を吸って目を閉じ、チャクラを練る。これなら、バレない。
 意識を手に、足に。思い描くのは渦と、そこから押し出されていく力の奔流。いつもの鍛錬のようにチャクラを集め、水の流れを作る感覚を体に刻む。確かな実感を得ると同時、それを維持したまま泳ぎ始める。
 ただの子供一人分の推進力ではない。綱が伸びきり俺の体にかかる確かな重量。しかし、ゆっくりとだが舟が動き始める。

 両手両足のチャクラの維持。それ以外に割く思考の余裕など俺にはない。白とは違う、そんなに器用ではない。
冷たさが刻一刻と感覚を奪い、まるで自分の四肢で無いかのようになっていく体を動かし無心で霧の中を泳ぐ。
 ああ、楽だ。虫が泣き止んでいる。酷く、静かだ。
 
 冷たさが熱さに変わり、油の切れた機械人形のように動きが誰の目にも鈍くなってきた頃、霧の先に岸が見え、足が下についた。
 既にどこにあるのか、何を踏んでいるのすら分からない足で底を踏みしめ前へ。余りに緩慢な動きに意識と動作がズレ、何度も顔を水に付けながら浅瀬につく。違和感を感じて足を止め見回せば水面が腰下の辺りにまでなっている事に今更気づく。ああ、ここまで来ていたのか。

 子供にこの冷たさはキツイ。腰まで濡れただけでも辛いだろう。もう少し、せめて足元までの場所まで、出来るだけ濡れない場所まで引かなくては。
 そう思い、止めていた足を再度動かそうとすると背後でパシャリ、と水が跳ねる音がした。

「イツキさん!!」

 一瞬間が空き、ああ、白かと気づく。
 どうしたのかと振り返ろうとし、足が動かなかった。気づけば体が傾き水面が目の前にあった。
 ああ、沈むな。
 そう思ったのに、感じたのは柔らかな感触。今の一瞬で近寄っていた白に抱きとめられていた。

「酷い顔色をしています。そんな今にも死にそうな……早く服を」
「悪い、助かった。服、濡らして悪い」

 離れようとしても、すぐには離れられなかった。足が自分のものじゃないようで、支えられてやっと足が戻る。
 戻り、離れようとしたとき――――微かに、本当に微かに、血の匂いがした気がした。

 舟から持ってきた服を渡そうとする白に反応できず、ぼぉっと、すぐに消えてしまったその匂いが何なのかわからず、服を受け取っただけで着ることも忘れて白を見る。
 ざわりと風が吹き、冷たい空気が白を撫でる。腰まで水に濡れた白は一瞬、見過ごしそうなほどな間だけ辛そうに眉をひそめる。そして丹田……腹部よりも下に、揺れる水面に。冷えた場所に、無意識にか白の手が動く。

 それで分かってしまった。
 解って、しまった。
 
「あ、は……アヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!!」

 狂ったように。けたたましく。
 ガリガリガリガリと頭を掻き毟り、湧き上がるナニカを抑えるように、吐き出すように嗤う。
 虫が、眠り忘れ凍っていたはずの虫が、脳裏で酷く楽しげに泣く。
 そうか、そういうことか。そういうことなのか。
 今更に気づくか。ずっと分かっていたはずなのに、今になって思い知るのか俺は。
 どれだけ、目を逸らし逃げてきたのだ。言い訳を重ねてきたのだ。
 自らの無様さを再度、見せ付けられる。

 今すぐにでもこの頭蓋を切り開き、脳の虫を引きずり出し一緒に泣きながら嗤いたい。
 それを抑えたのは目の前の白で、船に残る友人たちの姿。
 嗤う自分を驚愕の目でみる視線に、俺は嗤うのを止める。

 舟から降りようとする友人たちを手で制し、濡れたシャツのまま渡された服を羽織る。
 止めようとする白を無視し、そのまま舟を浅瀬まで、船底が底にこすり動きづらくなる所まで引きずり、降りてくる友人たちを待つ。
 渡されたズボンを濡れた下着の上から履く。何か言いたそうで、けれど何を言えばいいのか迷う友人たちに俺は帰ろうと告げる。見上げた空はもう暗い。
 返事が来る前に勝手に俺は歩き出す。慌てたように、足音がついてくる。

 黙々と、帰り道を歩き始める。
 隣に来た白が俺の腕を掴む。掴み、揺さぶられてやっとその事に気づく。

「イツキさん、街に着いたらすぐに医者に行ってください! 流石にマズイです。死んで……ッ、死んでしまいます」
「行かねぇよ。体が冷えただけだ。家に帰ったらすぐに風呂にでも入って寝るよ。それで十分だ」
「そん、な……駄目です。正気を欠いています。冷静になって――」

 その言葉にまた嗤いそうになる。だが、今それをしては本気でおかしいと思われる。抑え、白の腕を引き剥がす。

「俺は酷く正気で冷静だよ。全部分かってる。お前の方こそ体調悪いんだろ? 医者いけよ」
「いえ、僕の方は平気で」
「平気じゃねぇよ。隠せてねぇ。少なくとも『それ』は、俺とおっさんじゃ分からない。医者にいけ。命令だ、切り捨てるぞテメェ」

 街に入る。暫く進み、医者の方へ行く場所の分かれ道で止まる。黙ったまま動かない白に、ああそう言えば、と懐から財布を出して放る。

「それで足りるだろ。残りは好きに使って帰ってこい」
「ッ――ちが、そういう訳では」
「さっさと行けよ。体調悪いんだろ? 我慢するなって。ああ、下濡れてたな。途中で替えでも好きに買っていけよ」

 ヘラヘラと笑う俺に白は歯を噛み締めて俯き、拳を握り締める。
それ以上何か言っても無理だと悟ったのだろう。白は財布を胸元にしまう。

「用が済み次第、直ぐに帰ります。待っていて下さい」
「ああ、了解了解」

 人並みを掻き分け一目散に駆けていく白を見送り、止まっていた歩みを再開する。
 一旦止まったからだろう。持ち上げた足は酷く重く、一歩一歩が辛く感じた。凍えた体に体温がもどると引き換えに、頭の痛みも戻ってきている。それも、前よりもさらに大きく。声とは違うガンガンとした鈍い響きも混ざっている。
 痛みに頭を抑える。生乾きの房になっている濡れ髪が指にまだ残る冷たさを伝える。掻きむしった部分がジクジクと痛む。触れた指を見る限り血は無いが、濡れて分からないだけかもしれない。

「おい、イツキ。白にはああ言ってたけどよ、ホントに大丈夫なのかよ?」
「大丈夫だってハリマ。ちゃんと二本の足で歩けている。頭もはっきりしている。体が冷えてるから明日が怖いけどな」
「突然笑い出して怖かったぞ。頭おかしくなったんじゃないのか。辛かった言えよ」
「平気だナツオ。何かあれば全力でこき使ってやる」
「なんだよそれ。まあ、俺もせいもあるから少しくらい聞いてやるよ」

 突如後ろからぐいっと掴まれ歩みが止まった所に手が伸び、額を触られる。今の俺には熱くさえ感じる手だ。

「何だカジ少年」
「バカみたいに冷たい。それに顔も青い。無理してたら死ぬぞ」
「心配してくれるのか。ありがたい事だ。ならまずは手を離してくれるか? 早く家に帰るのが今は一番なんだ」
「ッ……ほらよ」

 襟を整え再び歩き出す。その横に歩みを早めたカジ少年が並んでくる。その顔は酷く複雑な表情だ。まあ、そりゃそうだろうな。

「ごめん……」
「気にするな。俺が勝手に飛び込んだんだよ」
「舟に乗ろうなんて考えなけりゃ良かった……ごめん。本当に、ごめん」

 気にするな。そう言った所で意味はないだろう。本気で自分を責めているところにそんな言葉は意味がない。言えば言うだけ相手を遠まわしに責めてしまう。
 悲痛な表情をしているカジ少年に何を言うべきなのだろう。ああ、くそ。頭が痛くてロクな考えが浮かびやしない。

「なあ、何で舟だったんだ?」
「……前にさ、オヤジが乗せてくれたんだ。釣りもした。釣れなくてグチグチ文句言ってたんだけど拳骨もらった」
「なんだそりゃ」
「それで黙って竿握ってた。何もすることなくて、色々どうでもいいこととか考えてさ。水面とか山とか見てたら頭空っぽになってて、何かどうでも良くなって。することなくても暇じゃなくてでも暇で……なんて言ったらいいかな。取り敢えずさ、何か悩んでるみたいだったから、あの時の俺みたいになれればって、そう思って。あー自分で言ってて分っかんねえええええ」
「いや、何となく分かる。……心配、してくれたんだ」

『ぶつかって悪かったよ。ごめん』
 最初の日。カジ少年とぶつかり、俺が階段から足を下ろせた日。二度目の邂逅をして持ちかけられた勝負でカジ少年にさんざんに勝った後、そう言われた。走って逃げたのは怖かったから。でも段々と罪悪感が大きくなっていったんだと。
 あの時も謝ってくれた。自分が悪いとわかればその言葉が出る少年だった。

 その気持ちが嬉しかった。そんな気持ちが、羨ましかった。
 酷く妬ましく、頭を抑えるふりをして顔を手で覆い、流れそうな涙を隠す。
 これは、何の、どっちの涙なのだ。それさえ、分からない。

 そして、二つ目の分かれ道。サジ少年達とかここで別れなければならない。
 三人が心配そうな目で俺を見る。

「おい、ヤバければ送っていくぞ」
「大丈夫だから。もうそんな遠くないから。最近物騒だというじゃないか、遅くなって親が心配しているぞ。早く帰ってやれ」

 それでもと食い下がろうとする三人に再度帰れと告げ、俺はさっさと歩き出す。これが一番手っ取り早い。
 あいつらがいなくなったからだろう。心理的な枷でも外れたのか、一層足が重くなる。鉄の重りでもつけているようで、足がろくに上がらない。一見、引きずるように足を前へ進めていく。前へ前へと進もうとする意識に追いつかず、倒れてしまいそうだ。
 これほどまでに限界だったとは。誰にも見られず一人でよか――

「つらそうだね。ほんとに大丈夫イツキ君?」
「……ああ、そう言えばお前はこっちだったな」

 覗き込んできた少女に呆れたように言い返す。思い返せばこいつとの別れはもう少し先だった。
 ずっと黙っていたからほとんど忘れていた。もう少し喋ってくれ。気づかないで無体を晒してしまったじゃないか。

「ひどいなぁ、ずっといたのに。そんなに影薄い?」
「ああ、薄い薄い。舟の時みたいに泣けば薄くなくなるぞ」
「あれは無し!! あれはその……気のせいだよー気のせいなのさー。きっとイツキ君の頭がおかしくなって見せた幻だよ!! だから忘れても何の問題もないのだよきみぃ」

 顔を赤くして忘れろー忘れろーとピンと立てた指で俺を差しながら少女が言う。蜻蛉にするようにグルグルと回し始めるが、そんな自分が今まさに変な行動をしているという自覚はないのだろうか。
 
「おかしい、か。なら正常がどうなのかを知るためにも広めないとな。べそべそ泣き喚いてたって」
「ちょ、何の関係もないじゃないのそれー!! 絶対言いふらしたいだけだよねそれ!! 性格悪いよ!! 嫌いだなー私イツキ君のそういうところ嫌いだなー」
「そりゃ悲しい。じゃあ逆に武勇伝を広めてやろう。動くすべを無くした舟の上、男らしく服を脱いで冷たい水の中を全裸で泳いで船を引っ張ったってな」
「ぎゃー!? ダメだよ、それはダメだよ! 私そんなこと出来ないし! それに私がお嫁に行けなくなったらどうするの!? 責任とってくれるの!?」
「ハハハハハハハ。色んな意味で面白い冗談だ」
「嫌いだよー!! ほんとに嫌いだからねー!?」

 ああ、楽だ。他人の善意も悪意も受けていられる余裕などないから、何も考えないこんなバカみたいな話が酷く心安らぐ。

 隣で騒ぐ少女を無視してなんとはなしに空を見上げる。雲は晴れてきて隙間から月がその顔を覗かせていた。
 声が聞こえなくなる。歩きながら、少女も空を見ていた。
 暫しの無言の時間。ポツリと、少女が口を開く。

「ありがとね。舟を引っ張ってくれて。もうダメだと思ったんだ」
「大抵のことは何とかなるものだ。そう簡単に駄目にはならない」
「イツキ君はそうかもね。でも私はそう思ったの。霧がどんどん出てきて、岸が見えなくなくて空も見えなくて……閉じ込められたって、思ったの。今までずっといた世界から違う世界に来ちゃったって。もう帰れないんだって。すごく、怖かったの」
「違う世界、か……」
「うん。もうお父さんともお母さんとも会えないなって。だから、イツキ君が舟を動かしてくれて嬉しかった。真っ直ぐに進む姿が力強く見えて『ああ、これで帰れるんだ』って思った。……私には、そんな力ないから。いつも何もできなくて、影も薄くて……きっと、誰の目にも」

 少女が悲しげに顔をうつむける。
 俺は空の月を、まるで雲が衣の様に映る朧月を見ながら、小さな頃を思い出す。
 人に見てもらうのに大切なこと。意識に残るための、切欠。

「なあ。お前さ、何て名前だっけ?」

 視界の端、少女の肩が小さく震えたのが分かった。
 初めて会った頃、一度は聞いたはずだ。それなのに覚えていない。ぶつけられた現実が少女の心を貫く。
 自尊心の否定。存在の希薄さの肯定。
この言葉が傷つけるのは分かっていた。それでも聞かずにはいられなかった。
少しして少女が口を開く。出てきたのは力をなくし今にも泣きそうで、何かを認め、諦めたような声。

「……やっぱり」
「ごめん、本当にごめん。俺が悪いのは分かってる。いくらでも謝る。頼むから、教えてくれ」

 これから聞く名を忘れぬよう、少女を見る。サイドで括られた僅かに茶色が混じった柔らかなセミロングの黒い髪。焦げ茶色の瞳を宿したタレ目とほどよく日に焼けた色の肌。一歩引いたおとなしさを感じさせる可愛らしい少女。
 ポツリと少女が呟く。

「チサト……雨乃チサトだよ。前に言ったことあるよ……あるんだよ……グスッ」
「チサト、か。いい名前だ。そうだよな、言ったことあるんだよな。俺が忘れていただけだ。俺は馬鹿だ。何で、何で忘れてたんだ。俺が気づかなっただけで、バカだっただけだなんだ。悪い」

 名前を忘れるなんて、何て馬鹿なことをしたんだ俺は。
 たらりと。一雫の何かが溢れるのが、俺には見えた気がした。聞こえる声が、くぐもった気がした。

「ッ……いつも、そうなんだ。何度も聞かれて、何度も忘れられちゃう。だからいつも、いつだって私は『お前』とか『そこの子』とかって。……いい名前だと思うよ。お父さんたちがつけてくれた、大切な、私を示す名前。だから、私には似合わないんだきっと。私は、何も出来ないから」
「もう絶対に忘れない、約束するよ。だから、そんな悲しいこと言うのはやめてくれ。大事な名前なんだろ。なら否定しないで胸を張ってくれよ。きっと、きっと自分でも似合うと思えるようになるから。無理なら手伝うし、助けるからさ」
「ほんと……? 助けてくれる?」
「ああ、約束する。絶対に助ける」

 自分に向かう縋るような視線に力強く頷く。
ああ、きっと今、俺は酷い顔をしている。そんな視線を向けられる権利などないというに。
 少女はえへへと嬉しそうに笑い、俯いていた顔を上げ俺を見る。

「ありがとうイツキ君。ちょっと気が楽になったよ」
「そりゃよかった」
「でも、ちょっと今の変だったよね。私に言ってるんじゃなくてまるで、イツキ君がそうであって欲しいって思っているみたいだなって私思っちゃった。変なの」
「……気のせいだ」
「だよね。イツキ君の顔、とっても辛そうだったからそう思っちゃった。……そろそろお別れだね」

 最後の分かれ道。目尻を少し赤くした少女――チサトはタンっと地を蹴り、イツキから一歩離れる。俺はその背中に声をかける。
 どうしても、それはだけは聞いておきたくて。言っておきたくて。

「なあ……あの時言ってた憧れはまだ残ってるか?」
「憧れ?」
「皆を引っ張れる様になりたいって言ってたろ。水の国にも、行けたら行きたいって」
「ああ、そのことね」

 振り向いた少女は手を後ろで組み、少し考える。

「あるよ、私の中に。今日のことがあって、夢になっちゃった。誰かの後ろにいるんじゃなくて、自分で考えて、前で動く。誰かの為に、誰かと一緒に。そんな風になりたいな。手伝ってくれるんでしょ?」
「……そうか、夢になったのか」

 どうすればいいのか、どうすべきなのか。
 堂々巡りの脳内。何も答えが出てこない。
 けれど、せめてこれだけは。

「なら、これが最後忠告だ。出来る限り早くこの国を離れた方がいい。可能なら一、二年のうちに。チサトだけじゃない、カジも、あいつらにも言っておいてやってくれないか」
「前も同じこと言ってたよね。イツキ君は何か知っているの?」
「何も知らない。知らないんだ。おかしいことは自分でも理解している。でも頼む。夢を叶えたかったら、この国を離れてくれ」

 何が起こるのかなど言うわけにはいかない。知っている事もだ。けれど、それでも、この程度なら。きっと許されるだろうと、許されて欲しいと、誰に願うのかすらわからずに俺は願う。
 分かっている。こんなの戯言だと。所詮子供の言うことで大人は気にもとめない。国を出る決意など、大人はしやしないと。いくら言っても意味なんてないって。
 けれど、もしかしたら気が変わるかもしれない。そんな奇跡のような幸運を俺は願う。

 そしてこの瞬間も今だけだ。見捨てればいいのにリスクを背負う。普段なら絶対にしない、自分でも自分がおかしいと自覚できる今だからこそ。きっと、明日には何もなかったように口を噤むだろう。見捨てるだろう。

「……うんわかった。お母さんたちに言ってみる。じゃあね、今日はありがとう。ちゃんと暖かくして寝なきゃダメだよ?」
「分かってるよ。じゃあなチサト」
「うん。バイバイ、イツキ君」

 大きく手を振る背中を、俺は見送った。
 




――■■■……
――■■■■■……ッ
――■■■■■■■……ッ!!!

「ッ……あ。ぃて、ぇ……が」
 
 街の喧騒も聞こえないほどに頭の痛みは増していた。脳を揺らすガンガンとした音が、虫の声が絶えず響き渡り神経をそぎ落としていく。
 ズリズリ、ズリズリと足は完全に引きずっていた。もう、持ち上げられるだけの力もなかった。
 手を持ち上げるだけの力すら入らない。視界も歪みホワイトアウトし、いくらか歩く毎に休みをいれ視界を確認するザマだ。亡者のように、少しずつ俺は足を進めていく。

「っ、はあ、はぁ……はぁ……ぁ」

 体も寒い。服は着ているはずなのに一向に暖かさを感じられない。内側から凍るように、あの落ちた水の世界に熱を奪われたように凍えが体を貫く。心と体を水面の下に忘れ今ももがいている錯覚さえ感じる。
 だが、もうすぐだ。ブレる視界の先、家の姿を既に捉えている。あと、少し。

 辛い現状から逃げるように頭はつらつらと色々なことを考え始める。今日あったこと、これからのこと、今までのこと。
 あいつらはきっと大丈夫だし、これからも問題なく接することが出来る。何事もなかったように日々を過ごせばいい。
 だから思うのは白のこと。一体どうすればいいのだ。切り替えていた心は、目を背けていた半分は、既に気づいてしまった。スイッチはもう意味がない。実感としてこの身に降りかかり、既に重なってしまった。
 何事もなくなど、無理だ。
 考えれば考えるほどに頭痛と音は増していくのに、それでも考えは止まらず回り続ける。

 やっとたどり着いた家の扉に手がかかる。明ける前に背を壁に預け、息を整える。見上げた先は雲に埋もれ空は見えず、月は姿を消していた。
 大きく息を吐いて腕を上げて扉を開け中に入るとおっさんが椅子に座りテーブルに向かっていた。手には書類を持ちそれを読んでいるようだ。横に見える徳利は晩酌でもしていたのだろうか。こちらに背を向けておりその表情は分からない。

「帰ったか。最近色々と帰りが遅いな。物騒な噂もあるんだ、ガキなんだから気をつけろ」
「分かって、ますよ。すみません」

 悟られぬよう、何とか声を振り絞る。今、俺はちゃんと声が出せただろうか。
 ここが最後だ。部屋にまでさえ行ければ倒れても、気を失ってもいい。痛みに呻き声をあげてもいい。だから、もう少しだけもってくれと願う。ロクに見えない視界でも道は体が覚えている。だから、頼むから日常を変えないでくれ。あと少しなんだ。

「疲れたので、部屋で休みます」

 ゆっくり足を踏み出す。逆さにさえ感じる天地を確かめ、一歩ずつ。

 だがポツリ、と。俺が僅か数歩さえ歩む前に、おっさんが言う。

「なあ知ってるか。俺とお前があった日。本当はよぉ、俺は数日早く出る予定だった。一人だったからな。お前の話を聞いて予定をずらしたんだ」
「……それは、すみません」

 足を止め返事を返す。そんな俺の返事におっさんは何がおかしいのか笑う。

「気にすんなよ。途中の茶屋で強盗が出た話聞いたろ? 実はよ、あれ俺が最初の予定通り出ていたらちょうど鉢合わせしてたくらいなんだ。命拾いしたよ。それだけじゃねぇ。そっからの道筋で有ったっていう船の故障やら盗賊やらそれ以外も、お前の船酔いとかがなければドンピシャ。まるで俺を殺しに来ているみたいな偶然が、お前のお陰でズレた。寧ろ感謝してらぁ」
「それは……良かったです。偶然って、あるんですね」
「だよなぁ」
  
 笑い、おっさんはその手に掴む書類を俺の方に向けひらひらとさせる。

「ならよ、偶然ついでに教えてくれや。『ガトーカンパニー』ってとこから来たこの話、受けたほうがいいと思うか? なぁおい」
「……ッ!!」

 息が止まるかと、そう思うほど衝撃。何故、今その単語が出る。定期的な聞き込みを欠かしたことは無い。単純な知名度以外の話として一度として上がったことのないはずなのに、何故ここで出るのだ。

「一体、なんの話で……」
「引き抜き、らしい。何でも近いうちに波の国で事業を始める可能性があるから手を貸せと。俺は個人的に貿易業じみたことをしていたからな、その辺りで声をかけられたんだろうな。何せうろちょろされたら目障りになるだろうからな」

――頭がどうとか言って――
 ナツオの言葉。頭、ヘッド。ヘッドハンティング。
 ガトーの事業。思い当たるものなど一つしかない。
 何故。何故何故何故。まだ早いはずだ。まだ余裕があるはずだ。俺が勘違いしていたのか。それとも、捻じ曲がり早まったとでもいうのか。おっさんがいることで……いること、で……?

『本当なら丁度鉢合わせしてた。命拾い』
『それ以外もドンピシャ』


『まるで世界が俺を殺しに――』


 あ……ああ、ああああああああああああああああああああああああ!!!
 あ、あああああ。違う、違うはずだ。それは違うはずだ。きっと違うはずだ! そんなことが理由であるはずがない!!
 死んでいたはずだなんて。俺のせいでズレたなんて。そんなことがあるはずがない!!
 踏みしめていたはずの地面が偽物だと、そう知らされた様に。積み上げるための、その最初を履き違えていた錯覚。何をすれば。何を、何を……。
 
「おっさんはその話、どうするつもりで」
「俺としちゃ蹴る予定だ。向こうの偉そうな態度が気に食わん。嫌がらせでもしてやるつもり、なんだがなぁ」

 嫌がらせなどしたらどうなるか。逆らったらどうなるか。その末路を知っている。ここでもまた、変わるというのか。
 奇跡的に求められた意見。なら、少しは口が出せる。だが今の体調ではロクに話すことなど出来ないだろう。幸い蹴る予定だという。なら、また明日にでも話せばいい。こんな状態で、こんな頭でまともな言葉など出てくるはずがない。
 今は、早くこの体を横たえることを優先しなければ。

「気に入らないなら、断っていいと思います。すみません、疲れているので、また明日聞かせて下さい」
「そうか。ならそっちは明日でいい。もう一つ話があるんだ。聞いてけよイツキ」

 酷く久しぶりに呼ばれた名前。
去ろうとした俺におっさんはそう声をかける。そしてその返事を待たずに話し始める。

「とある親戚の話だ。関係で言えば、従兄妹だったやつの家族の話だよ」

 倒れそうになり壁に手をつく。音がしないよう、ゆっくりと体重を預ける。荒れた息はまずい。抑えなければ。ああ、酷く息苦しい。息が出来ず喉と腹が震え小さく嗚咽が漏れる。何故俺は、こんなに苦しんでいるんだ。

「たまにだが会うことがあってよ、色々と話されたなぁ。そいつの夫との間に出来た子供のことも。酷く手のかからない子だと言っていた。ロクに泣かず、一度言った事はすぐ覚える。余りに早熟だと。
……だが不思議なことにそのあと、急に泣くようになったらしい。二度、三度言っても覚えないこともあったかと思ったらイタズラもし始めたと。あいつ嬉しそうだったなぁ。何かしてやりたいのに、今までは何もすることがなかった。自分の母親や周りで聞いたような苦労をして、母親だという実感を得たかった。親なのに頼られず、手をかけされても貰えず寂しかったってさ」

 視界が白く染まりきり、一度深呼吸をして何度か瞬きをする。目もこするが視界が戻らず、一層頭痛が酷くなり今にも頭が割れそうなほどに痛む。痛みはそのまま際限なく増し、頭の中で鳴る音が耳を塞ぐ。
あの霧の中のような白の世界で、なのに不思議とおっさんの声だけが耳に届く。
 それは、どこかで聞いたことのある話。

「イタズラをしたり、しなかったり。父親の趣味である絵を真似し、母親の手伝いをよく手伝う優しい子だとも言っていた。親の仕事である忍者への関心もあって真面目に、熱心に鍛錬に打ち込んだと。飲み込みの良さと真面目さはそこでも役に立ち幼子にしては凄い早さでその成果を身につけていった。まるで、自分たちの見えないところでもやっているようだと。
そんな子供だが、一つだけおかしなところがあった。自分の名前をちゃんと書けなかったらしい。馬鹿な話だよな。そこまでのガキならそんなことくらい簡単なはずだってのによ」

 体の感覚が消えていく。立っているのがわからなくなっていく。上下前後さえ分からない、あの水の下の世界が戻ってくる。
 聞こえる声を止めたいのに、聞きたくないのにその方法がわからない。

――ジクジクジク……ジクジクジク……■■■

 痛みは声に。虫の声が、脳の中を何度も何度も巡り始める。その話を聴けと。あの始まりを思い出せと。
 罪を忘れるなと。
 どの分際で、少女にあんなことを語ったのだと。

「その子供が生まれたのは霧の強い日だった。窓から見える夜空は暗く、月も余り見えなかった。だがその子供が生まれたとき空には月が顔を出し、霧に霞んで柔らかく光っていた。それはまるで、月が衣を纏っているような朧月だったと。その月の下に生まれた子だと、衣の横に人を立たせ名を付けた」

 霧の中、首元に突きつけられた言の葉の刃。それが顔を出し目の前に。

「子に付けられた名は依月(いつき)天白依月(あましろいつき)だ。ずっと思ってけどよ、なあ、おいイツキ――」


「――お前、誰だよ」


 痛みが途切れたのがわかった。頭で鳴る音が限界を超え、ぐらりと体が傾いたことも。
 気がつけばその刃に首を晒し貫かれていた。
 溢れたのは血でなくかつての記憶。晒されたのはグジュグジュになっていた体の中身。肉と骨で誤魔化していた、溶けたその内側。隠しきることなど、出来なかった。
 
 気がついた時には俺の体は床に倒れ、意識は段々と薄れ始めていた。

 もう遅いのだと。もう戻れないのだと、そうどこかで誰かが呟いた気がした。








 
 

 
後書き
 水面に突き出た異物。それは鏡月を破り、姿見の鏡に映る己を貫いて姿を晒す。
 向かい合わせ。鏡であることを忘れていないように見せるその姿。
 そこに浮かぶ顔。

 それは、覗き込む(いつき)と同じ顔をしていた。 
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