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ノムさんの人生、その夢と現実

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南海を去った後

 さて、南海監督を解任されたノムさんに声がかかったのはロッテオリオンズだった。この時、ロッテは東京スタジアムを失ってから「ジプシー・ロッテ」と揶揄される程本拠地を転々とする状態を5年間続け、ようやく正式な本拠地として川崎球場に落ち着いた時なので、その目玉の一つとしてノムさんを獲りたかったのだろう。
 当時監督だった金田正一氏はノムさんの南海監督時代の実績を見て選手に指導を要請されたらしい。だが、ノムさんがいざ選手に教えたりすると逆にコーチ陣から煙たがられてしまい、今度は金田氏は「悪いが教えるのをやめてくれ」と言われてしまった。そのコーチとノムさんの確執が原因なのかは不明だが、阪急と共に優勝候補とされていたロッテは前期5位・後期3位・通算4位で終わってしまった。金田氏との関係は悪化していたのか、それとも良好関係を保っていたのかは不明だが、ロッテの重光武雄オーナーからロッテの次期監督を要請されたが、金田氏が誤解する事を考えてノムさんは固辞している。同時に自由契約となった。
 だが、金田氏も選手に教えて貰う為にノムさんを招聘したのならせめてものヘッドコーチ兼任での要請がよかったのではないだろうか?そうすればコーチ陣との確執もなく、ロッテは阪急と肩を並べられる程のライバルになりえたはずなのにどこか勿体ない感がある。オリオンズは大洋ホエールズのお古でオンボロの川崎球場(失礼)を使用していた為に、客入りが12球団一最低とされてしまい、さらには改修費をケチったのか、川崎市も改良工事をろくにしなかった(1991年シーズン前にスコアボード、グラウンド、座席などの大規模改修を施工したものの、選手のロッカールームやトイレは依然として劣悪環境のままだった)。その為、ロッテは限界を感じ、1992年以降は千葉へ移転してしまった。
 ノムさんをもしヘッドコーチ兼任で要請しておけば、球団内の団結力は上がったし、客入りも(たとえセ・リーグほどではなかったとしても)史実よりよかったのではないだろうか?(いずれにせよ、ロッテは史実通りに千葉へ移転していたかもしれないが)

 次のノムさんの居場所は西武ライオンズに移った。この時も丁度ライオンズが福岡から所沢へ移転した所だった為、当時監督だった根本陸夫氏は田淵幸一氏や松沼博久・雅之兄弟などと共に新生ライオンズの目玉の一環としたかったのだろう。控えが多かったが、南海監督時代の指導ぶりを発揮できたのはないかと思われる。理由はwikipediaのノムさんの項目の注釈に「このとき同僚になった松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。」とあった為である。また、パ・リーグの宝のような存在だったのか、オールスターでも西本幸雄氏の推薦により出場した。

 そんなノムさんも選手としては恒例になって来たのかとうとう引退を決意した。自身の打席で代打を出され、それが不満だったのか代打策の失敗を祈った。もちろん失敗し、「ざまあみろ」と思った。だが、ここでノムさんは顧みた。自分の気持ちがチームと逆の方向に向いてしまったと。それで引退を決意してしまった(采配に不満を持って途中帰宅した選手は実際にいるが、ノムさんはそれをしなかったのはまた凄い)。全く関係のない私情を挟んで申し訳ないのだが、今の気持ちが属する場所と違う方向に進んでいると感じた時、あるいは指摘されてた時はそこを抜け、新天地を求めるのも悪くはないだろう。

 選手として26年間、公私にわたり苦悩が多かったものの、充実した選手生活ではなかっただろうか。 
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