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或る皇国将校の回想録

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第四部五将家の戦争
  第七十一話 冬に備え、春を見据えよ

 
前書き
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツアリツィナ・ロッシナ
<帝国>帝族の一員である東方辺境領姫にして<帝国>陸軍元帥
東方辺境領鎮定軍司令官

クラウス・フォン・メレンティン
東方辺境鎮定軍参謀長である陸軍少将

アイヴァン・ルドガー・ド・アラノック中将
東方鎮定軍第2軍団 司令官 ユーリアの下に派遣された〈帝国〉本領の増援を統括する。
円熟した常道の将軍

ゲルト・クトゥア・ラスティニアン少将
東方鎮定軍第2軍団 参謀長 軍官僚としては有能だが人としての評判が悪い。

ドブロフスキ准将
〈マクシノマス・ゴートランド〉第9銃兵師団 第1旅団長 熟練の野戦指揮官

エプレボリ全東方辺境領府主教
拝石教の府主教 東方辺境領の聖職者を統括する宗教指導者
〈帝国〉拝石教総宗庁最高幹部の一人 

 
 六芒郭は再び猛火の如き攻勢に襲われていた。六芒郭はその名の通り六つの突角累と
砲弾が南突角累へと降りそそぐ。
 白色の軍装をまとった銃兵たちは雷壕を足早に動き、突撃発起線の掩体壕に潜り込む。
 轟音に身をすくませる新兵、祈る古参兵、全てを受け入れ、ただ顔をこわばらせる下士官‥‥壕にこもった張り詰めそうな静寂を喇叭が打ち破る。
 下士官と見間違うような厳つい顔つきをした旅団長が鋭剣を振り上げ――下した。
「目標南突角堡!傾斜路!距離1リーグ!!総員突撃せよ!!」
 兵士達が馬出――突角堡へと続く傾斜路へと殺到する。しかし六芒郭に布陣している蛮族らは沈黙している。もはや抵抗の意思を失ったのか?或いは砲火力が敵を完全に叩き潰したのか?
 銃兵壕から放たれた白い津波が傾斜路から遂に南突角堡に届こうとしたその時、彼らは明確に返答した――否、否であると。
 擲射砲、平射砲、臼砲、施条銃‥‥あらゆる火力が傾斜路に降り注ぐ。そこを駆けあがる男達はたちまち物言わぬ躯となり水堀へと落ちていく。
 それでも兵達は健気に前へ、前へと進む。やがて傾斜路を抜け‥‥潰れた丸薬のような特火点よりあびせられる平射砲の散弾や塹壕に隠れた〈皇国〉軍銃兵の銃撃を浴びせられる羽目になった。
 この傾斜路を抜けた兵が倒れてからおよそ半刻程で退却喇叭が鳴らされることになった。
 この日、帝国軍の死傷者は900名、二個大隊が戦闘能力喪失と判断され、再編成の為に後退することになった。



皇紀五百六十八年 九月十日 午後第三刻 六芒郭北方十二里
〈マクシノマス・ゴートランド〉第9銃兵師団 第1旅団司令部 
旅団長 ドブロフスキ准将


 午前中に行われた威力偵察攻勢の成果の分析と後始末に旅団司令部は忙殺されていた。
不景気な顔をした中年男が姿を現した。
 真っ先に目を合わせてしあった士官候補生はのちに「葬儀の手配を終えたばかりの従軍司祭かと思った」とのちに零している。
 そして彼は埋葬される者の名を告げるような錆びついた口調で尋ねた。「ドブロフスキ旅団長はいるかな」
 陰鬱な葬儀続きの司祭の正体はラスティニアン少将――この細やかな列島国家に派遣された本領軍団の参謀長であった
「これはこれは、ラスティニアン参謀長閣下」
 敬礼を捧げる旅団司令部の先頭に立ち、出迎えたのは先程の攻勢で鋭剣を振るい、陣頭で指揮に立った旅団長だ、彼こそが〈帝国〉本領軍〈マクシノマス・ゴートランド〉第9銃兵師団が第1旅団を統括するドブロフスキ准将である。

「――二人で話したい、ついでに被害状況の確認をさせてもらおうか」
 ラスティニアンは常の陰々鬱々とした表情を崩さずに答礼をし、旅団長に顔を向けた・





「二人で話すのは久しぶりだなゲオルグ、相も変わらず不景気な面をしてるな、アラノック閣下には何も言われんのか?」
 ドブロフスキとラスティニアンは士官学校の同期であった。そして更に言えばどちらも下級貴族の出身であった。
だが決定的な違いが一つだけあったラスティニアンの実家は貴族の称号以外はすべてを失った没落貴族であったのだ。
その為、ラスティニアンという青年は家族を養うために刻苦勉励に励み、任官してからもその習慣を続けるのみならず上官に媚び諂った。兄妹の為に吝嗇でありつづけ少ない給金を切り詰めていた。であるからには当然、同期や部下からの評判はけして良くなかった。付き合いは悪く、上官に都合が良く使い潰す人間を愛する者はいない。
しかしそれでもなお陸軍大学校を優等な成績で卒業し、上層部の後押しがない人間としてはそれなりの速さで少将へと任じられている。

 一方、ドブロフスキは部下に慕われる性質の男であった。部下に鷹揚で兵には勝つたびに気前よく振舞ってみせた。ラスティニアンと同じ連隊に配属され彼の内実を知ってから交友を結ぶようになった。
 参謀教育への適性が薄かったことから昇進はラスティニアンより遅れている。だが下の者達からの人望はこの萎びた馬のような参謀将校を遥かに凌ぐ。
 それになにより彼は間違いなく一角の指揮官であった。有力者の格別の引きもなく本領軍で准将となっている事実がそれを十分に証明されている。

「実際に攻めこんであの結果だからな。こうして平常心を保つのも一苦労だ。笑うなどしたら狂を発したと思われるだろう。
それで、貴様の見る限りあそこの状況はどうだ」

 ドブロフスキは顔をゆがめて吐き捨てるように返答した。
「良くない、良くないとも。当然だろうが。貴様らがどう予想していたのかは知らぬがな。あの突角堡はただの土塊などではない。あぁ確かに我々の知る野戦築城の発展形なのだろうが、アスローンでも南冥でも見たことがない規模で拵えられている。
アレクサンドロス作戦で殿下の首を狙ったというのも納得できるくらいにはできるよ、あの連中。
あの要塞にこもるのも計画のうちだったのだろうよ。
あれが未完成だと思っているのなら忘れろ!そんな戯言は悪い冗談にしからならんぞ!あそこを貫くには念入りな準備が必要だ」

 どうにか生き延びた者達から聞き取った内容は気分が重くなるばかりだ。特火点は相互に支援できるようにちりばめられている。
恐らく傾斜路から雪崩れ込んで最初の銃兵壕を突破しても抵抗は続けられるだろう。入り組んだ塹壕線にはところどころ土嚢やらなにやらを積み重ねて銃廊めいたものを作っているところもあるらしい。

「雨季までに攻め落とすとして必要なものは」

「攻め落とすのならば大量の擲射砲、攻城砲、工兵隊、そしてなにより時間を産みだす魔法の壺だ。
もう一度言うが、あそこは既に立派な要塞だよ、ただ応急処置を行った土塊だと思わない方が良い」

 ドブロフスキの返答にラスティニアンは口元を引き結んだ。ラスティニアンは鷹揚ではない、だがひたすら野戦の現実と向き合い続けた軍人の言葉を無視するほど愚かでもない。
彼は下級貴族でありながら〈帝国〉本領軍の軍団参謀長の少将なのだ。
「ならば――攻め落とさないのであれば?貴様は雨季までどのような行動をとる。あぁ雑談だと思ってくれ」

ドブロフスキは顎を撫でつつ答えた。「貴様のように軍の物資貯蔵などは把握しとらんぞ。それを踏まえたうえた上で聞け。俺ならこの第9師団を増強して4万程度の兵力で包囲すればよい。第24強襲銃兵師団の旅団にあれこれ付けた部隊でコウリュウドウを圧迫するもう一個旅団は予備として抵抗線を構築する。
主力は蛮族の首府を目指して攻勢を行う、あぁ第1軍団を動かせればさらに楽になるが」

「どこまで狙う?まさか蛮都までとはいうまいな」

「この第二軍団の現有装備では無理だ、貴様らが24師団を完全に使い潰す覚悟があるのなら話は別だが、途中で雨季にはまる前提で拠点の確保が主目的だ。
それに敵の主力――サイツの第三軍への追撃は不十分なまま取り逃がした。この要塞に加えて南部、中部の街道を塞がねばならない、部隊も相当苦労するよ。
どの道、コウリュウドウを圧迫するのならば殿下と辺境領軍の人手が必要だ。現状、防衛線に布陣している蛮軍の兵力はおそらくアラノック閣下指揮下とほぼ同数だろう。
だからこそ、冬にこもる前に攻勢をかける価値はある」

 ラスティニアンは珍しく少々興奮した様子で何度もうなずいた。
「だろうな――あぁ貴様も同意見か。今のうちに聞けて良かった。師団司令部も似たようなことを言っている。これなら殿下の軍司令部もどうにか動かせそうだ」

「‥‥いよいよ殿下がいらっしゃるのか?」

「ようやくな。十月に入る頃には東方辺境領軍――第一軍団を連れてご到着だ。雨期に入るまで時間がないが――まぁ師団一つがが壊滅したのだから当たり前だろうが」
 二人の歩みは徐々にゆっくりとしたものになる。
「‥‥ここを攻め落とすかどうか、本領軍の意思を統一させるのか」
「そのつもりだ。こちらでまとめて殿下に納得していただく。今年はもう終わりが見えた。ならば来春の兵役(キャンペーン)を見据えねばならん。最後の一手を決めねばならぬよ」

「ふむ、なるほど。貴様は帝都を見据えているわけか。野心か?保身か?
いや‥‥保身だな?」
 ドブロフスキの言葉に一切恥いった様子を見せずにラスティニアンは首肯した。
「あぁその通りだ。保身、それ以外にあるか?俺は塵芥だ、政争に巻き込まれれば即座に捨てられる。
アラノック閣下が選ばれた理由は政治色が薄く、皇帝陛下と軍に忠実であり、なにより明確な戦果を挙げてユーリア殿下にすべてを独占させず、中央の意思を示せるだろうと考えられたからだ」

「あぁなるほど――現状は不味いか」
 皇都を前にして踏みとどまる。旨味がない割に犠牲がでる要塞攻略戦。曲がりなりにも同胞として肩を並べて戦うのであればまだしも、政争を前提とした冬を目前にこれはまずい。
 人気のない物資置き場に辿り着く。待機壕に残っている運の悪い監視役の兵達の交代までここならば誰も来ない。人払いを命じられた憲兵――もちろん本領兵の――以外は。
「冬は政治の季節だ。蛮族にとっても我々にとっても。そこで責任の押し付け合いになるのだとすれば我々は切られかねない。
アラノック閣下はともかく私は上への伝手がないから余計にな‥‥」

 ドブロフスキは細巻に火を着け、もう一本をラスティニアンに渡した。士官学校で扱かれていたころからの習慣だ。階級で一歩先を行かれてからも変わらない。
「あぶないのは貴様の他には‥‥」

「少将から准将を複数名が左遷だろうな。おそらくは“騎兵殺し”に“猛獣使い”相手に痛い目を見た連中だ」
 つまり俺もか、とドブロフスキは煙を吐きながら考えた。彼とて人間だ。帝都に戻れるのであれば戻りたい。本領の領土で楽隠居する為にも左遷などまっぴらごめんだ。
「貴様からアラノック閣下を通じて打診はできんのか」

「当たり前の事を聞くな。アラノック閣下とて御家族がいる、分家で領地はけして広くない。
ならば俺を差し出す事を好まずとも。救うようなことまではせぬよ。
――とはいえどこかでヘマをしたら銃殺もありうる。俺が失敗の責任を取ることになるだろう」
 もしこの時のラスティニアンの言葉をアラノックが聞いたら目を見張っただろう。家族がいる、という言葉を発した時は奇妙なほどに人間的な口調であった。

「助かる気は」
「あるに決まっている、だから貴様に相談しているのだ」
 
 不景気な顔付きを浮かべる友人にドブロフスキは苦笑を浮かべた。
「他に友人も伝手もないからな。貴様はもう少し愛想を覚えるべきだ」

「もう遅い、あぁいや貴様が羨ましくはあるがもう無理だと思う、きっとな」
 謝罪のような言い方をもごもごとする軍団参謀長を横目に、手布で汗を拭いながらその陰でため息をつく。
 苦労人なのは知っていた。そして相応の物を示せば忠実でも誠実ではないが、厳格で抑制的に彼なりに義理を示してくれる事も。
 とはいえ万人に好かれる人間からは程遠い、堅物でありながら俗物であり、常に余裕がない。
「なぁ、もしも殿下が本領軍を抑え込もうとしたら――どうするつもりだ」

 ラスティニアンは足を速めた。「‥‥‥本領の上層部が動くはずだ、この国の権益を上手く使えば手を引くべきでないと見せれば、あぁきっと上手くいく。
陛下は東方辺境領の忠節を危ぶまれていらっしゃる――」
 ラスティニアンの言葉は敬虔な祈りのようだった。だが〈帝国〉軍の前線を見続けた将校の経験が示す物は残酷であった。
そう、敬虔な祈りを捧げる者は既に天の配剤を両手から零した後に祈るからこそ敬虔に心を込めて祈るのだ。




同日 午後第五刻 〈帝国〉軍東方辺境領鎮定軍第2軍団
軍団司令部 軍団参謀長 ゲルト・クトゥア・ラスティニアン少将


「ラスティニアン参謀長」
「司令官閣下」
 奇妙ではあるが互いに個人的関心はほぼない――ラスティニアン
「どうだ」
「ノルタバーンで蛮軍は学んでいるようですな。あそこは恐ろしく複雑に築城されています
あの累を抜くのには相当な苦労があるでしょう。
現在の砲火力では損害が厳しいかと」

「弾薬は足りているか?」
「今は足りていますが攻勢を続けるのであれば輸送力が足りません。そして攻城砲も足りません。そして我らの本命はコジョウを貫くことです、あの要塞の価値は連絡線の安全確保以外にさしたる意味はありません」

「‥‥ユーリア殿下におすがりするしかないか」
 アラノックの言葉にラスティニアンは鋭い口調で返した。
「ですが閣下の判断に過失はありませぬ」
 ラスティニアンの言葉は軍団司令部――自身も当然含まれる――の責任を回避する目的であったが客観的にも的外れではない。
第三軍は東沿道に布陣する西州軍を主力とした部隊だ――駒州軍や独立部隊も含まれており、反攻主力として扱われるだけの規模を備えた軍だ。
 彼らはアレクサンドロス作戦で第21師団を――幸運に恵まれたとはいえその幸運を最大限に活用し――事実上戦闘力喪失状態にまでに追い込んだ。
 撤退戦においても後衛部隊が文字通り猛虎奮迅の活躍をし、先行した騎兵部隊に痛打を与え、龍州軍の壊滅と引き換えとはいえ主力は落伍兵と重装備の大半を喪失しただけで済んだ。
 六芒郭1万、北方の主攻正面となる皇龍道を護る護州軍2万、中央の内王道に駒州軍2万半に加え南部東沿道に西州軍の兵力2万超が存在する事は10万に届く本領軍で編成された第二軍団であろうと大いなる脅威であった。
 さらに戦略予備として背州軍2万弱があり、龍州軍も再建が行われている。

「閣下は蛮軍の動きを見極めて妥当な判断を下しました。私は参謀としてそう愚考いたします」

「そう言ってくれると有難いな。あぁだがこうなってくるとそうした問題ではなくなりそうだ。
――この国は確かに当初の評判よりよほど強いだが我々は鎮定する、次の夏までには必ずな。
問題はその後だ」
 アラノックは政局に生きる人間ではないが〈帝国〉本領軍中将となるからには政治とは無関係ではいられない。
 この手の算段を練るのは初めてではない。
「生き残るには相応の手を打つしかありませぬ、閣下。帝都に今のうちから連絡をとるべきかと」

「ラスティニアン、貴様の打つ手は?」
 
「軍内部の意思統一を図っています。東方辺境領軍が到着する事とほぼ同時にコウリュウドウへ攻勢をかけ、雨季までにコウリュウドウの野戦軍に一撃を与えるべきです」
 アラノックは満足して頷いた。ラスティニアンは馬鹿ではない、むしろ知恵が回る男だ。指揮官としてはともかく参謀としては申し分ない。
「本領軍が、か。それしかないがここで殿下と対立する事は避けるべきだ。今必要なのは双方の妥協だよ」
 アラノックらしい返答にラスティニアンは黙って頷いた。アラノックがそれをできるのであればそれに越したことはない。政治とは妥協の為の戦いなのだ。少なくとも政敵と銃火を交える覚悟を持たない限りは。
「殿下の周囲に打診をしつつ、という事でしょうか」
 アラノックは頷き、ラスティニアンに命令を下した。
「そちらは私とその手の事が向いている人間が行おう。貴様はあの厄介な猛獣使いを抑え込みながらコウリュウドウを突く具体案を練るように。
兵站部とよく相談をしろ、殿下から返答があるまでは対案として考えるだけで良い、無理はするな」



同日 午後第三刻 竜口湾 大喉 東方辺境領鎮定軍 軍司令部
〈帝国〉東方辺境領姫 〈帝国〉陸軍元帥 ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナ



「勝つにしてもどのように勝つか、ね。メレンティン、やはり本領軍を頼ったのは失敗だったかしら?」
「殿下、アラノックは良くやっていますよ、そのようなことは」

「えぇ彼らは完全ではなくとも尽力したわ。あの要塞に拘泥したのは少し予想外だったけど――」
 ユーリアは肩をすくめ、ため息をついた。
「今回の進行のきっかけは経済問題よ。であるからには東方辺境領が利益を得なければならない。その為には本領の介入を抑え込むしかない。
第二軍団がこの段階で攻勢限界にでるのはわかっていた。その為にも闊達な攻勢を命じたのだもの。
けれど予想以上に兵力が残ってしまっている、アシカワも敵が保持しているのね」
 本来であれば東沿道の封じ込めは既に終わっているはずだった。
だが第三軍こと西州軍は重装備を喪失したものの主力は大きな損害を受けずに後退に成功。
これが痛かった虎背川を盾に河川貿易と東州との交易で栄えた港湾都市・葦川に布陣し、弓野と東州対岸に睨みを利かせている。それならばさっさと制圧してしまえばよさそうなものだが東海艦隊の根拠地の一つだったことが悪かった。安東家が伝統的に影響力の強い東海艦隊と分家が大臣を務める兵部省、武勲を誇る西原家に六芒郭と主攻正面となる皇龍道・内王道への圧力を減らしたい守原家と駒城家の意向が一致したことで極めて速やかに河船が徴発され、臼砲やら平射砲やらを乗っけた怪しげな河川砲艦がでっち上げられたのだ。
つまりは攻め込む能力はない――砲兵隊の被害はまだ回復していないが制圧するには相当な覚悟が必要な状態なのである。
「トウシュウへの窓口となっているようですな、敵の北方を抑えていた第二軍が逃げ延びています」

「トウシュウへ逃げるのならば楽よ。蛮都を抑えれば艦隊を使ってどうとでもなる、その辺りは楽なくらい」

「姫、どうなさりますか?我々が出向けば六芒郭を抑えて南部と中央部を封鎖、コウリュウドウへ軍団級の兵力を投入する事も可能です。おそらくは本領軍はそれを主張するでしょう。
いっその事彼らに押し込んでしまい、コウツ(吼津)のような港町を確保、来春の突破に向けた拠点を作るのも良い選択肢かと思いますぞ?」
 ――それならば水軍の艦隊決戦も望める、敵首都から目鼻の先に海運兵站拠点を作れば敵も黙ってはいられまい。
 メレンティンは艦隊決戦どころが国営海相手に不毛な護衛戦を戦う羽目になった水軍の見せ場についても十露盤を弾いていた。

「それも悪くはない、だが今回は六芒郭を陥落させる、雨季までに必ず」

「――理由をおたずねしても?」

「簡単よ、一つ、来春攻勢に向けて街道の安全を確保するべき。
二つ、冬営期間中に兵を張り付ける場所を増やすべきではない。冬営はけして楽ではない。特にコジョウのような山岳地に警戒線を張るのであればね
三つ、アラノックの支援を私が行い短期で要塞を落とす事で上層部を黙らせることができる。
手柄はアラノックに渡す、少なくとも一度はそう見せる。そうすれば第二軍団の司令部も黙るでしょう。ねぇどうかしらメレンティン」

「‥‥‥ふむ、いえ悪くないかと。殿下が御自らそのように示す事は意味があります」
 メレンティンの応答にユーリアは黙ってうなずいた。後は彼らがうまく調整するだろうと信頼しているからだ。
 
 追撃戦闘の報告書に改めて目を通す。「補給が苦しい、現地民が小村から逃げ出している‥‥面倒ね。でも皇龍道側は大協約もないからそれなりに楽になる目算だったけど‥‥」

「どうも北方に逃げている連中が多いようです。あー、その、彼らの風習にはその、技術を持った人間や、女性がその、いわゆる天龍と伝手があるようでして‥‥」
 メレンティンは言葉を濁した。
「クラウス、私に遠慮は不要よ。ここで純化審問なんて――」
「いえ、殿下。その、エプレボリ全東方辺境領府主教座下が、昨日急にどうしてもとおっしゃっておりまして、そろそろ到着するかと」

「ノルタバーンの視察だけではなかったの?親書はもう書いて現地の軍政担当に渡したはずだけど」
 といった瞬間を見計らったように扉が開いた。
「失礼いたします!!お久しゅうございます殿下!!」
  帰れ!!と叫びたくてたまらない。後目を逸らしたメレンティンの尻に疑剣を叩き込みたくて仕方ない。
 どちらも鋼の理性で抑え込む。落ち着け、落ち着け、自分は〈帝国〉帝室だ。東方辺境領姫だ。
息を喫って、吐いて。よし、いい子だ。話を続けよう。

「殿下!ノルタバーンにおける布教についてですが!!」
朗々とした声で叫ぶのは分厚い眼鏡に長い髭を生やした東方辺境領府主教、エプレボリである。年は既に70を迎えようとしている。
先副帝――父よりも年上だが未だに矍鑠としている。そして父が会うたび顔色が悪くなる男だ。子供のころの自分には優しく、時に細やかな子供の相談にも笑顔で乗ってくれた。あの頃にはぼんやりとしか理解していなかったが、この老人は東方辺境領北部大主教・東方辺境領東部大主教を従える東方辺境領における拝石教の首領だ。〈帝国〉全土を統括する拝石教総宗庁に座する総宗主教と西方諸侯領府主教に次ぐ地位を持っている。
西方諸候領出身だが元は北方蛮族と呼ばれていた海賊と商人の合いの子のような民族の一門出身である。兄は伯爵として将校稼業をしており、次男である目の前の男は聖職者の道を歩んだ。共通するのは二人とも南冥水軍を悩ませた資質のうち、勇武ではなく商人と開拓者としての資質が色濃く受け継がれたことだ。

「府主教座下、まだ聖職者の安全な行動は確保できてないわ。辺境領の統治者として、まだ認められないの」
 ユーリアは真剣な口調で訴えた。
 この老人は教義には厳格であり――信者には温和で寛大であり――本領から東方辺境領に赴任してからその信仰の在り方は全く揺らいでいない。
 つまるところ――
「しかしですな殿下!!ここの蛮族共はいまだに背天ノ業を信仰していると!!
あの蜥蜴擬きの崇拝が残っていると儂の耳にも届いておりますぞ!!早急な対処が必要ですぞ!!
このエプレボリ、必要でしたら純化審問官を再編成しましてノルタバーンを“〈帝国〉化”いたします覚悟!!」
 クワッと眼鏡越しでも分かるほどに目を見開きながら言った。無駄に白い歯と歯茎も見える。怖い、怖い。
 ――これだ。これがまずい。何しろこの老人は東方辺境領の〈帝国〉民における絶対的な宗教指導者だ。そして本領の拝石教総宗庁に忠実であり――ユーリアの統治方針にとって必要不可欠でありながら頭痛の種となる存在なのだ。
 そして東方辺境領副帝家が二代続けて完全な制御を諦める程の狸爺だ。そうでなければ蛮族の産まれが宗教界の出世の階段を上り詰め詰めてその頂の二段前にいるはずがない。

「座下、今はまだ戦時だ。軍が全てを取り仕切る。やるにしてもこの国を完全に制圧してからにして欲しい」
 
「ですがな、殿下。我ら府主教府は常に〈帝国〉の民心安定の為に尽くしてまいりましたぞ?
前線で兵と共に戦っている聖職者も多い。そのように扱われるのは心外ですぞ」
 事実である、そしてこれこそがこの老人が只者ではなく、帝室直轄領を支配する副帝を二代にわたって悩ませる手腕を持っていることの証拠である
 その理由は極めて単純である。まず東方辺境領軍は兵、下士官の多くが北方蛮族、東方蛮族と呼ばれていたような人間が大半を占めている。そして軍の民族構成はそのまま銃後の社会に反映される。

「殿下、お判りでしょうが我々は東方辺境領、ひいては帝室の安寧に“伝統的”に身を捧げておりますぞ?
そしてそれは今も“変わらない”のです、お分かりいただけるでしょうか?」
 メレンティンは神妙な顔で目を伏せる。ユーリアも言葉に詰まる。
――そう、〈帝国〉の箍を作り上げたのは拝石教、宗教だ。徹底した宗教面の同化政策こそがその〈帝国〉の民としての意識の源泉の一つである。悪名高い宗教純化運動も反腐敗が発端であったがこれを機にロッシナ朝の権力の根源である東方辺境領の『〈帝国〉化』に使われたのは公然の秘密である。天龍崇拝の導術宗教を徹底的に攻撃し、石神とその祝福を受けた皇帝に権威を統一したことで東方辺境領の安定(と蛮域の抵抗強化)が齎された。
 ここが肝である『石神』と『その祝福を受けた皇帝』なのだ。
 〈帝国〉全土を統括する宗教組織、拝石教総宗庁は表面上〈帝国〉政府に属しているが収入は独立しており、独立した司法権すら所持している。


 東方辺境領――それも蛮域に接している田舎では純化審問官は未だに恐怖の象徴である、しかしながら本領から植民された人間が多い経済、政治の中心地域では全く素直に心から頼っている者達すらいる。否、彼らにとっては辺境の蛮族を〈帝国〉民の端くれへと“教化”した頼もしい信仰家なのだ。事実、最も苛烈に純化運動を進めたのは西方、東方の植民された本領民達――農奴だの小規模自作農といった辺境と都市の狭間に生きる人々であった。
 そうでありながら東方辺境領軍において従軍司祭団は非常に高度に組織化されて活動している。
 何故ならばこの時代においてはどこの軍隊でもそうであるが〈帝国〉において軍隊とは下層民に最も開かれた教育機関であり――そして下層民への〈帝国〉的な教育を最も必要としているのは東方辺境領だ。

 東方辺境領においてこの府主教と公然と対立すれば――社会不安と本領からの介入といった形で反撃が帰ってくる。
 しかしながら彼に味方すれば今度は宗教による保守派の主導権を奪われ、この老人を通じた総宗庁の権限拡大が進むことになる。居なくても困る、居ても困る、東方辺境領は全土帝室直轄‥‥といえば聞こえが良いのだがその集権体制を維持するコストは膨大であり、累卵の存在なのである。

「――しかしながら戦時という事でしたら殿下、いえ東方辺境領軍総司令官閣下の御判断に逆らうのも筋が通りますまい
――兵馬に関わる事ですが我々がなさねばならぬことも在ります。」
 メレンティンの尻を抓り捻った。背筋を伸ばした参謀長が慇懃な口調で口を開いた。
「座下、それでは何か我々にできる事がありましたら能う限りお力になりましょうぞ」

「さて、それでは一つ、儂も常々危惧していたことですがな。どうもナイチにはあの天龍の保護区があるらしい。
その影響もあるのでしょうがどうにも兵どころか将校の中にまで背天ノ業を公然と“実在する術”として話している者がいるとか。
由々しきことです――げに由々しきことです。畏れ多くも皇帝陛下の副帝家たる東方辺境領軍でそのような悪しき考えが蔓延するようにならば――」
 
 二百年程前に行われた純化運動で最も被害を受けたのは術士とそれ慕っていた土着の村落に住まう人々だ。だがひっそりと――人類をはるかに超えた術力で扱われる導術と空を飛べるという特性により――個別の居住区を持たない種族がさしたる争いもなく立ち去っていった事は記録には記されていない。
 天龍というのは人間からすれば独特の価値観を持っているが便利であることを望むのは人とさして変わらない。導術を扱う人々の集落に立ち寄りちょっとした知恵を授けて‥‥などというのは若い天龍が良くやっていることであった――天龍の政治的拠点である龍上国にほど近い〈皇国〉東部では村の乙女を差し出した旧慣が行儀見習いへと変遷し残っている――〈帝国〉の術士が生まれる地域ではいわゆる客人神として扱われていたのである。
 しかしながらそうした“実在する神”を許容できないのが拝石教であり、また名分として使われたのが〈帝国〉皇帝であった。
 最初は〈帝国〉政府は乗り気ではなかった――総宗庁と貴族らの腐敗をどうにかしようとした皇帝が総宗庁の権限拡大に良い顔をするはずがない。
 しかしながら総宗庁は狡猾であった。皇帝を自身の宗教世界に取り込み権威を民草に根付かせたのだ。
民草が熱心に取り組むようになってからはもはや「純化運動の否定は石神と皇帝の権威の否定である」と民草に受け止められる様になった。

「軍内部の引き締め?それならば私の判断で対応する。軍司令官は私だ。幾度も言わせないでいただきたい。
座下、本命を早く出してくださいませんか?」
 従軍教衆にもいくらかの特権はある。告解の秘密の保持などはそれにあたる。だが軍の指揮系統への介入や異端審問を行う権限などは完全に規制されている。
 これに関しては皇帝から軍部まで一体となって拒否した。

 老聖職者は髭の合間から真っ白な歯を見せてにんまりと笑った。
「ほほほッ!かないませんな殿下。本命はですな、天龍対策の政策です。こちらには我々の顧問を入れていただきたい。
大協約と拝石教の教義について研究している司祭がおりましてな。そのような連中を送らせていただきますぞ」

「‥‥蜥蜴の仲間ではなかったのですか?」 ユーリアは意地悪く笑ってたずねた

「教義としての観点からすれば天龍は人間と同じ祝福された存在ではありませぬ。しかし大協約の問題があります、天龍は飛龍の仲間ですが知恵もある古き種族です。
〈大協約〉では我々と天龍は対等に扱われなければなりませぬ。それを認めないわけにはなりませぬの。
ですが――断じて、断じて石神に賭けて皇帝陛下にも並ぶ存在であってはならない」
 拝石教の複雑怪奇な立場を示す言葉であった。拝石教は〈大協約〉に反するつもりはない――大陸国家であっても共通する慣習法だ。これが失われた際の損失を受けるのは強力な権威を持った非戦闘員である宗教組織だ。
 しかしながら皇帝と総宗主教に並ぶ権威として天龍を認めるわけにはいけない。辺境で殲滅した導術崇拝が息を吹き返しかねない――否、息を吹き返さずとも抑圧された異民族が拝石教の“過ち”として導術を使う天龍を持ち出しかねない。
 天龍の扱いは極めて微妙な問題であり拝石教の権威を揺るがしかねない――。
「座下、そちらについては善処する。従軍司祭らについては――」

「国体を護持する役目も魂の悩みを導くのも司祭の役目ですぞ、殿下
無論、異端審問を再現するのであれば論外ですぞい。しかし彼らが殿下に判断を仰ぎ、軍紀を正す事は彼らにとって重要な役割の一つですじゃ。儂からは彼らが務めを果たす事を称賛こそすれ止めよと令を発するのはとてもとても‥‥」
 ほほほっと笑い声をあげながら分厚い眼鏡越しに鋭い視線がユーリアに向けられる。
「‥‥‥くれぐれもお忘れなく、殿下。総宗主教猊下も“関心”を抱いておられます。
それでは儂は負傷兵達を祝福したら本土に戻りますぞ」

 老人が立ち去るとユーリアは無言で肩をすくめた。
「相も変わらず食えぬ御方ですな」メレンティンは姫様に見えるようにわざとらしく尻をさすりながら言った

「あの老人も見た目ほど余裕があるわけではないわ。本領軍の司祭団への命令権は彼にはないからな。
天龍対策にわざわざ自分の手駒を潜り込ませようとするはずはないわよ。――ま、総宗庁が介入するくらいならあのお爺ちゃんを相手にする方がマシよね、そういう点では協力できると知っているからわざわざ私を脅かしながら声をかけてきたのよ。あぁ面倒!こんなことになるなら攻め込まなかった方が良かったかしら?」

気分転換に“趣味”で集めさせた情報を手に取る。そこには彼女の知る男の名前が記されていた。
「へぇ――“騎兵殺し“なんて呼ばれているのね」
 第21師団が敵の攻勢を抑えるために出した捜索騎兵聯隊、本領軍が追撃に出した胸甲騎兵聯隊。いずれも決定的な場面で使った部隊だ。それだけに大局的にも痛打を受けている。
 ――第三軍の指揮官は極めて優秀だという事だ。優秀な前線指揮官が優秀な指揮官の下についたのであればこれほど面倒なものはない。

「はい、本国では随分と目立っているようですな」
 改めて再調査した“馬堂豊久”の個人情報を眺める。
「父は軍政の中枢にいる兵站将校。祖父も名の知れた騎兵将校で憲兵の最古参。
それは当然、重用されるわね。首を刎ねた方が良かったかしら?」
 声色に本気を感じたのかメレンティンが眉をひそめた。「気持ちはわかりますがお言葉に気を付けていただければ」

「分かっているわ、でもこのままだと本気になりそう、連隊長ならば大佐になっているでしょう。
ねぇこの要塞の猛獣使いというのは?」そう言いながらうんざりと溜息をついた――猛獣使い!剣虎兵!なんと面倒な奴らなのだろう!

「彼の腹心のようです、ノルタバーンで主力を率いていたやり手です。主家にあたるクシロが面倒を見た孤児上がりだと」
メレンティンの報告を聞くとユーリアの目つきが徐々に怪しくなっていった。「そう、そうなの――この状況、彼が手を入れたのね」

ユーリアは透き通った微笑を浮かべた。「いいじゃない、相手になりましょう、今度捕まえたら目の前で皇都を落としてコマシリの総督にでもしてあげる‥‥ウフフフフフ。
目の前で自分の主の領地を管理させてあげる、いえ、副官をやらせましょうかね。私の為にエプレボリのお爺ちゃんの相手も任せてあげられるもの。ウフッウウフフフフフフフフフフフッ」

「殿下‥‥どうしてこうなったのかしらん」苦労を察して目頭を押さえながらも――やっぱり彼に会わせたのは教育に悪かったかナ。と思う爺やであった。
 
 

 
後書き
Q「どうしてこんなにクソ長いのですか?」
A「大サトー民との交流、燃え上がる考察と妄想、楽しかったです」

Q「エプレボリってどこかで聞いた名前ですが?」
A「PLの方には許可をとっております。名前だけ借りて設定などは特に共有しておりません」

Q「六芒郭編の終わりは見えてるの?」
A「六芒郭編完結までロードマップを纏め終えてます。私生活の変動を優先しますが六芒郭編は今年中に終わらせたいですね」

Q「全体のプロットはまとまってますか?拝石教の設定を作ったときにまたプロットが壊れたと」
A「これで会見は終わります、また次回」 
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