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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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邯鄲之夢 7

 旗を風になびかせて歩兵がゆく。
 戦車が風を切って進む。
 ただし歩兵は人ではない。顔がふたつあるもの、みっつあるもの。腕が四本あるもの、六本あるもの、人の胴に獣の顔をしたもの、翼をはやしたもの、腰から下が蛇のもの、腰から上が蛇のもの、牙をもつもの、角をもつもの、長い鉤爪をもつものらがゆく。
 戦車を牽くのは馬ではない。馬のようなもの、虎のようなもの、豹のようなもの、獅子のようなもの、熊のようなものが牽いている。
 笛や太鼓を鳴らしてそれらを先導するものらは人に見えた。
 方臘と、彼に与する呪術者たちが率いる異形の軍勢だ。

「宋兵を蹴散らせ!」

 大地を轟かせて宋の軍に攻めかかるが、それを迎え撃つ宋の軍勢にも人ならざるものどもが参陣していた。秋芳の作りだした簡易式の兵士や、使役式たちだ。
 異形の兵と異形の兵同士が衝突した。
 絶叫と怒号と雄叫びとがぶつかりあって渦を巻く。地軸を揺るがす馬蹄の轟き、車輪の響き、剣と剣とが打ち合わされ、槍と槍が交差し、戟と戟とが絡み合い、そのつどに火花が散らされる。牛頭鬼の振るう戦斧がヤクシャの鎧を叩き割り、ラクシャーサの駆る戦車が式神兵士を轢き、天狗の投げた礫にあたった怪鳥鳧徯(ふけい)が悲痛な鳴き声をあげて地に落ちる。
 霊災には霊災を。
 生身の兵たちの被害をおさえるため人外のものどもを前面にくり出しているが、元軍側の動的霊災のほうが数が多く、一体、二体と秋芳側の式が倒され、どうしても人対霊災の構図ができてしまう。

「妖怪相手に無理に立ち向かうな、強敵にはかならず三人以上であたれ!」

 恐れをなくした宋兵たちは異形の妖物相手にも果敢に立ち向かう。士気高揚の儀式呪術の影響で霊災の放つ瘴気の影響は受けないが、人と動的霊災では地力がちがう。一体を相手に数人でかからなければ勝負にならない。
 楯と斧とを持って暴れまわる一丈(約三メートル)を軽く超える頭のない巨人。乳首の部分に目が、へその部分に口のある怪物刑天に宋兵が群がり、打ちかかる。
 薙ぎ払われる戦斧をかいくぐり、膝やすねを狙って斬るが、刑天の皮膚は硬く、呪術によって膂力も上昇した宋兵たちでも致命傷をあたえることはできない。

「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」

 秋芳が真言を唱えると宋兵たちの手にした武器に光り輝く梵字が浮かび上がった。
 軍神毘沙門天の加護による呪力付与。刀剣であれば切れ味が、槍であれば貫通力が、鈍器であれば打撃力が大幅に増幅し、通常の武器では傷つけることのできない存在にも物理的なダメージをあたえる。
 宋兵たちは軍神の刃を振るい、殺到する霊災を追い払った

「張将軍、兵たちはもう半日以上も戦場で戦っています。見ればモンゴル勢に生身の兵はなく、妖怪た
ちを前面に押し出してきています。妖怪退治は道士の役目。ここはこの秋芳にまかせていったん退いて休息してください。妖怪どもを祓ったら私もすぐに退きます」
「……あいわかった。秋芳先生、どうかご無事で」

 名将は引き際を心得る。これ以上の深追いは危険と判断した張世傑は宋兵を後退させた。

「――東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急々如律令!」

 あとに残った秋芳は霊災修祓にすこぶる効果のある百鬼夜行避けの呪を唱え、妖物たちを根こそぎ蹴散らした。
 だがまだそれらを使役していた呪術者たちがいる。
 彼らを無力化すべく見鬼を凝らして戦場を見渡すが、いままでの呪術戦でさんざんその実力を見せつけられ、いままた数多の妖物を修祓した秋芳に恐れをなし退散したようだ。

 三人をのぞいて。

「――清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――」

 摩尼教に伝わる真言が陰々と唱えられると、どろりとした呪力の風刃が秋芳の身に襲いかかった。

「以金行為鉄壁、防げ。疾く!」

 漆黒の魔風の前に金気を帯びた呪壁が立ちふさがる。
 風は木気か金気。そのいずれかに属するが、秋芳は漆黒の風刃が木気を帯びていると瞬時に見抜き、金剋木。五行相剋の理にもとづき金気でもって打ち消した。
 相反するふたつの気に天地が揺れる。

「縛!」

 強烈な不動金縛りの呪が秋芳の身にせまる。

「禁!」

 まともに対処していては間に合わない。術を禁じる呪を放って相手の呪力を相殺しつつ、飛びすさり不動金縛りの効果範囲を抜ける。

嘿呀(ハイヤ)ー! 伏虎十八掌ッス!」

 着地した瞬間にくり出された乱撃を右にさばき左にそらし防御する。
 方臘、包道乙、鄭彪。三人の呪術者がそこにいた。

「宋に加担せし不逞の左道使いだな、いまここで拙僧らが引導をわたしてくれよう」
「先日はよくも下品きわまりない呪をかけてくれましたわね」
「身代わりの術なんて卑怯ッスよ」

 元軍側でも屈指の呪術者たちが秋芳の前に立ちふさがった。

 火焔が渦を巻き、雹が舞い、風が疾り、雷が迅る。
 土塊が乱れ飛び、霊刃が飛び交い、水流が吹き荒れる。
 突く、蹴る、打つ、つかむ、投げる、固める、極める。
 呪術による攻防が繰り広げられるいっぽうで、拳と脚が目まぐるしく交わされる肉弾戦も展開された。
 三体一の戦い。
 これはさすがに秋芳のほうがあきらかに不利で、防戦一方だった。
 しかし――。

「……こっちのほうがいいな」

「なに?」「なんですって?」「なんッスか?」

「集団でのドンパチチャンバラは俺の性に合わん。やはり戦い(ケンカ)は自分自身の手足を使ってやるほうがいい」
「ふっふふ、着眼大局のなき匹夫めが。剣一人敵、不足学という言葉を知らんのか。個人の力には限界があるものぞ」
「あらあら、ずいぶんと余裕ですこと。自分が置かれた状況が理解できなくて?」
方臘の摩尼真言はますます呪力を増し、包道乙が紫の双髪を揺らして手にした宝剣を振るえば呪力の刃が飛んでくる。金色の魔甲に身をつつんだ鄭彪の打撃はすさまじく、さすがに秋芳も無傷とはいえない。
「もうひとりいる女人の術者に助けを求めたらどうだ。高廉(こうれん)を軽くあしらい智羅永寿(ちらようじゅ)を手玉にとったほどの実力。この太上準天美麗貴永楽聖公方臘の相手にとって不足はない」
「すでにたのんである」
「ほう? なにをだ」
「俺ひとりでは手にあまる、いや。俺ではあつかえないような大呪術を使ってくれるようにな。――禁呪則不能使術、疾く!」

 呪を禁ずれば、すなわち術を使うことあたわず。
 不動金縛りとおなじ不動法にある結界護身法と同種の術で、呪的霊的影響力を完全に遮断する術で、本来は相手の呪術の使用を禁ずる。封印するための呪禁の術だが、秋芳は術式に手をくわえて変更し、自分自身に対して使用した。

「それは……!? だがしかし諸刃の剣ぞ!」

 絶対呪法防御(アンチ・マジック・シェル)。
 この呪術が発動しているあいだは他者の呪術だけでなく自身の呪術も無効化されてしまうのだ。

「それに見たところ、その術が効果を発揮するのは〝術〟に対してだけではありませんこと? たとえばっ」

 包道乙が手にした宝剣を無造作に振るった。
 中国の四大奇書『水滸伝』に登場する包道乙。
 金華山に住み幼少の頃に出家して呪術を学び、のちに方臘にしたがって謀叛をおこし、戦場に立てば妖術を使い相手を倒した。玄天混元剣という宝剣を持ち、これを振るえば百歩はなれた相手を討つことができる。
 という設定だ。
 その玄天混元剣の切っ先から白銀の閃光が奔り秋芳を襲う。
 寸前でかわした足もとの地面を切り裂いた。

「これこのように、呪具による攻撃は無効化できないご様子。方臘どのの呪術を制することはできてもあたくしの呪具と鄭彪の打撃はそのまま通用しますわ。防御を固めたつもりらしいですけど、かえって逆効果ではなくて?」
「呪術がまったく使えないぶん、おまえのほうがあきらかに不利ッスよ!」
「なぁに、これでいいのさ。おまえたちこそ呪に対する守りを固めたほうがいいぞ。巻き添えを喰らって死ぬのはいやだろう」
「いったいなにを言って――、ハッ!?」
「こ、この気は!」
「な、なななっ、なんッスか!?」

 京子の儀式呪術が発動し、天地に満ちる霊気に異変が生じた。
 木火土金水。五気のすべてが異常なまでの昂ぶりを見せている。
 地震と台風と津波と火山の噴火が同時に起きてもおかしくないほどの、異常な昂ぶりを――。
 




「――オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ――」

 京子の口から音吐朗々と呪がつむがれ、手に結ぶ印が目まぐるしく変化する。
 中央に不動明王。東方に降三世明王。南方に軍荼利明王。西方に大威徳明王。北方に金剛夜叉明王を配した祭壇を前にして、一心不乱に真言を唱えている。

「――オン・アミリテイ・ウン・ハッタ――」

 それぞれの仏像から対応した五気が生じている。降三世明王の像から木気がただよい、木生火。軍荼利明王の火気を強め、火気は不動明王の土気を昂ぶらせ、土気は大威徳明王の金気を増大させる。

「――ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン――」

 木、火、土、金、水、木、火、土、金、水、木、火、土、金、水――。
 五行相生を幾度も繰り返し、途方もなく強大な霊気が呪力へと変換され、祭壇の間は高密度の霊気呪力にあふれ返っていた。
 それでもなお放出される呪力は止まらない。
 祭壇の間をおおう結界にわずかな瑕疵でもあれば、その一穴から漏れ出た呪力により周囲は大霊災に見まわれてしまうだろう。
 結界の維持、呪力の強化および制御。並の陰陽師が数十人がかりでおこなう修法をたったひとりでこなしている。
 儀式に一意専心するいっぽうで、心の中にいるもうひとりの自分が興奮していることを自覚していた。
 震える。
 そしてゾクゾクする。
 たったいまおこなっていることはまごうことなき一流の、高レベルの呪術だ。先日の五龍祭もじゅうぶん高等な儀式呪術だったが、ここまでの高揚は感じなかった。
 異様なまでの昂ぶり。身体の芯が震え、血が沸き立ち感覚。
 それはこの呪術が陰陽塾で学んでいる汎式陰陽術ではなく、帝国式陰陽術そのものだからだ。
 土御門夜光が軍部からの要請で作り上げた禁断の呪術体系。陰陽道のみならず神道や密教、修験道や道教、その他様々な民間信仰といった日本に存在するありとあらゆる呪術を統括し、再編成した帝式陰陽術。
 それらはいずれも実戦的で強力な力を持ち、こんにちの陰陽法では禁呪指定されているものが多々ある。
 そう、実戦的なのだ。
 戦争のために、破壊と殺戮のために創られた近代呪術。
 いまの日本では決して使われることのない、使ってはいけないもの。
 こわい、おそろしい。
 だがそれ以上に惹かれる魅力がある。
 この世界でならそれに少しでも触れることができる。はるかな高みを、はてしない頂上を仰ぎ見ることができる。
 京子の昂ぶりは最高潮に達した。
 死と破壊をまき散らす、禁断の儀式呪術が発動する。




 
 秋芳らが呪術戦をくり広げている最前線より少し離れた元軍の陣。
 その南端に一体の巨人が現れた。
 手首と足首に蛇を巻きつけ、灼熱の炎に身をつつんでいた。

「軍荼利明王……」

 密教の知識のあるだれかだろう、かすれたような声がどこからかつぶやかれた。
 顕現したのは軍荼利明王だけではない。
 東方に三面八臂の降三世明王。
 西方に水牛に乗った六面六臂六足の大威徳明王。
 北方に三面五眼の金剛夜叉明王。
 そして中央、本陣の真上には倶利伽羅の剣と羂索を手にした不動明王。
 五大明王が集結した。

 将軍から兵卒まで、突如出現した明王の姿を呆然と仰ぎ見ている。あまりの異様な光景は恐怖ではなく放心をもたらした。
 そのとき、であった。
 巨大な地鳴りの音がして地面が激しく揺れはじめた。
 地震だ。
 立つことすらできない大きな揺れにはじめて恐怖心がわき起こる。
 悲鳴を上げて地面に伏せる兵たち。

「落ちつけっ、ここには倒れるような建物はない。情けない声を出すな!」
 そう叫ぶ羅延将軍もまともに立ってはおれず、地面に腰を下ろして揺れに耐えている。
 
 バリバリバリッ!

 雷鳴が轟いた。
 否、地割れだ。
 大地に開いた巨大な(あぎと)に数十人の兵士が飲み込まれていく。
 長く続いていた揺れがようやくおさまった。地震が起きていた時間は三分ほどであったが、感覚的には一夜にひとしかった。
 だが元の兵たちに安堵はおとずれない。揺れがようやく終わったと思った瞬間、こんどは横殴りの暴風が吹いて地面に叩きつけ、宙に吹き上げた。
 服がはためき、髪の毛がすべて持っていかれるほどの突風。人も物も、地にあるものが暴風に翻弄され木の葉のように吹き飛ばされる。
 雷電を帯びた大小無数の竜巻が発生し、陣営をずたずたに引き裂いていく。
 竜巻はゆらめきながら砂も石も飲み込んだものはすべて上空へと運び上げ、移動する。
 そのとおり道にある天幕や投石器は残らず破壊された。丸太を砕き、それさえも上空へ運んでいく。
人も例外ではない。地面に伏せていた兵士たちの何十人かはひときわ勢いの強い竜巻に飲み込まれて空へと姿を消した。
 彼らは巨大な石臼の中に叩き込まれたも同然だった。幾百、幾千、幾万の肉片に引きちぎられ、血肉の雨を降らすことだろう。
 天幕も櫓もすべて飲み込み、倒壊させ、竜巻は突然、消えた。巻き上げられた物が地面に落ちてくるかと思ったが、そんなことはなかった。
 どこか遠くの空へ、一瞬にして運ばれたのだ。
 そこでは土や石、丸太の破片、そして人馬の血肉が雨となって振ることだろう。

「…………」

 風が止まっても元兵たちは立ち上がることはおろか、声を出す気力すらなかった。

「あ、あ、あ、ああ……ッ!」
 兵のひとりが震える手で指差す北側から万里の長城のように水がそそり立っていた。嵐のさなかの海辺のような怒涛が、大津波が押しよせてくる。

「流されるな! みんなたがいの身体をつかめっ!」

 大量の水が壊れた柵や丸太を運んで迫ってくる。そして飲み込まれた。
 激流に落ちたようなものだ。息を止めて水を飲まないように両手で顔をおおう兵たち。水流の底をころがり、地面に削られて命を落とす者。流れてきた材木に巻き込まれ、身体を裂かれる者――。
 地震と竜巻から生き残った兵たちはひたすら耐えた。
 やがて流れは弱まり、水の高さは腰の位置から膝、膝から下へと低くなり、あふれていた水が嘘のように引いていった。
 流れてきた岩の直撃を受けて頭を砕かれた者や、身体が背中のほうに折れ曲ってしまった兵たちの姿が散乱している。
 生きて動いている者の姿もあるが、負傷と疲労とで老人のように動きが遅い。地獄と化した戦場から逃れようと必死になって這いずる彼らの頭上で軍荼利明王が数十、数百の火球を無慈悲にとき放った。





 後方で数百の赤い輝きが乱舞するのが見えた。
 次の瞬間、炎が噴き上がり、もうもうたる煙が空へと立ち昇る。

「い、いったいなにが、なにが起きているというのだっ!?」

 五大明王の生み出した破壊呪術の余波は遠くはなれた場所にも影響し、無数の土礫や渦巻く颶風や瀑布となって荒ぶった。方臘も包道乙もとっさに展開した結界で身を守ってはいるが、その威力はすさまじくすべては防ぎきれない。
 秋芳も荒れ狂う五気の渦中にあったが、こちらは事前に使用していた禁呪則不能使術のおかげで呪術による猛威を完全に遮断している。

「ぎゃあっ」

 飛来した火球の直撃を受けた方臘の身体がたいまつのように燃え上がり、むっとする熱気と煙、人の焦げるいやな臭いが鼻を刺す。
 全身を炎につつまれ、狂ったように走り回る方臘。炎熱と煙による気道熱傷でのどを潰され、消火の呪を唱えることもできない。
 包道乙が水術で火を消したが、半死半生のありさまだった。

「なんて恐ろしい……」

 離れた場所でさえこの威力。目視したわけではないが強大な呪力の氾濫に元軍の先鋒が壊滅状態になったのはあきらかだった。
 包道乙は結界を強化し、この五気の狂奔にひたすら耐えた。
そしてようやく破壊の嵐がおさまる。

「……このようなむごたらしい呪術は見たことも聞いたことも――。あ、あなた、なにをなさっていますの!?」

 いつの間にか禁呪則不能使術を解いた秋芳がどこからか取り出した仏像を前に祈祷しているではないか。
 手に五股印を結び真言を口にする。

「オン・マカラ・ギャ・バサロ・シュニシャ・バサラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」

チョロイ~ン☆

 怨敵さえも敬服し、信愛をしめすといわれる愛染明王の敬愛(きょうあい)法が効果を発揮した。
 魅了の呪。
 美男美女が異性をたぶらかすかのように人の心をぼやけさせ、判断力をうばう。
 たとえ相手が憎むべき敵であろうとも呪の力が心から信頼できる友人や恋人に変えてしまうのだ。
 特に意識したわけではないが、女性である包道乙と鄭彪に、それは強く作用した。
 卑猥な唇。
 淫猥な舌。
 淫靡な瞳。
 性的な声。
 淫乱な腰つき。
 艶麗な頭形。
 妖艶な吐息。
 淫らな手つき。
 筋肉質な腕。
 官能的な脚。
 刺激的な胸筋。
 艶やかな爪。
 悩ましげな指先。
 欲情をそそる匂い。
 性欲をそそられる扇情的な服装――。
 フェロモン全開の細マッチョな悩殺ボディはメスをムラムラさせる、実にいやらしい……。
 と、魅了の呪がかかった包道乙らには秋芳の姿がそのように見えた。

「あら、いい男」
「惚れたッス!」

 目にハートマークを浮かべて左右からしなだれかかる。

「呪術の腕前は超一流。優美にして剽悍。趙子竜や蘭陵王の再来かと思いましたわ」

 趙子竜。『三国志演義』の趙雲については説明の必要はないだろう。蘭陵王とは中国の南北朝時代、北斉の高長恭という驍将のことで、女性と見まがう美貌ゆえまわりの将兵が見とれてしまうので戦場に立つときはおそろしい仮面をかぶっていたという伝説がある。蘭陵王入陣曲という雅楽のもとになった人だ。

「あなたの子どもを産みたくなりましたわ。あたくしのお婿さんになってくださいまし」
「あ、それならオイラをお妾さんにして欲しいッス。どっちが先に孕むか競走ッスよ師匠」

 包道乙も鄭彪も凄腕の術者であり、本来ならばこのように簡単に魅了されはしないだろう。だが未曽有の大呪術を目のあたりにしたことに動揺し、心の間隙を突かれていとも簡単に籠絡されてしまった。
 単純に呪術への抵抗力があっても、心そのものにすきが生じたり、くじけてしまっては意味がない。ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になってしまうのだ。
 秋芳は京子の大呪術を種に自分の呪術を成功させた。いわば呪術版の連環計といえる。

「ふたりとも、そこで伸びている方臘をつれてここを離れろ。……そうだな、河南省の開封市に永福観という名の道観があるから、そこで俺が行くまでおとなしく待っていろ。十日ほどしたら顔を出すから、そこで今後のことを話し合おうじゃないか」

 自分が精神操作している相手にほめそやされ、モテてもむなしいだけだ。ありもしない道観をでっちあげ、そこへ去らすことにした。
 術の手ごたえからして効果は三日ほどで切れるだろうが、その前にこの戦争は決着するだろう。そうなればステージクリアだ。

「お待ちしておりますわ、愛しいあなた」
「おとなしく待ってるから早く来てくださいッス」

 こうして手強い敵を三人、戦場からいっきに消した秋芳だったが、その表情がゆるむことはなかった。
「……隠れているやつ、出てこい。針対性(ピンポイント)で狙い撃ちするのは無理でも火界咒でこのあたり一帯を無差別に焼き尽くす程度はできるぞ」

 独鈷印を結び呪力を練る。

「おっと、ばれていたのかい」

 返事があった。
 だが姿は見えない。
 右か、左か、前か、後ろか、はたまた上か下か。
 どこからともかく声がしたが、妙にくぐもり、反響しているそれからは声の主の居場所を特定できない。

「声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような」
「……そう言われたのは二度目だよ。流行っているのかい? その成句(フレーズ)
「हां(カーン)!」
「व(バ)!」

 秋芳が不動明王の種字真言を口にすると、独鈷印より火焔が渦を巻いて周囲をなぎ払う。
それに対して見えざる者は水天の種字真言を唱え、水剋火。水で火を制しようとしたのだが――。

「以土行為石嵐、砕。疾く!」

 土行を以て石の嵐と為す、砕け。
 秋芳は種字真言を口にすると同時に土行符も打っていた。
 最初に火界咒云々と言ったのはひっかけだ。
 こちらが火術をもちいると思い込ませ、本命の土術を展開した。
 火生土。
 火気はあくまで土気を強化するための触媒。火気からなる呪術は土気によって相生され、威力を増加。無数の石弾が地面から放たれ、周囲を飛び交った。
 土剋水。
 水の術は土の術に対して完全に不利であり、打ち消された。これは急所に不意打ちを受けたにひとしい。秋芳の術が見えざる者を打ちのめした。

「……やるねぇ、宋人」

 なにもない空間からにじみ出るようにして人が現れた。穏形が解けてしまったのだ。
 褐色の肌に漆黒の髪をし、薄絹の服を着て、金銀宝石の装飾品を身につけた藩王(マハラジャ)のような身なりの青年。
 智羅永寿だ。

「いまのはかなり痛かったよ」

 そう口にする智羅永寿の全身には打撲傷があり、その言葉にうそはなさそうだ。

「タフなやつだ。挽き肉になってもおかしくないくらいの威力を込めたんだがな」
「おっかないねぇ、きみは加減てものを知らないのかい?」
「あんたは動揺してないみたいだな」
「うん?」
「いまさっきモンゴル軍を蹴散らした呪術さ」

 精確な位置を把握することはできずとも、治羅永寿が穏形していたことは察していた。愛染明王の敬愛法を発動したさい、その効果範囲にいたはずだが、その影響はまったく感じさせない。心に生じたおどろきやおびえで呪にかかる隙を作ってしまった包道乙たちとはちがい、大惨事を前にしてもいっさいの動揺もないことで、秋芳の呪に万全の状態で抵抗したのだ。

「まぁ、なるほど。たいした威力だけれども天竺四千年の歴史の中にもあのくらいの呪術は存在するよ。『マハーバーラタ』にあるインドラの雷とか、もっとすごいんだから! 街ひとつが消し飛ぶくらいにさ」
「俺が言っているのはそういうことじゃない。人の死だ。破壊と殺人の感覚、耳障りな断末魔、血の臭い、すべてが神経に障る、実に不快だ。それに眉ひとつ動かさないなんて、人の死になれてるんだな」
「おやまあ! その不快な虐殺を生んだのはそっちじゃないか、それなのになに善人ぶってるのさ」
「善人ぶっているんじゃない、俺は善人だ」

 はっきりと言い放った。

「武力をもって侵略してくる連中がいたならば、俺たちはおなじレベルで報復してもいい。せざるをえない。そうしなきゃ一方的に侵略されるだけだからな、俺たちはマゾヒストじゃない。やられたら、やりかえすさ。人様に手を出すのが悪い。手を出しておいて、こちらが抵抗するのはけしからん。と言うようなやつらにこちらが遠慮することはない」

 そう言う秋芳だが争えば無関係の人々を巻き込むこともある、非がむこうにあると確信していても後味の悪さはどうしようもない。

「……一城を皆殺しにすれば他の城は戦わずにして落ちる。そうしたまでだ」

 一罰百戒。先にこちらの強烈な意志をしめすことで、のちの小競り合いを禁じようとしたのだ。
 一八六八年、江戸城は新政府軍に無血開城された。
 無血というといかにも平和然とした言葉だが、この言葉の裏には強烈な闘志が隠されている。勝海舟は無抵抗で新政府軍に接したのではない。勝が提示したいくつかの条件のうち、ひとつでも新政府側が拒否・反故すれば城を枕に討ち死にせんという必死の覚悟があったからこそ、江戸の街は戦火に見まわれることから逃れたのだ。
 命欲しさ、いくさ嫌さに弱腰で外交していたならば、新政府軍につけ込まれ、江戸の街はいいように蹂躙されていたかもしれない。
 戦争は外交の失敗の産物というが、そもそも外交には他国を抑制する軍事力が少なからず必要であり、武力なくして平和は守れない。
 一方的に侵略してくる相手に、話し合いなぞ通用しないのだ。
 ならば、戦うしかない。

「強大国が弱小国に侵略するのは悪で、それに抵抗するのは善であり正義だ」
「墨子の考えだね、ならばその墨守の思想であらがって見せなよ! ――オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ!」

 三鈷印を結び、天竺にルーツがあるとされる異貌の仏神の真言を唱えた智羅永寿の身体から瘴気の渦が舞い上がり、空気を泡立たせた。
 陰なる呪力が大気に浸透し、五気の調和を破壊する。
 そこから無数の動的霊災が生まれた。

「GAAAAAッッッ!」

 全身に炎をまとった獅子とも虎ともつかない魔獣ドゥンが咆哮をあげ、灼熱の牙を突き立てる。

「我祈願、顕聖二郎真君。求借三尖刀!」

 水神である二郎真君の力を借りた三つ又の水刃がそれを迎撃、撃破。
 だが次々と霊災は踊り出る。押しよせる霊災の群れは人獣木石の姿をした瘴気の津波だ。この智羅永寿。フェーズ3どころかフェーズ4を使役しているにひとしい。
 対する秋芳は一人。すでに動かせる式神は手元にはなく、ひとりで応戦せざるをえない。

「――東海の神、名は阿明――」

 百鬼夜行避けの呪が効果をあらわし、多数の霊災を修祓、駆逐するも、それに抵抗する強力な個体も何体か存在した。
 瘴毒をまき散らす毛むくじゃらの病魔カワンチャが毒気の息吹を吹き、剛腕の闘鬼ターラカが暴れまわり、鳥人スパルナが高速で鉤爪を振り下ろし、妖猿オンコットが剣刃を振るう。

「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ! 斬妖除魔、降魔霊剣。疾く! オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!」

 薬師如来の小咒で毒を防ぎ祓い、霊剣を顕現して鬼の肉を裂き、韋駄天真言でもって神速の加護を身につけ高速の敵に対処し、肉薄してくる相手にはもちまえの武術で応戦する。

「व(バ)!」
「पृ(ヒリ)!」

 さらにそのうえで智羅永寿自身の呪も飛んでくるが、これも迎撃。
 式神を増やせばそれだけ操作がむずかしくなり、霊力の消耗も激しくなる。多数の式を放ったうえでなお自身も呪術を使用できるのはかなりの高等技術だ。
 終わりが見えない一進一退の呪術戦が延々とくり広げられた。

「……なかなかどうしてたいした手練れじゃないか、天竺でもここまでの使い手はいなかったよ。でも疲れてきたし、そろそろおしまいにしようか」
「そうかい、おとなしく退散してくれるとありがたいな」
「ああ、おとなしく退散したまえ、君がね。――अघासुर」

 アガースラ。そのような異邦の言葉を口にした瞬間、巨大なあぎとが秋芳の上半身を飲み込み、かみ砕いた。
 隠形に特化した大蛇アガースラだ。京子のときとはちがい相手は生身だと確信していた智羅永寿はこれに勝利を疑わなかった。
 しかし――。
 半身をもがれた秋芳の身体はどろん、と煙と化して雲散霧消。かわりに五体満足の秋芳がすぐとなりに生じ、大蛇アガースラの身に剣指を突き立てる。

「禁妖則不能在、疾く!」

 妖かしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。
 全身の気をめぐらせ、高めた呪力がほとばしる。渾身の呪波がアガースラの身体を貫き、侵食し、消滅させた。

「これは、なんと……」

 仕留めたと思っていた相手の思わぬ反撃に、さしもの智羅永寿もこれには絶句。
 秋芳は自身の身代わりとなる式神を降ろしていたのだ。
 憑依型式神・煙々羅。
 一定以上のダメージに反応し発動。宿主を致命傷から守り、攻撃を〝煙に巻く〟式神。
 呪術というものは格闘技などの体術とは異なり、基本術者がはっきりと意識していなければ発動できない。だからこそどれほど腕の立つ呪術者だろうと不意を突かれれば為す術がない。護法式というものは不意打ち対策のために生まれた式神といっていい。
 気配を消し、いざというときに術者の身を守る。
 この煙々羅は身代わりに特化した護法式だ。

「おのれ、よくも自慢のアガースラを……!」
「隠形に長けた式を持ち歩いているのはおまえだけじゃないってことだ」

 もはやたがいに手持ちの式はなく、純然たる呪術戦になろうとした、そのとき。

「む」
「ん」

 たがいの動きが止まった。
 おびただしい量の気の動きを感じたからだ。
 軍気。
 兵士たちの発する闘争の気が元軍と宋軍、それぞれの陣営から流れてくる。

「進め、進め! 次なる妖術を使わせるな。いまなら一気に突き崩せるぞ!」
「秋芳先生のおかげで妖怪どもは退治されたぞ。人相手はわれらの仕事、韃靼人どもを蹴散らせ!」

 両軍が押しよせてくる。
 宋軍は士気高々といえども元軍とは数がちがいすぎる。まともにぶつかれば勝ち目はない。

「元軍め、あれだけ大きな被害を受けてなお攻めてくるのか!」
「あれだけの規模の儀式呪術、そうそう連発はできないゆえ攻め入るならいまとでも、生き残った呪術者が進言したんじゃないかな。まぁ、実際そうだよね」
「ああ、そうだな。兵法において巧遅は拙速に勝るという。だが今回はそうじゃない」
「なんだって?」
「こっちは最初から〝次〟を用意しているんだよ」

 轟音とともに天空を切り裂いて灼熱の炎につつまれた無数の巨石が落下してきた。





 五体の明王に祈祷していたのとは別の場所、別の祭壇の前で京子が祝詞を唱えている。

「――天勝国勝奇魂千憑彦命(あまかつくにかつくしみたまちよりひこのみこと)と称へ奉る、曾富戸(そほど)の神、またの御名は天津甕星(あまつみかぼし)の神、是の斎庭(ゆには)に仕へ奉れる、正しき信人等(まめひとら)に、御霊幸(みたまさちは)へまして、おのもおのもの御魂に、勝れたる神御魂懸らせたまひて、今日が日まで知らず知らずに犯せる、罪穢過ちを見直し、聞き直し、怠りあるを許させたまはむことを、国の大御祖の大前に詔らせたまへ――」

 天津甕星。
 またの名を天香香背男( あめのかがせお)、あるいは星香香背男(ほしのかがせお)。
 日本神話に登場する天空と星々を司る神であり、武甕槌命(たけみかづちのみこと)経津主神(ふつぬしのかみ)ら天津神の天孫降臨に最後まで抵抗した、まつろわぬ悪神ともされる存在。
 大いなる天空の神への怨敵調伏祈願だ。
 密教系の術をもちいたその直後に神道系の術をもちいる。まさに土御門夜光が編み出した帝国式陰陽術ならではのバーリトゥード(なんでもあり)ぶりだ。

「星神よ、宙空の住者よ、星々の子らよ。はるかな世界へと至る回廊を開け。天空に輝ける星々の子らよ、わが召喚に応じ、疾く集い来たりて中空を裂く剣となれ、大地を打ち砕く礫となれ、わが敵を撃つ雷火となれ――。急々如律令(オーダー)!」

 京子の身体からふたたび膨大な呪が放たれた。





 元の軍勢が目前にせまったとき、それが起きた。
 空を切り裂いて無数の灼熱の火球が落下し、軍勢のそこかしこに突き刺さったのだ。
 この世のものとは思えないすさまじい轟音と閃光をあげて爆発し、周囲に火礫を飛散させた。
 評定の間で「空を落としてみせます」と豪語したとおり、まるで天がくずれ落ちてきたかのような隕石群(メテオ・スォーム)の雨。
 一瞬のうちに元軍の戦力は半分以下となった。実際に倒れた者は四分の一程度ではあったが、突然の災厄に動転し戦うどころではなくなってしまった。

 全滅。
 この言葉を辞書で引くと『すべて滅びること、滅ぼすこと。また、すべて失敗に終わること』などとある。だからアニメや漫画などで『全滅した』というと一兵残らず戦死したと思いがちだが実際の戦争である程度の部隊がひとり残らず死ぬ、などということはない。最前線に派遣された小隊や分隊の場合は別だが、作戦参加者がすべて死ぬようなことはほとんど起らない。
 実際の戦争での全滅とは作戦実施部隊、あるいは守備隊がその兵力の四〇~五〇パーセント損耗することである。そこまでやられた部隊にはもう組織的抵抗力がないと判定されるのだ。この〝損耗〟というのには戦傷者もふくまれる。戦えなくなった者は生死を問わず損耗なのだ。
 この場合、司令部は部隊を撤退させるか援軍を送るかの決断を迫られることになるが、こうなってはたいてい援軍など間に合わない。
 勝っている側にすれば敵の組織的抵抗力さえ奪えばそれで勝利なので、なにも一兵残らず殺す必要ははい。それどころか全滅を図れば必死になった敵の猛反撃を受けて余計な被害を出しかねない。
 もちろん歴史上の戦いの中には相手の全滅を企画したものがなかったわけではない。一〇九九年、第一回十字軍はエルサレムを陥落させ、そこにいた異教徒たちを非戦闘員もふくめて虐殺した。軍事的必然性からではなく十字軍が持っていた宗教的陶酔の結果だ。
 しかし全滅するまで戦えという命令が出されたことはある。
 第二次大戦中の一九四二年、北アフリカのエル・アライメンでエルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ・リビア方面軍九万六〇〇〇は二〇万のイギリス軍に攻撃された。武器弾薬がとぼしいなかドイツ側は善戦したが数の差はどうしようもなく戦況は不利になった。そこでロンメルはヒトラー総統に撤退の許可を求めたが、返事は「勝利か、然らずんば死を、ドイツ国民は期待する」「最後の一兵まで勇戦すべし」という内容のものだった。全滅を賭して戦えという非情なものだ。 
 しかしロンメルはヒトラーの命令を無視して後退。このとき彼はヒトラーの電文を「最後の一発まで」と書きかえて発表した。ロンメルは現場の総指揮官として部下の生命を祖尊重したのだ。兵士は駒ではない、家族のいる生身の人間なのだから。
 ドイツでは全滅を要求する命令はこうして無視されたのだが日本はちがった。
 一九四三年、アメリカ軍は日本軍が前年に占領したアリューシャン列島のアッツ島に攻撃。制海権をうばって日本側の補給を断ち、アッツ島守備隊二五〇〇人は完全に孤立した。
 とうぜん増援が必要になったが、輸送船を送ってもアメリカ軍に三分の二は沈められると予想された。だとすれば防備に必要な四〇〇〇人を島に送るためには一万二〇〇〇人のうち八〇〇〇人は失う覚悟で送らなければならない。しかも一万二〇〇〇人分の武器弾薬、食糧もふくめてだ。
 大本営は焦燥した結果、アッツ島を二五〇〇人ともども見捨てる決断をした。
 本来ならこういう場合、現地の指揮官にあとはすべてまかせてしまうものだ。つまりある程度は戦い、その後は降伏してもよいという裁量をあたえるものだが、大本営はそうはしなかった。彼らは守備隊に対して玉砕して皇国の精神の昇華を見せろと命令した。日本軍が玉砕という言葉をもちいたのはこれが最初だ。
 見捨てておいて、しかも死ねなどという無情な命令を、守備隊指揮官の山崎保代大佐は受け入れた。守備隊は陣地を出て二万のアメリカ軍に突撃するも、疲労と空腹で朦朧とした身でアメリカ軍にむかっていたったのだ。その哀れな姿を見かねたアメリカ側が降伏してくれと頼み込む始末だったという。
 それでも日本軍は攻撃をやめない。しかたなくアメリカ側は応戦し、守備隊は玉砕した。二五〇〇人のうち、生存者は三七人のみ。これは負傷して意識不明だったところをアメリカ軍に捕らわれたためだ。
 このあと日本軍はサイパンなどの太平洋上の島々で玉砕していくことになる。日本兵は先陣訓などで生きて虜囚の辱めを受けず。などと教育され、自分が捕虜になることは家族や故郷に至るまでの恥と考えていたため、玉砕を受け入れたのだ。
 また大本営の幹部たちは自分たちの作戦指導のまずさを隠蔽するため玉砕命令を濫発していった。
 一九〇四年から五年までの日露戦争で日本軍は「規律正しく、国際法を守るりっぱな軍隊だ」と諸外国から賞賛されたものだが、それからわずか半世紀も経たないうちに日本軍、特に首脳部は味方を平気で見捨てるまでに落ちぶれてしまった。

閑話休題――。

「……こんな短期間に続けて大規模な攻性儀式呪術を使うだなんて、いったい宋には達人が何人加勢しているんだい!?」
「さぁて、ふたりかな。それとも七人かな」

 実際は京子ひとりの手腕であり、むしろそのほうが凄いのだが、秋芳は自分と同等の複数の使い手がいるかのようにとぼけてみせた。

「方臘どのも帰参したようだし、もうこれ以上ぼくがモンゴルに肩入れする義理も義務もないね。……アガースラを失うし、まったく中華じゃらくなことがないよ。倭国にでも行って田舎術者ども相手に憂さ晴らしでもしようっと」

 最後まで言い終える前に秋芳の前から消え失せる。こうして智羅永寿は日本にわたることにしたのだが、そこで彼は高僧の火界咒に焼かれたり、護法童子に打ちのめされることになるとは夢にも思っていない。
 しかしそれはまたべつのお話――。
 智羅永寿が退散し、宋の軍が元軍を散り散りに掃討しはじめたとき、離れた場所にいた秋芳と京子の身体が同時に光につつまれた。
 急速に視界がぼやける。身体から魂が離れて浮上し、宇宙へと舞い上がるかのような感覚――。

「秋芳くん!」

 月と太陽、数多の星々が浮かぶ異空に秋芳と京子。ふたりの姿があった。

「これは、ここは……、いったい……」

 深淵の奥底にして果てしない虚空の彼方。時間や空間の概念すら異なるすべての要素が偏在化している宇宙にたゆたっている。

「例の声が聞こえた場所よ」
「なるほど、ここがそうか。……しかし星読みってのはこんなすごい光景を見てたのか」

 落ちるような、それでいて飛翔するかのような感覚。けれども無重力とも異なる妙な体感に困惑しつつ周囲を見れば異なる色をした七つの月や十の太陽。数えきれない星々が瞬いており、一種異様な、異界の美を感じさせた。

「いつもおんなじ風景ってわけじゃないんだけどね。それよりもいきなり呼ばれるだなんて、失敗しちゃったのかしら」

 京子の貌が不安に翳る。

 『ステージ1。勝利条件・滅亡の危機に瀕する宋王朝を救い、迫りくる元の軍勢を退ける。敗北条件・宋の皇帝趙昺の死亡、秋芳の死亡、京子の死亡』

 謎の声はそう条件を出してきた。自分たちは無事にミッションクリアできたのだろうか。

「いや、俺たちはちゃんと宋を助け、モンゴルを撃退した。皇帝陛下だって無事だったろ」

 秋芳たちは趙昺が暗殺されるのを恐れて式神を護衛につけていたが、なんの異常もなかった。

「あの時点で宋は滅亡をまぬがれたんだ。そう判断したゲームマスター、この声の主をそう呼ぶことにするが、そのゲームマスターが俺たちをあの世界から引き上げたんだ」
「余韻もなにもないわね。みんなでがんばって勝ったんだから、戦勝パーティでも開きたかったわ」
「それよりも俺は『ステージ1』てのが気になるぞ。『1』てことは『2』や『3』あるいはそれ以上あるかもしれないってことだろ。いったいいくつのステージをクリアすれば目覚めることやら……」

 その言葉が聞こえたのかどうか、例の声、ゲームマスターからの声が朗々と響いた。

『ステージ1。ミッションコンプリート!』

「お、やっぱり無事クリアしたみたいだぞ」

『張世傑、陸秀夫ら重臣を死亡させない。方臘、包道乙、鄭彪、治羅永寿らの撃破。ボーナス達成』

「そんなのまであったのかよ」

『クリアタイム●●』

「そんなのまでカウントするのか。まぁ、時間制限はなかったみたいだし、いくらかかっても平気なんだろうが」
「あ~、あたしそういうのきらい。時間制限とかあるとゆっくり自分のペースでゲームを楽しめないじゃない」
「なんでもかんでも履歴に残せばいいってもんじゃないよな。撤退回数とか死亡回数とか気になるんだよ。そういうゲームに限ってソフトリセットがないからやり直しに時間がかかる」
「いらいらするわよね、あれ」
「ロード時間の長いゲームをプレイする時って、ロード待ちしている時間が惜しいから別のゲームもいっしょに遊ぶよな」
「さすがにそれはないわ」
「ブルース・リーなんてTV見ながら筋トレしつつ読書してたっていうぞ。限りある時間は有効に使わないとな」

『リトライしますか?』

「しねぇよ」「しないわ」

『ではセーブして次へ進んでください』

「あ~、やっぱりまだ次があるのか……」

『ステージ2。開始します――。舞台は――』 
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