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東京レイヴンズ 今昔夜話

作者:織部
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夜虎、翔ける! 3

 春虎は印を結び、呪を唱えはじめた。

「――カンマン・ウンタラタ・ビギンナン・サラバ・ギャキギャキ・ケン・マカロシャダ・センダ・タラタ――」

 実に奇妙な手印と真言であった。呪術に精通した者でも見聞きしたことのない、摩訶不思議な呪文。
だが見る者が見れば、その呪文と印に隠された秘技に気づき驚愕したことだろう。
 春虎は不動明王の火界咒を逆から唱えているのだ。

「――サラバタ・ボッケイビャク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ノウマク――」

 逆さ真言。
 燃え盛る火炎を生じさせる不動明王の火界咒を逆から唱えることで、火を滅却する。本来とは真逆の効果をあらわせたのだ。
 いかにいきおいがあろうが火は火。五行相生相剋、水剋火の理でもって消火することが可能だ。
 たとえバケツ一杯程度の水ではとうてい消せないほどの火事でも、呪術によって生じた、あるいは呪をかけた水ならわずかな量でも鎮火できる。達人ともなれば杯に満ちたわずかな量の水で鎮火することができるだろう。
 呪術とはそういうものだ。
 だがそれにも限度がある。
 火侮水。火が強すぎると水の克制を受けつけず、逆に火が水を侮る。
 火薬や延焼剤などによって広範囲を焼き尽くす火勢をしずめるのは水行術でも容易ではないのだ。
 それをおなじ火で、火界咒でもって火を制した。
 逆さ真言。この世でただひとり、土御門夜光のみがあつかえる秘中の秘だ。
 完全に消火したのを確認した春虎は見鬼の輪をひろげ、あたりを視てまわる。さいわいなことに火災に巻き込まれ、逃げ遅れた犠牲者はいない。また火の手は工員寮までまわらず、人の住む建物もぶじのようだ。
 遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてきた、そのとき。よこしまな気配が急接近してくるのを感じ、視線を上げた。

「これはおどろいた! あれだけの火を打ち消すとは……。さすがは北辰王、さすがは土御門夜光だ。ふ
ふふっ、うれしいぞ。これほどまでの呪術者が現代日本に転生するとは」

 全身から霊糸をほとばしらせた地州が宙に浮き、傲然と睥睨していた。

「……飛車丸と角行鬼を振り切ったのか、うれしくはないがおまえも『さすが』だよ。呪術戦の腕だけならな」





「オラオラオラオラオラァッ!」

 角行鬼の拳脚がうなり、肘と膝が空を裂き、地州を繭のようにおおう霊糸の鎧に打撃をあたえた。 
霊的存在である式神の身体は、強固で高度な術式の塊だ。式神が自身の呪力を込めて放つ拳や蹴りは、それ自体が呪術といえる。それも通常の呪術にくらべて呪力の変換ロスが圧倒的に少ない。これは単純に敵を倒すことのみに主眼を置いた場合、極めて有効な手段となる。
 物理的な攻撃に呪力が上乗せされている、ある意味チートな存在だ。
 だが霊糸はそのチート攻撃をことごと吸収・拡散し、地州の身には痛手らしい痛手をあたえられない。

「ひふみよいむね、こともちろらね、しきるゆいとは、そはたまくめか!」

 飛車丸の引いた呪力の矢が何本も射られ、さらに狐火による追撃もくわわる。
 前述のとおり式神の攻撃=呪術であり、ことさら呪文詠唱を必要とする呪術をもちいる必要はないと思うかもしれないが、これは一種のからめ手からの攻めであり、相手の防御術式の間隙をぬっての攻撃にほかならない。

「ハッ!」

 だが地州のふるう妖刀丹蛭は飛来する呪力の矢や炎をことごとく打ち払う。

「まったくやりづらい相手だぜ」

 隻腕に秘められた力。相手の魂に直接害を与える鬼の手による攻撃も糸に込められた霊力よって阻まれている。こと防御力にかんしてはいままで戦ったどの敵よりもかたい。

「わが常世神の霊糸に防げぬものなどない、たとえ対戦車ミサイルの直撃を受けてもびくともせぬわ!」
「悲しいぜ、俺たちはたかがミサイルとおなじ評価かよ。――飛車丸、ちょいと大声を出す。この部屋の真ん中を境に遮音できるか」
「なに? ……そうか、わかった! 阻め、空。閉ざせ。急々如律令(オーダー)

 飛車丸が呪を唱えると同時に角行鬼が牙をむく。
 普段は糸のように細められている双眸が獰猛な光をやどして大きく見開かれる。短めの金髪がざわりとのびて婆娑羅髪になり、高濃度の鬼気が体内にみちて、二メートル近い巨躯がひとまわりふたまわりと、内圧に押されるようにふくれあがる。
 そしてそのひたいに禍々しい一対の角が生まれた瞬間、一気に駆けた。
 相撲取りのぶちかましの衝撃は二トンともいわれるが、鬼のぶちかましはその比ではない。
 最高速度で走行する大型トラックの直撃にひとしい体当たりをまともに受け、地州は壁に吹き飛ばされた。
 だがダメージを受けたのは攻撃したほうだった。地州に組みついた角行鬼の全身が明滅し、大きくぶれる。ラグだ。
 衝突のさい、地州は外側をおおう糸を硬質化してのばし、刃の鎧を形づくったからだ。鋭い刃先は衝撃と重なり、頑強な鬼の肉体をずたずたに切り裂いた。

「ふっ、バカのひとつおぼえの力押しなど無駄だというのがわからないのか。この霊糸はあらゆる衝撃を吸収し、あらゆるものを切り裂く。攻防一体の常世神の御業にすきはないぞ!」
「ほう、ならこいつはどうだい」

 獲物に喰らいつく獣の笑みをうかべ、牙もあらわに咆哮をあげる。
 
「哈ァァァッッッ!!」
 
 慢心と余裕の笑みを浮かべて霊糸をあやつっていた地州の表情がまたたく間にくずれ、苦痛の叫びをあげたが、その声は角行鬼の雄叫びによって完全にかき消されていた。
 音響兵器というものがある。指向性のある音波を放つことにより対象物を破壊したり、対人においては戦闘能力を奪うことを目的とする兵器だ。
 あまりにも大きな音は内耳を傷つけ、平衡感覚を失わせ、ときに気絶させる。
 突きも蹴りも斬撃も刺突も呪術も効果が薄いとみた角行鬼は至近距離からの音の弾丸で地州の耳を撃ち抜いたのだ。
 鬼哭轟々。
 大音圧が地州の鼓膜をやぶり、頭蓋を叩き、脳をゆさぶる。
 本来なら一〇メートルも離れていない場所にいる飛車丸や早乙女にも害がおよぶところだが、呪術で作った遮音壁がすさまじい轟音を防いでいた。
 地州の身体から霊糸がかき消える。昏倒寸前のダメージを受け、常世神をわが身に降ろす精神集中がとぎれたからだ。
 耳から血を流し、酩酊したようにふらつく足で丹蛭をかまえるも、まったくさまになっていない。どう見ても戦闘続行は不可能に見えた。

「拳や呪術は防げても、たんなる音は防げなかったみたいだな。おしまいだ、小僧。いままでのツケをはらってもらうぜ」
「しぃ、シキシキっ、シぃキ神ふゼイイぃぃぃがぁ、図にっ、乗るな、よッ! きぇぇぇっ!」

 丹蛭の刀身がのびて、鞭のようにしなる。だがその大ぶりの攻撃は角行鬼にも飛車丸にも早乙女にもとどかない、あらぬ方向にむけられた。
 まともに刃をふるうことができず、不発に終わった。角行鬼も飛車丸も早乙女も、そう思ったとき、カエルを踏みつぶしたような声が聞こえた。
 神州だ。
 たおれていた神州の身に丹蛭が突き刺さっている。

「ぐぇぇぇぇっ!?」

 神州の顔色が赤から青、黒、そして白くなり、全身がしぼみはじめる。妖刀丹蛭に生気を吸われ、ミイラのように変わり果てた姿になって絶命した。

 それが半世紀近くものあいだ立花の地を支配してきた帝王のあっけない幕切れだった。

「この外道が!」

 ふるわれた拳と刃はしかし、ふたたび出現した霊糸によって防がれてしまう。
 地州はひとひとり分の生気を吸収することで常世神の力を行使する回復したのだ。

「式神風情がこざかしい真似をする。もはや手加減は不要――。ぬ?」

 対岸で猛り狂っていた火災がいつの間にか鎮火している。

「ほう、あれほどの猛火を消すとは、さすがは北辰王。土御門夜光といったところか。ふっふふ、これはおもしろい」
「よそ見をするなッ!」
 
 轟ッ!

 ふたたび角行鬼の大音声がとどろき、室内にあるガラス製や陶器製の食器が抗議の叫びにも似た音をたてて無残に割れ散る。だが地州の身にはなにひとつ痛手をあたえていない。先の音圧攻撃にそなえて耳孔に霊糸をつめたのだ。

「大地の気を弑す工場は消えた。これより復活せし龍脈の力をわがものにする。おまえたちにかまっているひまはない。こいつらの相手でもしていろ」

 地州が袖をひるがえすと無数の白いかたまりが床にばらまかれ、かたい音をたてた。
 ゆるく弧をえがいた親指ほどの大きさで先端がとがっている。
 牙だ。
 動物のものと思われる牙をまいたのだ。

「霊泉より来たりて実れ、急々如律令(オーダー)

 地州が呪を唱えると樹木が生えるように白い牙が成長していった。骨と骨がきしみ合うような音を立てて身をゆらしくねらせながら巨大化し、人間の骸骨のような姿となっていく。手には骨でできた剣と盾をにぎり、やはり骨の鎧で完全武装した異形の兵士たちが生まれた。

「〝蒔かれた者〟どもよ、こいつらを殺せ」

 地州の命令にしたがい〝蒔かれた者〟と呼ばれた異形の兵士たちが剣刃をひらめかせる。

「まさか、本物の竜牙兵? だとしたら、ずいぶんと変わった式神をもっているのね」
「知っているのですか早乙女?」
「ええ、竜の牙を触媒にした霊的存在の召喚・使役系の呪術で、その起源ははるかギリシアにまでさかのぼるといわれるわ」

 カドモスというギリシア神話に登場する人物がいる。彼は牡牛を女神アテナにささげるために家来を泉に水をくませに行かせたのだが、そこに棲んでいた竜に家来たちが殺された。これに怒ったカドモスはこの竜を退治する。
 そのあとあらわれたアテナから倒した竜の牙を大地に蒔くよう言われ、実行したところ、大地から武装した男たちがあらわれ、カドモスの忠実な従者になったという。この男たちは蒔かれた(スパルトイ)と呼ばれた。

「そうだ。もっともこいつらは本物の竜ではなく齢五〇〇年の大蛇の牙で作った代用品ゆえ少々質は落ちるが、おまえたちの相手にはなるだろう。式には式を、というやつだ。――風よ、彼方へとはこべ。急々如律令(オーダー)

 糸をのばした地州の身体がふわりと宙に浮いた。 
 遊糸飛行。バルーニングという現象がある。ある種の蜘蛛は吐き出した糸を風や上昇気流に乗せて空を飛び、遠隔の地にまで生息分布を広げる。遠く洋上の島にたどり着く蜘蛛もまれではなく、高度数千メートルという高いところを飛んでいる姿も観察されているのだという。またある学者の研究では二〇〇〇キロもの距離を飛んだ蜘蛛もいたそうだ。
 地州もそれと似たような原理で空を飛んだ。





「――いったいどのような術を使い、こうも見事に消火したのか。ぜひともご教授願いたい」
「おまえこそ、どうやってこれだけの広さの場所にいっせいに火の手を上げさせたんだ。人の姿はなかったぞ」
「米軍がベトナムの村々を焼き尽くすのに使った化学発火剤を使った。ただ置いておくだけで時間が経てば自然に発火する。しかも多少の水をかけてもよけいに燃え広がるというすぐれものだ」
「そんなものどこから……。いや答えなくていい。知りたくもない」
「では最初の質問に答えてもらいたい。いかなる秘術であの大火を消したのか、なまはんかな水行術でどうにかなる規模の火災ではなかった」
「ことわる。おまえに教えてやる義理はない」
「手の内は明かさぬ、というわけか。まぁ呪術者ならばとうぜんだな。……さきほどのパーティ会場でおたがいの考えに相違があるのはわかった。だがこのような秘術の使い手、ぜひともわが陣営に迎え入れたい。もういちど言おう、北辰王夜光よ、私とともに新たな呪術の世を築こうではないか!」
「ことわる。おまえに同行する義務はない」
「なぜそうもかたくなにこばむ」
「さっき呪術者はえらいだの優れているだの言っていたな。半世紀以上も前に流行った優生思想という病気をまき散らそうとする狂人につき合うほど、おれは愚かでも狂ってもいないからだ。それに龍脈の力を個人で御そうだなんて暴虎馮河の愚挙だね、如来眼の力でもないかぎり、雄大な気の流れを制するのは不可能だ。おまえひとりが気に飲まれ、消滅するのは自業自得だが、それによってどれだけの被害がまわりに出ると思っている。そんなふざけた計画につきあえるか」
「なぜそのように可能性を否定する。呪術は、陰陽の業は無限の可能性を秘めている。げんに北辰王よ、あなたは過去、みずからの手でそれを実践してみせた」
「だからだよ、熱に浮かされて狂気に飲まれ、おれは陰陽の、調和の道を踏み外した。その結果があの霊災だ。おまえのしようとしていることは日本中をいまの東京に、霊災多発地帯にしかねない」
「そうしないためにもあなたのような優れた呪術者がひとりでも多く必要なのだ。……それと優生思想のどこが悪い。いにしえより人にはわずかな割合で霊気を視ることができる、見鬼の才を持つ者が生まれている。選ばれた日本人の、さらに選良された人種。それが呪術者だ。優秀な者が頂点に立つのは自然の摂理だろう」
「それがおまえの独裁を正当化する口実か」
「無能な民主政治よりも有能な独裁政治のほうがましではないか」
「いいや、たとえ無能でも民主政治のほうがましだ」
「これはこれは! 無能で腐敗した政治家と、罪なき者に罪を着せ死に追いやることもあるのに反省も責任もとらない恥知らずの官僚に支配されるいまの日本がましだと言うのか」
「おれたちは民主政治のもとにあって民主政治の悪口をいくらでも言える。だけど独裁政治のもとでは独裁政治の悪口は言えない。その一点だけでもじゅうぶんすぎるほどだ」
「私の支配する世界では、私に対する批判を口にすることをゆるすぞ」
「口にすることはゆるしても、口にしたことはゆるさない。そのつもりだろ」
「ふふ、そうだとも。この私を否定する者は断じてゆるさぬ。この手で処断する」
「ならいますぐおれを処断してみろ、青二才」
「…………」
「…………」

 糸が奔った。
 春虎の首が落ちる。

「なに!?」

 地州はわが目を疑った。相手はあの北辰王夜光。それがこうもあっけなく勝負がつくとは、こうもたやすく死んでしまうとは、信じられなかった。

「いまなにかしたのか?」
「ななっ!?」

 春虎が、地に落ちた首がしゃべった。
「おのれ面妖なっ!」

 ふたたび糸が銀光をはなち、地に落ちた春虎の顔が四つに断ち切られる。

「痛いじゃないか」「乱暴だな」「お里が知れるな」「呪術者なら呪術を使えよ」

 するとどうだろう、四つの肉塊が小さな春虎と化して口々に不平をもらす。

「こ、このような呪術など……、急々如律令(オーダー)!」

  狼狽した地州は身じろぎして護符をばらまいた。なんらかの呪術とみて、とにかく呪力の遮断をこころみようとしたのだ。

「無駄無駄」「無駄無駄」「無駄無駄」「無駄無駄」
 春虎のよっつの口から笑いまじりの言葉が出た直後、地州の呪力がのたくり、自身の符術を崩壊させた。術式の半端に機動した護符が一瞬だけ光を放ったのち、燃え尽きて地に舞い落ちる。

「さっき言ったよな『きついお仕置きが必要みたいだな』て。これから折檻する悪ガキ相手に悠長におしゃべりしたのはなんでだと思う」
「もしや、幻術か!? ええい、ならばこれならどうだっ!」

 地州を中心とした半径数十メートルの空間が霊糸の刃で満たされた。

「あイタっ」「あ~あ、大腸も小腸もバラバラだ」「肝臓はどこに飛んだ?」「心臓はここか?」

 縦横無尽に乱れ飛ぶ霊糸刃が春虎の身体を縦横無尽に切り刻み、無数の肉片をまき散らすも、四体のミニ春虎たちはなんの痛痒も見せずに嬉々としてはしゃぎまわり、おのれの臓物をオモチャにしてはしゃぎまわり、あろうことかそれを投げつけてくる始末だ。

「うわっぷ!? ええい、やめろ汚らわしい!」
「「「「おまえがまき散らしたんだろ」」」」

 実に気色悪い。これには地州も動揺の色をかくせなかった。
 幻術はおもに二種類ある。本来その場に存在しないものを立体映像のように作り出す物理的なものと、対象の心に働きかけて、その者にしか見聞きできない幻を知覚させる精神的なものだ。
 前者に分類される幻術だと判断した地州は広範囲に霊糸刃を放ち、幻影にひそんでいるであろう春虎を幻もろとも切断しようとこころみたのだが、そのもくろみははずれた。

「くっ、この私にまやかしの呪をかけたというのか!? しかしいつの間に……」

 精神に呪を注入し、五感をまどわす。
 侵入の意志をおびている呪が心に入り込めば、受けた側は本能的に防御しようとする。意識せずとも霊気が防壁となって異物の侵入を阻止しようとするのだ。
 こうした反応は日常的に呪力をあつかう陰陽師には特に顕著で、精神系の幻術を成功させるにはこの本能的防御を崩す必要があるので、相手が一般人ならいざ知らず、おなじ陰陽師が相手では成功する確率は低い。
 成功させるには相手の防御をねじ伏せるだけの強力な呪力を瞬間的に発揮し、なおかつ相手の意表をつく、知らぬ間にかけるなどの工夫が必要だ。

「術の発動などまったく感じられなかったぞ……」
「「「「おいおい、おまえごときにさとられるほど焼きがまわってないぜ」」」」

 四体のミニ春虎がいっせいに口をひらく。地州はその間近にたたずむ首を失った春虎の胴体に刮目した。ずたずたに切り裂き、臓物を撒き散らしたはずの身体はいぜんとしてその場に直立し、漆黒の外套――鴉羽織の裾をはためかせていた。
 裏地に文字とも模様ともつかない呪文がつづられ、霊気がただよっている。

「鴉羽織……、それかっ」

 鴉羽織はただたんに呪力で防御力を高めただけの羽織ではない。
 飛行能力や自動防御・回避など、さまざまな能力を有している呪具。それも陰陽庁から禁呪指定されるほどの逸品だ。
 実は式神。人造式でありながらも使役式に近い三本足の鴉で、土御門家に代々つたわる竜と同格の霊力を誇る。
 数々の能力のなかには他者の視覚をあざむくというものもあった。影を拡大し、ゆらめかせることで、装備した者の位置を相手に見誤らせるのだ。
 物理的な幻術による防御機能。
 しかしいまの鴉羽織から発せられているそれは精神に作用する幻術だった。
 あるかなしかのかすかな呪力。だがそのわずかな呪力は確実に地州の精神を侵食していたのだ。ほんの数滴ずつ垂らされた無色透明の毒のように。
 それだけではない。たおすべき相手と悠長におしゃべりをしたのはなんでだと思う、と春虎は言った。
 そこにも、言葉にも呪か込められていたのだ。
 わざわざ長広舌ぶったのは相手の意識を鴉羽織からそらすため。実に巧妙な甲種言霊であった。
 春虎だけを避けて攻撃し、ありもしない幻に驚愕している。
 地州はもはや春虎の掌の中にいるにひとしい。

「ええい、いまいましい! ――オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ!」

 疾病治療。あらゆる状態異常を治す薬師如来の真言を唱えて解呪をこころみるも、効果はない。ある種の催眠状態にある地州にはまともに術式を組むこともできないからだ。

「……多嶋地州。ずいぶんと龍脈の力にご執心のようだが、おまえはその力を自分自身の手で破棄したんだ」
「なにぃ、どういうことだっ!?」
「風水に本当に力があるのなら、最初にそれをもちいた中国の王朝が今も滅びずに残ってなければおかしい。龍脈の力、風水というものは本来国を繁栄させる、その地に住むすべての人々を幸福にするものであって、特定の個人や集団をどうこうするものなんかじゃあない。個人の力でどうこうできるような次元のしろものじゃないんだ。その考えはまちがいなんだよ、地州」
「…………」
「四神相応の地である京都も、南光坊天海の造り上げた最高の呪術都市である江戸も歴史上いくつもの災禍に見舞われ、壊滅の危機に瀕した。徳川の世は去り、天皇の威信も落ちた。だが依然として京都も東京も地上に存在し、繁栄している。皇室でも将軍家の人間でもない、多くの名もなき人々が幸せに暮らしている」
「…………」
「おまえの父親、神州はたしかに金と権力にまみれた俗物で、褒められたものじゃないが、この場所に工場を建てたのはまんざらまちがいでもない。金剋木。木気を制することで金気を強め、文字通り金を、財を得ることに成功したんだ。多嶋一族だけじゃない、この街に住むすべての人々がその恩恵にあずかっていた。おまえはそれをぶち壊しちまったんだ」

 多嶋一族と癒着している関係者だけにかぎらない。立花自動車工場に勤務してまじめに働き家族を養い、ささやかな晩酌と月に一度の家族旅行を楽しみにしているサラリーマンは大勢いる。彼らを神州の悪行の共犯者として糾弾することはできない。
 神州は支配者であると同時に保護者でもある。彼の支配を受け入れ、反抗しないかぎり、ささやかな幸福に首まで漬かることができるだろう。無実の罪で人をおとしいれるような悪行は論外だが、こと統治に関して神州のそれは平均点を大きく下回るほどのものではなかった。

「それがいかんのだ。小さな幸福に安住することは結局、大きな悪を容認することになる!」
「おれには呪術者による独裁体制を敷こうとするおまえのほうが大きな悪に見えるよ。……なんであれおまえの野望はここで消える。おれの手でつぶす」

 そのとき、遠雷がとどろいた。
 否、雷ではない。地鳴りだ。大地が鳴動したのだ。
 大地がゆれる。
 火災に耐えた工場の残骸が震え、うなり、おどり、倒壊する。
 工場の金気によってせき止められていた地脈がいっきに流れ出した。

「ふ、ふははははっ。これだ、この力だ。この力を求めていたのだ!」

 地州は朱色に光る刀を大地に突き刺した。

「なにをする気だ!?」
「龍脈の力をわが身に取り込む。北辰王夜光。あなたの呪術はたしかに凄まじい。だが龍脈の力にはおよばない。この力をもってこの多嶋地州は天下を制する!」

 霊気を吸い取る力をもった妖刀丹蛭が大地のエネルギーを吸収し、地州へと送る。
 膨大な気は春虎のかけた幻惑の呪を強引に解除し、なお地州の身体へと流れ込む。

「フォォォー、高まれわが霊力! 急々如律令(オーダー)

 地州の身体から火の粉が舞い、倒壊した壁や柱にふれると、たちまち赤熱し、飴のようにぐにゃりと曲がり、どろどろに溶けた。鉄の融点はおよそ一五〇〇度だが、このかすかな火の粉にはそれをはるかに上まわる高熱が込められているのだ。

「なんて火力だ……」
「ふっふっふ、いまのは不動明王の火界咒でも火天の真言でも火之迦具土神の炎でもない。ただの火行符だ」
「なん……だと……」
「いまの私の霊力で火界咒を唱えたらどうなるか。さしもの北辰王も消し炭ひとつの残さず地上から焼失することだろう。――ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク――」
火焔の渦が生じ、工場跡全体を飲み込んだ。大地はたちまち赤熱するマグマと化して、集熱地獄の様相を見せた。

「くっ、――カンマン・ウンタラタ・ビギンナン・サラバ――」

 すかさずさきほど工場の火災を消した逆さ真言を唱え、襲いくる炎熱を無効化する。

「ほほう! これはこれは、異形なれど見事な業。さすがは北辰王夜光。だがいまの私を制することなどできんぞ、あとからあとから力があふれ出てくるわ!」

 その言葉通り地州の身体からは龍脈からの無尽蔵な気が流れ込み、膨大な量の呪力を惜し気もなく使っては力まかせに火界咒を展開してくる。
 立花自動車工場だった場所はふたたび、業火の坩堝と化した。

「くそっ、龍脈の力、マジにとんでもねぇな!」

 もはや人のあつかう呪術のレベルを超えている。一〇〇人や二〇〇人の陰陽師が一堂に会しておこなわれる大呪法――たとえば大元帥法や大威徳法のような儀式呪法でもここまでの強さはないだろう。
 まさに自然の力そのもの。
 春虎は大海の荒れ狂う大波に翻弄される木の葉にでもなったような気分になった。
 地州の火界咒が春虎の逆さ真言による消火の結界を徐々に蝕む。

「だが、やつのあの力。そう長くはもたない!」

 春虎の目には地州の身体が破裂寸前の風船のように視えた。人の身にあまる力を考えもなしに吸収すればどうなるか。想像に難くない。

「どうした、もうおしまいか。あと少しで消し炭になってしまうぞ。もう少し気張ったらどうだ。ふはははははっ! ……この地州、もはや天下一。たとえ十二神将がたばになってかかってきたとしても、いまの私には敵うまい! 当代最高と言われる倉橋源司も、当代最強と謳われる宮地磐夫も、この私の足もとにもおよばぬのだっ!」

 かつて春虎は陰陽庁庁舎でさわぎを起こしたことがある。そのときに庁舎を丸ごと呑みこんだ宮地磐夫の強力な呪力を目撃していた。たしかにいまの地州の火界咒はあのときの宮地以上だと言える。だが――。

「宮地さんはおのれ自身を高めてあそこまでの力を身につけたんだ。地州、借り物の力には限界があるぞ」
「ふははははぁっ、負け惜しみとは、かの大陰陽師も地に落ちたな。夜光よ、私を否定するおまえなぞ、私の創る新時代には必要ない。この場でおとなしく朽ち果てるが――ぐぉ!?」

 地州の身体に異変が生じた。

「なん、だこれは……。フ、フォォォっ!? ち、力が、力があふれてくるっ、あふれすぎだッ!」

 あわてて丹蛭から手を放そうとするもまるで自身の骨肉と化したかのように離れない。

「うぉぉぉぉぉぉッッッ!! は、はなれろッ! 破裂する! する! み、み、みなぎりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「まったく、とんだYSBだな」
「な、なにぃぃぃ!? YSBとはなんだぁぁぁっ?」
「(Y)欲ばり、(S)すぎだ、(B)馬鹿」 
「DAIGOかよ! ぶべりゃ!」

 地州の肉体は膨張し、爆ぜた。それが多嶋家に生まれた呪術の麒麟児のあっけない最期だった。

「だから言っただろ、龍脈の力は人の手にあまるって」

 その龍脈。堰を取り払われた霊気の奔流はいまだ衰えず、ますます勢いを増して荒れ狂っていた。火山が噴火したかのような霊気に巻き込まれれば、ただではすまない。

「――高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち加加む呑んでむ。祓え給い清め給う――」

 最上祓いの祝詞を口にし、パンと柏手を打つ。
 呪力をのせたその響きであたり一帯の霊気を鎮静化させた。だがこれはあくまで応急処置にすぎない。きちんとした儀式で龍脈を鎮めなければ、龍脈はふたたび奔流と化して周囲に甚大な被害をおよぼすだろう。

「龍穴を抑える必要があるな」
「春虎様!」

 飛車丸が飛ぶような勢いで駆け寄ってきた。怜悧な美貌を朱に染めている。よほどいそいで来たのだろう。

「もうしわけございません、地州のやつめを逃してしまいました」
「やつならたったいまパンクして果てたよ」
「なんと!」
「角行鬼と先輩は?」
「地州の打った式神を駆逐するのに手間取りましたので……、すぐに追いつくかと」
「そうか、合流したらすぐに龍穴。真森学園の旧校舎にむかう。この龍脈の暴走を鎮めるんだ」

 工場の火災にくわえてその直後に起こった地震のため街中は騒然としていた。春虎たちが真森学園に駆けて行くのを見咎める者はだれひとりいなかった。





 旧校舎の裏山の一画が地震によって崩れ、そこから間欠泉のように霊気が噴き上がっていた。
 竜穴だ。
 目的の場所へとむかうのにわざわざ部室の地下道を利用する手間がはぶけた。
 よみがえった龍脈の気にあてられて、朽ちていたはずの巨木が隆々と屹立し、いくつもの赤い実を実らせていた。

「こんばんは、夜虎君」
「平坂……」

 おさげ髪に黒縁眼鏡の少女、平坂橘花がそこにいた。

「平坂、おまえこんなところでなにやってんだよ。あぶないぞ、はやく家に――」
「視えるわ、その人も飛車丸さんとおなじで、夜虎君の護法ね」

 平坂の視線ははっきりと角行鬼にむけられていた。

「おまえ、見鬼だった――。いや、なったのか」
「ええ、そう。たったいま、ね。……飛車丸さんの霊気って凛として涼やか。そっちの大きなお兄さんは黒くてちょっと怖そう。早乙女先生は、なんて言うかとらえどころがないわね。夜虎君は……、とても大きくて深い。そんな感じがする」

 平坂はどこか酔ったようなまなざしで一同を、そして周囲を見まわし、龍穴から噴出する霊気の渦を見上げる

「とっても綺麗。霊気って、陰陽師の見る世界ってこんなに素敵だったのね」
「まぁ、その気持ちはわかるよ」

 はじめての見鬼の世界。陰陽師の視る光景。それがどんなに感動的なものかは春虎にもわかる。彼もまた今生では幼なじみの施した呪術により後天的に見鬼になったくちだからだ。
 しかし平坂はなぜ急に見鬼の力を得たのか。龍脈から放出される霊気による作用によるものだろうか。そのようなことがありえるのか――。

「――まぁ、いい。それより平坂。さっき言ったようにここは危険だ。おまえも陰陽師オタクなら龍脈や龍穴のことは知ってるだろ。おれたちはいまからそれを鎮めなくちゃいけないんだ。そうしないとこの街は大変なことになる」
「工場によって長年堰き止められていた龍脈の力が、あふれ出しちゃうんでしょ」
「そうだけど、なんでそれを……」
「あたしのおじいちゃんて、神州が乗っ取ってメチャクチャにした常世神道の神官だったのよ」
「――!」
「あたしはね、常世神道の正式な継承者なの。でも先祖代々常世神を祀っていた呪術者の家系に生まれたのに、あたしに見鬼の才能がなかった。それが小さい頃からすっごく悔しくて、悲しくて……。でもさっき目覚めちゃったみたい」
「目覚めたって、おまえ……」
「ほんとうよ、まさに覚醒って感じ? 急にドクン! てきてなんだろうと思ったらまわりの景色が変わって見える。霊気が見えるようになっちゃってビックリ仰天、呪力キター! て感じ。で、この場所に。龍穴に呼ばれた気がしたの」
「…………」
「夜虎君、あたしならこの気の流れを正常に抑えることができる気がする。ううん、できるわ、絶対。だから止めないで」
「彼女は真実常世神道の後継者なら一理あるわね」
「先輩、なにをっ!?」
「呪術的儀式の行使にさいして、血筋というのはとても重要よ。なんの技術もないのに、ただだれそれの血脈。て人がその場にいるだけで修祓できる。ううん、修祓できない特殊な霊災のケースだってあるわ」
「知っていますよ、でもそのケースってのは往々にして『贄』にするパターンが多い」
「それは、たしかにそうよ」
「そんなことはできません。――平坂、おまえが当事者ってなら家に帰れとは言わないさ。おれが龍脈を鎮めるから、先ぱ――早乙女先生と一緒に見ていてくれ」
「うそつき」
「え?」
「堀川夜虎なんて偽名でしょ、ほんとうの名前は土御門春虎。指名手配中のテロリスト」
「……ああ、そうだよ」
「すぐにピンときたわ、だって変装もなんにもしてないんだもん。隠す気ないでしょ」
「まあな、おれがしようとしていることはけっして褒められたおこないじゃないが、それを陰陽庁に咎められる筋合いはない。必要以上にコソコソしたくはなかったんだ」
「あたしもあなたたちが悪い人だとは思えない。関係ない人に迷惑かけたくないから素性を偽ってる。そうなんでしょ」
「ああ、そうだ」
「けれでも、あたし、もう関係なくはない。呪術の世界の住人になれた。ううん、なるの。この龍脈の暴走を止めることでそれを証明してみせるわ」
「おい、やめ――」

 春虎の制止を聞かず、平坂は巨木を抱きしめると、その中へと姿を消した。

「な――」

 地州は無限ともいえる龍脈の霊気を制することができず、身心を滅ぼした。
 しかし平坂はちがった。
 彼女はいにしえより伝わる常世神道の正式な後継者。古き龍脈は彼女を受け入れた。
 巨木が強い光を放ったかと思うと、そこには一匹の竜がいた。
 平坂橘花は神樹を通して人身から竜身へと変化したのだ。
 全身をつつむ青い鱗はまるでファイアをちりばめているようで、目の前の現象よりもその美しさに春虎たちは我を忘れた。
 竜はその長大な身体をくねらせて上昇し、空を翔ける。

「木気の竜。青竜ね」

 内心の動揺を微塵も表には出さず、早乙女が口をひらく。

「いわゆる四神とはまた異なる存在でしょうけど、いにしえより木気の龍脈の恩恵を受けていたこの地には神樹が生えていた。彼女はその神樹とひとつになったのよ。常世神とはその神樹に棲む霊虫だったのね」
「まるでユグドラシルに巣くうニーズヘッグだな」
「あれよりも品はあるわ」
「先輩も角行鬼も落ち着いてる場合かよ!」

 平坂が地州のような最期を迎えることはないかもしれない。だが彼女があのまま人にもどらない可能性はある。
 春虎は去年、相馬の血を継ぐ巫女が持ち出した鴉羽織により強制的に覚醒をうながされたことがある。そのさいの自分が自分でなくなる感覚はいまも忘れられない。
 平坂が竜と化したままで人の意識も失ったとしたら、最悪霊災として修祓されることになる。

「おれは平坂をもとにもどす。先輩たちは龍脈を鎮める儀式の準備をたのむ」
「し、しかし春虎様おひとりでは」
「高速で飛翔することができるのはおれだけだ。……心配するなよ、すぐに終わらせてもどってくる」

 春虎は飛車丸の返事もまたずに鴉羽織をひろげ、竜となった平坂のあとを追い、夜空を翔けた。
 かつてみずからの意志とは関係なく変容する自分を救うためにひとりの少女が命を落とした。あのような悲劇は二度と繰り返さない。
 平坂にはあとでこっぴどくお説教をしてやる――。 
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