彷徨―南ハルカは、旅をする―
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1話
ノマドとは動かないことである。
ジル・ドゥルーズの言葉だ。遊牧する民はむしろ動かないものである、という奇妙な論理的無意味な発言である。論理的、には。
であれば―――と、ドゥルーズを犯しながら、南ハルカは思ったことをボールペンの細い影で書き流した。
定住するということは、旅に出ることである。
テーブルの上の大学生協で買ったコピー用紙に、陰鬱に沈んだ言葉を見下ろす。何の意味も持たない、ただの言語の羅列。奇妙な微笑を―――苦さだったか? それとも一種の空虚さだったか? 確かなことは、声も無く、静かな表情だったということだ―――浮かべたハルカは、用紙をくしゃりと握った。
(あの紙はどこに行ったのだろう? ごみ箱に捨てたのだろうか、それとも、まだ、そう、まだ、机の裏にでも転がっているのだろうか?)
※
「行ってきます、ハルカ姉さま」
「行ってきまーあす」
ぱたん。
幾許かの沈黙―――数瞬して、南ハルカは鼻で温い吐息をついた。
今年、近くの大学に入って数か月。今日は一週間に1度の全休の日だ。大学から出ている宿題も既に終えている彼女は、この一日何もすることが無い。妹たちを見送った彼女の予定は、デリダの耳論の読解のみだった。彼の友愛についての論考を収めた酷く難解な本は、実質の小学校の時から使っている木の机の棚に佇んでいるはずだ。
踵を返す。かれこれ20年近く住み続けたマンションの廊下は、目を瞑っていても滑らかに歩くことが出来る。
廊下を抜けてリビングへ。こたつの上に鎮座している”ふじおか”を特に理由も無く人差し指で突いて、ベランダへと向かう。
つけっぱなしのテレビを消して―――朝だと言うのにドラマの再放送がやっている。「先生!」「四宮君!」「先生!?」「二宮くぅん!!」―――、上がったままの鍵を左手の薬指で跳ねるように降ろす。がちゃんと鈍く鼻を鳴らすのを確認して、外へと続く窓を両手で開けた。
風はない。倦んだような6月の空は既に近く、のっぺりとした群青が味気なく引き伸びていた。
道路を見下ろす。丁度、妹2人が道路を歩いていく―――トラックが横を過ぎ越した山田建設?―――姿があった。
ジーンズのポケットで何かが震える。最近買い換えたスマートフォンだ―――あ、叩いた。
臀のポケットから人差し指と中指で引き抜くように取り出して上部の電源のスイッチを軽く押し込む。パスワードを素早く撃ち込むと、メールが届いたことを知らせる通知だ。
大学に入って知り合った友人からだった。や、友人というのは、多分正しくない。大学に入ってから言い寄ってくるようになった男だ―――別に悪い人ではない。いや、むしろ良い人だ。だからこそ、昔のようにただ断ればいいとも思えず、はたしてどうしたものか、というのが彼女の最近の悩みの一つだった。
微笑混じりの溜息一つ。こういうのを苦笑いっていうんだろうなぁと思って、ハルカは苦い笑みを強くした。
スマートフォンは握ったまま―――もう、大学生なんだなー、と手摺を撫でた。妹たちも中学生と高校生になり、新しい生活が始まった。友人たちは遠くの大学に行ってしまい、最近会ったのは1月前のゴールデンウィークの時だ。
さらりと風が流れた。長く伸ばした髪が鋭利な柔和を孕んで、風下へと靡いていく。
―――時間は、流れていくのだ。ずっと同じ時間であることなんて、あり得ない。ずっと続くと思っていた時間はいつの間にか過ぎ越して、人はいずれ到来した時間に戸惑うのだ。
でも、それに気づいたのは何も大学進学前というわけでもない。ちょっと昔、2年という長く短い時間の彼方にも、時間の狭間での滞留があった。
停滞、そう、停滞。いくつかの流れが交錯する地点での停止、それでも先へと流れていく時間と時間の滞留。
あの時―――あの時、かつてのあの時、私は別な流れへと向かうことが出来た。今でも、その流れとともに行くことも有力な選択肢だったと思う。
悔いていない。
嘘だ。胎内に留まる違和感は、拭いきれない。
でも、この選択をして良かったのだと思う。なぜなら、その決断の確信を未だ持つことが出来ないから。あの選択の真偽を判断する術がないからこそ、この選択をして良かったのだと思う。それで、妹たちが笑顔で居てくれるなら―――。
ベランダの縁に肘をついて、身を任せて眼下へと広く視線を流していく。
家。街。山。眼下に敷き詰められた人間の生活圏には、きっと、いくつもの時間が滞留しているのだ。時に早く、時に遅く。流れの中で、人間たちは時間となっていく。注意深く耳を傾け―――それは器官としての耳ではない。体内のずっと奥あるいはずっと手前にある耳―――、傍らの元で自らを時間化するのだ。
南ハルカは時間になったのだ。ただ彼女たちのために姉であることを選び取ることで、南ハルカは南ハルカという何者かへと生成し、南ハルカは自分を殺戮することで南ハルカという何者かへと変化した。南ハルカは、自らを可変させることで南ハルカに成ったのだ。ハルカはそれを小賢しい知識で「実存」、と名付けることも出来たし、ちょっとだけそれを考えたが、まだ止めておくことにした。やっぱり、そういう肩を張るような雰囲気は、自分には似合わないと思う。
手を伸ばす。ずっと離れていたはずの街並みは、そうするとすぐに触れられそうだ。
でも、まだその時ではない。早朝の街並みはまだ眠たげで、手で撫でるとなおさら気持ちよさげに眠りこけるばかりだ。
だから、ハルカは天上を仰ぎ見た。子どもが絵の具で塗りたくったそのままの空には、分厚い白雲が重く横たわっていた。明日は、雨だろうか。だとしたら、洗濯物は早く済ませないと。
身体を伸ばす。両手を挙げてその雲を包もうとするけれど、ずっと向こうの雲には手が届きそうにない。それはそうだ、高校生の時に理系科目は生物を選択していたが、地学の知識が無くともあの雲がどれだけ遠くに在るのかはよくわかる。それにしても、ちょっとクロワッサンみたいな形の雲でおいしそうだ―――お昼にはパンでも焼こうかなぁ。でも今日は、お昼はパスタを食べる予定だった。
もう一度、身体を伸ばす。つけっぱなしのエプロンの腰紐を解くと、不意にエンジン音が耳朶を打ち、ハルカはなんともなしに再びマンション直下を見下ろした。
車が止まっていた。なんという車なのだろう。漆黒の、滑らかと厳つさの中間に揺れるボディは、多分、ホンダのアキュラILXだ。
珍しいなぁ、と眺めていると、助手席―――右側のドアが開いた。
少年だった。小さな体躯はどこかひ弱で、風が吹いたらとんでいってしまいそうで。
でも、でも。
ベランダの手すりを握りしめる。
ハルカはその陽光を受けた、蒼空のような影を知っていた。
少年が見上げる。見やりはアパートをなぞって、そうして自分を貫いた。
何故かわかる。この距離では表情など朧なはずなのに、少年の素振りが何を企図したのかは手に取るようにわかる。何故なら―――いや、説明は不必要だ。
ベランダから身を乗り出す。あわや堕ちそうになることなど気にも留めずに、両手を目一杯に振る。
驚いたような素振りをして、そうして微笑を浮かべて。かつての少年の造詣と少しのズレを惹き起こしつつ、眼鏡の少年は小さく手を振った。
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