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幻影想夜

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第十九夜「廻り道」



 彼はいつもの通い慣れた道を逸れ、普段通らない細道に足を向けた。
 ただ何となく、別の道を歩いてみたかったのだ…。

 彼の名は須藤 遼。<りょう>と読みがちだが、彼のこれは<はるか>と読む。
 さて、遼がこの小さな田舎町に家族と越して来て早一年。会社と家の往復しかしなかった彼が、休日の今日、なぜか散歩に出ようと思い立った。
 季節は春の半ばの気持ちのよい日和りだ。
「こんな道もあったんだなぁ。たまに散歩するのも悪くないな。」
 そんなことを一人で呟きながら、遼は春の陽射し降り注ぐ細道を歩いて行ったのだった。
 春の暖かな風に多くの草花が揺れ、美しくも幻想的な光景を作り出している。
 木々には藤の蔓が絡まり、淡い紫の房を揺らしている様子は、まるで絵の中に迷い込んだようだった。
 そんな甘美な雰囲気の中に、ポツンと一軒の家屋が見えてきた。
 旧い家屋のようだったが、外装は洋風のモダンな作りになっている。
 遼はその家屋に興味が湧いたため、一先ず近づいてみることにした。
 近づいてみると、それはどうやら喫茶店のようだった。
「こんな淋しい場所に…喫茶店?」
 ここは山の中と言ってもよい場所だ。しかし、その喫茶店は何の違和感も無く建っていた。
 ただ、ひっそりと客を待っているかのように。
 春本番の暖かい天気に遼は喉が渇き、興味本意でその喫茶店に入ることにした。

―カラーン…―

 ドアに取り付けられていた小さな鐘が鳴り、それが店内に響き渡った。
 中はバロック調の内装で統一されており、一種独特の雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ。」
 店員らしき女性が奥から出てきて、客である遼を席へ誘った。
「お好きな席へお座りください。」
 そこには品の良いテーブルと椅子が並んでおり、各テーブルには切り花が飾ってあった。
 一つ一つ別種の花が生けられており、それは店内をより上品に仕立てている。
 遼は外の景観が楽しめる窓際に腰を下ろした。
 その席には山藤の一房が生けられていて、仄かな好い薫りを漂わせていた。
「失礼致します。」
 先程の店員と思われる女性が、遼の前に水とメニューを置いた。
 遼がメニューに目を通そうと手を伸ばす前に、店員と思しき女性が話し始めた。
「本日はデザートがお薦めでございます。特に苺のスフレやフレッシュ・タルトなどが…」
 そこまで喋ったかと思ったら、厨房から男性が顔を出して口を挿んできたのであった。
「菫、いくら君が好きでも、お客様にごり押しするのは止しなさい。」
 そう言うや、男性はこちら側へやってきた。
 店員と思われる女性は俯いていたが、男性が傍に来た途端そちらを向いて言った。
「美味しいと思ったものをお薦めしただけです!」
 そう言い放つと、一人でさっさと厨房へ入ってしまったのだった。
 男性は“参ったなぁ”という顔で行ってしまった女性を見ていたが、直ぐに遼の方へ向き直った。
「誠に失礼致しました。」
 そう言って深々と頭を下げて謝罪したのだった。
「いえ、大変面白い光景を拝見出来ましたので。」
 遼はそう言って少し苦笑いした。それから、ふと気になって尋ねてみることにした。
「あの…こちらの喫茶店はお二人で遣ってらっしゃるんですか。」
 少し恥ずかしそうにしていた男性は、その問いを聞いて答えた。
「はい。ここで五年ほど前から遣っております。」
 男性は頭に手をやりながら言った。その薬指に指輪が光ったことを、遼は目ざとく気付いた。
「ご結婚されてるんですね。」
 遼は何とはなしに言った。
「はい。私がパティシェになってこの店を立ち上げた時に…。あの、申し遅れました。私がこの喫茶店オーナーの須藤 悠と申します。先程の女性が妻の菫です。」
 そう挨拶されてしまい、遼もつられて返答を返してしまった。
「私は…偶然なんですが、私も須藤と言います。須藤 遼です。」
 その名を聞くや、悠は驚いて目を丸くした。
「私は音でユウと読むハルカですが、お客さまは…。」
「僕はリョウと読むハルカです。オーナーの字は心が下にくるユウの字ですね。」
「はい、そうなんですよ。字が違うとはいえ、同姓同名の方に会えるとは。いやはや、ただのお客さまとは思えないですねぇ。」
 そんな話しをしていると、奥から菫が顔を出して言った。
「ご注文はお決まりですか?」
 二人ばかりが喋っていたので、手持ち無沙汰になっていたのだろう。
 それを見た二人は、思わず吹き出してしまったのだった。
 実に不思議ではあるのだが、何か家族や親戚といった感じがしたのであった。

 一旦落ち着いた遼は、店主へとアフタヌーンティセットを注文していた。遼の前には今、それが並んでいるのだ。
 スコーンに一口サンドウィッチ、それにフルーツのタルトレットに香り立つアールグレイ。
 まず遼が手に取ったのは、まだ温かいスコーンであった。
 それには洒落た小瓶に入ったジャムが添えられており、遼はそれをつけて口に運んだ。
 それを口にした瞬間、奥深い味わいが広がり、なんとも懐かしい感じが彼を捉えた。
「このジャムは一体何で作ってあるんですか!?」
 彼の声の大きさに、何事かと店主の悠が席に近付いてきた。ついでに妻の菫も一緒に…。
 席まで来ると、悠は彼の顔を見て尋ねた。
「どうかなさいましたか?」
 随分と心配そうに尋ねられ、遼は困って苦笑いしながら聞いてみた。
「すみません。このジャムって、何で作ってあるのか知りたくて…。」
 それを聞いた悠は、ホッとした顔をして答えてくれたのだった。
「このジャムですか?あぁ、ちょっと隠し味を入れてありましてね、当店で作ったサクランボのジャムに、ハニーブラッサムを加えてあるんです。」
 それを聞いた遼は、少し首を傾げて言った。
「ハニー…ブラッサム?」
「ようは桜の蜜です。いかがですか?」
「あぁ、そうなんですか。何だかすごく懐かしい感じがしたのは…。」
 その遼の言葉を聞いて、悠と菫は目を見合わせて微笑んだ。
 そして、菫はそんな遼の顔を見て言った。
「きっとどこかで召し上がったことがおありなのでしょう。宜しければ少しお分けしますよ?」
「良いんですか?おいくらでしょうか?」
 遼は菫の言葉を聞いて売ってもらえると喜んだ。
 しかし、そう言った遼を前に悠は首を振った。
「お代は結構です。同じ名前の方からお金は取れませんよ。なぁ、菫?」
 悠は妻の肩に手を乗せると、菫の方も顔を綻ばせた。
「そうですね。これも何かの縁ですし、お帰りの時にお渡ししますわ。それではゆっくりとお召し上がり下さいね。」
 そう言うや、二人は奥へと引き上げて行ったのであった。
 呆気に取られていた遼であったが、気を取り直してまた食べ始めた。
 あのジャムをつけたスコーンを味わいながら、ふと一年前に別れた彼女のことを思い出していた。
 菓子作りの好きだった彼女。嫌いになって別れた訳じゃなかった…。

― 今更何を思い出してるんだか…。 ―

 誰もいない店内で、遼は一人苦笑した。
 そうして店内を改めて見渡してみると、落ち着いた雰囲気の中に流れる音楽、各々のテーブルに飾られた彩り豊かな花々…。

― まるで癒されるために来たような…。 ―

 そんな筈はない。
 ただ、何気なく別の道を歩きたかっただけなのだ。
 ただの廻り道なのだ。

― いつかセピア色した想い出に変わる…か…。 ―

 窓の外は、清々しい蒼空に白い雲が流されている。
 その下には、今が盛りの藤の花房がユラユラと揺れていた。


 時間も過ぎて夕の紅が見え始めた頃、遼は満たされた気分で席を立った。
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです。」
 遼は喫茶店の夫妻に笑顔で伝えた。
 夫妻はそんな遼に満面の笑みを返した。
「気に入ってくれたようで、こちらも嬉しい限りですよ。ではこれを。」
 彼の前に差し出されたものは、硝子製の美しい小瓶だった。その中には、あのジャムが容れられていた。
「お約束通り、お持ち帰り下さい。」
 店主の悠はニコニコしながら遼に手渡した。
「ありがとうございます。」
 遼は礼を述べ、それを受け取ったのであった。
 一方の菫はと言うと、レジの前に立って待っている。
 遼はレジに行き、いくらかと尋ねた。
「丁度千円になります。」
 菫がそう答えると、遼は目を丸くして聞き返した。
「そんな筈はないですって。後にはスフレとお茶のおかわりも頂いたんです。そんな安いはずありませんよ。」
 菫は笑いを堪えているようであった。
「今日は特別ですから。ね、あなた?」
 傍に来ていた悠に聞くと、悠は笑って答えた。
「えぇ、今日は特別ですので。あれ?菫、君はお渡しするものがあるようだね。」
 悠がそう菫に言うと、菫は白い紙袋を遼に差し出したのだった。
「家に帰ったら開いてみてね。」
 菫はニッコリと笑った。
「受け取ってなんですが…お客として来たのに、こんなに頂いて良いんでしょうか…。」
 少し困った顔をして遼は尋ねてみたものの、この夫妻は「特別ですから。」と言って微笑んでいるだけであったため、ここは喜んで受け取ることにした。
「ありがとうございます。」
 そう言うや一礼し、支払いを済ませてドアを開いた。

― カラーン… ―

 澄んだ響きが広がる。
 外へ出ると、喫茶店の夫妻も見送りに出てきてくれた。
「気を付けてお帰り下さいね。」
「ありがとうございます。それじゃあまた。」
 相変わらず、藤の香りが風の中に遊んでいる夕暮れ近い空。
 遼は名残惜しそうに手を振る夫妻を後に、元来た道を戻って行ったのであった。


  *  *  *


 家に着くと母親が「出掛けてたの?」と、台所から顔を出した。
「あ…うん。少し散歩がしたくなってね。」
 遼はそう言うと、苦笑いしながら家に上がった。
 母親はそんな遼を見て、溜め息を吐いて言ったのだった。
「随分と長い散歩ねぇ。今日はお爺ちゃんの命日だって言ってなかったかしら?」
「あ…そうだ…忘れてた…。」
 そう、今日は遼の祖父の命日なのであった。
「あんたって子は…。」
 母親は呆れ顔である。
 遼は苦笑しつつ、そんな母親へと喫茶店で分けてもらったジャムを手渡した。
「今日行った喫茶店で、美味しかったから分けてもらったんだ。」
 遼がそう言うと、母親は怪訝な表情を浮かべて聞いてきた。
「この町に喫茶店なんて無いのに…。あんた、隣町まで散歩してきたの?」
「はぁ!?」
 遼は驚いて目を丸くした。
「俺が行ったのは、ここから二十分位のとこだったけど?」
「おかしいわねぇ…。できたって話しも聞かないし…。まぁ、いいわ。」
 母親はまだしっくりこない感じではあったが、取り敢えず台所へ戻ったのであった。
 遼は仕方なく、二階にある自分の部屋に向かったのであった。

 遼は祖父については殆ど知らない。彼が生まれるずっと以前に亡くなっていたからである。
 正直、両親は祖父母のことをあまり語りたがらないのだ。
 祖母は遼が四歳の時に病気で亡くなったため、なんとか顔は覚えていた。
 その祖母の顔を思い出していると、机の上に置いた白い紙袋に視線が向いた。
「そう言えば…何が入ってるんだ?」
 そっと封を開けて見ると、中には濃い紫で染められた櫛と細工の美しい指輪、そして一通の手紙が入っていたのであった。
「この指輪についてるの…サファイアか?この櫛の金細工といい…。こんな高そうなもの、ほんとに貰って良かったのか…。」
 そう思いつつ、遼は添えてあった手紙を読んでみた。

― 遼さん、彼女と喧嘩でもなさったのでしょうか。もしそうでしたら、私からの贈り物を差し上げて仲直りして下さいね。
 私はもう充分幸せですので、そのお裾分けです。
 遼さんも、どうか幸せになって下さいませ。

      菫より ―

「お見通しだった…ってわけか…。」
 遼は可笑しくなって笑ってしまった。
 ただの客として行っただけなのに、こんな至れり尽くせりでは店が潰れてしまうじゃないかと。
 遼は心から深く感謝した。あの喫茶店の仲の良い夫妻に…。
「また行ってみようか。今度は彼女も連れて…。」

 しかしこの思いは、結局果たされることは無かったのであった。

 少しすると、台所から母親の呼ぶ声がした。
「何!?そんな素っ頓狂な声出して。」
 あまりに大きな声で呼ばれたため、彼はすぐに台所へ行った。
 遼が台所へ入るや否や、母親が彼に質問してきた。
「これ、どこで貰ってきたの!?」
「だから、さっきも言ったけど、今日行った喫茶店で…。」
 あまりにも凄い形相で迫ってきたものであったので、遼は一歩後退さってしまった。
「遼…これ、お爺ちゃんの作ったジャムよ…。」
「え…?」
 遼は母親の言ったことが理解出来なかった。
「母さん?作ったって…爺さん、何かしてたの?」
 ジャムの入った小瓶を見つめてる母親に、遼は尋ねてみた。
「あんたには言ってなかったわねぇ…。」
 一旦遼を見上げたかと思うと、また瓶に視線を落として語り始めた。

 彼の祖父母は新婚当時、喫茶店を開いていた。
 暫くは何事もなく幸せな生活を送っていた。遼の母と伯母にあたる姉の二人の子を産み、それは幸せであったのだと言う。
 しかし、遼の母親が十三の時であった。一つの事故が全てを奪い去ってしまったのだ。
「あの時、お爺ちゃんは私たち三人に買い物を頼んだの。そして私たち三人が町まで買い出しに出掛けていた時だったわ。店でガス爆発があってね…。お爺ちゃん、その時亡くなってしまったのよ。思い出はみんな燃えてしまった。でも、お婆ちゃんは櫛と指輪をバッグに入れてたから…残ってくれて良かったって言ってたわね。お爺ちゃんとの思い出がたくさん詰まってるんだって…。病気で亡くなる時も、傍に置いて離さなかったわ。それで葬儀の時、お棺に入れようとしたら見つからなかったのよね…。ほんと、悪いことしちゃったわねぇ…。」
 母親の話しは、遼にとって理解しにくい部分を多く含んでいた。要は母親は知っている部分の一部を要約して語っていたため、かなり跳んでいるのである。
 しかし、一つだけ遼の心に留まった。

―櫛と指輪…?―

「母さん、その櫛って…濃い紫に金細工の施してあるヤツじゃ…。」
 遼がそう問うと、母親は「何で知ってるの!?」と言って目を丸くした。
 半信半疑であった遼も、半ば納得せざるを得なかった。
 遼は直ぐ様自室に戻り、あの白い紙袋を持ってきて母親に見せた。
 母親はそれを見るなり失神しそうになったため、遼は慌てて抱き抱えのだった。
「大丈夫よ…。こんなことってあるのねぇ…。この櫛も指輪も、お婆ちゃんのものに間違いないわ…。」
 そう力無く言うと、遼に渡された水を飲んだ。
「はぁ…。でも、それだけじゃないわ。この紙袋も喫茶店で使ってたものだし、手紙の筆跡もお婆ちゃんのに間違いないし…。不思議ねぇ…。」
 だが次の瞬間、何の前触れもなく突然笑い出したのであった。
「あんた彼女なんていたの!?」
 遼はギョッとした顔で一歩退き、顔を引攣らせて言った。
「い、いたけど…今は関係ないじゃないか!」
「大有りよ!お爺ちゃんもお婆ちゃんも、きっと遼のことが気になって来てくれたのよ。ほら、これを持って彼女のとこに行かなきゃ。」
 先程の無気力さはどこへやら。母親は紙袋を遼に返し、こう付け足した。
「今でも好きなんでしょ?なら、仲直りなさい。後悔しないようにね。」
「でも母さん、これってかなり高価なものなんじゃ…。」
 遼は恐る恐る問ってみた。
「そうねぇ。軽く新車は買えるわね。全く…こんなことになるんだったら話しておくんだったわ。とんだ廻り道ねぇ。」
 母親はそう言って微笑んだが、一方の遼は未だ顔が引攣っていたのであった。


  *  *  *


 あれから一年…。
 遼は今、彼女を連れてあの喫茶店のあった場所に来ていた。
 母親から聞いた話しによれば、この場所こそ、以前喫茶店があった土地に違いないとのことである。 以前は小さな町があったそうだが、過疎により皆が移転してしまい、今は田畑で作業する人達が行くくらいなのだそうだ。

 だが、その場所に行くと、あの時のようにまた、懐かしいような藤の香りが風に遊んでいた。
「ねぇ、遼から聞いた話しは今でも信じがたいけど、ここに来たらなんだか…信じられそうだよ。」
 彼女の薬指には、あの指輪が光っている。
「だって、こんなにも幻想的な風景、今まで一度も見たことがないから…。感謝しなくちゃ。あなたのお爺さんとお婆さんに…。」
 そう言って振り向いた彼女に、遼は微笑んで言った。
「あぁ、そうだね。また君と居られるなんて…。どんなに感謝しても足りないよ…。」
 彼女は、そう呟くように言った遼に抱きついて言った。
「私たちも、ちょっと廻り道しちゃったね…。」

 春も半ばの心地良い陽気である。
 山藤の淡い紫の花房が風に揺られ、美しい幻影風景を創りだしていた。

 まるでこの二人を歓迎するかのように…。

 まるで…微笑んでいるかのように…。



       end...



 
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