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アマガミという現実を楽しもう!

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第18話:疲れた心に癒しを(前編)

「100mのオールアウト! 次がラストですから、残りの力を振り絞りましょう!」

「はい!」


 俺の飛ばした檄に、プールにいる部員が声を揃えて応じ、早朝の市民プールに響いた。これまでの練習で疲れているからと言って、ここで気張らないと本番のレースに繋がらない。正直、肉体は疲労や乳酸の蓄積で限界に近かったが、自分の作ったメニューでもあるわけで、作った本人が耐えられなかったというのは部内の士気に関わるのだ。ここで負けるわけにはいかない。


(それに……)


 俺は、ちらりとプールサイドの方に目をやった。ジャージを着てラップを取るマネージャーと顧問のアオシマ先生以外にも、制服姿の男女が珍しそうに俺達を眺めていた。そう、いまは4月で新入生が入部先を探すシーズンであり、今日は水泳部にも十数人の新入生が練習見学に来ているのだ。そうなれば、俺を含めた部員たちも後輩諸君の前でへこたれている姿は見せたくないと、俄然やる気が現れてくる。


「10秒前です!」

「はい!」「おう!」


 森島のアナウンスが耳に入り、俺はラストのメニューに気持ちを戻して声を出した。ゴーグルを目に当て深呼吸を数回行い、気持ちを落ち着けていく。


「行きます!よぅい!」


 俺は、大きく息を吸い、マネージャーの声を合図に自分の足を床から離し壁に着けた。


「はい!」


 壁をキックしてスタートした。100mの自分自身との我慢比べの始まりだ。










「では、お先に失礼します」


 シャワーをそこそこに足早に更衣室に向かい、手早く着替えを済ませた俺は、先輩方や同期に元気良く挨拶した。


「おう、お疲れさん!」

「拓、お疲れ~」「お疲れさま」


 と、先輩方や同期の返事を耳にして、俺は更衣室を後にした。賑やかな更衣室から一転して静寂が包む廊下へと抜け、途中に会ったスタッフに挨拶して、裏口から外に抜けた。


「ふぅ、寒ぃ……」


桜も花咲く四月ではあったが、朝の空気はまだまだ肌寒さを残し、それがプール上がりの俺の身体を軽く震わせた。制服の上から身体を擦りながら、俺は自転車置き場に足をあ運んだ。今日は水泳部ではなく、茶道部の新勧の手伝いが8時からあるのだ。水泳部との兼ね合いで表立って茶道部の新歓活動は出来ない分、なるべく早く着いて裏方で手伝いをしたい。

 しかし、唐突に起こった自分の身体の異変に途端に足が止まってしまった。頭がぼんやりし始め、眩暈を起こした上に足に力が入らなくなったのだ。俺はたまらず施設の外壁に肩をあずけて身体を支え、下を向いて目元を押さえた。


(また、立ちくらみか。最近、練習したりメニュー作ったり、茶道部に顔出したり新勧したりと、結構気を張ることが多かったからな。俺、疲れてるのか?)


 瞼を開くと、さっきまで普通に見えた目の前の光景がぼやけて見えた。目をぎゅっと瞑って顔を横に振り、再び目を開くと元通り問題なく見える。息を大きく吸い、ゆっくり吐くと、頭のボヤボヤした感じが消えてクリアになり、足腰に力が戻ってくる。


「……大丈夫?」


 俺の後ろから気遣わしげな声が聞こえてきた。誰だろうと、俺は後ろを振り返ると、心配そうに俺を見る知子の姿があった。少し駆け足で、俺の方に近づいてくる。


「知子か。どうした?」


 俺は、心配させまいと声の調子を整えて、いつも通り軽く知子に声を掛けた。だが、知子はそんな俺の様子を見て、歩みを止めて表情をさらに険しくした。そして、再び歩みを進めて、いや先程よりも速度と迫力を増して俺に詰め寄ってきた。


「どうしたのはたっくんよ! さっき、壁に倒れこんでいたでしょう?」

「た、ただの立ちくらみだ。気にするほどの事でもねえよ」 

「気にするわよ。最近、たっくんの身体が調子悪いの、知ってるんだから」

「本当だよ。それよりも、今日ビラ配りだろ?」

「話を逸らそうとしないの! バツが悪くなったら話を逸らす癖なんて分かってるんだから!」


 俺は知子の手元に持っていたビラを指差して話を逸らそうとするが、長い付き合いの知子には既にバレバレであった。俺は知子の迫力に押され、先ほど俺がもたれていた壁に今度は背中からもたれた。


(す、すごい剣幕だ。いや、それはまだいいとして……か、顔が近い!)


 俺の顔と知子の顔の間は、おそらく15cmもないくらいの距離だった。こんなところを誰かに見られたら誤解をされて当然だろう。

 それにこの近さは、外から見られて外面がマズイだけではない。俺の内面にとっても色々問題が起こるのだ。

 知子は、世間一般に見ても美少女だ。少なくとも、俺はそう思っているし、輝日南中にも憧れている奴もいると噂で聞いたことがある。そんな知子の顔が、自分の目で見える範囲いっぱいに広がるのだ。練習から上がったばかりのまだ少し濡れた髪とおでこに、少し潤んだ瞳。ほんのり赤みがかった頬にきゅっと結んだつややかな唇、それらを含めた全てが俺の頭をかき乱していった。顔、特に耳が熱を持っているのがしっかり分かる。

 きっと、俺は顔を真っ赤にしていることだろう。心拍数もきっとレース後ぐらいのレートの速さになっている。昔は、まだまだ子どもと意識することも無かったのに。


「……やっぱり顔が赤い。熱があるんじゃないの?」

「ふぇ?」


 俺の赤くなった顔をじいっと見つめてそのような事を言うと、知子は俺の額に左手を当てて熱がないかどうかを確かめ始めた。更に知子の顔が近づき、先ほどの眩暈に似たような症状と胸と喉に何かつっかかるような気分を感じた。


「だ、大丈夫だから」


俺は、押し寄せる気恥ずかしさに耐え切れず、右手で額に添えられた知子の左手を引き剥がした。


「え……あっ」


 小さく知子の口から声を漏れ、その後に小さく何かに気がつくようだった。冷静さを取り戻して、いままで自分がしていた事を思い出しているのだろうか。俺の顔を見て、知子の顔はみるみる真っ赤になっていった。赤くなった顔を茹蛸のようにと形容すると、まさにこの様子を指すといえよう。

 俺たちは、そのまま顔を離しも近づきもしなかった。静寂が俺たちの間に訪れ、二人の間にくすぐったいような痛いような空気が包んでいる気がした。この空気は、俺は覚えているような気がした。そう、県大会の知子のレースの後で―――

 そこまで俺は考えて、俺は頭を振り、右手に握っていた小さな知子の手を離して、


「じゃ、じゃあ、俺急ぐからまた後でな!」

「え、あ、こら! 待ちなさい! ……もう」


 俺たちを包む雰囲気の心地よさに飲まれる前に、俺は知子をその場に残して、自転車置き場に向けて走り出した。知子は俺を制止するように声を出すものの、後ろから足音は聞こえてこない。走りながらちらりと目をやると、知子はその場に立ち尽くしたままで俺を追いかけようとしなかった。その寂しげに立ちすくむ姿は、俺に「行かないで」と見えないメッセージを伝えているようだった。振り返って駆けつけたいという想いが、胸に残る苦しさと切なさと共にぐいぐいこみ上げてくる。そんな後ろ髪を引かれる思いを振る払うべく、自転車置き場を目指した。

(どうして、俺は知子にああいう感情が湧き上がったのか……)

 自転車に乗って一路学校へ向かう道中、俺は何故あんな気持ちになったのかを考えていた。それに少しだけ、もう少しだけ、ああしていたかったと小さく悔やんでいる自分にも気づかされた。

 この感情を総括して、一つの可能性に行き当たった。


(まさか、俺は――――)


 と、具体的にその可能性を文字に浮かべようとする頭を俺は頭を振って止めた。駄目だ、その感情だけは駄目なんだ。万に一つ、それが叶ってしまえば、アイツはきっと幸せになれない。


(疲れもピークになれば、情緒や思考回路に異常が生じるのは前世でも経験済みだ。今回も、疲れが引き起こした気の迷いなんだ! 疲れさえ取れれば、この感情は幻だと分かるはずだ!)


 俺は余計なことを考えないよう、ハンドルを力いっぱい握り締めペダルを一心不乱に漕いで全速力で学校に向かう。胸の奥に残る感情のしこりが口に出ないように、奥歯を噛み締めながら。











 学校に向かってからの俺は、先ほどの出来事を忘れようとがむしゃらに茶道部の新歓活動のバックアップに勤しんだ。途中、同じような眩暈を起こしたが、無事与えられたタスクを満足にやりきることができた。ただ、俺の立ちくらんだ姿を見た飛羽と夕月は、体調が芳しくないのを察知したのか、冗談やいつもの漫才を繰り広げることはなかった。逆に気を遣われたくらいだ、あの二人に。明日雨が降るんじゃないのかと疑ったくらいさ。

 練習、そして新勧活動も終えた後は、ひと時の休息を得るべく、俺は午前中の授業で貪欲に眠った。中学や高校で朝練のある部活、大学生で体育会に所属していた人なら分かるかもしれないが、朝に精も根も尽きている時には朝の授業や講義は絶好の体力回復の機会なのだ。何処かで体力を回復しておかないと、夕方の練習はおろか昼まで持たない可能性がある。ただ、これを実践すれば、学生の本分は勉強であると主張する先生諸君からはさぞウケの悪い問題児と見られるためにおススメできない。

 それでも、今年は授業中であっても席に着いていた。それには、理由があった。


(本当なら、今年も屋上や図書館、保健室で日向ぼっこでもしていたかったんだけど、今年はな……)


 俺は欠伸を噛み殺しながら、隣の席の女子、我らがクラス委員長を横目でちらりと見た。

 ぼんやりした俺とは対称的に、塚原響は黒板を真剣な表情で見やり、視線をノートに落とし鉛筆をノートにさらさらっと走らせていた。本当にたったそれだけの何気ない事なのに、どこか知的な雰囲気が醸し出されているように感じられた。この姿を絵に残して置いたら、後年価値がでるんじゃないのかとさえ思えてくる。さすがは後年、医学部で医者としての道を歩むだけのことはあるな、と俺はたいしたもんだと感心させられてしまった。

 そう、俺の生活態度の変化は、響がクラス委員長に立候補して当選してしまったからである。サボろうと思えばサボれるのだが、流石に響に負担をかけるような事は表立ってしようとは思えなかったのだ。もしかしたら、これが狙いだったのかもしれない。そうなら、とんでもない小悪魔だ。食えないヤツめ……






 それから数秒過ぎたのか数分過ぎたのか良く分からない。分かっていたのは、俺はどうやら寝てしまっていたようだ。意識がおぼろげに戻ってくると同時に、肩をゆさゆさ揺らされている感覚と誰かが俺を呼んでいる声が聞こえてくるのが分かってくる。


「こら、遠野君! 授業中よ!」

「痛っ!」


 大きな声に次いで、パコッと小気味の良い音が俺の頭部の衝撃と同時に訪れた。じんわりと頭に軽い痛みが広がり、右手で頭を押さえながら顔を上げた。顔を上げた先には、呆れ顔の国語教諭・カワカミ先生が目の前に立っていた。彼女の手には丸められた教科書が握られており、それで俺の頭を叩いたようだ。


「遠野君、あなたの番よ。教科書開いて読みなさい」


 カワカミ先生は、丸めた教科書を元の形に直しながら教壇に戻り、俺のほうを向いて言った。読めと言われても、どの箇所から読めばいいか分からない俺は、とりあえず椅子から腰を上げて教科書を開いてページを探すフリをした。当然、そんな事をしても読み始める文が何処からなのか分かるはずもない。こういう時は、一応立っておいて後から分からないといった方が相手に与える心象は少しはマシになるのだ。大人になって、この態度は最悪ではあるが。


「18ページの3行目の途中の文から」


 と、隣からボソッと助け舟が渡された。18ページを開いて、3行目の文章を目で追い読み始めの文章を探し当てた俺は、助け舟の船頭である響に心の中で感謝した。


「『小さな僕が大好きだった本は、いまも本棚の中に大切に置かれていた。背表紙は……』」


 そのまま、俺は30秒くらい文章を読み続けた。作者もタイトルも見たことがないが、どうやら子どものころに大好きだった本を10年過ぎて見つけたときの情景を文章にした箇所であるようだ。常用漢字以上の言葉は使われていなかったので特に詰まることなく、朗読は進んだ。


「はい、遠野君ありがとう。今後は寝ないように気をつけて」

「ふぁい」と、欠伸と返事が被って生返事となってしまった。

「生返事しないの!」

「はい!」


 教室中から笑いが起き、俺は苦笑いを浮かべながら席に着いた。隣を見ると、響が笑っていた。何だか照れくさくなって、俺は頭を掻いてごまかした。

 それから何度もコックリコックリ舟をこいだりしていたが無事に50分を乗り切り、待望の休み時間が訪れた。








「ふわぁ……」

「こら拓君、背中を丸めないの」


 両手一杯にクラス全員分のノートの山を抱えて生欠伸する俺を、俺が持ちきれなかった分のノートを抱えた響が穏やかな口調で嗜めた。カワカミ先生の罰で俺は、ほぼ全員分のノートを職員室への運搬を命じられていた。


「欠伸をするなと言われてもな。陽が高くなればこんなに暖かくてポカポカしてるんだぞ? 寝ないという方が春と言う季節様に失礼だ」

「そうね。私も欠伸のひとつやふたつは、出てしまいそうだもの」

「口だけとしか思えないな」

「そう? 負荷の大きな練習だったから、集中力の維持は大変だったわ」


 と、肩を少しだけ竦めて、響はそう言った。


「それに授業でポイントを掴もうと集中すれば、眠くなんてならない。これを教えてくれたのは拓君じゃなかったかしら」

「そうだっけか」

「そうよ」


 ふふっ、と響は笑い始める。

 小学校の頃の生活は、理性や論理とは無縁のものが数多く存在していて精神的に耐え切れず、奇行に走って耐えることに精一杯だったからよく覚えていなかった。それでも、響に勉強を教えたことは覚えていた。何処で言ったか覚えてはいないが、確かに響がさきほど口にしたようなことを口走った気がする。

 こうした思い出話に花を咲かせながら、廊下や階段を抜けていくと目の前に職員室が見え始めた。


「そういえば、響」

「うん、何かしら」


 俺は、前々から思っていたことを訊こうと口を開いた。


「何でお前、委員長なんて引き受けたんだ? 今年はおそらく色々忙しいはずなのに」

「そうね、確かに忙しいわ」

「だったら」

「でも、委員長も今の忙しさも今だから体験できることだと思う。忙しい、辛い、楽しい、嬉しい、みんな今だからこそ得られる感情や経験だと思うの。だから面倒臭いと言ってやろうとしなければ、こういった事を経験できないで、大人になって、あの時こうすればよかったと後悔するかもしれない。だから、いまやって失敗したなと早めに後悔した方が大人になってから笑い話の一つとなって、人生にとってプラスになると考えているのよ……なんてね」


 響の語りを聞いて、俺は響きの中に「若さ」を見たような気がした。勿論、肉体的なものを指すのではなく、精神的な対象だ。まだ先の長い無数の選択肢を用意してある人生に胸を躍らせて努力をする姿勢や、無知で漫然と生きていく姿勢。挫折や失望の経験を積み過ぎてしまった俺の中には既に枯れてしまったかもしれない光みたいなものを見た、という気がした。


「本当にたいしたヤツだ。響はもう大人になった時の自分を考えているのか」


 俺は、妙に優しい口調で響にそう言った。自分でもこんなに優しい気持ちになっているだなんて思ってもおらず、俺は一人驚いていた。強烈な若さの眩さを見て、ついこのような気持ちになったのかは分からない。


「まぁ、それだけじゃないんだけど」

「他にも理由があるのか?」


 響は、急に軽い調子を変えて言葉を続けた。


「私が委員長になれば、拓君が生活態度を改めるようになると思ったのよ。その調子に、拓君は授業をサボらなくなったでしょう」

「……冗談?」

「冗談、と言ったら拓君は喜んでくれるかしら」

「出来の悪い冗談だと言ってやるよ」















「はい、お疲れ様。塚原さんも。遠野君、次からは授業中に眠らないよう、気をつけるのよ」


 職員室の机で次の授業の準備をしているカワカミ先生が、俺たちが運んできたノートの山をぽんぽんと軽く手で叩きながら、俺たちに言った。


「はい、申し訳ございませんでした」


 俺は、カワカミ先生に素直な気持ちで謝った。どんなに疲れていると理由をこじつけても、俺が寝ていたことが悪かった。


「塚原さん、また遠野君が居眠りしていそうだったら頼むわね」

「はい、先生。任せてください」

「うん、任せた」


 任せなくてもいいのに、と俺は二人のやり取りを傍聴しながら心の中でぼやいた。


「そうだ、眠気覚ましにコーヒーでも飲んでいく?」

「すみません。頂きたいのはやまやまなのですが、そろそろ教室に戻ります」


 先生はコーヒーを勧めてくれたが、俺は丁重に断った。コーヒーが嫌いだからではない、むしろ好きなくらいだ。

 断った理由は、俺自身の先生方にウケが悪いことから、職員室に長居すると針のムシロになっている気がして、居心地が悪いのだ。少なくとも、俺自身は先生方からのウケが良いとは思っていない。表立って罵声を浴びることは流石に無いが、口達者で生意気な生徒、授業態度が芳しくない問題児、などの感情を込めた視線が向けられていることくらい分かる。


「そう? じゃあ、次の授業もしっかり聞くようにね」

「はい、それでは失礼します」

「失礼します」


 俺たちはカワカミ先生に一礼して、その場を離れようとした。その時である。


「う……」


 再び眩暈が俺を襲った。その強烈さは前回とは比べようもないほど強く、目元を押さえた。やがて、足や頭には意識が向かなくなり、やがて――俺の身体は、職員室の床に打ち付けられた。

 意識を失う前に見た最後の光景は、響の驚いた顔、そしてその顔が悲しく歪んでいくものだった。そんな顔、見たくなかったのに。 
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