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SAO-銀ノ月-

作者:蓮夜
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第七十話

「翔希ー、遅刻」

「まだ約束より十分も前だろ……」

 所沢市。自宅からは電車で数駅離れている、いかにも地方都市といった駅に降り立った瞬間に、俺はリズ――里香からのお叱りの言葉を賜った。はて、まだ約束していた時間よりも十分以上の余裕があるはずだが。

「こういう時は、男の子が早く来るべきじゃない?」

「知らん」

 そんな軽口を適当にこなしつつ、俺たちはほどなく駅前のバス停に停車したバスへと乗る。里香を窓際に、二人掛けの青い椅子に座ると、気だるげな運転手の声とともに、バスは目的地へと発車していく。

 あまり時間はかからずに目的地までは行けるようで、二年という歳月で様変わりした地方都市を――眺めている里香の横顔を――見つつ、俺は先日のALOのことを思い出していく。

 象水母型邪神《トンキー》の協力のおかげで、凍りついた地下世界《ヨツンヘイム》からの脱出に成功した俺たちは、遂に首都《アルン》――ラストダンジョンである《世界樹》がある町へと到着した。ALOの町の例に漏れず、夜中だろうと美しい光景が広がっていたが、それを楽しむほど俺たちに余裕はなく、さっさと近くの宿でログアウトすることとなった。

 ……とにかくユイの誘導に従って近い宿泊施設に寄ると、妙に値段が張ったり、何故か建物内に設えられた鍛冶屋にリズが吸い寄せられていったり、キリトの所持金が0だったりと一悶着はあったが。

 それはともかくとして、何とか世界樹まで辿り着く事が出来た。一刻も早くアスナについて調べたいところだが、残念ながらALOはこれからメンテナンスらしく、ログイン出来るのは速くても今日の午後。アクセス過多やメンテナンスが長引くなどの障害を計算に入れずとも、まだまだ俺たちはALOに入ることは出来ない。

 なので午前中はしっかりと休み、ALOに入る前に一度、エギルの経営する喫茶店《ダイシー・カフェ》でキリトにリズ、俺にエギルで情報収集をするということになっていた。だが、その情報収集前に里香から『頼み事』があり、俺たちは今ある場所に向かっている。

『――次は所沢総合病院前ー……お降りのお客様は――』

 運転手のやる気のない声に反応し、思索を終えて席を立つ。この町で一番大きな病院であるだけあって、身なりを気にしているような降りる客も随分と多い。そんな彼らに混じって市営バスから降りると、ホテルのような建物が俺と里香の前に立ちはだかった。

「ここ……よね?」

「ああ。俺もキリトから聞いただけで、来るのは初めてだけどな……」

 所沢総合病院。郊外の一等地に立てられたこの場所は、あの『SAO事件』の対応もしていたとのことだ。そして今、アスナが――結城明日奈が眠り続けている場所でもあるという。

 里香の『頼み事』とは、親友のお見舞いだった。

 里香と――いや、リズとアスナはあの浮遊城において親友だった。キリトとアスナの結婚を一番喜んでいたのも彼女だったし、アスナも攻略の合間に良くリズの店に顔を出していた。そして今も、親友を助ける為に彼女はALOに入っている。……決して目覚めないとは分かっていても、アスナの見舞いに行きたがっていた。

 受付で簡単に手続きを済まし、アスナの病室がある階までエレベーターで移動する。……意識不明の親友の見舞いに行く、というシチュエーションでは仕方のない事だが、里香の横顔はいつもでは考えられないほど暗い。何か気の利いた一言でも言ってあげられれば良いが、俺がどう言うか困っている矢先に、里香が先に口を開いた。

「その……ごめん、ね。何か暗くて。あたしらしく、ないよね……」

「いつも元気すぎるからな……良いんじゃないか、たまには」

 無理して明るく努めようとしている里香に、それとなく『無理するな』と伝えるとともに、エレベーターが電子音とともに目的の階に止まったことを知らせた。迷子になりそうなほど広い入院棟に足を踏み入れると、俺はキリトに聞いた病室へと歩を進めていく。この階層は個室の入院患者ばかりで、音という音は、忙しなく働いている看護士の方たち以外は全くの無音で、かえって不安を煽っているかのようだった。

「……ここか」

 入院患者の名前に『結城明日奈』と書いてあることを確認し、一呼吸置いてから病室のドアを開ける。広々とした部屋に色とりどりの花が飾られており、一見すると祝い事の席のように感じられる。……もちろん、事態と場所はその逆なのだが。

 病室の中には人の気配はまるでない。――人の気配が無いはずが無いのに。ピ、ピ、という無機質な音声を響かせ、入院患者がいるだろうベットのカーテンは閉ざされている。……いや、良く見るとカーテンの隙間から栗色の髪の毛が……?

「――アスナ!」

 いてもたってもいられなくなった里香が、俺を押しのけて病室へと突入する。そして栗色の髪の毛が覗く、ベットのカーテンを静かに引き、カーテンで仕切られていた向こう側が露わになる。

 ……そこには、やはり。かつての自分たちと同じように、最新の介護型ベットに――身体中に繋がれたコードは、まるで拘束具のようだ――アスナが横たわっていた。その顔にはまだ、悪魔の機械《ナーヴギア》が装着されたままで。

「アスナ……」

 里香の沈んだ声と、俺が病室のドアを閉める音が、タイミング良く重なった。

 物言わぬアスナ――明日奈に俺とリズも言葉を失ってしまう。幸いにも、看護士の方々かご家族の方々の介護は充分に行き届いているようで安心したが、俯く里香とナーヴギアに囚われたままの明日奈を見ると、自然と腕に力が込められる。何処にもぶつけることの出来ない怒りが俺の手を握り拳にするが、今の俺に何が出来るわけでもない。……その無力さもまた、怒りに転用されてしまうが。

「……アスナ。絶対助けるからね。……絶対……!」

 里香が明日奈の手を握って決意を口にする。明日奈の手を見ると、血が通っているかも分からないほど肌が白くなっていた。……アスナとはあまり個人的に付き合いは無かった自分でも『こう』ならば、恋人と親友だったキリトにリズの気持ちはいかほどのものか。……想像に難くない。

 キリトへの恩返しというだけではない。アスナの為にも、キリトの為にも、里香の為にも――この事件は絶対に解決しなくてはならない。

 そう静かに決意を固め直していると、ガチャリ、という音とともに背後のドアが開かれ、スーツ姿の青年が病室へと入って来た。眼鏡に仕立ての良さそうなダークグレーのスーツと、やり手の官僚のような印象を受ける男だった。

「君たちは、『向こう側』での明日奈の友人かい?」

「……はい」

 柔らかな物腰でその青年は笑いかけてくると、まるで何かの劇のように大げさにこちらに歩いてくる。『向こう側』の事情を知っているという事は、明日奈の関係者――なのは間違いないとして、親戚か何かだろうか?

「そうか、嬉しいよ……きっと、明日奈も喜んでくれているだろう」

 青年は明日奈が横たわったベットの側面に移動すると、里香が握っていない方の手を小さく握っていた。だが、寝たきりの明日奈を労るような握り方ではなく、まるで芸術品の値踏みをしているかのような手つきだと感じた。

「……そんな死んだみたいな言い方っ……!」

「おい、落ち着け里香」

 そして青年の言葉に眉間に皺を寄せながら、里香が青年を睨みつける。今にも殴りかからんとしそうな雰囲気が里香から噴出し、手遅れになる前に何とか慌ててその肩を抑えた。

「でも、翔希……!」

「翔希……とすると、君が『ショウキ』くんかい? あのキリトくんと茅場晶彦を止めたっていう?」

 先の失言を取り消すこともなく、青年は里香が言った俺の名前である『翔希』に反応する。キャラネームとリアルでの本名が同じの為、少しややこしく聞こえるが、青年は俺を『ショウキ』であるか尋ねている。どのように広まっているか知らないが、一応「はい」と答えると、青年は大げさに両手を広げた。

「そうか、君がか! ……おっと、自己紹介が遅れたね。僕の名前は須郷……いや、結城伸之と言うんだ。今後ともよろしくお願いするよ」

 結城伸之と名乗った瞬間――青年の顔が歪む。細められた糸目は開いて三白眼になり、人の良さそうな顔はまるで蛇のような印象に変わる。しかしそれも一瞬だけのことで、結城伸之は再び元の笑顔に戻ると、こちらに向けてニコニコと微笑んで来る。

「……須郷?」

「ああ、これから僕は結城家に養子縁組みをすることになっているけど……まだ慣れなくてね」

 養子縁組み。親戚という考えは、あながち間違いでは無かったらしい。しかし聞いたのはこちら側だが、随分初対面の俺たちにペラペラと話してくれる。そんな俺の疑問の視線を受けたのか、結城伸之はこちらに苦笑いを返す。

「明日奈を助けてくれた君とキリト君には感謝しきれないからね……ああそうだ、キリト君にも言ったけど、君たちにも言っておかなくてはね」

「話?」

 キリトは毎日この病室に来ているとのことで、この結城伸之という青年と先に会っているというのは不思議ではない。しかし、キリトが明日奈のことについて、何も言わないというのは不自然だが……はてさて。どのような話だろうか。

「養子縁組みをするという話だったけどねぇ……僕はこれから、明日奈と結婚するんだ」

「結、婚……?」

 ――結城伸之が放ったその一言に、俺は言葉を失い、里香は震える声で聞き返す。明日奈はまだ目覚めていないというのに……?

「ああ、結婚さ。いつ目覚めるかも分からないんだ、こうして綺麗なうちに花嫁姿にしてあげた方が幸せだろう?」

 ……嘘だ。目の前の男からは、曲がりなりにも明日奈を幸せにしてやろう、というような気概はまるで感じられない。先程までの雰囲気はまるで感じさせず、ニヤニヤと――何が楽しいのか――笑っており、やはり蛇のようだ。

「アスナがまだ意識不明だっていうのに、そんなこと!」

「出来るさ。明日奈の義父さんは納得しているし、まあ事実婚ということになるのかな?」

 里香が詰め寄っていくものの、結城伸之は飄々とした態度でその詰問をかわしていく。里香と俺が何も言うことが出来なくなったのを見ると、大事そうに明日奈の肌に触ると、スーッと自らの手を滑らせていく。

「……ッ! やめなさいよアンタ!」

「おっと、怖い怖い。病院では静かに願いたいねぇ……そうだ、良いことを一つ、教えてあげよう」

 里香の脅迫めいた声色の警告を受けるものの、どこ吹く風、といった様子で結城伸之は明日奈の身体を物色するように触っていく。我慢出来ずに里香が飛び出すと、結城伸之の手をはたいて無理やり明日奈の身体から離させる。すると結城伸之は、やはりニヤニヤと笑いながら大げさに人差し指を一本立て、俺たちに『良いこと』を宣言した。

「僕は『レクト』のある部署の主任を勤めていてねぇ……フルダイブの研究部門をやっているんだ」

 それがどうした――と思ったものの、頭の中で彼が言ったことを反芻する。彼が今言った《レクト》という会社は、総合電子メーカーとして名を馳せている。SAO事件の責任や賠償の為に破産した《アーガス》に代わり、SAOサーバーを管理する仕事を一手に引き受けたとして、俺たちプレイヤーには間接的に命の恩人とも言える。

 目の前にいる青年がその責任者だと、するならば――

「おっと、気づいたようだね。流石は英雄だよ……フフッ」

 ――俺たちの命を繋ぎ留めていたのは……いや、最低でも今もまだ目覚めない明日奈の命を繋ぎ留めているのは、俺たちを鼻でせせら笑っているこの青年だということになる。

「分かったかい? わざわざ高い金を払って生かしてやってるんだ、これくらいは報酬として貰っても構わないだろう?」

「このっ!」

「……抑えろ、リズっ……!」

 遂に殴りかかろうてした里香を何とか止める。今、こちらが彼に何をしようと、それは結果的には彼を喜ばせるだけに過ぎない。もちろん里香もそれは分かっているのだろう、取り押さえようとする俺に対して、すぐに抵抗を止める。

「リズ……ああ、君が向こうで明日奈の親友だったという。明日奈に代わって礼を言うよ。ありがとう」

 許されるなら今すぐにでも殴りかかる――そんな俺たちの様子が堪らなく面白そうに、哄笑が溢れてしまわないように口の端を吊り上げながら、結城伸之はそう言いながら何かをポケットから取り出すと、こちらに向かって投げてきた。投げた、といってもキャッチボールのように緩やかであり、受け取るのは容易だったが。

「メジャー……?」

「ああ、君じゃないよ翔希くん。そっちの彼女に渡してくれ」

 渡された――投げられたのは計測用のメジャー。反射的に俺がキャッチしてしまったが、どうやら里香に渡したかったらしい。何の用か警戒して里香に渡したくはなかったが、里香本人が俺の手からそのメジャーを引ったくると、挑戦的に彼の方を睨みつける。

「……何よ」

「僕が今日来たのは、お見舞いの他にも用事があってね。僕と明日奈の結婚式に使う、ドレスのサイズを測りにきたんだよ」

 やはり一生に一度のことだ、大事にやらないとね――などと結城伸之はうそぶく。そのために計測用のメジャーを持ってきたのだろうが、それをどうして里香へと渡すのか。

「なに、親友である君が測ってくれれば、明日奈も喜ぶだろう……ああ、君がもしも嫌だって言うなら、夫である僕が測る訳しかないだけど……」

「――ッ!」

 里香の息を呑む音が、隣の俺にも聞こえてくるようだった。要するに彼はこう言っているのだ――彼と明日奈の結婚式をいかなる形であれ協力するか、親友の身体を彼へと預けるか、どちらかを自分の手で選択しろ、と。もちろん選べるわけがない。その理不尽な選択に、里香を抑えていた俺が彼に殴りかからんとした時、静かにドアが開いた。

「結城さんの定期検診に――」

「――それでは『須郷さん』、また」

 定期検診に来た看護士の方が来た隙に、怒りで身体を震わせている里香を無理やり引っ張り、明日奈の病室から逃げるように立ち去った。去り際に『須郷さん』――ということを強調して言うしか、今の俺に出来ることは、無かった。


 俺たちが病室から出るとき、彼は――須郷はにこやかに看護士に挨拶をしていた。その様子からは、まるで先程までの一面を感じさせなかったものの、蛇のような目はこちらを捉えたまま――静かに笑っていた。


「やあ一条くん、奇遇だねぇ」

 そんな最悪の気分のまま病院から出た俺たちを、さほど呼ばれる機会がない俺の名字とともに待っていたのは、胡散臭い笑顔だった。恩人だろうに妙に信用出来なさそうな雰囲気は、先程の須郷とも良い勝負だろう。

「……建物の前に車で待ち構えてるのは、奇遇って言いませんよ……菊岡さん」

 自称、SAO事件対策本部のしがない公務員こと、菊岡さんと高級そうな車が病院前に鎮座していた。くたびれたスーツ姿のこの役人は、こうして奇遇だと称してたまに接触してくるのだ……機嫌が悪い時を見計らったように。どうしても対応が刺々しくなってしまうが、当の本人はまるで気にしていないようだ。

「ん? そうかい? それにしても君、この前会った時と違う可愛い女の子連れてるけど……まさか浮気かい?」

「里香。この人はSAO事件対策本部の菊岡さん。色々お世話になってるんだ」

「えっと……よろしく、お願いします」

 菊岡さんの言葉を華麗にスルーしつつ、里香に菊岡さんを紹介する。お世話になっていることは、まあ……確かだ。妙なテンションで軽快に話している菊岡さんに、SAO事件対策本部という自分たちを助けてくれていた者たちのイメージが崩れたのか、何とも微妙な表情で里香は挨拶する。

「紹介された通り、SAO事件対策本部の……まあ、君たちには悪いが対策らしい対策は出来なかったけども……菊岡誠二郎だ。よろしく」

 慣れた手つきで素早く名刺を胸ポケットから取り出すと、必要以上に恭しく里香に礼をしつつ、名刺を無理やり彼女に渡す。……わざわざこちらから言うことではないし、向こうからもわざわざ言ってはこないが、菊岡さんは里香が《SAO生還者》だということは分かっているだろう。わざわざ『奇遇』にも病院の前であったのだから――当の菊岡さん本人は、俺のそんな思いを知ってか知らずか、高級車のドアを開けつつこちらを手招きしていた。

「ささ、積もる話もあるだろうし、タクシー代わりに使ってよ」

「えーっと……」

 名刺を貰ったとは言え、流石に初対面の怪しい人物の車内に乗ることには抵抗があるらしく、里香がこちらへと視線を送ってくる。これからリハビリも兼ねて、キリトが待っているだろう《ダイシー・カフェ》に行く予定だったが……まあ、今日のところは『奇遇』にも会った菊岡さんに甘えさせてもらうことにする。

「じゃあお願いしますよ。目的地は――」

「アンドリュー氏の喫茶店かい? あそこは良い雰囲気だよねぇ」

 慣れない手つきでカーナビに目的地を入力していくと、後ろから覗き込んでいた菊岡さんがそう呟く。……既にリサーチ済みというか、接触済みらしい。無表情の運転手の方に一礼すると、俺たち三人を後部座席に乗せた高級車は《ダイシー・カフェ》に向けて発進していく。



 ――結論から言うと、積もる話など特に無かった。

「……一条くん、君の彼女が重いんだけど」

 菊岡さんがそっと耳打ちして来たその言葉は、たいそう女性に対して失礼な物言いではあるが、今はとてつもなく同意したい。もちろん里香が物理的に重いとか、そういう訳ではなく、里香から発せられる車内の空気が重い。『不機嫌なオーラ』とでも言うべきか、そんなオーラが車内に充満していた。換気したい。

「君たちの空気が悪いからわざわざ軽い感じで言ったのに、何か喧嘩でもしたのかい一条くん」

「軽い……感じ? いつも通りじゃ」

「今はそんなことより車内の空気が問題だよ」

 ヒソヒソと男同士の何の身にもならない話し合いが続く。里香の機嫌が悪い原因は、十中八九先程の須郷のことだろうが……思った以上に糸を引いている。俺ももちろん苛立ってはいたものの、この危機を目の前にしてはそんなことは些細な問題である。

「……男同士で何ヒソヒソやってんのよ、翔希」

「いや何でもないさ、なあ一条くん」

 にこやかに菊岡さんが対応すると、里香は少しばかりこちらをジト目で睨んできたものの、すぐにそっぽを向いて車外へと目を向ける。そんなこんなで移動中は生きた心地はしなかったが、無事に《ダイシー・カフェ》へと到着すると、菊岡さんを含めた三人は車外へと降りた。

「……菊岡さんもここに用事で?」

「ハハ。公務員だって、たまにはこういう雰囲気の良いところでサボりたい時があるんだ」

 そんなことを笑みを浮かべながら言ってのけると、三人で《ダイシー・カフェ》の店内に入っていく。相変わらず独特の雰囲気を醸し出している店内では、まだ正午にも達していない時間帯ということからか、他の客の気配は感じられない。店内にいたのは厳つい顔をした店主と、黒い服を着た少年のみだった。

「いらっしゃい。ショウキに……おっ、久しぶりだなリズ。それに……?」

「……菊岡さん? なんでここに?」

 俺と里香がここに来る、ということは先にキリトがエギルに言っていたらしく、エギルは簡単に対応する。しかし、俺たちと一緒に怪しい笑顔を浮かべる人物のことは知らないのか、その強面が怪訝な表情をしていた。対して、キリトは菊岡さんのことを知っているらしく、どことなくうんざりとした苦笑を浮かべていた。

「アンドリュー・ギルバート・ミルズさん。お話は桐ヶ谷君から聞いています。私、SAO対策本部の菊岡です」

「は、はあ……」

 エギルは困惑しながらも差し出された名刺を受け取ると、胡乱げな表情で名刺とキリトの顔を交互に見つめていた。キリトは本当だ、と言わんばかりにコクリと頷くと、エギルは名刺をポケットにしまいつつ言った。

「積もる話もあるでしょうが……まずは席に座って注文でもどうぞ。ほら、ショウキにリズも」

「……ごめんエギル、ちょっと店の奥借りる」

 店内に入ってから沈黙を保ち続けた里香がそう言葉を発したかと思えば、エギルの「お、おう……」という了承の言葉とともに、ツカツカと足音をたてて里香は店の奥に引っ込んでいく。取り残された男性陣はポカンとしながら、全員ほぼ同時に俺の顔を見てきた。

「何したんだ、ショウキ」

「ショウキ、まず謝ってこい」

「やっぱり一条くんが何かしたのかい?」

「…………違う」

 そこまで一斉に濡れ衣を着せられると、むしろ俺が何かしたのかという錯覚に襲われ、少しばかり思索に耽ってしまったがそんなことはない。濡れ衣は濡れ衣である。というか他の二人はともかく、さっきまで同じ苦痛を体感していた筈の菊岡さんは完全に悪ノリでしかない。

「実は……」

 と、前置きは簡単に病院で起きたことを手短に話す。もちろん、病室で会った須郷のことだ。――キリトの前で言うには酷な話だが、須郷のあの口振りからして、もうキリトとは接触済みであろう。キリトは一日たりとも欠かさずアスナの見舞いに行っているのだから、須郷との接触がないと考える方がおかしい。

「…………」

 案の定キリトの表情に暗い影が落ちる。エギルもチラリとキリトの方へ目線を向けていて、何か言葉をかけてやろうとしたその時――

「な、ん、な、のよアイツはっ!」

 ――という空気を震わす怒声が店の奥から響き渡り、その直後に何かが盛大に破壊される音がしたのだった。


「……ごめん」

 ――怒声と破壊音がしてから数分後、俺たちはテーブル席に落ち着き、里香のしょんぼりとした謝罪を聞いていた。机の上にはそれぞれの飲み物と、里香の前には大破したメジャーが置いてある。……要するに、先程の怒声は里香の盛大な八つ当たりだ。

 店の奥で大声を出し、俺が無理やり連れ出したせいで持ってきたままだったメジャーをぶち壊し、里香は空気を悪くしたことを詫びるぐらいには冷静に――

「あ゛あ゛あ゛思い出してもムカつくアイツ!」

 ――なったかは不明だが。物に当たってしまうほどイラついていた里香に対し、触れないようにしたのは正解だったようだ。……まあそれはともかく、これでようやくALOやSAO未帰還者について話すことが出来そうだ。

「しかし、レクトの結城――いや、須郷伸之、か」

 菊岡さんが顎に手を当てて考え込む動作を取る。ALOはレクトの子会社が発売しているゲームであり、須郷伸之が言っていることが本当ならば、レクトのフルダイブ関係のトップは須郷ということになる。これまでは、それはただの疑惑で済んでいたが、ALOの内部構造がSAOに酷似している――これはユイの調べで明らかだ――ことに加え、眠っていた方が彼にとって都合の良いアスナ。関係がないと言いきる方が難しい。

「対策本部からは調べられないのか?」

「……いや、役に立たなくて悪いけど、これだけではね……」

 キリトの直球な質問に対して、菊岡さんは残念そうに首を振る。当然だ。俺たちが言っていることは、まだ言いがかりにも満たないのだから。いくら関係があると考えても、これだけでは菊岡さんは動けない。

「エギルがネットから見つけたっていう、アスナの写真は? あれじゃダメなの?」

 里香がさらにそうたたみかけるように質問するものの、彼女本人も分かっているだろう、ネットで一プレイヤーが撮った写真にどんな効力があるというのか。やはり菊岡さんの返答は芳しくなかったものの、「ただし」、と言葉の末尾に置く。

「アンドリュー氏の写真は対策本部でも検証済みだよ。十中八九、結城明日奈さんで間違いないとね」

「……それだけ聞ければ充分です。なぁ、キリト」

 ここまで来て他人の空似ではどうしようもない。俺の問いにキリトも力強く頷くと、さらに次の話題に移る。このまま対策本部のことだけを話していても意味はない。……それに、菊岡さんが本当に何も動いていないとは思えない。

「キリト、ALOの中の方はどうなんだ?」

「ユイに計測してもらったけど、やっぱり中はSAOだ。もちろん、ちょっとは弄ってあるみたいだが……」

「ゲーム内部に何かあれば対策本部が動ける。そうなれば、めでたく事件解決だ」

 外部からの解決が期待できないなら、ゲーム内部からの解決――ないし、証拠を見つけて外部に連絡する。最低条件はやはり、《世界樹》の上にいるであろうアスナとの接触か。ただし、ゲーム内部でいくら証拠を掴んでいようが、やはり最後は菊岡さんを始めとした外部に任せるしかない訳だが。

「シルフのプレイヤーが二人協力してくれて、世界樹の街までは辿り着いた。今日にでも、世界樹の攻略に入れる」

「……流石はあのSAOの生き残りたちだ、仕事が早いね」

「だがよキリト。ちょっと調べてみたが、世界樹の中は並じゃないらしいじゃねぇか。大丈夫か?」

 珍しく菊岡さんの感嘆の感情が籠もった言葉の次に、エギルの心配そうな声がキリトに問いかけられる。俺と里香も、《世界樹》の攻略の難しさは、嫌と言うほどレコンから聞いているが……俺たちにも策がないわけではない。

「シルフとケットシーの増援、よね」

「増援?」

 シルフとケットシー、そしてサラマンダーを巻き込んだ一連の事件は、レコンからの事前の連絡とキリトの敵大将撃破により終結を告げた。ここからは俺の預かり知らぬところだが、キリトが全財産を――SAO時のキリト夫妻のデータを引き継いでいるので、それこそ億万長者だっただろう――シルフとケットシーに渡し、出来るだけ早くの《世界樹》攻略戦を約束したらしい。そのせいで先日の割高なホテルが金は俺が出すことになったが、準備が出来たらレコンに連絡が来るとのことだ。

「……そんなのは待ってられない、俺たち六人だけで……」

 ……ボソリとキリトがそう呟いた言葉は聞かなかったことにすると、菊岡さんから予想外の質問が寄せられた。

「しかし、そのシルフとケットシーの援軍はどうやって来るんだろうね? キリト君だって、世界樹に行くだけで苦労するんだろう? 戦力を維持したまま世界樹まで行けるのかい?」

「え? ああ、それは――」

 菊岡さんが発したその質問は、奇しくも俺がログアウトする前にリーファへと発したものと同じだった。その返答のままとなってしまうが、菊岡さんへと説明する。

 リーファ曰わく、ケットシーは世界樹進行用の空路――俺や里香たちが利用した、ウンディーネが制作していた水路のような物だろう――を既に制作しているとのこと。輸送用の飛竜を用意し、世界樹攻略に参加しないプレイヤーが総出でガードすれば、無傷で世界樹まで行く事も不可能ではないらしい。シルフ軍はその空路に相乗りさせてもらい、キリトという特別な戦力とサラマンダーの活動が沈静化している今が、世界樹攻略のチャンスだとは領主たちも考えているらしい。

「ふむふむ。ありがとう一条くん、これで納得したよ」

 ――と、リーファの受け売りで説明していくと、菊岡さんは妙に納得したような表情で頷いた。キリトの現状報告より、このどうでも良い情報を気にしているような……?

「――っと、悪い。そろそろアスナのお見舞いの時間なんだ」

 キリトがそう言いながら《ダイシー・カフェ》名物の辛いジンジャーエールを一気飲みすると、素早くコートを羽織るとエギルに代金を手渡した。アスナのお見舞いに行くにしたって、いささか慌てているようにも見える。

「どうしたキリト、そんな慌てて」

「スグ……妹を待たせてるんだ。アスナのお見舞いに一緒に行きたいってさ」

「へぇ……キリト、あんた妹いるの? 可愛い?」

 変なところに里香が反応して突っ込んだ。「……妹がいちゃ悪いかよ」と返しつつ、キリトがいそいそと帰る準備を整える。……可愛いかどうかは答えないらしいが、わざわざ俺が直葉のことを口出しするのもおかしな話だ。

「んじゃ、今日はこれでお開きだ。ショウキとリズも帰んな」

 キリトの帰り支度と店主からの退去勧告をもって、今回の話し合いを終える。話し合いと言いつつ何が決まった訳でもないが……

「あ、キリトー。アスナの病室にアイツ宛てにこれ置いといて」

「……壊れたメジャーとかアスナの病室に置きたくないから勘弁してください」

 大破したメジャーの受け取りを拒否しつつ、キリトは先に《ダイシー・カフェ》の店内から出て行く。その間に俺はエギルに代金を払っていると、里香はそのまま前衛芸術となったメジャーをゴミ箱に投げ入れた。すまないメジャー、君に罪はないがタイミングが不味かった。

「……菊岡さんは帰らないんで?」

「ああ、僕はまだここでサボってるよ。前に停まってる車の運転手に頼めば、最寄り駅までは送ってくれるから先に帰ってて」

 そう言って菊岡さんだけ新たに飲み物を追加注文する。あまり詳しくはないものの、その飲み物にはアルコールが入っていた気がするが。……サボってるなどと言いつつ何をする気かは知らないが、さて、菊岡さんの今日の『奇遇』な用事とは何だったのか。……などと考えながら、俺と里香は《ダイシー・カフェ》を後にした。


 ……来る時と同じく菊岡さんの厚意に甘えることにして、俺と里香は最寄り駅まで高級車で送ってもらい、病院に行く時に集合した地点に戻って来た。後は電車で家まで帰って、昼飯を食べたらちょうどALOのメンテナンスが終わる頃か、と電車待ちをしながら考える。

「……ねぇ翔希。あたし、アスナをあんな目に合わせてる奴がいたら、絶対にそいつのこと許せない」

「……ああ」

 電車のホームにある椅子に座りながら、里香が言った言葉に小さく同意する。もう随分冬が深まって来ており、風が良く通る駅のホームという場所はそれなりに肌寒い。

「それこそぶん殴ってやらないと気が済まない! ……けどね。あたし、弱いからさ」

 あんたがあたしの分まで、そいつをぶん殴ってよね――という物騒な言葉とともに、俺が待っていた電車が駅のホームに到着する。

「任せろよ。じゃ……またな、リズ」

「里、香!」

 ついつい向こう側での名前を口にしてしまいつつも、俺は目当ての電車に乗り、里香が元気良く訂正の言葉を言った瞬間に電車のドアが閉まる。タイミングが良いんだか悪いんだか、と苦笑しながら、電車は発車していった。

 
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