Fate/insanity banquet
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First day
衛宮士郎は、困惑していた。
いつもの通り、何一つ変わりの無いバイト帰りの夕方だった。お腹を空かせているであろう、うちにいる騎士王、そして同居人たちのため、商店街の和菓子店に足を向けた。買うものはどら焼きと、今日の朝から決めていた。何人分買おうかと悩み、とりあえず十個買うことにする。大丈夫、お財布の中身はまだ余裕がある。
おじちゃんに「いつもありがとね」と言われ、おまけに小さい黒糖まんじゅうを付けてもらった。恐らく、このささやかなおまけも、あの腹ペコ騎士王の胃袋の中に納まるのだろうと思うと、思わず苦笑してしまう。
お釣りを受け取り、紙袋に入ったどら焼きも渡される。帰路につき商店街を後にしようと思った時、とある路地に子供たちの群がりを見つけた。いつもであれば、特に何も気にせず立ち去っただろう。ただ、なんとなく気になってしまった。それは、士郎のいつもの「正義の味方」のアンテナが反応したのかもしれなかった。
子供は男子が二人、女子が二人。背の高さから言って、まだ小学生のようだった。男子二人が積極的にごそごそと動いている。
一体何をしているのかと、士郎は子供たちが群がっている場所を、うえからひょいと覗く。そこには、黒い毛玉のようなものがあった。夕暮れの暗さも相まって見えにくいが、ピンと立っている耳。夜空の月を映したような銀色の瞳、乱れた毛並み。そこに子猫がいるということが分かった。
そして、こともあろうか男子は細い木の棒で子猫を突っついている。それを見た瞬間に、士郎の中の「正義の味方スイッチ」が入る。
「って、いじめちゃダメだろ!」
あまりに夢中になってたからか、子供たちは士郎が後ろに立っていることに、声を掛けられるまで気が付いていないようだった。その隙に子猫は、子供たちから二メートルほど距離を取る。女子二人は、驚いて立ち上がる。木の棒を持っている男子は、しゃがんだまま士郎を見上げて言った。
「最初からいじめてたわけじゃねーもん」
男子は頬を膨らませていた。
「ミルクやろうとしても飲まないし。撫でようとすると、ふしゃーってやるんだよ」
仲良くなりたいのに、と言う。あれか、仲良くなりたいけど相手にされないから、何としてでもこっちに興味を持ってもらおうとする。だがそれで、嫌がることをするっていうのは、本末転倒なんじゃなかろうか。
やれやれといった表情で、士郎は腰に片手を当てて「お兄さん」の顔をする。
「だからって、いじめちゃもっと嫌われちゃうぞ。弱い物いじめは、かっこわるいだろ?」
士郎の言葉に「うっ」と詰まる男子。自分たちのやっていることが、いいことではないというのは分かっていたらしい。しょげて何も言えなくなっている彼らに士郎は笑みを向ける。
「じゃあ、ごめんなさいって言おう?」
優しく諭すように士郎は言った。彼の優しい声に、子供たちは頷いた。
「うん」
「はぁい」
素直に返事をして、男子を前にして四人はもう一度しゃがむ。子猫は探るような視線を向けてくる。だが、彼らの心境の変化を悟ったのか、恐る恐るといったように近づいてくる。彼らの前にちょこんと座った子猫を見て、子供たちは口を開く。
「ごめ……」
その後に続こうとした言葉は遮られた。何によってか、というとそれは謝られていた本人である子猫によって。
「ぎゃあああ!」
「うわあああ!」
二人分の悲鳴が狭い路地に響いた。
相手に近づき安心させておいて、子猫はゴムボールのように跳ねると一人目の頬に爪を立てる。間髪入れずに次はもう一人に。時間にしておよそ一秒ほどの事だろう。顔に赤い線を幾つも作った二人は、目から大粒の涙が流れていた。男子二人は、「うわああん」と叫びながら路地裏から逃げ出す。
その様子を唖然と見ていた士郎と、二人の女子。猫の応戦はそれだけでは終わらなかった。ばねのように体をしならせると、少し離れて立っている女子に向かって、猫パンチをお見舞いする。
「きゃあああ!」
「いやあああ!」
こちらは特に痛くない気もするが、今まで外野だった二人を驚かせるのは十分だったようで二人も目に涙を溜めながら走り去っていってしまった。
どことなく自信ありげに胸を張っているような気のするこの子猫は、路地裏に残っている士郎に目を向けた。次は自分の番か、と士郎は身構えるが、それもまた期待を裏切られる。
子猫は士郎の右足に近づいたかと思うと、その顔を制服の裾にすりすりと擦り付けてきた。
「あれ、俺は引っかかれないんだ」
少し拍子抜けしたようだが、士郎はしゃがんで猫の頭を撫でてやる。ごろごろと喉を鳴らす。
ぺろぺろと子猫は腕の中で右腕を舐めている。その頭をよしよしと撫でる。すると、士郎の手に顔を摺り寄せてきた。先ほど子供たちに攻撃を仕掛けた本人、いや本猫とは思えないほど安らかな表情だ。猫は気まぐれとは聞くが、こんなものなのだろうか。
とりあえず家に帰らねば、と思い士郎は歩き出す。すると。
『ニンゲンに拾われた方が、マリョクを回復しやすいのだ。このニンゲンを使ってやるのだ』
まだ声変わりのしていない、少年の声だ。思わず辺りを見回すが、行き交う人の中に今の声が当てはまるような人間はいない。思わず自分の抱える子猫に視線を落とす。だが、子猫はもちろん何も言わない。士郎の視線に気が付いてか、子猫は彼の琥珀色の瞳をじっと見つめる。数秒、猫と視線を合わせた士郎は、こう結論つけた。
「ま、いっか」
そんなことよりも、今は夕食を待っている、うちのはらぺこ騎士王の元に早く帰らねば。どら焼きに、折角おじちゃんがおまけしてくれたおまんじゅうもあるのだ。帰った時の彼女たちの笑顔がみたい、そう思い彼は急ぎ足で衛宮邸への道を急いでいった。
士郎の腕の中の子猫は、最初は大人しく収まっていたが、家が近づくにつれて、もぞもぞと動き始めていた。紙袋の中のどら焼きのにおいが気になるのか、紙袋に鼻を摺り寄せたり。士郎の手の甲をぺろぺろと舐めてみたり。気まま勝手に動く姿は、先ほど子供たちを恐怖に陥れた子猫と同一の存在か少し迷うところである。
石垣が続く先に、衛宮邸の門が見える。そして、夕日に照らされながら佇む、人影を見つける。人影は士郎の存在に気が付いたようで、彼に向かって手を振った。
「シロウ!」
ふわりと揺れる金髪、そして見慣れた白のブラウスと青のスカート。腹ペコ王、衛宮家の食費増加の原因の一因である、彼のサーヴァントセイバーだ。彼女を見た時に、自然と笑みが漏れてしまうのは、いつもの事だ。
「セイバー、ただいま」
「お帰りなさい、シロウ。おや」
この一年で何度も繰り返された言葉を、今日も口にする。ふと、セイバーの視線が、自分の抱えてるものだということに気が付く。士郎は、紙袋を差し出しながら言う。
「これ、どら焼き。みんなの分とおまけで貰ったおまんじゅうも入ってるぞ」
「今日は、どら焼きの日なんですね、シロウ大好きです! じゃなくて!」
差し出されたどら焼きの袋に目を輝かせたセイバーだっただ、雑念を振り払うように首を左右に振る。そして、士郎の腕の中にいる子猫を指さす。
「こっちです、こっち。この猫どうしたんですか?」
セイバーの声に反応し、子猫はちらりと彼女を見る。だが、すぐに興味無さそうに士郎の腕に顔をうずめる。その仕種にセイバーが羨ましそうな顔をしたことに、士郎は気が付いていない。
「あぁ。何か懐かれちゃって、離れてくれないから、連れ帰ってきちゃったんだ」
ははは、と空笑いをする士郎の後ろに、にゅっと新たな人影が現れた。
「それが、人間じゃなくてよかったわねぇ、衛宮君?」
予想外の声に、体をびくりと揺らす。士郎が振り返ると、そこには衛宮家の居候の一人、黒髪ツインテールの遠坂凛が立っていた。
「と、遠坂」
彼女の士郎への視線は、恐ろしく冷めている。それに気圧され、少し後ずさりをしてしまう。と、セイバーが現れた時には特に反応を示さなかった子猫は、凛の姿を見ると行動を起こす。
士郎の腕からするりと抜けだすと、凛の胸元目掛けて跳躍する。何も構えていなかった凛は、子猫を受け止めると同時に尻餅をついてしまう。
「な、何?」
子猫は凛の瞳をじっと見つめる。空に浮かぶ星のように光を放つその目に、自分自身の姿が映る。数秒間目を合わせると、子猫は鼻を鳴らし、凛の元から離れる。
「何でかしら。ものすごく、今、この猫に馬鹿にされた気がするんだけど……」
スカートについた砂埃を払いながら、凛は子猫を睨みつける。子猫の方は、かりかりと士郎のズボンの裾を引っかき、また腕に乗せてくれと言いたげだ。士郎はひょいと子猫を抱き上げる。再び士郎の腕に収まると、満足気な表情になる。
「私は猫がいても構いませんが、イリヤスフィールは確か猫が苦手ではありませんでしたか?」
「あ、そうだった。すっかり忘れてたな」
イリヤスフィール、士郎の義理の姉であり、あざといロリっ子は猫が嫌いである。虎聖杯をめぐるアホな戦いの時に、ネコらしき生物を見ただけでも、かなり混乱していたため、今回の完全なる猫を見た時の反応は、前回以上になってしまうだろう。
やはり返すべきか、士郎が一瞬そう考えると、子猫はまさに捨てられた子猫のうるうるとした瞳で士郎を見上げてくる。
「うっ……」
うるうる攻撃を受けたのは士郎だけではなく、凛とセイバーもだった。こほんと咳払いをすると、凛は口を開く。
「まぁ、とりあえず家に入りましょうよ。寒いし。イリヤをどうやって説得するかは、後から考えればいいしね」
「そうだな」
そう言い、ようやく三人と一匹は玄関へ向かう。引き戸を開け、「ただいま」と声をかける。
「おかえり、シロ――……う?」
姿を現した白い雪の少女、イリヤスフィールは大好きな弟の姿を目に映すと同時に、彼女の天敵である猫を見ることとなる。さぁっと彼女の顔から血の気が引き、ただでさえ白い彼女の肌は白を通り越して、青白くさえなっているように見えた。
「ね、ね、猫―――――!!」
悲鳴を上げる彼女に、士郎は慌てて駆け寄る。まぁ、彼の腕の中には彼女が悲鳴を上げた原因の猫がいるのだが、それには異が付いていない。
「大丈夫だよ、イリヤ。この猫は、結構大人し……くはないな。いきなり引っかいたり猫パンチしたりするし……。あ、でも可愛い奴だから、きっと大丈夫で……」
「ムリムリ、無理よ! 絶対猫って、がりって引っかくもの。地味に深く広範囲が傷になって、絶対長いこと痛いに決まってるもの!」
絶対に無理、ともう一度叫ぶ彼女。彼女の目には涙も浮かんでおり、結構本気で嫌がっているようだ。どうしたものか、と士郎が思っていると、子猫はずいっと顔をイリヤに寄せた。
「ふぇ?」
子猫は、涙で濡れていたイリヤの頬を舐める。ざらざらとした舌が、くすぐったく感じる。
「ちょっと、くすぐったいよ」
笑い声を上げるイリヤを見て、士郎はほっとする。なんだか分からないが、イリヤ的にこの子猫はオッケーらしい。
「シロウがどうしても、っていうなら飼ってもいいのよ」
子猫の顔を撫でながら、イリヤスフィールは彼に言い聞かせるようにいう。
「まるで、お母さんみたいだな、イリヤ」
「だって、私はシロウのお姉さんだもの」
胸を張って彼女は答える。すると、子猫もにゃぁんと鳴き声を上げた。イリヤスフィールは、士郎の手を引く。
「ご飯の用意、出来てるのよ。今日は、リンとサクラが作った中華。私も、手伝ったんだからね」
褒めて、と言わんばかりの彼女に、セイバーが近づく。
「イリヤスフィール、私も手伝いましたよ」
「セイバーが手伝ったのって、味見だけじゃなかったかしら?」
にやにやと笑みを見せて、凛は言う。彼女に言い当てられ、セイバーはさっと顔を赤らめた。
そんなやり取りすらも、微笑ましくて。士郎は子猫を抱きながら、家の中へと足を進めた。
「先輩、お帰りなさい」
「遅いぞー士郎!」
着替えを済ませた士郎が座敷に入ると、後輩である間桐桜、そして彼の保護者である藤村大河の姿があった。大河は座敷机の真ん中を陣取っており、一方の桜はエプロンを付けて皿に乗っている食事を運んでいた。先ほどのイリヤの言葉通り、今日の夕飯は中華料理のようだった。皿に乗っている、海老チリや酢豚、ちょっとある特定の人物を思い出す麻婆豆腐が並んでいた。何か全体的に赤くね? と思うが、気にしないことにする。
士郎はキッチンに向かい、戸棚を開ける。乾物を置いている場所から、煮干しの入った袋を取り出す。猫というと、どうしても魚のイメージが強い。きっとこの子猫も魚が好きなはずだと踏んで、士郎は袋を持って食卓へ戻っていく。
食卓の料理に興味を示してはいるが、子猫は特に行動は起こさず、じっと士郎の席に座っていた。再び座敷に戻ってきた士郎の姿を見ると、嬉しそうな表情を漏らした。士郎が席に着くと、続いてセイバー、凛、ライダーも席に着く。並べられた豪華な料理の数々を見て、自分も負けていられないと密かに士郎が思ったのは秘密である。
子猫の方は、士郎が袋から出した煮干しをどんどん口に運んでいく。無限の食欲とも見えるほどの食べっぷりは、あまり今まで食事にありつけなかった野良の厳しさからかもしれなかった。幸せそうに煮干しを食べるその姿は、実に可愛らしいものだ。
一通り食卓の上の料理は無くなり、皆が箸をおいたところで、士郎は先ほど買ってきたどら焼きの袋を見せる。
「今日の夕飯を皆に任せちゃったから、そのお礼」
紙袋を渡されて、嬉しそうな顔をする面々。特にセイバーの表情は、今日一番と言っていいほど生き生きとしていた。
「それで、おまけにおまんじゅう貰ったから、これはセイバーに」
はい、と手渡されキラキラと目を輝かせる。
「これは、黒糖まんじゅうですね。おまんじゅうの皮の黒糖の味と、中のこしあんが絶妙な味を醸し出すのです。士郎、大好きです!」
まんじゅうが包まれているビニールを取り、口に運ぼうとした瞬間、ゴムボールのように素早く跳ねた黒いものが、セイバーの手からおまんじゅうを奪っていった。その犯人は、先ほどまで煮干しをくわえていた子猫だとすぐに分かる。
「あぁっ、この猫! 私のおまんじゅうを!」
絶望に満ちた顔で、セイバーはわなわなと震えている。当の本人、本猫?はというと、満足そうにおまんじゅうを食べている。どうやら煮干しだけでは飽きてしまったようだ。セイバーを落ち着かせねば、と思い士郎は一つの案を提案する。
「セイバー、また買ってくるからさ。な、落ち着いて」
「いえ、許せませんっ。ええい、そこに直れ!」
自身の剣を取り出し、構える彼女に必死に士郎は叫んだ。
「セイバー。頼むから剣はしまってくれ!」
こんなところで宝具をぶっ放されてしまったら、たまったものではない。軽く家くらい吹き飛んでしまうので、何とか明日また和菓子を買ってくることで話は落ち着いた。士郎の財布の残りが少なくなるであろうことは、言わずもがなである。
まんじゅう騒動もひと段落し、ライダーが皆に湯呑に入ったお茶を注いでいてくれる。それにありがとうと、礼を言うとライダーは彼に問いかけた。
「この猫に名前はつけ無いのですか、士郎?」
彼女に問いかけられ、そういえば考えていなかったと気が付く。彼の膝の上でごろごろと転がっていた子猫は、ちらりと士郎をうかがっている。自分の名前に期待しているようだ。
「そういえば忘れてたな。名前か……」
うちで飼うとなればやはり名前は必要だ。だが、すぐにパッと思いつくものでも無く。口元に手を当てて考えていると、どら焼きをほおばっているセイバーが提案する。
「シロウ、この猫は黒いのでキャビアなんてどうでしょう」
「セイバー、涎が隠しきれてないぞ」
一度食べてみたい、と顔に書いてあるセイバーに冷静なツッコミを入れる。次に凛が名前の候補を上げた。
「ココアとか、ショコラとかどうよ、士郎」
「遠坂、小学生並みのネーミングセンスだよ、それ」
プードルやダックスフントに、よく付けられていそうな名前を聞き、士郎はあきれた声を出す。
「どういう意味よ!」
憤慨する凛を隣に座る桜が、まぁまぁと宥めている。
「ふふふ、君たちは分かってないわね」
「藤ねぇも、何か考え付いたのか?」
お茶をすすりながら答える大河に、期待の視線を寄せる。
「こういうのは、変にカタカナの横文字を並べたりするのはよくないの。いかに、この猫ちゃんが馴染みやすい名前を付けてあげるかが大事なんだから」
「おぉ!」
いつもの家での大河からは想像のつかない、先生の顔の意見に誰もが感嘆の声を上げる。
「では、タイガの考えたこの猫の名前というのは?」
「黒猫だから、クロでいいんじゃない」
あっさりと告げられた答えに、一同は沈黙する。
「それって、犬にポチとか猫にタマとか。白い犬猫に、シロって付けるのと変わんない気が……」
士郎が沈黙を裂くようにツッコミを入れると、大河はウィンクをしながら笑みを見せて言う。
「こまけーことはいいんだよ!」
大河は士郎の膝の上から子猫を奪うと、両手で持ち上げる。高い高いの要領であやすようにする。
「いいか、今日からお前はクロだぞー」
キョトンとしていた子猫だったが、金色の瞳をくるりと動かす。そして大河と目を合わせると、にゃおんと声を上げた。
クロは士郎の腕の中で眠っている。まだまだ小さいこの猫は、恐らく生まれてから半年と経っていない気がする。そう考えると、クロは親とはぐれてしまったのか、はたまた親がいないのか。どちらにしても、飼うと決めたこの猫はしっかり育てなければ、という士郎の母性本能が働いていた。
その時、縁側に立っている一人の男の存在に気が付く。
「アーチャー!」
凛と契約したサーヴァントである彼は、いつものトレードマークの赤の外套は着ておらず、黒のシャツを着ている。どうせこの家に来るのなら、夕飯も一緒に食べればいいのに、といつも思うことを口に出そうとすると、彼の方から近づいてきた。
「衛宮士郎、その猫……」
「クロがどうかしたのか?」
とりあえず今は大人しく寝ているクロに探るような視線をアーチャーは向けていた。危険なものを見るかのような目つきに、士郎は思わず姿勢を正してしまう。しばらくクロを見ていたかと思うと、不意に彼は身を翻す。
「……いや、私の杞憂のようだ。気にするな」
そう告げると彼は粒子に姿を変え、零体化してしまう。一体何のために現れたか分からない彼に、小さな苛立ちを覚える。
「何なんだよ……」
ため息とともに吐き出された士郎の言葉は、冬の夜の空気に溶けていった。
その夜、士郎は夢を見た。以前、セイバーの過去を見た時のような感覚が夢の中であった。
そんな夢の中に現れたのは、一人の少年の姿だった。大理石で出来た彫刻のような肌、黒の艶やかな髪、宝石を埋め込んだかのような光を放つ黄金色の瞳。華奢な体を飾る細やかな刺繍の施された衣服、彼を飾る豪華な装飾品の数々。世界中の美しい物を、彼に集めたかのように思えるほど、その少年は美しかった。
少年の姿がはっきりとするにつれて、ぼやけていた彼の周りの景色にも焦点があってくる。石で造られた建物、天井は高く体育館のように広いそれは、神殿のような場所だと理解する。少年は、神殿の奥に置かれている、大きな箱の前に立っている。その箱の表面を大事そうに撫でていた。
沈黙が支配していた神殿に、一人分の足音が響く。少年は顔を上げて、後ろを振り返った。
「あぁ、君か」
穏やかな、天使のような笑みだった。少年は自分の元に近づいてきた、誰かに向かってその笑みを見せていた。
「どうしたんだい。こんな時間に君がここに来るとは、驚いたよ」
驚いたと、言っているが少年は笑みを絶やさない。それよりか、本当に驚いているようには全く見えない。箱から手を離すと、少年は誰かの元に近づいていく。
「怖い夢でも見たかい? それとも、何か不安なことでもあって眠れないのか?」
誰かは何も答えない。その代わりに、少年にあるものを突き出す。それを見た時、少年は僅かに眉を寄せる。
「あぁ、そうか。ボクに引導を渡しに来たのか」
誰かが突き出したもの、それは長く伸びた刃を持つ、一振りの剣。少年はそれに怯えるどころか、誰かに向けて軽蔑しきった嘲笑を浴びせた。
「君はどうしても、ボクを殺して自分のものにしたいようだけれど。残念だったね。君がボクをここで殺しても、ボクは自分の魂を浄化し再び甦る。そうして、何度でも君の邪魔をさせてもらうよ」
そう言うと、少年は大きく手を広げた。彼の表情は穏やかなもので、これから殺される人間とは思えないものだった。
誰かは動く。一瞬画面が黒に変わる。そしてすぐに、視界いっぱいの赤が映し出された。おびただしい量の血の赤が神殿の床を染め上げる。初め純白の色をしていた少年が纏っていた衣服は、無残に切り裂かれ血を吸い赤黒い色をしている。
そして、少年は笑みを浮かべたまま目を閉じていた。白磁のその頬には、血しぶきが付着していた。少年の胸元は切り開かれ、一つの臓器が誰かによって抜き取られていた。それは心臓。
誰かは笑っていた。
抜き取った心臓はまだ暖かい。愛する者に贈るように心臓に口づける。唇を濡らした血を、赤い舌で舐めとる。今までにない快感がそこにはあった。誰も決して触れることのできなかったその人を、自分は手に入れた。確かに自分は彼をこの手で殺したのだ。
これで、王は自分のものであると。
狂気に歪みきった声で、神のための神殿で高らかに笑い声をあげていた。
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