暁 〜小説投稿サイト〜
伊予の秋桜
第一章
[1/2]

[1] 最後 [2]次話

第一章

                     伊予の秋桜 
 伊予の国の話だ。ここの武士に梶本吉太郎という男がいた。
 幼い頃より桜の好きな男だった。彼はいつも桜の側にいた。
「もう散ったぞ」
 父が晩春にも桜の下にいる彼に言ったことがある。もう桜は緑になっていた。
「それでもよいのか」
「はい、それでも構いません」
 彼はにこりと笑って答えるのだった。
「緑の桜もまたいいものです」
「よいのか」
「私は好きです」
 やはりにこりと笑って答える。
「この緑も何もかも。それが桜ですから」
「ふむ。真に好きなのだのう」
 父は我が子の言葉を聞いて感心した。見れば桜の下に書や木刀を持って来ている。学問や修業も桜の下で行っているのだ。
「やることはやっておるようだしな」
「桜に顔見せできませんから」
 彼はそう答えた。
「ですから。そちらは当然のことに精進します」
「うむ、それはいいことだ」
 それを聞いて安心した。やることをやっていれば何も言うつもりはなかった。彼はそうした寛大な父であったのだ。何かと口煩いのが多い武士の父とは少し違っていた。
「では今日はずっとそこにおるのだな」
「そのつもりです」
 吉太郎は桜を見上げて父に返した。緑が豊かに繁っている。
「夕食には戻りますので」
「戻って来るのだぞ」
「はい」
 その日も次の日もずっと桜の下にいた。それは元服してからも変わらず妻を迎えてもであった。時間があれば桜の下にいるのだった。
「雪なのに」
 妻が迎えに来て苦笑いを浮かべて彼に声をかけた。
「出られずともよいでしょうに」
 この日は深い雪だった。辺り一面が白く化粧されている。吉太郎はその中で一人桜の木の下にいたのである。桜もまた白く化粧されていた。
「いや、こうした日もいいものだ」
 吉太郎は穏やかに笑って妻に返す。杯を手に雪の桜を見ている。
「雪の桜もな」
「まだ咲くには早くても」
「構わんさ」
 彼は酒を一口飲んだ後で妻に述べた。
「わしはとにかく桜が好きなのだからな」
「左様ですか」
「うむ、その方と同じ位にな」
 妻に顔を向けて言った。穏やかな笑顔をそのままに。
「だから。一緒に見ぬか」
「桜をですか」
「雪の桜は嫌いか?」
 そう妻に問う。
「ならよいが」
「いえ。御一緒させて頂きます」
 妻もにこりと笑って彼に言葉を返した。
「私も。何か見たくなりましたから」
「そうか。では見ようぞ」
「はい」
 明けても暮れても桜だった。彼にとって桜はなくてはならないものでありそれは老年になってからもそうだった。妻もいなくなり子供達が家を継ぎそれぞれ家を出てもそれは変わらなかった。
 隠居になった彼はこの日も桜の下にいた。季節は冬も終わり頃に
[1] 最後 [2]次話


※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりをはさむしおりを挿む
しおりを解除しおりを解除

[7]小説案内ページ

[0]目次に戻る

TOPに戻る


暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ

2024 肥前のポチ