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たった一つのなくしもの
第三章

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「嬉しくはないだろ」
「ああ、全然な」
「契約はこういうものだよ」
「そうなんだな」
「これでもいいんだな」
 ゴキブリは今ここにはいない、アパートから念だけを送って話しているのだ。
「あんたは」
「生きられるからな、それに食えるからな」
「だからか」
「人間食えてればそれでいいだろ」
 究極の論理だった、正論ではある。
「だったらな」
「このままでいいか」
「ああ、じゃあこれからも頼むな」
「ハローワークは行ったか」
「行って来た、それでだ」
「仕事紹介してもらったな」
 ゴキブリは隆太に問うた。
「そうだな」
「喫茶店のな」
「明日にでも面接だな」
「行って来る」
「そこに就職するからな」
 そこにも幸運を置いておいたというのだ。
「じゃあしっかりやれよ」
「働けるならな」
 ずっと定職がなかった、その立場から言う。
「それでいいさ」
「わかったぜ。じゃあ今日はな」
「ここで囁かに乾杯するな」
 乾杯とは本来は嬉しいものだ、だがだった。
 その乾杯にも喜びはなかった、それは面接の時もだった。
 その場で採用を貰った、しかしこれもだった。
「明日から来て欲しいってな、給料もいいよ」
「そうか、決まった金も入る様になったんだな」
「そうだよ、けれどな」
「嬉しくないだろ」
「ふうん、って思うだけだよ」
 念願の定食を手に入れてもだというのだ。
「それだけだよ」
「そうか」
「ああ、そうだよ」
 それだけだというのだ。
「何か漠然としててな」
「嬉しくも楽しくもないな」
「全然な」
 そうだというのだ、それでだった。
 彼は今ゴキブリがくれた毛生え薬を頭に塗っていた、それを塗るとだ。
「髪の毛もな」
「それもか」
「ああ、今塗っててもな」
「期待とかはないだろ」
「全然な」
 それがないというのだ。
「これもなんだな」
「喜びがないってことだよ」
「そうか、でも髪の毛が生えるんだよな」
「間違いなくな」
「だったらいいさ」
 やはり素っ気ない、髪の毛が生えることも嬉しい筈だが。
 彼はただ毛生え薬を塗るだけだった、それで確かに髪の毛は生えたが。
 それでも何も思わなかった、仕事は順調でしかも店のオーナー、彼より少し年上のあだっぽい未亡人からだ。
 結婚を申し出られた、これもだった。
「今度はその幸運を置いたからな」
「結婚かあ、俺が」
「ああ、あの人はいい人だろ」
「俺を雇ってくれたしな」
 今も住んでいるアパートで話す、部屋の中は生活が順調なのか心構えも変わり度々掃除をする様になり綺麗になっている。
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